坂野嘉彦氏との往復書簡「ドビュッシー ベルガマスク組曲」

 

 199910月9日から12月31日にかけてASAHIネットの「クラシック回廊」

上で行われた往復書簡形式の談義。前回の前奏曲集1の二番煎じの感もあります

が、「月の光」をめぐって踏み込んで本職の作曲家の方にお話を伺えたのが収穫

でしたでしょうか。例によって、パソコン通信の会議室での談義なので、別の話

題や別の人のハンドルネームが飛び出してきますが、気にしないで下さい。

 

1999年10月9日 0:38

前奏曲

 

カオルさんからアナウンスがありましたように今回も四童さんと共に
大任を仰せつかりました。四童さん、そして回廊をご覧の皆様よろし
くお願いいたします。私から四童さんへの手紙というきわめて古風な
形をとりはしますが、皆さんに話題を膨らませていただけると嬉しい
です。

四童様

思うに前回の前奏曲集から既に2年も経過していたとは驚きです。あの
時にはエキサイティングな経験をさせていただきました。
今回の題材はベルガマスク組曲−−考えてみれば何と雅なタイトルなん
でしょう。私の所にはポケットスコアが一冊、そしてフランソワが弾い
た組曲の断片と、ジャック・ルヴィエが演奏した全曲のCDがあります。

この組曲の中で冒頭に置かれている前奏曲。他の楽章と比べるとあまりぱ
っとしない印象ですが、低音からじっくりと上がってくるアルページュを
聞くたびにクラヴサン楽派の大胆な前奏曲を思い出してしかたありません。
この前奏曲には5音階の使用などいろいろな工夫が見られますが、なによ
りも強く感じるのはクープランやラモーの作品につけられた前奏曲の伝統
であり、典雅なクラヴサンの響きなのです。(クラヴサン楽派のプレリュ
ードは大胆な即興演奏を特徴としています)これはヴェルレーヌが甘いノ
スタルジアを抱いていたルイ14世の時代に通じるものでしょう。実際後年
ドビュッシーの作品の中で特別の位置を占める事になるヴェルレーヌの陰
がはっきりと現れた初めてのピアノ作品(歌曲は除く)にもなっています。
アルページュのノスタルジア。ラモーが存命していたらきっと拍手喝采を
送った作品ではないでしょうか。

                                  坂野 嘉彦

 

 

19991015 0:26

前奏曲

 

坂野様、皆様

 四童です。すっかりお返事が遅れてしまいまして、申し訳ありません。
いや、あれからの二年間というもの、すっかり俳人化してしまいまして、
こちらの会議室からも遠ざかっておりました。
 さて、「みやび」のお話でしたっけ。NHK教育テレビの朝7時45分
から放映している「おじゃる丸」というアニメをご存じでしょうか。平
安時代から現代にタイムスリップしたみやびなお子様が繰り広げる珍騒
動なのですが、実にほのぼのとしていて良いです。主題歌は北島三郎の
熱唱で、これも胸を打ちます。

 閑話休題。橋本さんが<5107>で「ベルガマスク」の由来について書い
て下さいました。

>ところで、“ベルガマスク”の意味ですが、ドビュッシーが若い頃、
>留学したイタリアで印象に残った「ベルガモ地方」の印象に由来する
>とか、彼の愛読したヴェルレーヌの詩集「雅な宴」の中に出てくる
>「18世紀の宮廷的な(ベルガマスク)」から採られたと言われて
>いますが、どちらも有りそうですね。

 私の持っているヴェルレーヌの詩集は堀口大學の訳で、「雅な宴」は
「艶かしきうたげ」と訳されております。この冒頭がまさに「月の光」
であることを考えると、「ベルガモ地方」説よりは「18世紀の宮廷的
な(ベルガマスク)」説の方が頷けるところではありますが、堀口大學
の訳では「18世紀の宮廷的な」という言葉が出てこないので、出典を
確認できないでおります。どなたか詳しい方はいらっしゃらないでしょ
うか。

 前奏曲。いいですねえ。この自在にして古典的ですらある雰囲気は
一体何に由来するのでしょう。20小節からの雰囲気がのちのち「月の
光のふりそそぐテラス」などにつながって行くのでしょうか。

四童

 

19991023 0:18

メヌエット

 

 四童です。筆無精にて申し訳ありません。
 毎度漫画の話で恐縮ですが、さそうあきらの「神童」(双葉社
全4巻)って、読まれましたか。天才ピアノ少女ものなのですが、
何度も泣いてしまいそうになりました。

 さて、メヌエットでしたね。古典的な舞曲の一形式をタイトル
としながら、文明開化の頃の時代の雰囲気をたたえたはなやかな
曲ですよね。
 ドビュッシーのある種の曲を聴いていて思うのは、場面展開の
めまぐるしさです。映画の技法のようでもあり、漫画のこま割り
のようでもあり、アビー・ロードのB面のようでもあります。
 このメヌエットでも最初のモチーフは姿をかえて何度も現れる
ものの、そうでない動機の出現の仕方の唐突さは、まさに印象派
としての「いま」への執着だったのかも知れないと思ったりしま
す。例えば26小節、例えば38小節、例えば50小節、例えば58小
節、例えば73小節、例えば82小節、例えば97小節の変わり身を
持ち、それでいて1曲であるこの曲は、一体なんなのでしょうか。
 最後の冗談のようなグリッサンドとA音のスタッカートのぶっ
きらぼうさも見事です。

四童

 

1999111 7:26

メヌエット

 

ご無沙汰してしまいました。実は水曜日にソロリサイタルを予定し
ておりまして、その準備におおわらわです。フランス六人組とその
時代の作品ばかり取り上げたマニアックな内容です。もちろんドビ
ュッシーもちゃんと選曲に入っております。
前回の手紙でおっしゃられていた「神童」という漫画知りませんで
した。気にして本屋等でかけて見てみたのですが田舎のせいか置い
てありません。残念です。

さて四童さんがご指摘された通り細かいセンテンスの接続であるこ
のメヌエット、非常に躍動感溢れる作品ですね。前回の前奏曲の時
にも少々話題になった、このドビュッシーのセンテンスによる作曲
方法がだんだん形になってきた例としてみる事が出来るようです。
こう考えてみると、シューマンの作品との関連を想像します。同じ
くシューマンの作品、特にピアノ曲においてそのテーマとなるメロ
ディは非常に短いセンテンスから出来ています。ドビュッシーはも
しかしたら何らかのアイディアをシューマンの作品から得ていたの
では、と考えるととても楽しいですね。初期のドビュッシーはフラ
ンスというよりも、ロシア風というか北欧からの影響が強いと考え
ていましたが、このような作曲のテクニカルな部分だけを見ると、
ドイツ風のところもあるようです。もっともシューマンがその短い
テーマを機能に促した発展を見せるのに対し、ドビュッシーのそれ
はもっと生理に根づいた広がりを見せます。

さてこのベルガマスクのメヌエット、残念ながら「小組曲」に収め
られた同名の作品と比べると若干質が落ちるのはいなめませんが、
魅力的な作品である事に変わり有りません。細かいセンテンスのた
びに魅力的に転調するその儚さはまさに「ベルガマスク」という典
雅なタイトルに相応しいと言えます。
「メヌエット」という舞曲はどうやらフランスの音楽家にとって、
想像力をかきたてられる様式のようです。シャブリエの「華やかな
メヌエット」、フォーレの「月の光」(!)、ラヴェルのメヌエッ
トなど枚挙にいとまがありません。
一度まとめて調べてみたい気がします。

追伸
四童さんが指摘されていた結末のグリッサンドの事なんですが、
まったくほれぼれします。空気に溶けていくみたいです。この
グリッサンドを後年の「パックの踊り」への予告と受けとめるの
か、ポツンと落ちる低音のスタッカートを「牧神の午後への前奏
曲」や「レントより遅く」の結末の予備練習と受けとめるかは聴
く人次第ですね、きっと。

                                  坂野 嘉彦

 

1999111 23:01

神童

 

 こんばんは、私はただの四童です。
 坂野さん、ひょっとして少女漫画のコーナーを探しませんでしたか。
主人公は小学生の少女ですが、漫画自体は「アクション」に連載され
ていた(らしい)もので、置いてあるとすれば少年漫画のコーナーで
す。手塚治虫文化賞優秀賞、文化庁メディア芸術祭優秀賞などを受賞
したそうですが、むべなるかなと思います。
 人が音を聴くことについてここまでつきつめた作品は、漫画以外の
ジャンルを含めてもあまり類例がないと思うし、何よりもすごいのは
漫画でしか表現しようのないやり方で、音を扱っていることです。読
んでいない人のためにストーリーを書くことはできませんが、荒唐無
稽な野球漫画とたかをくくっていると、最後には想像もできないよう
な澄みきった世界へ連れて行かれることになります。信じられないこ
とですが、実際に音で演奏されたどのモーツァルトのピアノ協奏曲20
番よりも美しい音を、この漫画から聴くことができます。

 「クラシック回廊選定図書」に認定しますので、ぜひ皆さんご一読
下さい。読むまではモデレーターといえども書き込み禁止とします(^^);

   さそうあきら「神童」(双葉社 全4巻)

です。

四童

 

1999119 23:05

月の光

 

四童様

お返事遅くなってしまい申し訳ありませんでした。サロンコンサートも
おかげさまで無事終わりました。不思議な事に終わった次の日から風邪
をひいてしまいました。やっぱり気が緩むと病気になりやすいのですね。
おまけに私の体調にあわせたかのごとく、パソコンがお亡くなりになり
新しい機械を導入いたしました。驚くべき進化!DOSの世界でゴチャゴ
チャやっていたのが信じられないようなパワーのコンピュータが10万
を切る値段で販売されております。電気屋にいって一台購入してきまし
た。そしてやっと書き込みできる環境になって、こうして書いておる次
第です。以上近況報告でした。

さて、いよいよ核心部分たる「月の光」になるわけですね。まずタイトル
に注目しましょう。「前奏曲」、「メヌエット」、「パスピエ」とまるで
バッハの古典組曲のよう構成の中にひとつだけ「月の光」という詩的なタ
イトルが出てきます。本来「アリア」になるべき楽曲なのですが、なぜあ
えてドビュッシーは「月の光」という命題を用いたのでしょうか。「アリ
ア」としたほうがより古典的、よりルイ王朝風になるというのに。

四童さんはどうお考えになりますか?
あまりにピアニスティックに書かれているためドビュッシーが区別したの
か、あるいはメロディが主役、和声がそれを支えるというストレートな構
造を持つ「アリア」という音楽形式に疑問を抱いたのか。確かに「アリア」
と呼ぶにはあまりにも繊細なその音楽から感じる事は、メロディは主役の
座から遠のき、和声がその分存在を主張しはじめている事です。いろいろ
なアルペジオの連結により、ピアノから可能な限りの倍音列を引き出そう
としているようです。
前述したサロンコンサートでピアニストにドビュッシーを一曲弾いてもら
いました。私はピアノの横にたって聴いていたのですが、驚愕しました。
なんと良く鳴るのでしょう。もちろん楽譜に書いている音が、聞こえて来
るのは当たり前なのですが、それ以上に楽譜に書かれていない音、倍音が
豊かに鳴り響くのを知って本当に驚いたのです。あれはCDや巨大なコンサ
ートホールでは絶対にわかりません。もっと小さな部屋で弾いてもらわな
いとドビュッシーがどのような響きを作り出そうとしていたのか理解でき
ないのかもしれません。自分でも時々ドビュッシーの簡単な作品の簡単な
部分だけ取り出して弾いたりはしていますが、あの横で聞いた時ほどの驚
きはありませんでした。そういえば、以前ショパンを聴いた時にも同じよ
うな驚きを体験をしたことがありました。

話は少しそれますがラヴェルとかリストではあまりそのような事を感じた
事がありません。別にラヴェルとかリストが倍音を無視して楽曲を書いて
いたとは思っていませんが、ドビュッシーのピアノ曲というのはラヴェル
のそれや、リストのそれとはまったく違う物のようです。ラヴェルのピアノ
曲はどれもこれも素晴らしい作品ですが、これらをオーケストラで演奏し
ても曲の内容や緻密さ(音色は別として)という事に関してそれほど差を
感じる事はありません。しかしドビュッシーのピアノのそれはピアノ以外
の演奏形態をほとんどうけつず、他の楽器で演奏すると内容も雰囲気もま
ったく異なった別の作品となってしまいます。これはピアノという楽器に
対する考え方の違いというより、音楽作品自体に対する考え方の違いに起
因しているのかも知れません。ラヴェルは「良い音楽であれば演奏形態は
選ばない」と常々公言していました。ではドビュッシーやショパンのよう
に楽器と密接に結びついた作品を書いた二人は二流の作曲家なのでしょう
か。とんでもない話ですね。きっとピアノのために作曲するのであれば、
その楽器が持っている最高の響きを作り出す事が作曲家として重要な事だ
と考えていたのでしょう。
この考え方の違いからドビュッシーは「月の光」を作曲する事が可能とな
り、結果的にピアノ独奏による「アリア」にはならなかったのだと思いま
す。

                                  坂野 嘉彦

 

19991112 22:20

月の光

 

坂野 様

 四童です。東京はめっきり寒くなりました。

>本来「アリア」になるべき楽曲なのですが、なぜあえて
>ドビュッシーは「月の光」という命題を用いたのでしょ
>うか。

 いや、恥ずかしながら「パスピエ」というのが舞曲の
一形式であることを知らなかった私は、まったくそんな
疑問を抱いたことがありませんでした。

 本題に入りましょう。「月の光」の美しい響きのこと
です。このシリーズを書くにあたり私は、クラウディオ
・アラウの没後に発表された『ファイナル・セッション
ズ』というアルバムに収められた「ベルガマスク組曲」
をずっと聴いています。この録音、どの曲も巨匠がこの
世の最後の響きをいとおしむかのように、ものすごい遅
いテンポで演奏しており、人によっては「フランス音楽
ってのはこんなんじゃな〜い」と怒り出すかも知れない
ものなのですが、私はその響きに身をゆだねております。
そして聴きながら、ふと思い至ったことがあります。

 「月の光」のアルペジオを伴ってない部分の響きの美
しさというのは、もしかすると「ドローン技法」とでも
いうべきものなのではないでしょうか。
 何を言っているのかというと、左手で保持する和音は、
それ自体で主張する和音ではなく、保持中に右手で弾か
れる音に共鳴し、あらたな、楽譜には書かれていない
「光でできたパイプオルガン」のような倍音を生むため
に保持されているのではないかということです。
 そうであれば、後に「前奏曲集第2巻」では三段譜に
まで発展するドビュッシーの重低音好みも、それに右手
を重ねたときの豊かな倍音の変化にドビュッシーが耳を
傾けていたからではないか、とか推理が発展します。

 コードの変わり目で響きが濁るからペダルを踏み変え
るというなことは初心者でもやっていることですが、書
かれた保持しなければならない音を保持中に、それが新
たな音に共鳴することは、楽器の機能上避けることがで
きません。これはまさにピアノならであって、オーケス
トラに移植することは考えられません。
 その響きとともに作曲家ドビュッシーが発想していた
とは考えられないでしょうか。

四童

 

19991113 1:40

月の光  番外コメント

 

四童様

非常に興味深いご意見、拝見させて頂きました。
ドビュッシーのペダルと低音はこれまで色々な研究者によって
言及されていますが、そのほとんどが「この演奏不可能な楽譜
はどのようにごまかせば弾けるのか」という事ばかりに注目し
音楽的な意味を深く探った物がありませんでした。これらの低
音はピアノのソステヌートペダルを使うと楽譜どおりに演奏す
る事も可能なのですが、ドビュッシーはソステヌートペダルを
意識していたとは思えません。というのもビュッシーが所持し
ていたピアノにはソステヌートペダルというものはついていま
せんでした。死ぬかどうかする時期に開発されたのではなかっ
たかな。このあたりの情報についてはまったくの門外漢なので
専門家の先生、カオル様にご教授をお願いしましょう。

>  そうであれば、後に「前奏曲集第2巻」では三段譜に
> まで発展するドビュッシーの重低音好みも、それに右手
> を重ねたときの豊かな倍音の変化にドビュッシーが耳を
> 傾けていたからではないか、とか推理が発展します。

初期の「アラベスク」にもやはり低音の長いバスが書きこんで
ありますが、面白い事に演奏不可能になったり、ペダルを踏み
かえるべき場所では、ちゃんとタイが取れたり、休符になった
りしているのですよ。これから察するに、あきらかに後期の演
奏不可能バスは意識的に行われているのです。

                                  坂野 嘉彦

 

19991119 22:46

パスピエ

 

坂野さん、皆さん、こんばんは。
 いよいよ最終曲の「パスピエ」とあいなりました。
 パスピエはフランスはブルターニュ地方の舞曲で、8分の3ないし
8分の6拍子のものだそうですが、ドビュッシーはお構いなしに4分
の4拍子の軽やかな曲に仕立てています。
 文明開化の調べと申しましょうか、左手の分散和音が蒸気機関車の
音にも聴こえます。随所に現れる二拍三連も技巧的に聴こえず実に気
持ちよいです。
 久しぶりにサンソン・フランソワの演奏を聴いてみました。右手の
トップ・ノートが実に太い音で、あたかも右手がすべて単音で書かれ
ているかのごとくたっぷりと歌われていて、圧倒されました。「毒を
もって毒を制す」ではありませんが、サンソン・フランソワのような
強烈な個性が弾きこなしたドビュッシーというのも、素晴らしい美し
さがあると思いました。

 最後までお付き合い頂きありがとうございました。

四童

 

19991231 16:24

パスピエ

 

四童様
大変ごぶさたしております。
先月から年末にかけ、仕事と私用で忙殺されていました。お返事が
遅くなった事をお詫びいたします。
さてパスピエについてつらつらと書いてみたいと思います。

総括みたいな事にもなりますが、このベルガマスク組曲は月の光を
除き後年に見られる典型的なドビュッシー的作品、言い換えれば絵
画的な作品が少ないといわれています。なるほどプレリュードにし
てもメヌエットにしても純音楽(この言葉も変ですが)に属すると
考えても差し支えないでしょう。しかしこのパスピエはその目まぐ
るしく交代するセクションによって後年のドビュッシーを彷彿とさ
せるような転調が行われたり、リズムの組み合わせによるファンタ
ジーを膨らませたり、非常に絵画的です。聞くところによるとこの
パスピエはドリーブの作品からもヒントを得ているそうです。が、
チャイコフスキーのシンフォニーのようにならないのがフランスの
エスプリ(精神)なのでしょうか。

いずれにせよ、このベルガマスク組曲を作曲した時点ではドビュッ
シーは一流と二流の間をさまようサロン作曲家の一人に過ぎません
でした。作品もグリーグ、マスネのエッセンスをロシアで味付けし
たものが多いように思います。
しかしそれら若書きの作品群の中でも「ベルガマスク組曲」は、音
響への感覚、きらめくような和声の連結、旋法へ傾向など、後年「
前奏曲集」から「エチュード」へと前人未到の世界到達するドビュ
ッシーを垣間見ることができる興味深い組曲です。天才が作られて
ゆく過程を見ることが出来る数少ない作品の一つです。
そういえばドビュッシーが出版をしばらく見合わせたのはこのプロ
セスを人に見せたくなかったからではないでしょうか。

いろいろな事を考えさせてくれる作品です。

最後になりましたが、大きなブランクをつくり皆様に多大なご迷惑
をおかけした事を深くお詫びいたします。

あらあらかしこ

                                  坂野 嘉彦

 

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