水の時代

遠藤 治

 昨秋立て続けに上梓された、それぞれに興味深い三冊の句集がいずれも水にちなんだ書名となっている。すなわち以下の三冊である。

  麻里伊『水は水へ』(富士見書房)  8月31日発行

  浦川聡子『水の宅急便』(ふらんす堂)9月25日発行

  正木ゆう子『静かな水』(春秋社)  10月17日発行

 世はまさに水の時代なのか。この三冊を順に紐解いてみたい。

 

一.麻里伊『水は水へ』

 麻里伊は「や」同人・編集人。本句集は第一句集である。一読して強い諧謔性に引き込まれる。

  でたらめの歌をうたうて良夜なり

 巻頭に本句を持ってくるあたり、作者の自由な精神を感じる。実に大胆不敵である。また句材にも格調など気にしていないようである。

  秋空やあつぱれなメロンパンひとつ

  菜の花を喰つちまおうか飾らうか

  暑がりのパンツに星条旗の模様

  初雪の気配お顔のマッサージ

 このいかにも諧謔的な詠みっぷりを前に、実作者としての私は忘れかけていた初心を取り戻すべく気を確かに持つ。

 とはいえ、麻里伊の句は大胆不敵なだけではない。客観写生的な基本を踏まえた佳句も多い。

  下駄の裏合はせて仕舞ふ夜の秋

  夜神楽の始まる前の床柱

  湯殿より呼ばはれてをり春の月

 これらの句群が伝える日本人の生活の空気感は確かなものである。次の句などは虚子の「金亀子擲つ闇の深さかな」を踏まえた現代からの返句なのではないかと思う。

  月蝕の闇よりとどく金亀子

 また麻里伊の持つ、諧謔性にも正統性にも収まらない不思議な感覚についても触れねばなるまい。

  盆花や駅は電車の止まる処

 本句集中最大の傑作だと思う。絶妙な季語の斡旋によって、「駅は電車の止まる処」というただごとが人間存在の真理に到達してしまった。おそらく本句はやがて歳時記の例句として生き残ることになるだろう。そして、この独特な感覚によって、私たちの暮らしを取り巻く水についても、麻里伊は多彩な切り口から自由に詠んでいる。

  瞑想の入り口水の辺のおぼろ

  春風や力を抜いて波帰る

  遠泳の手足はとうに海のもの  

  かへりきて海の続きのソーダ水

  春風にもどるきのふの水たまり

  噴水のしどろもどろや夕べ来し

  水は水へ流れて夏の盛りなる

 最後になるが、巻末の一句もふるっている。

  一口を残すおかはり春隣

 まだまだ次があると予告しているのだ。なんという大胆不敵さだろう。楽しみに待つことにしよう。

 

二.浦川聡子『水の宅急便』 

 浦川聡子は「炎環」在籍。音楽俳句の第一人者であるとともに、近年ではインターネットでの活躍も注目される。本句集は第二句集。

  あめつちに音の満ちくる初桜

 巻頭句は予想を裏切らず音をテーマとしたものである。しかも現実の音ではなく心象の音である。静かな弦楽合奏から入る壮大な序曲というべきか。音楽を扱った句としては、他に以下が目を引く。

  練習曲(エチュード)の駈け抜けにけり桃畑

  全休符ぽつかりとあり夏の月

 しかしながら第一句集『クロイツェル・ソナタ』に比べると音楽俳句は数が減っている。恐らく作者自身が新しい方向を指向しているのだと思われる。

 代わりに目立つようになったのが、ひとつは次のような句群である。

  海鳴りや雛長持の赤き紐

  夜の畳祭かんざし影持てり

  まん中のくぼみしバター秋澄めり

 これらの句群は、対象の実相に迫った佳句という文脈で語ることも可能である。しかし浦川聡子ほどの句歴と実力があれば、「○○がある」という発見でも何でもないことに対し五七五、旧仮名遣いで季語をそれなりにあしらい俳句らしく仕立てることなど、その気になればいくらでもできるはずである。本句集でかなりの部分をこの手の句が占めていることが、私には少々意外である。

 もうひとつの句群は、数は少ないがより大胆な措辞を持つものであり、こちらの方が興味深い。

  菜の花の黄の極まりて人愛す

  花の夜の卵のやうに抱かるる

  はるかなる昨日のありぬ薔薇の空

 これらの句群は、眼前の事物の客観写生からは到達し得ない飛躍がある。そしてこの句群の中で水や月を扱った句が異彩を放っている。

  春立ちぬ地球の水を汲みをれば

  銀河濃し水の宅急便届く

  引力の届いてゐたり夏の月

 並の俳人であれば、宅急便が届いたくらいで「銀河濃し」は出てこない。浦川聡子の中で水と宇宙が呼び交わしているのだ。今後ますますの活躍が期待される。

 

三.正木ゆう子『静かな水』 

 正木ゆう子は能村登四郎に師事とある。近年は読売俳壇選者としても活躍。本句集は第三句集。

 恐るべき句集である。巻頭の「水の地球すこしはなれて春の月」から巻末の「春の月水の音して上りけり」まで、「これを句にしましたか、参りました」としかいいようのない思いがけない題材と、言われてみれば適切極まりない措辞の句が続く。これからの俳人は影響を受けるにせよ受けないようにするにせよ正木ゆう子のことを意識せざるを得ないだろう。正木ゆう子の手にかかり、水と月は驚くべきほど新鮮な切り口で扱われる。

  木をのぼる水こそ清し夏の月

  月のまはり真空にして月見草

 これらの句に接し驚かされるのは、科学的な知識が感覚的・体感的な領域に昇華されて詠まれている点である。当然「木をのぼる水」を見たはずはないし、「月のまはり真空にして」息ができなくなったはずもないのに、ここには頭で作った句のわざとらしさはまったく感じられない。

  引力の匂ひなるべし蓬原

  月見れば月の引力朴の花

といった句も同様である。

 そのような科学的知識の昇華のみではない。これまでにこんな感じ方を詠んだ俳人がいただろうかと思わせる句がずらりと並ぶ。

  オートバイ内股で締め春満月

  春の山どうも左右が逆らしい

  深井戸を柱とおもふ朧かな

  地下鉄にかすかな峠ありて夏至

  草を引く手応へにまた深入りす

  夏の暮楕円を閉づるごとくなり

  月光を感じてからだひらく駅

  牡蠣すするわが塩味もこれくらゐ

  おなじつめたさ如月の魚と海

  着膨れて月を見るにも耳澄ます

 先人の作品を踏まえたであろう句も、独特で味わい深い。

  炭火しづか無理難題の美しく

  馬となるべき魂あをく雪原に

これらはそれぞれ誓子の「学問のさびしさに堪へ炭をつぐ」や三鬼の「青高原わが変身の裸馬逃げよ」の遠い影が感じられる。恐らく正木ゆう子の新鮮な切り口は、新興俳句に対する深い敬意と理解によって裏打ちされたものであろう。

 まことに末恐ろしい俳人である。

 

四.終わりに

 同時代の、ほとんど同時期に制作されたであろう三人の句集を見てきたが、三人それぞれ独特な味わいを持ちながら似た題材や表現も多い。麻里伊が「春風や力を抜いて波帰る」と詠むかと思えば正木ゆう子が「滴りの力抜けたるとき落ちぬ」と詠み、正木ゆう子が「雪の夜の刃物を持てば若がへる」と詠めば浦川聡子が「剃刀を持つ夜は流氷接岸す」と詠み、浦川聡子が「菜の花の黄の極まりて人愛す」と詠めば麻里伊が「欲望や菜の花がまた伸びてゐる」と詠む、といった塩梅で、あたかも同じ句会に同席しているようなスリルである。

 同時代という座の中で、「水」そして「月」はこれからも詠み継がれて行くべき重要な兼題であることだろう。

  

(初出『豆の木』NO.7 2003年3月)

 

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