チーム代表はピーター・コリンズ、ピーター・ライト、ホルスト・シューベルの3人。
テクニカル・ディレクターはエンリケ・スカラブローニ。
90年末にはキャメルのスポンサー撤退、運営破綻、スタッフの離脱といったんは潰れかけたロータスだったが、
チーム再建の為にピーター・コリンズが乗り込み、ピーター・ライトとホルスト・シューベルの3人で再建にあたった。
ピーター・ライトは70年代にロータスでグランド・エフェクトカーの発明にかかわり、
80年代には早くもアクティブ・サスペンションを開発したエンジニア。
シューベルはドイツのF3チームのマネージメントにかかわっていた。
この再建にあたり、コリンズは「ロータス再建5ヶ年計画」を立てた。
当初ドライバーリストには、昨年の大事故でリハビリ中のマーチン・ドネリーの名前が出ていたが、
回復できずシートに乗る事は無かった。
開幕時点では大きなスポンサーは田宮模型や小松製作所だけだった。
サンマリノGPでは、最後尾だが初めて2台揃って決勝へ進出する。
雨の中では予選以上の速さを見せ、決勝では2台揃って5、6位に入賞、名門復活の兆しを見せる。
メキシコGPではマシンの信頼性の良さを見せ、レース中のほとんどを2台でランデブー走行し、揃って9、10位で完走する。
ベルギーGPではハンドリングがコースに合い、ハーバートが入賞まで後一歩の7位で完走する。
スペインGPでは、濡れたコースでハッキネンが速さを見せた。
シーズン後半に向かって成績は下降向きだったが、
非力なマシンでもコースや状況によっては、ハッキネンとハーバートが非凡な才能を見せた。
92年もこの二人のドライバーで5ヶ年計画の2年目を迎える。
資金不足のためシャーシは90年の102を改良して利用した。
前年のチーフ・デザイナー、フランク・ダーニーは他チームへ移籍した為、
改良作業はダーニーの部下だったフランク・コパックと、
フェラーリから移籍してきたエンリケ・スカラブローニが行った。
ミッションケース、エンジン用オイルタンク、ベルハウジング等が新たに設計された。
前年の102は90年シーズン中に空力の改修を繰り返したが、
102Bでは元のオーソドックスなデザインに戻された。
ノーズは細い102のペンシルノーズから、102Bではかものはしのくちばしの様な形状へ改められた。
フロントサスペンションはプルロッド方式、ショックアブゾーバーを進行方向に寝かせて、
ノーズの側面下位に露出して設置されている。
エンジンは前年のワークスのランボルギーニ製V12からジャッド製V8へ。
開幕戦アメリカGPではフロント・ウイングに、ボーテックジェネレータが装着された。
モナコGPでは、両側のウイングが前方に延長されたフロントウイングを試すも、効果無し。
シーズン中盤ではサイドポンツーンが前方に延長された。
シーズン中にいすず製V12エンジンをテストしたが実戦には投入されなかった。
いすずエンジンテスト用シャーシ型番は102C。
91年末にはデザイナーのクリス・マーフィーが、レイトンハウスからチームに加わった。
また、ウイリアムズから大型の1/4風洞を買い取った。
23歳のフィンランド国籍。91年ロータスからF1デビュー。
90年イギリスF3チャンピオンの91年話題のルーキー。
参戦1年目で名門ロータスのエースに抜擢。
開幕戦アメリカGPでは予選で13位に。
決勝ではスタート後8周目に最後尾に落ちてしまう。
サバイバルレースの中50周目に12位まで回復するが、59周目にエンジンが炎上しリタイアに。
ブラジルGPでは予選22位からスタート。
スタート後、最後尾に落ちしまうが、徐々に順位を回復し9位で初完走する。
サンマリノGPでは予選25位ながら、雨のフリー走行で3番手のタイムを記録し、決勝も雨を望んでいた。
ウェット状態で始まった決勝では、徐々に順位を上げていく。
途中同僚のベイリーとのバトル走行に入り、42周目には7位に浮上する。
その後、ブーツェン(リジェ)や同僚のベイリーに抜かれるが、55、56周に抜きかえし、
57周目に前を行くバン・デ・ポール(モデナ)がストップ、トップから3周遅れの5位で初入賞する。
モナコGPでは最後尾26位で予選通過。
決勝では11位まで順位を上げるが、64周目にオイル漏れによる出火でリタイアする。
カナダGPでは予選24位に。決勝では21周目に15位まで浮上するが、
ヨハンソン(フットワーク)の後ろを走行中に水温が上がってきたため、抜きにかかるが、コースアウトしクラッシュしてしまう。
メキシコGPでは予選24位。
決勝ではスタートでクラッチを傷め同僚ハーバートに抜かれる。9周目からのハーバートとのランデブー走行で9位完走。
フランスGPではフリー走行からタイムが出ず、予選では同僚ハーバートとライン取りを話し合いのぞむが、
タイムアタック中にコース上にオイルが撒き散らされタイムアップならず、91年唯一の予選落ちに。
イギリスGPでは予選25位に。決勝では徐々に順位を上げ、12位で完走する。
ドイツGPでは予選23位に。決勝では2周目にコースアウトしてしまい最後尾でコースに復帰する。
20周目にエンジントラブルでリタイアに。
ハンガリーGPでは最後尾の26位で予選を通過。決勝は14位完走。
ベルギーGPでは予選24位に。
決勝ではスタート後に最後尾に落ちるが、スパではハンドリングが良く23周目には10位まで浮上する。
しかし、エンジン・トラブルでリタイアに。
イタリアGPでは予選25位。決勝は良いところ無く14位で完走。
ポルトガルGPでは予選を最後尾で通過。決勝は14位完走。
スペインGPでは予選21位に。ウェット状態で始まった決勝ではスタート後に16位までジャンプアップ。
何と4周目には10位に浮上していた。
しかし、6周目にアルボレート(フットワーク)と接触してリヤタイヤを曲げてしまいリタイアに。
日本GPでは予選21位に。決勝では5周目にスピンしリタイアに。
最終戦オーストラリアGPでは予選25位に。大雨の決勝では、赤旗で中断された時点で19位だった。
92年もロータスに。
30歳のイギリス国籍。88年ティレルからF1デビュー。
90年はWSPCに参戦。91年ロータスへ。
ロータスとの契約は開幕から4戦までで、再契約にはいたらなかった。
開幕アメリカGP、ブラジルGPと予選落ちに。
サンマリノGPでは予選を最後尾26位で通過、しかし、雨のフリー走行では14位を記録する。
ウェットの決勝では最後尾からスタートし、17周目には7位に浮上する。
しかし、28周目に順位を落とし、ここからは同僚のハッキネンとバトル走行で順位を上げて行く。
最後はハッキネンに次ぐ6位で初入賞する。
しかし次戦モナコGPでは予選落ち。
結局契約延長にならず、ハーバートに取って代わられる。
27歳のイギリス国籍。89年ベネトンからF1デビュー。
89年ベネトンとティレル、90年からロータスに。
87年イギリスF3チャンピオン。
91年は全日本F3000と掛け持ちで出走した。
91年はマツダに乗りル・マンに挑戦し優勝している。
契約が切れたベイリーに代わってカナダGPから参戦。先に契約した日本F3000とぶつからない日程でハンドルを握る。
カナダGPではギヤトラブルとアンダーステアがひどく予選落ちに。
メキシコGPでは予選25位に。
決勝はスタートで21位にジャンプアップするが、カペリ(レイトンハウス)、モルビデッリ(ミナルディ)、
同僚ハッキネンにすぐ抜かれてしまう。その後はハッキネンとのランデブー走行で10位完走に。
ル・マン優勝後のフランスGPでは予選20位に。
決勝ではスタートでエンストに、押しがけでスタートするも最後尾に。
しかし、粘い強く走り10位で完走する。
地元イギリスGPでは予選24位に。
決勝ではスタートで19位にジャンプアップ、27周目には12位にまで順位を上げる。
しかし、残り4周9位で走行中にエンジンの油圧が落ちてストップ、14位完走扱いとなる。
ベルギーGPでは予選21位に。
決勝ではスタートから徐々に順位を上げて行き、21周目には11位に。
その後24周目のピットインでタイムをロスし、16位まで順位を落としてしまう。
が、コースに戻ると前を行くブランデル(ブラバム)と共に順位を上げ、
ブランデルに次ぐ7位で惜しくも入賞を逃す。
ポルトガルGPでは予選22位に。決勝では2周目にエンジントラブルが起き、早くもリタイアに。
日本GPでは予選23位に。決勝ではスタート後に19位にジャンプアップ。
21周目には11位に。しかし、31周目にエンジントラブルでリタイアに。
最終戦オーストラリアGPでは予選25位に。
大雨の決勝では14周目に11位まで順位を上げるが、コースコンディションが悪くなる一方で、赤旗レース中断に。
92年もロータスに。
27歳のドイツ国籍。91年ロータスからF1デビュー。
ドイツGPからハーバートの代走としてスポット参戦した。
地元ドイツGPでは予選タイヤに馴れなかったのか、予選落ちに。
ハンガリーGP、イタリアGPも続けて予選落ちに。
スペインGPではチームの事情で、フリー走行をまともに走れず、予選落ちに。
結局4戦参戦して全て予選落ちだった。
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