坂野嘉彦氏との往復書簡「ドビュッシー 前奏曲集 1」

 

 1997121日から1219日にかけてASAHIネットの「クラシック回廊」

上で行われた往復書簡形式の談義。パソコン通信の会議室での談義なので、別

の話題や別の人のハンドルネームが飛び出してきますが、気にしないで下さい。

 

1997121 23:54

デルフの舞い姫たち

 

 四童です。今回の道しるべ「ドビュッシー 前奏曲集」は、趣向を大きく変
えて坂野さんと私の往復書簡形式で案内役を務めるという大役を仰せつかりま
した。
 これまでの書き込みでお分かりかとは存じますが、私はこの数年ジャズとい
う音楽に深くはまっていたため、クラシック・プロパーな皆さんから見れば門
外漢が勝手なことを書いているとしか思えないようなことを、今回も平気で書
くかも知れません。私は、ビル・エヴァンスやチック・コリアを聴く耳で、ド
ビュッシーについて何かしら語ることになるのでしょう。至らぬ点は、ご自身
作曲家である坂野さんのお叱りを受けながら、一日1曲のペースでこの不可思
議な作品の魅力について見て行きたいと思います。
 また、往復書簡形式というのはあくまで案内役としてそうするというだけな
ので、皆さんの鋭い指摘とともに道しるべができあがって行くということは、
これまでと何も変わりません。どしどし、コメントをお願い致します。

 さて、ドビュッシーの前奏曲は1910年に作曲されたわけですが、前奏曲とい
うのは一体何の前奏なのでしょうか。ある意味では、それは二十世紀音楽(ジ
ャズやポピュラー音楽も含めた)全体への前奏曲なのかも知れません。また、
ある意味では、何の前奏でもないのかも知れません。何の本題もなくただそこ
にある前奏。ドビュッシーの前奏曲は、今ここで響きを聴くためだけに投げ出
されたストーリーのない断片であるような気がします。

 ドミソとかドファラとかシレソとか、そんなことを小学校の音楽の授業で習
ったことと思います。専門用語を使うと「機能和声」というのですが、とにか
くそういう和音をある順番で並べて行けば曲ができると考えられていた時代が
ありました。極端に話を単純化しますが、例えばベートーヴェンの熱情ソナタ
の第2楽章のようなものを思い浮かべて下さい。「曲」です。きれいな曲です

 思い浮かべましたか。「デルフの舞い姫たち」は、それとは全然違う「不協
和」な、それでいて豊かで美しい和音で、どこに連れて行かれる訳でもなく始
まります。

 振り返ってみれば、それが二十世紀音楽の始まりだったのかも知れません。

                        四童

 

1997122 2:53

返信 デルフィの舞姫たち

 

坂野です。皆様お久しぶりでございます。

さて先の四童さんからのメスでご紹介があったとおり往復書簡という形で進める
ことにあいなりました。もちろんの事ですが、我々はあくまでも案内役に徹する
わけでありまして、樹木の様に広げていくのは皆様のコメントになるわけであり
ます。よろしくお願い致します。

では最初ですからちょっと総括的な事柄からスタートしていきたいと思います。

四童さんがおっしゃる通り「前奏曲」というのはドビュッシーにおいてかなり宿
命的なものを感じます。「”牧神の午後”への前奏曲」もブーレーズが指摘した
とおり、現代管弦楽への前奏曲であったような気がしますし、ピアノのための前
奏曲も現代ピアノ曲への前奏曲であったのでしょう。実際のところこれはショパ
ンの24の前奏曲にあやかってつけたタイトルらしいのですが、そこにそれ以上
の意味を読みとるのはあながち過大な事ではないような気がします。私自身これ
は後にかかれる事になる「練習曲集」への序奏であったような気がしますね。特
に第2巻ですが。

四童さんがいみじくも指摘された「断片」という言葉がこの前奏曲集、というよ
りもドビュッシーの音楽の根本にあるものを指摘している事を感じます。
ドビュッシーが発明したもっとも重大な業績(それは不思議とあまり話題にのぼ
らない事が多いのですが)形式の自由化があります。いわゆる三部形式と呼ばれ
るABAの構成やソナタなどにみられる主題、繰り返しの原則がドビュッシーの
音楽において殆ど意味をなさないのですね。それは小さな小さなセクションの集
合体で出来上がっています。しかしその小さなセクションは決して他のセクショ
ンに無関係ではなく強固な意志によって統一感を与えられ大きな流れから切り取
ってきた音楽の様な印象を受けるのです。(これは武満徹氏の作品をしばしば思
い起こさせます)もちろんまったく同じフレーズを繰り返さないのか、と言えば
決してそんな事はなく箇所によっては繰り返しを使っている部分も確かにありま
す。でも、そんな時にもやはり微妙に変化が起こっているのです。

私が思うにドビュッシーというのはミクロ的に考えれば非常に単純な音で作曲し
ていたのと思うのですが、いざ音となって流れ出すと、そこに稚拙さは微塵もな
く、きらめくような艶やかでエロティックな音の流れが現れます。これが前奏曲
集、ひいてはドビュッシーの音楽の最大の魅力の一つであると言えるでしょう。
(誤解のないよう書き添えておきますが、単純な和音イコール稚拙という訳では
ないです。当たり前の話ですが。)

さて冒頭の「 デルフォイの舞姫たち」のタイトルですが、ルーブル美術館のギリ
シャ彫刻によると言われています。以前話題にのぼった「海」と北斎の関係と同
じくなんら確証のある話ではないそうですが、この優雅さはまさに「舞姫」という
タイトルにふさわしいものでしょう。


                                  坂野 嘉彦

 

 

1997122 14:17

帆(ヴェール)

 

さて優雅にしてエロティックな「舞姫」の後は、まるで絵をみている
ような淡い淡い「帆(ヴェール)」が続き、ギリシャへととんだ我々
の心は現実世界へと呼び戻されます。おもしろい事に、この第二曲目
のタイトルは二通りの意味が込められているのですね。男性名詞とし
て読めば船にかかげられる「帆」になり女性名詞として読めば、女性
が頭からかぶる「ヴェール」となります。どちらも静かに風にはため
きます。我々はどちらにも想像を広げる事ができます。そしておそら
くどちらの想像も正解なのでしょう。

第一巻は「自然」をテーマにした作品が多い事で知られていますが、
この「帆(ヴェール)」という曲のテーマは、実は「微風」ではない
かと思います。ただこの後に「野をわたる風」「西風のみたもの」と
具体的に「風」を表すタイトルが続くため「帆」という風を暗示させ
るのにとどまったのではないかと考えています。

たまたま「沈黙」の話題が回廊で出ていますが、まさにこの小品ほど
沈黙で始まり沈黙で終わるという言葉にふさわしい曲はないと思いま
せんか。フォルテの部分さえ、沈黙の中でこだましている残響の様で
すし、メロディの間からかすかに聞こえてくる低音のB音(シのフラ
ット)がまったくの無音以上に「沈黙」を表現している気がしてなり
ません。
ここでちょっと余談になるのですが。
シフさんが言った「沈黙」を大事にしてほしいという言葉は、実は非
常に深い意味があると思うです。音楽における沈黙とはじっと身動き
せずに聴衆が音を出さず静けさを味わいなさい、という事よりも、実
は聞き手がその音楽に対し沈黙部分とそうでない部分の衝撃的な対比
を心の中で生み出しなさいという意味も込められているのではないで
しょうか。「帆」を聴きながらふと考えてしまいました。音楽におけ
る沈黙というのは心理的な物に根ざしているべきだと私は思いますし、
その点に関して言うなればシューベルトもドビュッシーも(乱暴な言
い方ですが)同じではないかと考えます。

さて話は少しあらぬ方へ飛んでしまいましたが、私はこの絵画の様な
小品がたまらなく好きです。まるでスーラの絵をみているがごとく淡
いけれどもしっかりと光が差し込むような陰影をディスクで聴く度に
「ピアノとはここまで表現できる楽器だったのか」とショックを受け
るのでした。

おしまい。


                                  坂野 嘉彦

 

1997123 0:31

返信 帆(ヴェール)

 

 実際のところ、この、響きがただそこにある感じというのは何なのでしょう
。前奏曲の第1巻には、尋常ならざる水位の高まりを感じさせる形のないエネ
ルギーそのもののような曲もあるにはあるのですが、ピアノの減衰音を聴くた
めに作られたかのような展開しない断片たちが、私たちに時間の移ろいの意味
を送り続けているような気がします。
 「帆」も、そんな1曲です。ここでは、古典派とかロマン派が見向きもしな
かった方法が用いられています。
 全音音階。世の大抵の音階は、長音階にしても短音階にしても全音と半音が
混ざって構成されています(長音階なら、ミとファ、シとドが半音というよう
に)。それに対し、全音音階は音階のすべての隣り合う音が全音で並んでいま
す。ド、レ、ミ、ファ#、ソ#、ラ#、ド。この人工的な音階の響きに、ドビ
ュッシーは何を求めたのでしょう。祈りでもなければ、喜びや怒りや哀しみで
もない、ただの宙に投げ出された響き。
 それから五音音階。ドビュッシーは万国博覧会で耳にしたアジアの音楽に大
変な感銘を受けた、という話をどこかで読んだことがあります。思えば、ドビ
ュッシーの時代の頃から交通機関が飛躍的に発達して世界のさまざまな響きの
音楽を実際に耳にすることができるようになり、それが作曲家というシステム
を刺激する入力となって、作品という出力に反映されるようになったのでした

 「帆」では、全音音階と五音音階が作曲家の内的な必然性のみによって結び
つけられています。素材がなんであれ、結果的に得られるどうしようもなく決
定的にドビュッシー的な響き。この処理の見事さが、まさに二十世紀のための
前奏曲なのだと思います。

                            四童

 

1997124 1:38

野を渡る風

 

 一転して恐ろしく細かい分散和音(というより複合オクターブ・トレモロ)
のよるエネルギーの持続です。これはどこからかやってきてどこかへ去って行
く風を定点観測したのではなく、風自身です。
 連続する複合オクターブ・トレモロの中で徐々にポテンシャル・エネルギー
が(それはしばしば物理的にも左右の手が交差する位置で)高まり、7回の小
爆発を経て、やがて鎮静化します。
 ここでも形式はまったく単なる思いつきであり、音域の選択は自在であり
(ドビュッシーほどピアノの低音域から高音域まで自在かつ効果的に駆使した
作曲家は、他に誰がいるのでしょう)、長和音の平行移動による小爆発は、時
を越えて刺激的であり続けます。

 まったく風は何を考えているのでしょう。

                          四童

 

1997124 2:38

返信 野を渡る風

 

まったく気まぐれな風ですね。この曲のタイトルはシャルルーシモン・ファヴ
ァールという人の「平原の風が息を呑む」という一節からとられているそうで
す。しかし・・・ここでもやっぱりBの音なのです。どの小節をみてもBがな
っている。なんという事でしょう。

これは定点観測した風ではなく風自身であるという説にはまったくもって同感
です。「海」の初演時ピエール・ラロは言いました。「私は海を感じることは
できなかった・・・」ラロは感じる事ができないと言いました。しかし、実は
ここにドビュッシーの音楽のキーポイントがあるのではないでしょうか。すな
わちドビュッシーが自然を描写するのを聴くのではなく、海、あるいは風にな
りきったドビュッシー自信の歌を聴くべきなのでしょう。よく引き合いに出さ
れるラヴェルとの決定的な差はここにあります。

ドビュッシーは平原の風になりきり、ピアノという乗り物で平原を駆けめぐり
ます。突如としておこる突風も、優しいそよ風も、すべては野をわたる時に巻
き起こった夢想なのだと思います。



                                  坂野 嘉彦                                 

 

 

1997124 2:08

前奏曲でワシもかんがえた

 

無意味と思いつつも自筆譜にかかれている作曲日時を元にソート
してみました。よく組曲とか交響曲というは作曲者は順に一楽章
から作ってゆくと思われがちなんですが実は、とりあえず作曲し
順番は後から考える事がほとんどなのです。逆に並べ方によって
作者の意図が見えてくる場合もあるので、あながち無意味ではな
いかも知れない。


前奏曲集第1巻

 1. デルフォイの舞姫たち(デルフィの舞姫たち)1909.12. 7
  3. 野を渡る風                                1909.12.11
 2. 帆                                        1909.12.12
 5. アナカプリの丘                            1909.12.26
 6. 雪の上の足あと                            1909.12.27
 4. 音と香りは夕暮れの大気に漂う              1910. 1. 1
 12. ミンストレル                              1910. 1. 5
 8. 亜麻色の髪の乙女                          1910. 1.15
                                                      ~16
 11. パックの踊り                              1910. 2. 4

以下作曲日時不明

 7. 西風の見たもの  ??????????
 9. さえぎられたセレナード(とだえたセレナード) ?????????
 10. 沈める寺 ??????????

いろいろ想像たくましくできます。一気に書かれた様なのに不思
議と時間のかかっているのが「アナカプリの丘」です。なにかの
理由で次の作曲にとりかかれなかったのでしょうか。この南国風
の作品を作曲すると突然真冬の現実である「雪の上の足跡」をわ
ずか一日で完成させています。きっと精神の均衡をはかったので
しょう。それとも冬のパリを無視できなかったのでしょうか。そ
の後大掃除をしたのかどうか解りませんがちょと時間をかけ3日
後に「音と香りは・・・」を完成させてます。偉いですね、1月
1日まで仕事していたのですね。さてその後、ちょとお休みをと
って5日にミンストレルを完成し、「亜麻色の乙女」にとりかか
っています。どうやらこの曲が一番苦労したようで、1907か1909
の物と思われるスケッチ帳にこのメロディがありますが、今私た
ちが聴く事のできる洗練された物とはにてもにつかぬメロディで
す。ドビュッシーがスケッチを相当推敲して作曲するタイプだっ
た事が伺える良い例でしょう。(同じく沈める寺も相当量のスケ
ッチが残されています)さてその後大きく日にちをあけ「パック
の踊り」を完成させています。今までの筆の早さから言って明ら
かになにか外部的な要因で作曲が中断されたようです。あるいは、
日時不明の作品をこの間に作曲していたのでしょうか。

これはあくまでも想像なのですが、ドビュッシーはどうやらBを
基音としたセット(舞姫、帆、野をわたる風等)とHあるいはF#
を基音としたセットを作曲しようとしていたのではないでしょう
か。とりあえず「舞姫」を作曲し、さてどうしたものか考え、B
音を基音とする作曲を開始します。しかしある種の(なにが原因
かわかりませんが)抵抗を感じ「帆」を作曲した時点で一時B音
セットの作曲を終了させます。そして悩んだ末にこういったメカ
ニカルな志向より、自然を描き出す方法を選択し(これが空白の
2週間)結局「雪の上の足跡」に筆を進めたような気がします。
しかしまったくこういった事にも無関心ではいられず、「音と香
り・・・」ではB音を幽霊の様に存在させ、尚かつ、この曲の最
終和音を「アナカポリの丘」の冒頭和音と同じくさせる事である
種の統一感を持たせようとしたのかもしれません。

考えすぎだろうとは思いますけど、たまにはこういった想像も楽
しいものですね。



                                  坂野 嘉彦

 

1997124 22:42

音と香は夕暮れの大気に漂う

 

このプレリュードで4曲目です。やっと1/3を過ぎました。

さて今日の昼間にこのプレリュードを聞き直したのですが、実に
不思議な音楽ですね。基本の拍子は5/4なのですが、はっきり
とワルツが聞こえてくるのには驚いてしまいます。
ではこの作品のタイトルに引用されたボードレールの原詩をここ
に(ちょっと長いですが)全文引用してみましょう。

      夕べの諧謔

今こそ 茎の上で わなないで
花々は おぼろに匂う、香炉のように、
音と 薫りは たそがれの空に 回る。
うれいの円舞曲、ものうい眩暈!

花々は おぼろに匂う、香炉のように、
ヴィオロンは すすり泣く、思い悩む心のように。
うれいの円舞曲、ものうい眩暈!
大空は 悲しく美しい、大祭壇のように。

ヴィオロンは すすり泣く、思い悩む心のように。
やさしい心は 大きな暗い虚無を憎む!
大空は 悲しく美しい、大祭壇のように。
落日は 凝るその血のなかに沈んだ。

やさしい心は 大きな暗い虚無を憎み、
光り輝く過去の名残を すべて集める!
落日は 凝るその血のなかに沈んだ・・・・・
君の思い出は わが心に輝く、聖体盒のように。

    佐藤朔訳「ボードレール詩集」より白凰社


夕暮れの大気の中で怪しく変形したワルツが幾度も繰
り返されるのを、私たちは聴くことができます。
今まさに日が落ち暗くなる瞬間の大気の中に立たされ
た気分です。ボードレールの象徴的なワルツのくだり
がドビュッシーによってリアルに音楽に移し替えられ
るという、まさに表現の神業的なサンプルの一つでは
ないでしょうか。
そういえば、この作品に関していえば完全な小節の繰
り返しが出てきますね。もしかしたら詩にみられる言
葉の繰り返しを意識したのかもしれません。

追伸
わたしはこの曲が実は前奏曲集の第一巻と第二巻をつ
なぐ鍵ではないかと思います。この曲は第二巻に納め
られていてもなんの違和感もないでしょうね。


                                  坂野 嘉彦

 

 

1997125 23:45

返信 音とかおりは夕暮れの大気に漂う

 

 まったくドビュッシー的な気配に満ちた曲です。坂野さんが調べてくれた完
成日付<1042>によれば、この曲は1910年の元旦に作られています。フランス人
は御屠蘇を飲んだり、初詣に行ったりしないのでしょうか。
 また、坂野さんのいわれる「わたしはこの曲が実は前奏曲集の第一巻と第二
巻をつなぐ鍵ではないかと思います」というご意見、実にそんな気がします。
「音とかおりは夕暮れの大気に漂う」その夕暮れが暮れたら、そのまま「月の
光がふりそそぐテラス」になるのですね。

 ところで拍子の件ですが、楽譜を見て定量的に数えると全体が53小節のうち、
3拍と2拍を点線で区切った5拍子の小節は11小節に過ぎません。最初の2小
節の印象が決定的なのかも知れませんが、全体としてはワルツなのだと思われ
ます。もっとも作曲家の方は、そのような定量的な把握はされないのかも知れ
ません。僭越なことを申してしまいました。

 余談ながら、「夕べの諧謔」の冒頭

  今こそ 茎の上で わなないで
  花々は おぼろに匂う、香炉のように、

ですが、これは中原中也が「時こそ今は……」でボードレールの作品として引
用した、

  時こそ今は花は香炉に打薫じ

と同じものなのでしょうか。私は文学についてまったく疎いのですが、どなた
かご存じの方は教えて下さい。

                        四童

 

1997126 0:54

アナカプリの丘

 

 5曲目です。アナカプリとはナポリの近くだそうで、そのせいか「前奏曲 
第1巻」中でもっとも歌謡的な要素も顔を見せます。「レントより遅く」に通
ずる俗臭と申しましょうか(ちなみに「レントより遅く」を凡庸とか貧弱とか
いう人がいますが、私はこの腐り始めた果実のような香気を放つ作品が大好き
であることをここで表明します)。そして、その歌謡的な要素は皮肉でも何で
もなく、ストレートに「ここでそう歌いたかったから、そう歌ったのだ」とい
う感じなのです。とはいえ、ここでも気まぐれにして斬新で、普通の展開はあ
りません。
 全体として属音にあたるF#音の保持の中で、ある時は左手でたっぷりと旋
律が歌われ、ある時はめくるめくパッセージが駆け抜けます。
 ところで坂野さんは「前奏曲」はどなたの演奏で聴くことが多いのでしょう
か。私はこのところ(意外かも知れませんが)チリ人であるところのクラウデ
ィオ・アラウの演奏を好んで聴いています。なぜ、数ある演奏の中からそれな
のだと言われると困ってしまうのですが。この曲などでも、最後の入魂の5音
のタッチがたまりません。

                         四童

 

1997126 12:07

返信 アナカプリの丘

 

いきなり「アナカプリの丘」から脱線しますが、四童さんの「レントより遅
く」への声明、全面的に指示します。なぜあの曲が「駄作」だの「ドビュッ
シーらしくない」だの言われなければならないのでしょう。まったく理解に
苦しみます。わかりやすさ=低俗という、いやらしい、いやらしい図式がこ
こにも生きているのでしょうか。と、これ以上この問題にふれると面倒な事
になるかもしれないので、先に進みます。

「アナカポリの丘」の眩い色彩には翻弄されます。ここでドビュッシーはタ
ランテラ舞曲を使用しています。なぜタランテラなのかよく解りませんが、
明るい南国の音楽にはマッチしているように思います。

>> ところで坂野さんは「前奏曲」はどなたの演奏で聴くことが多いのでしょう
>>か。

おやこれは奇遇ですね。私が聴くのはアラウのレコードが多いのですよ。で
もどちらかと言うと2巻に限った場合です。それとジャック・ルビエの全集
でしょうか。なぜかといわれると1巻、2巻が同じディスクに収録されてい
て入れ替えの面倒がないからなのです。ははは。とは言ってもドビュッシー
の前奏曲集に関してあまりディスクを聴くという事はしません。どちらかと
いえば、スコアを眺めたり、ピアノで音をとったりしている事の方が多いよ
うな気がします。フランソワは大好きなのですが、全集という形ですと、気
にくわない曲のダレた演奏や、荒っぽい部分が目立ってきてしまうのですね。
フランソワの神髄は全集よりも自分のお気に入りの小品を集めたオムニバス
盤にいっそう現れるような気がします。もっともこれは私だけが感じる事な
ので、これを読んだフランソワファンの方が気を悪くされたら申し訳ないで
す。アホな奴の戯言と笑ってください。
こんな理由で、一番聴くドビュッシーのディスクは(前奏曲集という事でな
なく)フランソワが演奏した小品集です。特にお気に入りだったと思われる
の「パックの踊り」「パスピエ」(アンコールでよく演奏していたそうです)
等は、たぶんこれ以上の演奏は不可能だ、と思わせるくらいの出来です。私
はフランソワというピアニストの即興性、刹那的な面を考えればラヴェルよ
りもショパン、シューマン、ドビュッシー等の小品を演奏したときにその真
価が現れるピアニストだと思っています。

ディスクとえば、変わり種でドビュッシー自身が録音したものが(全曲では
ないと思いますが)残されているようです。カオルさんご存じないですか?

追伸
「音と香・・・」の拍子の問題で「冒頭の部分」という言葉が抜けておりま
した。混乱させてしまったようで申し訳ありません。




                                  坂野 嘉彦

 

 

1997127 21:34

雪の上の足跡

 

さて、四童さんの先攻ではじまった前奏曲集タッグマッチなんですが
後攻の私に意味深い曲が回ってきたのは幸せなような、恐ろしいよう
な気がします。

ここらで予想(でもないですが)今後の展開をみてみましょう。

雪の上の足跡(坂野)
西風のみたもの(四童)
亜麻色の髪の乙女(坂野)
とだえたセレナード(四童)
沈める寺院(坂野)
パックの踊り(四童)
ミンストレル(坂野)

なんという事でしょう。腰が引けてしまいました。はははは。
がんばらねば。

さて、雪の上の足跡に戻りましょう。
このプレリュードは音数が少ないのに、聴くにも弾くにも多大な精
神力を要求しているような気がします。短いセクションが有機的に
つながり全曲を構成するというドビュッシーの作曲技法の典型的な
例であり、そしてもっとも成功した作品の一つに挙げられるでしょ
う。そしてピアノが作り出す色彩、とくに白、灰色、黒などモノク
ロームな音色を追求した実験曲の一つだと言えます。これは私が思
うだけなのですが、後に新ウィーン楽派よって音色旋律と呼ばれる
オーケストラの技法がノーマルなピアノの上で行われたおそらく唯
一の例ではないでしょうか。

このプレリュードで私の一番お気に入りの演奏なんですが、なんと
ピアノで演奏されたヴァージョンではないのですよ。はは。なんと
それは冨田勲氏がムーグシンセサイザーを駆使して演奏した「雪の
上の足跡」なんです。先ほどピアノの音色を最大限に生かした作品
と言った、舌の根も乾かぬうちからこんな事を言ってはイカンので
すが、好きなんですからしょうがありません。本来のピアノ盤ヴァ
ージョンは、曲が曲だけに録音が優秀な物が絶対的に有利になりま
す。この点、ギーゼキングはやや不利といえるでしょう。やっぱり
アラウがいいかな。

追伸
音楽で「白」とか「灰色」をドビュッシーほど見事に描き出す作曲
家は他にいないのではないでしょうか。
ノクチュルヌの「雲」、子供の領分の「雪は踊っている」、前奏曲
集の「霧」。その生涯の最後に書かれる事になる2台ピアノのため
の「白と黒で」というタイトルもなにやら象徴的な物に思えてきま
す。


                                  坂野 嘉彦

 

1997128 1:47

返信 雪の上の足跡

 

 ふっふっふ、返信であれば坂野さんの出方を見れますので、そ
れはそれでスリルがあります。
 それはそうと「音とかおりは…」の拍子の件、失礼致しました。
「冒頭の部分」ということであれば意味が通じます。

 さて、「雪の上の足跡」です。地球の自転が止まるようなテン
ポでD−E、E−Fという上向音型が24回繰り返されます。聴い
ているだけでしんしんと冷えてきます。題名だけ見ると雪はやん
でいるかのようですが、そんなことはありますまい。刻々と足跡
を消しながら雪はふりつむのです。あるいは人間の足跡ではなく、
冬そのもの、寒気そのものが今まさに歩んでいるのかも知れませ
ん。

 三好達治の有名な二行詩で「雪」というのがあります。

太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。

 これが音型の1単位です。これが、

三郎を眠らせ、三郎の屋根に雪ふりつむ。
四郎を眠らせ、四郎の屋根に雪ふりつむ。

五郎を眠らせ、五郎の屋根に雪ふりつむ。
六郎を眠らせ、六郎の屋根に雪ふりつむ。

……

四十七郎を眠らせ、四十七郎の屋根に雪ふりつむ。
四十八郎を眠らせ、四十八郎の屋根に雪ふりつむ。

と続くのです。

 ああ寒い。熱燗を一杯ひっかけて寝ることにしよう。

                 四童

 

19971210 1:04

西風のみたもの

 

 7曲目です。LPでいえばB面の1曲目にあたるのでしょうか。ただただ静
かに降り積む6曲目から一転して疾風怒涛であります。またしても風ですが、
今回は題名からして風に人格があります。擬人法などとつまらないことを言っ
てはいけません。人格です。
 それにしても恐ろしいエネルギーの量です。そして、パーカッシヴなこと。
整然と記譜されていることが信じられないほど、すさまじい曲です。
 高域で渾身の硬い音でC#音をきんきんきんきんきんきん…と連打しながら、
2度音程を含む左手が低域に打ち込まれるとき、私は二十世紀に生きる悦びを
感じます。

 そして、その次の曲は比類なく美しい「亜麻色の髪のおとめ」。前奏曲第1
巻の曲順の、もっとも見事な配列であります。

                            四童

 

19971210 3:06

返信 西風のみたもの

 

いくつもの風を描いたドビュッシーの極めつけの曲です。
ほとんどオカルトの世界に近いのでは、と錯覚するほど恐怖に満ちた
風が吹き荒れますね。一見無秩序に見えるセクションの繋ぎ方もよく
調べて見れば、実はまったく理路整然と組み立てられている事が解り
ます。

>>私は二十世紀に生きる悦びを感じます。

この曲の後に生まれてしまった無念さも感じませんか?ははは。

「西風のみたもの」のコダマをいろんなタイプの音楽から聞き取る事
が出来ます。ある時はYMOの「BGM」というアルバムからだった
り、武満徹のオーケストラ作品からだったり・・・・
「沈める寺院」や「亜麻色の髪のおとめ」ほど有名な曲ではありませ
んが他の音楽に与えた影響力の強さでは他のプレリュード以上の物が
そこにあると思いませんか。
私はこの殆ど無調の様な曲の途中で、突然、まったくポタリという感
じで、単純なドミソの和音が鳴るのに強烈なショックを受けます。
これが実に複雑な音に聞こえてしまうのです。ドビュッシーの凄さを
改めて感じる一曲です。
そうそう、四童さん。そういえばこのプレリュードって調号は嬰ヘ短
調を示しているのですが、実は一度も嬰ヘ短調の主和音が出てこない
のですね。曲の最終和音でもD#が付加されていますし。
まったくもって不思議な、そして印象に残るプレリュードです。


                                  坂野 嘉彦

 

19971210 20:45

亜麻色の髪の乙女

 

嵐の激情がさったあと、この簡素なプレリュードが「とても穏やかに
やさしく語りかけるよう」に始まります。この作品のタイトルはルコ
ント・ドゥ・リールの詩「スコットランド風シャンソン」第4番からと
られた物で、若い頃ドビュッシーは歌曲として一度作曲しています。
ただし音楽的なつながりはまったくなさそうですね。

スコットランド民謡のような五音階のGフラットを主音とする旋法で
音楽が始まります。鋭い四童さんはお気づきになったとおもいます。
前の「西風のみたもの」の主音はF#でしたよね。異名同音で考えれ
ば同じ音を主音としているのです。この素晴らしいトリックと音楽の
劇的な差が素晴らしい。

以前書いたようにこの作品のスケッチが残っています。私も手元に有
りますが、とても現在の「亜麻色の髪の乙女」とはにてもにつかぬぐ
らいチグハグは印象を持つスケッチです。(調も異なっています)と
ころが数年かけてドビュッシーは推敲に次ぐ推敲を重ね現在の「亜麻
色の髪の乙女」に仕上げました。よく誤解されるようにドビュッシー
はただ単に印象や思いつきを楽譜に書き写したのではなく考えに考え
抜いて作品を磨き上げてゆくタイプの作曲家だった事がこれでわかり
ます。しかし、作品は実になめらかに、まるで即興のごとく流れてゆ
きます。まさに天才の証です。

四童さん、ここで質問です。亜麻色って何色?


                                  坂野 嘉彦

 

 

19971211 1:28

返信 亜麻色の髪の乙女

 

 前曲「西風のみたもの」との関連ですが、実は私は調的関係については気が
ついていませんでした。前曲がシンメトリックなアイデアを駆使していて、調
をあまり感じなかったせいもあるのかも知れませんが、単純に分かってなかっ
たのでしょう。
 言われてみれば、「西風のみたもの」の最終和音はコード・シンボルでいえ
ばF#6で、わざわざ次につなぐために長和音に転じたようにも見えます。そこ
まで準備を整えたからこそ、「亜麻色の髪の乙女」がこの世のものとは思えな
いくらい穏やかに始まるのかも知れません。とはいえ、別のところで同じ技法
を使えば同じ効果が得られるかといえば怪しげなもので、芸術の秘密はそんな
ところにはないのかも知れません。今はひとまず口をぽっかり開け、うつくし
さの前で途方にくれたい心境です。
 はなはだ直感的な言い方になってしまうのですが、ドビュッシーの音楽はバ
ッハにも通ずる外形的なシャープさがあるような気がします。バッハの音楽が、
その内面の信仰の深さとはほとんど無関係に、外形的には2声だの3声だの2
度のカノンだの3度のカノンだのというように極めてメカニカルな試練を克服
しているように、ドビュッシーの音楽はドビュッシーの秩序で曖昧な要素を排
除し外形が整えられているような気がします。そして偉大なのは、先に坂野さ
んが書かれた「形式の自由化」がそのようにして獲得されているということな
のだと思います。

 「亜麻色」とは何色か。それは、この曲の色でしょう。なぜならこの曲以外
に「亜麻色」という言葉に出会ったことがないから。だから人は、この曲を聴
いて思い浮かべたその色を「亜麻色」と呼べばいいのです。
 (本当は広辞苑に載っています。「灰色がかった薄茶色。亜麻糸の色。」知
らない方が良かったでしょう。)

                         四童

 

19971212 0:49

とだえたセレナード

 

 フラットが5個ですが、これは変ニ長調でも変ロ短調でもなくFフリジアン
・モードなのでしょうか。前曲がスコットランドだったのだとしたら、ここは
スペインです。これが二十世紀の「地球の歩き方」なのか、例えばビートルズ
のアルバムの中で「ウィズイン・ユー・ウィザウト・ユー」の次に「ウェン・
アイム・シックスティフォ」が来るのと、ほとんど変わらないような気がしま
す。
 同音や近接した音を左手と右手で交互に弾くことにより、パーカッシヴで音
色が微妙に変化して行く効果を得ようとしているようです。チック・コリアや
ハービー・ハンコックあたりの奏法にも直接的な影響を与えているような気が
します。

                        四童

 

19971213 2:39

返信 とだえたセレナード

 

さて、「とだえたセレナード」です。いままではどの作品も好きでよくピア
ノで音をとったりするのですが、なぜかこのプレリュードはあまり聴きませ
ん。けっして嫌いな音楽ではないのですがなぜなのでしょう。自分でもよく
解りません。ギターを模倣したといわれるオープニングの音型も「どこがギ
ターなんだろう」といつも疑問に思います。それに調弦風のオープニングま
でついていてドビュッシーらしからぬ雰囲気も漂わせています。
ただ誤解しないでいただきたいのですがなにも大ドビュッシーの作品を貶す
とか、つまらないとか言っているわけではないのです。なるほどプレリュー
ドの一曲だと考えれば「スペイン風」というのも納得できますし、曲の配列
から考えても「沈める寺院」の前におかれた一種のスケルツォ楽章と見るこ
とも可能です。でもドビュッシーのスペイン物はもっと他に良い曲があると
思うと、どうしても敬遠してしまうのですね。たとえば「グラナダの夕暮れ
」とかプレリュードの2巻にある「ヴィーノの門」とか、そちらを聴いてし
まうのです。

とまあ偉そうな事を書いてしまいましたが、音楽はユーモアにあふれ、かつ
コラージュという前衛的な手法も使われています。(イベリアが出てきます
よね)奇想天外な性格をもったプレリュードと言えるでしょう。


                                  坂野 嘉彦

 

 

19971213 21:32

沈める寺院

 

さて、前奏曲集第1巻中、いえドビュッシーのピアノ作品中でも最大の
規模と内容をもったプレリュード「沈める寺院」です。が、いったい何
から語って良いのでしょうね。ピアニスティックな部分?倍音列から導
き出されたメロディ?伝説の音楽化?それとも旋法の種類?
たぶん何を言ってもこのプレリュードから聞こえてくる壮大な神秘を説
明したことにはならないでしょう。もちろん今までプレリュード各曲を
説明するなんて大それた事をしていたつもりはありません。ただ何が自
分をそんなに魅了するのかを自問自答していただけなのです。

武満徹氏が目を閉じながらこの曲の一部を弾いていた姿を、以前テレビ
で見た事があります。この時ふと「音には理屈も能書きもいらない。い
かに美しい響きを作り出せるか。それが音楽の根元にて究極の姿なのだ」
とまるで海原雄山氏が対決の場面で語るような事を考えてしまいました。

このプレリュードは他のプレリュードと比較して、ほぼ2倍の演奏時間
を必要とします。その6分間で、聞き手は、伝説の町イスが朝もやの海
から鐘の音とともに浮かび上がり、聖歌と鐘の音を響かせ再び海中へと
沈んでいく様を体験する事ができます。




                                  坂野 嘉彦

 

19971214 0:34

返信 沈める寺院

 

 「美とは何か」という哲学的課題に話が急速に接近しているようです。
それだけ、ドビュッシーが生み出した音響構造が極めて美しいにも関わ
らず、いまだに人々にとって自明ではないということなのでしょう。例
えば、多くの人は木漏れ陽や雲の切れ間からさす日差しについて、それ
がなぜ美しいのかなど問題にしないでしょう。クラシック音楽の世界で
いえば、モーツァルトなどはその域に達しているのかも知れません。翻
って我等のドビュッシーは、幸か不幸かそれがどう、なぜ美しいのか、
まだよく知られてないから、こういう話の展開になってしまったのだと
思います。
 武満徹さんの名前が出てきたところで思い出すのは、一ヶ月くらい前
にzeroさんが話題にした「アノニマス」ということです。究極的な感動
に至る段階においては、音楽は技法や個人の活躍を超え、無名の領域に
達している、というような話だったと理解しています(違っていたらフ
ォロー願います)。
 では、その無名の領域で、ひとつひとつの作曲とか演奏とかというの
は、単なるスキン・ディープなものなのか。あるいは単なる「媒体」に
過ぎないのか。そして、無名の領域の美の前で解釈とは無力なことなの
か。
 この辺りについて語るには、私は不勉強に過ぎますが、ただ思うのは、
まともなものであれば、ひとつひとつのものには、それが作曲であって
も演奏であっても、「命」としか呼びようのないものが宿っていて、そ
れは修行や霊感や理屈や能書きから成り立っているぐじゃぐじゃでいて、
しかし具体的な代替不能なものなのではないか、ということです。
 その具体的な手ざわりによって、人(それは聴衆のみならず作曲家や
演奏家も含め)は、無名の領域に達したり達しなかったりするのではな
いか。だとすれば、その具体的な手ざわりについて記述することは、な
んらかの意味があるのではないか。…

 で、なんの話でしたっけ。しまった、「沈める寺院」だった…。

                       四童

 

19971217 2:36

パックの踊り

 

 1歳11カ月の次女が最近「クマのプーさん」中毒で、それに触発されて5年
くらい前に買ってずっと未読のままだったベンジャミン・ホフの「タオのプー
さん」を読んでいます。かなりアメリカナイズされた道家思想の入門書なので
すが、その中でこんなくだりがありました。

----------------------------------------------------
 空(くう)一般について、ちょっと考えてみよう。タオ的風景画、
つまり山水画を見て、多種多様なひとたちが、とてもすがすがしく
感じるのはなにか? 空白、つまりなにも描きこまれていない部分
だ。新雪、澄んだ空気、きれいな水についてはどうだろう? それ
とも、いい音楽だったら? クロード・ドビュッシーがいっている
が、「音楽とは、音符のあいだの余白なのだ」。
---------------------------------------------------

 例えば「音とかおりは夕暮れの大気に漂う」や「雪の上の足跡」で、演奏者
の息づかいや衣ずれの中に消えて行くピアノの減衰する響きに耳を傾けるとき、
私たちは打鍵と打鍵の間に永遠や今をしかと感じるのでしょう。

 さて、何の話でしたっけ。「パックの踊り」でしたね。ものの本によると、
パックとはシェークスピアの「真夏の夜の夢」に現れる気ままで移り気で皮肉
で空気のように捕らえることのできない妖精だそうです。ドビュッシーの音楽
の持つ一面をそのまま表現しているようでもあります。そして、この曲はまさ
にそういう曲です。このスピード感を撹乱しながら飛翔し浮遊する作品の最後
が、投げやりとも言える低域での根音のスタッカートでぶつっと終わることを、
一体誰が予想し得たでしょうか。

                         四童

 

19971218 1:40

返信 パックの踊り

 

沈黙と対峙することの出来るほど、深い音を作り出すことが出来たのは
音楽史上でもごくわずかの天才のみでしょう。沈黙の重要性にもっとも
早くから気がついて実行した音楽家がドビュッシーとサティであること
は疑い様のない事実だと思います。その後ドビュッシーとサティは方向
性の違いからまったく異なった道に進みますが、この二人の音楽家が、
その生涯において目指した事は「沈黙の雄弁さを音でいかにして語らせ
るか」だったのでしょう。もっともサティは「音=環境と同居する寡黙」
という、ある意味で精神的な(表面上は大衆的な)方向を目指したのに
対しドビュッシーは、その生来の生真面目さからか、よりストイックな
方向へ歩を進めました。「前奏曲集」はさらに進化し「練習曲集」とな
り、「管弦楽のための映像」は「遊戯」へと昇華し、両者は最後の「ソ
ナタ」の連作において融合をみせるのだと思います。

パックの踊りのすべては、その最後の音にかかっているのだと思います。
すべてはあの消えてゆく音のために準備されていたのではないかと思え
るほど、緊張感は、そのコーダにすべて注がれているように思います。


                                  坂野 嘉彦                                 

 

 

19971218 1:40

ミンストレル

 

そしていよいよ最後の曲になりました。

ミンストレルというのは吟遊詩人とも言われていますが、ドビュッシー
のこのプレリュードは、19世紀から20世紀初頭にかけてアメリカで
はやった興行の一座を指しているそうです。彼らは顔を黒く塗り、歌っ
たり、手品をしながらアメリカ中を回ったそうです。ドビュッシー自身
が何を想像していたのかわかりませんが、1905年にイギリスで見た
一座について語った記録が残っているそうです。

いままでの沈黙を語る音の哲学者ドビュッシーの姿は、すくなくとも表
面上は現れていません。そこにあるのはバンジョーとパーカッションの
音を模倣したモティーフとセンチメンタルなフレーズ、力強い各セクシ
ョンの流れです。そして最後の終止は、第一巻の確固たる終結を告げて
います。

この曲は、先の「パック」でも少しふれましたがサティとの関係を彷彿
とさせます。サティの有名なバレエ「パラード」が初演された時、ドビ
ュッシーはそれを聴き「たぶんこれが正解なのだ。しかし私はあまりに
も遠いところへ来てしまった」と語っていたそうです。これはいったい
何を意味するのでしょう。バレエ音楽「パラード」はコクトーの原案、
ピカソの装置、サティの音楽で当時のポピュラー音楽、今で言えばコム
ロファミリーの歌を伝統的なオーケストラで演奏し大論争を巻き起こし
た作品です。「これが正解」とは何をさすのか。今となっては何もわか
りません。


ただし、この言葉はサティ派の人が語っている事なので、どこまでほん
となのかわかりませんけどね。当時サティ派にとって楽壇の大御所で
あるドビュッシーは「やっつけねばならない」人物だったようです。ラ
モー以来の伝統である「かっちりとして、明快な音楽」を破壊してしま
ったドビュッシーを敵対視していました。
もっとも、後に明らかになるのですが、実際のところサティや6人組が
その音楽と文章で攻撃していたのは「ドビュッシィスト」と呼ばれる、
ドビュッシーの亜流者たちでドビュッシー本人に対しては非常な尊敬の
念をもっていたようです。ミヨーはあらゆる音楽家の中でもドビュッシ
ーを一番尊敬していると言っていますし、プーランクもドビュッシーに
対しては賛辞を述べています。当のサティにしてもドビュッシー個人に
ついて攻撃した事は殆どないようです。・・・って、ここまで書いたの
ですが、この話は長くなりますし「前奏曲集」の話題からもそれてしま
いますので別の機会に譲ることにしましょう。

さて、私からの書簡(なんて言えるほど立派なものではありませんでし
たが)これでおしまいです。私のメチャクチャな(誤字脱字がものすご
かったですね。読み直したら腰が抜けました。ははは)メッセージにつ
きあってくださった四童さん、そしてこのような企画を考えてくださっ
たカオルさん、ほとんどお見えにならないとは思いますが、この読みに
くい文章におつきあいしてくださった回廊のみなさん、ROMのみなさ
んに心から感謝いたします。


参考文献: DEBUSSY PRELUDES(BOOKS 1 AND 2, COMPLETE)
           LEA POCKET SCORES

     ドビュッシープレリュード第一巻演奏の手引き
     全音楽譜出版 ヨゼフ・ブロッホ著
            中村菊子 渡辺寿恵子 共訳

     幻想交響曲 幻想文学者の音楽ノート
     東京創元社 マルセル・シュネデール著
           加藤尚宏 訳

     ドビュッシー音楽評論集
     岩波文庫  平島正朗 訳
 

                                  坂野 嘉彦

 

 

19971219 0:00

返信 ミンストレル

 

 ミンストレルというのは、黒人文化を模倣した品のないショーで、白人が顔
を黒く塗って歌ったり踊ったりするものでしたっけ。ドビュッシーの耳に直接
届いた黒人音楽がどのようなものだったのか定かではありませんが、ここに聴
かれるぎくしゃくしたリズムの陽気な音楽は、やはり二十世紀の「地球の歩き
方」の一例なのでしょう。
 実に多彩な要素からなる前奏曲第1巻の、最後のふたつの和音の連結が「ア
ーメン」であることを思います。かくあらせたまへ。

 さて、これにて一巻の終わりです。職業柄ちゃんとしたことを書かないとい
けない立場にある坂野さんとは異なり、私の方は参考文献といえば全音の楽譜
の解説くらいで、後はもっぱらクラウディオ・アラウの演奏を何回も何回も聴
いて、勝手気ままに思いを馳せるというやり方でした。うちには他にもミケラ
ンジェリ、ツィマーマン、フランソワ、ベロフ新旧、ダンタイソンの同曲のC
Dがあるのですが、今回のシリーズを体験させて頂いて、「好きだと思ってい
るだけで、いかに対象について何も知らないか」を思い知らされました。
 坂野さん、それから読者の皆さん、モデレーターのカオルさん、半月以上の
長きに及びお付き合い頂きまして大変有り難うございました。

                          四童

 

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