中華人民共和国/新彊ウイグル自治区吐魯番地区
吐魯番市
柏孜克里克石窟
ベゼクリク千仏洞
Baizikelikeqianfodong
(2007.9.21)
木頭溝は火焔山の山肌を深くえぐり、ベゼクリク石窟の麓を蛇行しながら流れ高昌盆地に達して高昌オアシスを潤おしている。この木頭溝河こそが高昌文化の源である。木頭溝なくして高昌国もベゼクリク千仏洞も存在しえなかっただろう。
石窟の麓を流れる木頭溝

ベゼクリク千仏洞
ウイグル語で美しく飾られた家と呼ばれるベゼクリク石窟は6世紀から14世紀にかけてトルファン盆地を舞台に興亡したオアシスの小国によって造営された。
南側を見ると写真のように断崖に石窟が並びその下の岸辺には住房や葡萄園がある。一方北方に目を転じると遠方に天山の峰峰が見える。
ベゼクリク千仏洞

石窟は木頭溝西岸の断崖、段丘上約1キロメートルに83の洞窟が分布している。40を超える洞窟に延べ1200uの壁画が残されている。
ベゼクリク石窟の初建年代は麹氏高昌王国(460〜640年)の最盛期にあたる。始建当時の石窟の規模はあまり大きくない。次ぎに麹氏高昌国を滅ぼした唐が直接支配した西州期(640〜9世紀中)になると石窟の建造は盛んになっていった。9世紀中〜12世紀初、回鶻高昌国の前期に石窟の造営は最も盛んな時期に達したが、イスラムの東進、シルクロードの衰退などにより回鶻高昌の後期(12〜14世紀)には衰えてしまった。
建造された時代ごとに石窟を分類すると次ぎのとおりである。
高昌国早期:18窟
唐西州時期:16、17、28、69窟
回鶻高昌前期:9、14、15、18、20、21、24、31、33、46、48窟
回鶻高昌後期:16、27、39、42窟
私が実際に見た石窟は20窟、26窟、27窟、33窟、39窟、31窟の合計6窟である。いずれも回鶻高昌時代のものでした。どの窟も破壊が大きく見るものが少ないのが残念である。
第20窟
マニ教から仏教に改宗した回鶻王家が建立した窟である。洞の真中に塔(中心柱)があり、壁には高昌王たち供養人の姿が描かれていた。供養人の壁画は現在ベルリンのインド文化博物館に所蔵され回鶻王族の肖像を今に伝えている。
回鶻高昌王供養像

花は寄進者の死後に書き加えるそうだ。
寄進王の肖像はブグラ・サリートトク(都督)と記述されている。腰帯から箸箱や矢立、火打石入れ、魔除けなどをさげているが、これはウイグル族の遊牧時代からの伝統であるそうだ。
第26窟
西壁に仏像。
第27窟
北西南に三尊坐像(三世仏?)がある。但し西壁の像は失われている。北南壁には説法図が描かれ、アーチ型の天井は緑の千仏で埋め尽くされ鮮やかである。
第33窟
西壁に涅槃図がある。とりまきの菩薩、天龍八部、各国王子が悲しむ姿がかすかに壁に残る。
涅槃を悲しむ王子たち(挙哀図)

第39窟
見た窟のなかで一番大きい。真中に説法のための台がある。天井に朱色の法衣をまとった千仏が描かれている。仏像は7立像、1坐像が残る。
天井を埋める千仏

第31窟
千仏、説法図が描かれる。目をえぐりとられた菩薩の姿が無残である。

ベゼクリク石窟の造営は回鶻(ウイグル)高昌国の前期に最も盛んな時期に達したが、回鶻高昌の後期(12〜14世紀)には衰えていった。そしてウイグルの名も消えていった。ウイグルという名の復活は世界的に民族意識が高まる19世紀を待たねばならなかった。
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