中華人民共和国/甘粛省/新疆ウイグル自治区

シルク古道を行く

Ancient silk road
(2007.9.15〜23)


陜西省西安を出発し甘粛省蘭州、嘉峪関、敦煌を経て新疆ウイグル自治区トルファン、ウルムチまで行ってきました。最初に全体の印象をまとめてみました。


西安
兵馬俑坑の入り口は従来の入り口よりずっと手前に作られ広場に巨大な始皇帝像が出現。華清池は隣地に巨大な宮殿が出現。大雁塔の前に巨大な噴水公園が出現。どこも観光開発が進み日々豪華に塗り替えられている。


西安〜蘭州夜行列車
K119西安22時26分発の夜行列車で蘭州へ向った。乗車した寝台車の席は11号車25号で下の席でした。寝台車の旅も年々快適になってきてトイレや洗面所も清潔に使えるようになってきました。今回が初めての経験でしたが、乗車して間もなくすると車掌が部屋に来て切符を座席に対応したカードに交換します。また、車掌は下車する駅が近づくと部屋に来て最初に渡したカードと引き換えに切符が戻されます。つまりお客にしてみれば自分の下車駅を乗り越すことなく利用できることになります。ちょっとしつこいようだが、良いアイデアだと思った。
さて、毎度のこと午前4時ごろ眼がさめてしまいました。車窓から外を覗くとオリオン座が見えました。あがってくる北斗七星の柄杓の先に北極星も確認できました。このことを同室のツアーメンバーに話したところオリオン座は日本でも見えるではないかとの当然との返事が返ってきた。日本でもこれらの星座は見えるのだが、未知への国へとひた走る夜行列車の窓から眺めるとひとしお格別に感じて感激してしまうオジンなのである。


蘭州は意外と勾配のある町??
蘭州駅に6時28分定刻に到着。オジンはまだ明けきらない広場に立った。漢皇帝の西域への憧れを象徴する馬踏飛燕(燕を踏んで跳ねている天馬)のシルエットが薄明かりにうっすらと浮びあがりオジンを迎えてくれた。黄河のほとりに立つ。黄河の流れは思ったより早い。そんなに蘭州の街は傾斜しているのかと考えてしまうほどである。天下第一橋と銘打った鉄橋や観光客を乗せた羊皮船、巨大な水車などがここの観光スポットである。市内の道路は車で混雑していた。オジンが青信号で歩道を渡ろうとしても左折してくる車は停まることはない。車(自分)優先、歩行者無視の猛獣運転だぁ!!。

九十九折り模様の山肌
劉家峡ダムは蘭州から南西へ約100キロの永靖県に在る。このその上流に炳霊寺石窟があるのだ。蘭州から険しい禿山の峰峰が続く。道は谷底から曲がりくねってねじ山を登るように登っていく。峰の急な斜面には地すべりのような亀裂が無数に走り、今にでも傷口がぱっくりと開いて空から山が崩れ落ちてくるような感じだ。遠くから見るとその模様は人が切り開いた九十九折りの山道のようにも見える。このような地層の山肌を見たのは初めてだ。


炳霊寺石窟
万笏朝天、妹妹峰、石門、五指峰など奇岩が見応えがある。この神秘的な谷間にある炳霊寺石窟は大きな石窟はなく小窟が多い。弥勒大仏の頭上にある169窟の仏像は階段を登って是非拝みたかったが、ガイドは登らないで素通りしてしまった。何故登らないのかと聞けばよかったが、危険で登ることができないと自分でかってに判断してガイドに聞くこともなく自分も素通りしてしまった。もっと積極的であるべきであった。反省!!しかし、非常に残念だったナ〜ア。

蘭州ホテルのシャワー
夜行で着いた蘭州ではホテルに宿泊したいところであるが、今晩も夜行列車で嘉峪関へ向う。このためシャワーを浴びるためホテルの部屋が用意された。3人に一部屋があてられ、小1時間をかけて全員が交替で汗を流した。夜行列車で連泊は熟年オジンにはハードなスケジュールだ。


嘉峪関
朝の斜光のなか万年雪をいただいた祁連山脈の峰峰を見て感動。また、ここは地形的に河西回廊の峠にあたるようだ。ここは守りやすく攻めやすい??とかってに想像したりした。


滴水瓦
中国の建物に樋があるのをあまり観たことがない。ここ嘉峪関の楼閣にも樋がないので雨が降ると雨水は瓦を伝ってじかに地上に落ちる。瓦から雨水が落ちるところに半楕円形の瓦があるがこれを滴水瓦と呼ぶことを今回始めて知った。


ポプラ並木
魏晋壁画墓へは嘉峪関のまちから砂漠の道路を行く。車道の両側にはポプラが植えられの目的地までずうっと並木が続く。ポプラ並木の生命維持装置は根もとに引かれた水路である。水は勾配がないと流れない。勾配がないと並木もできないのである。建物を建替えるとき土地の傾斜がやっかいに感じたが、土地は勾配があるから活きるのだということをあらためて感じることができた。


魏晋壁画墓の壁画無念
墓の壁に農業、牧畜、狩猟など庶民の暮らしが描いたせん(煉瓦)が嵌め込まれている。故人が墓のなかにあっても浮世の生活を楽しめるようにと描かれたものであろうか?豚を追いかけ、殺して、料理するなど場面に物語があるのもおもしろい。荒涼とした瓦礫と壁画を見ていると都から辺境の地に来て故郷に帰ることなく没した故人の無念さを感じざるを得なかった。


早朝列車で敦煌へ
嘉峪関発6時30分の列車で敦煌へ向う。左は遠方に祁連山脈がつづき、右に遠くぎざぎざの山並みが見える。列車は荒涼とした砂漠のなかを進む。ここらへんで最高の標高は玉門あたりで1890メートルである。列車はオアシスの各駅に停車してだんだんに西へ進んでいく。オアシス付近では綿花やオリーブ畑、羊飼いや野生の鹿など生命の息吹がまぶしく感じる。列車の最後尾のデッキには石炭の湯沸しがある。デッキに出て4元で買ったマーボカップ麺に熱湯を注ぐ。鉄路が流れていく景色もすばらしいが、日本で生まれた中国育ちのカップ麺の味も格別である。


ヤルタン

砂埃で汚れた列車の窓から砂漠を眺めていると砂漠の景色も一様ではないことがわかる。特に注目したのが土の塊である。一つ一つの土の塊の高さは1メートルもないが、無数に広がりって大海原の波のようである。これをヤルタン(竜推)というとガイドの説明があった。そうか・・・砂漠にも波があるのか・・・列車の窓は砂ほこりがひどくて開けられない。真っ青な空の下、列車は砂の海原を突進していく。


ミステリー敦煌駅
手もとにある地図では敦煌へ鉄路はひかれていない。敦煌駅もない。オジンは敦煌へは柳園で列車を降りバスで向うものと思っていた。旅先でガイドにもなんていう駅で降りるのかと質問したところ「敦煌」ですと回答があったが、多分柳園の間違えだろうと回答をにわかに信じることができなかった。しかし到着した駅は終着の敦煌駅なのでびっくりしてしまった。鉄路はどこで分岐したのだろうか??列車のなかでは全然気づかなかった。ターミナルビルも構内設備も建設中で待合室も改札口も仮設である。まさに敦煌駅は建設中である。地図にも載っていない。まだ完成していないのに列車が乗り入れられているのだ。まるで最近人気の青海鉄道に対抗しているようにも感じた。中国国内は観光客の争奪戦の時代に入っている。


鳴沙山
風で砂が吹きだまってできた砂の山は稜線がくっきりとして美しい。それが東西40キロも続くのだから眼もすっかり驚いて瞬きを忘れる。見とれていると気持ちが自然とロマンチックな気持ちになる。靴のなかに砂が入るので一足10元で靴袋を借りる。これを着けないとまちがえなく靴の中は砂だらけになる。これは砂漠ウオ−キングの必需品である。砂の峰を登るのは一苦労である。こまかい砂が踏みしめた足を半分以上ずり落すので思うように進まない。一歩は三分の一も量が行かないので観光客用に階段が設けられているので安心だ。

駱駝に乗る
シルクロードの映像にたびたび登場する乗った商隊の列。さぞかし駱駝の乗り心地はよろしいのではないか映る。しかし思っていたより揺れてあぶなっかしくってけっこう大変で乗り心地も良くない。足もとの悪いところでは象のほうが安全に走れるのではないかとも思った。乗るときは駱駝はまず後ろ足から立つので乗る人は極端に前かがみになるし、次ぎに前足をたてるので後に仰け反ってしまうので最初はこのぎっちんばったんでびっくりしてしまう。この動作で鐙に足を懸けるのも忘れてしまい、オジンは走行中ずーと不安全乗車となってしまいました。・・・・駱駝は四匹が一列に綱につながれひとりのおんなの御者にひかれて砂の道を進みます。我々の隊は最後尾のお母さん駱駝にはかわいい子供の駱駝がおっぱいをもとめてついてきてましたよ。かわいっすね・・・


夜明けの敦煌
北京時間に対して約2時間ぐらいの時差があるようだ。敦煌の朝の6時半ホテルを出て散歩した。通りはまだ真っ暗だが、もう地元の学生達が歩いて通学している。中心の交差点には敦煌が象徴としている反弾琵琶の像がライトを受けて立っている。琵琶を背中で弾き片足をあげて舞う姿はいかにも跳躍的な西域の音楽とダンスのイメージさせる。琵琶を背中に背負ってかきくだくなんてなんていきなもんだね・・・


鳴沙山が西に沈む涅槃仏
左に鳴沙山の山並みを見て玉門へ向けてバスは走る。道は一直線である。玉門へ向け道が右に折れるその正面に涅槃仏のような山がある。これが鳴沙山の西の果てである。その先の地平線の向こうにはきっと西方浄土が開かれているのであろう。旅にでて山のかたちを何かにイメージするのもたのしいものである。右に折れた道は玉門関まであと50キロも真っ直ぐ続く。


はるばると玉門関
風が吹いていた。瓦礫の地面にとげのあるラクダソウがはえていて風に揺れていた。とげがあるので駱駝は好まないだろうと思ってガイドに質問したところ、けっこう駱駝は好んでこの草を食べるそうである。関所は四方を風化した壁で囲まれているが広さは思ったより狭かった。くずれかけた壁に裂け目のように北と西に口があいている。なぜ口が北と西なのか疑問だ。近くに漢代の長城跡もある。北を流れる疎勒河に沿って緑の帯が美しい。

砂漠の土饅頭
ときどき砂漠の斜面に土饅頭が見える。この地で生活した人々の墓である。古くから現代に至るまで延々と墓がたてられて来た。乾燥した気候は亡骸をミイラ化して生活の痕跡を残している。話しによると今でも砂漠のどこに墓をたててもいいそうである。しかし砂漠の墓は殺風景でさびしそうだった。


莫高窟
莫高窟見物で注意する点は見物する窟が直前でないとわからないことです。このため私は合計44窟もの内容を事前に簡単に調べて出かけました。あらかじめ龕になにが安置されているか、壁や天井になにが描かれているか、ある程度予習しておかないと実際見てもあとあとなにがなんだかわからなくなってしまいます。我々は楊研究員の案内で約2時間ほどかけて合計10窟見物しました。具体的には第94窟→第96窟→第217窟→第172窟→第148窟→第130窟→第254窟→第249窟→第16窟・第17窟でした。どの窟も入り口に頑丈な錠がかけられており監獄のようである。また、窟内は暗く用意した懐中電燈では光が届かず不充分でした。

綿花畑
敦煌近辺は綿花畑が多い。今がちょうど綿花の収穫時期で畑には摘み取り作業をしている人々の姿が見られた。高さが膝頭にも満たない背の低い木が一面に植えてある畑が目立った。こんな背の低い未熟なような木でも立派に白い綿の花をつけている生命力に感心しするとともに、この生命の営みはひとびとのこころの豊さの支えであることを痛感させられた。


トルファンへ
敦煌駅20時16分発の3回目の夜行列車でトルファンへ向う。トルファン駅到着は翌朝8時30分。駅前は観光客で一時ごった返したが、すぐに静かな町にどっていった。トルファンは南北にながい町で北に高く南に低い地形になっている。トルファン駅は標高が高く市街地は盆地の底方にあるためその間はかなり傾斜となるようである。広々とした斜面を擂鉢の底に向けてずーっと下っていく街道は予想以上に急でありバスの道中は痛快で強く印象に残った。この斜面に棚田がつくれれば良い田畑がでるであろうに・・・・・


桑の木の街路樹
トルファンでも街路樹はポプラが多い。また柳や楡にまじって桑の木も街路樹として見ることができる。桑の木を見ると養蚕、絹糸、絹織物とイメージが展開する。西方のトルファンもはるか東方の日本(群馬)も昔からお蚕さんで文化的に結ばれていたのだと思うと感動しないではいられない。


ベゼクリク千仏洞と火焔山
ひだの入った赤い山肌は昼間は80度にもなり生き物を寄せ付けない死の山である。この山の北麓の木頭溝という断崖にベゼクリク千仏洞がある。開削は麹氏高昌国から元代まで続けられたがイスラムが浸入することで窟の中の仏塑像や壁画の多くは破壊され残るものも眼や口をえぐられ見る影もない。ドーム天井のある窟もありキジル石窟と同様に莫高窟に比べ西域の文化をより多くとどめる石窟であるといってよいだろう。またここで西遊記の場面である火焔山の地に立つことができたことでも感動ものである。


ぶどう農家
トルファン盆地の特産はぶどうである。いたるところぶどう畑が広がる。ぶどう畑の一角には必ずのぶどうを乾燥する建物がある。収穫されたぶどうはいくつもの小窓を設けたこの白い建物のなかで柱にかけられて干しぶどうになる。そして町のバサールの店先に並べられることになる。ガイドに案内されてぶどう農家の家に行った。ウイグル族の農家の家は4世代が同居する大家族である。一家は庭先のぶどう棚の下の縁台の回りにのんびりと腰をおろして子供をあやしたり談笑したりしていた。夏の夜一家はポプラの木で囲まれた屋敷のぶどう棚の下で寝るそうである。蚊もおらず快適であるとのことである。この農家でつくったほこりを被っていなない清潔な干しぶどうを一袋(1斤)を買った。


高昌古城の驢馬車
宮城、内城、外城と三重の壁をめぐらせた高昌王国の城は今や壁や建物など土が崩れて土の山となっている。ここはあまり手を加えられていないところが良い。入り口から大仏寺まで驢馬車に乗った。しこたま観光客を乗せた車を1頭の華奢なロバがひいてもうもうと埃をたてて走る。がんばれがんばれロバちゃんと声をかけてウイグル人の白い帽子を被ったあんちゃんは無常にもロバの尻に鞭をくれる。小柄で力持ちのロバちゃん頑張れ!!


ウルムチへ風が吹きやまない谷があった
トルファンからウルムチへ向うと途中風の強い谷を通る。天山山脈から吹き降ろす強風はやむことがない。オジンの顔にも容赦なく強風が吹きつけ帽子をとばす。この谷には塩の湖があり数えきれない風力発電機が羽根を回していた。


ウルムチは大都会
ウルムチは馬や驢馬が荷車を牽いている姿が見られるようなカントリー的な都会ではないかとのではないかと想像していた。しかし行ってみると高層ビルルが立ち並び市内の高速道路はビュンビュン車が走り回りまったくの大都会であってその予想は見事はずれてしまった。市内の紅山公園の山頂に九重の鎮龍塔が立ち、ここからウルムチの市街地が一望できた。東のボコダ山が印象に残る。


今回のツアーは8泊9日でした。8泊のうち車中泊が3日とオジンにはきついコースでしたが、西安から西へ西へといく進む魅力にとりつかれ参加することにしました。メインは敦煌の莫高窟でかなり事前準備したわりにはゆっくり見物するというこのにはいかず無念との気持ちが残りました。しかし全体として体調もよくて初めて足を踏み入れた甘粛省、新疆ウイグル自治区のいろいろめずらしいものを見てこられて大変よかったと思います。

今回の旅行で目にとまった産物などは
植物ではポプラ、楡、月冠楡、旱柳、左公柳、故楊、胡桐、桑、など
タクラマカン砂漠の植物としてタマリクス(御柳・紅柳)、セキセキソウ、ラクダソウ、カンソウ、など
野菜ではジャガイモ、ピーマン、トマト、など
果物では葡萄、西瓜、メロン、ザクロ、りんご、梨、瓜、棗、など
産物では綿花、干しトマト、絨毯、羅布麻茶、天山彫、夜光杯、ホータンの玉、など

中国は行くところ行く所で新たなおもしろさが発見できます。
次回から石窟などを個別にまとめてみます。お楽しみに

ではまた・・・お会いしましょう。      中華人民共和国へ戻る