様似・戦争の記録第2集−6
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六、三人の軽傷者
「事件」で、軽傷を負
った三名の乗組員にも触
れよう。
そのひとり、菅原卯吉
氏は明治三十四年(一九
○一)、宮城県登米郡宝
江村(現・中田町)に生
まれた。
その後、北海道に渡り
岩内で旅館の番頭になっ
た。菅原氏が様似に来た
のは昭和十六年だ。奥さ
ん・ナチさん(大正六年
生まれ。西町在住)と昭
和十七年に結婚した。
ナチさんは「様似村大
字無号地」で生まれた。
現在様似町潮見台にあ
る様似町営墓地の北一帯
の笹の原っぱを「三角点
」という。百四十五・二
m地点に、国土地理院が
設置した標識があること
から「三角点」と呼ばれ
るようになった。
その「三角点」から、
さらに四キロ程北の山中
で、明治三十八年、ナチ
さんの祖父・柳田金助氏
が宮城県から来て「炭焼
き」を営んだ。そこがナ
チさんの生まれた「様似
村大字無号地」だ。
雪深い冬など大変だっ
た。「西町高台にあった
小学校に通うのに、父・
幸五郎が先に歩いて道を
つけた後を歩いたもので
す」とナチさんはいう。
卯吉氏と結婚してから
今の本町の長谷山理髪店
の西隣で「三福」という
「おでんや」を開いた。
だから、卯吉氏は「三福
さん」といわれていた。
「三福」の西に、居酒
屋「梅月」、東に「やっ
こ」があった。そのほか
に「神田」「朗(ほがら
か)」「土田」「石田」
「朝乃屋」「入舟」「リ
リー」「美人座」など、
料理屋、カフェが立ち並
んでいた。
戦前、三上重蔵、矢本
三六、一山広治、中津竹
次郎氏らによるイワシの
揚繰網(あぐりあみ)全
盛期には漁民の憩いの場
として、盛況を呈した。
戦争末期には、それら
もさびれ、卯吉氏は多宝
丸に乗ったのだ。
「事件」では、右腕を
やられ、「小さい破片が
入っていた」とナチさん
はいう。戦後は失対事業
で働き、昭和三十年、五
十五才で死亡した。
軽傷者のひとり、岩淵
為吉氏は明治四十一年(
一九○八)、新潟県三島
郡日越(ひこし)村(現
・新潟県長岡市)の農家
の次男として生まれた。
ちなみに、日越村は「日
本越後国」の頭文字をと
って付けられたという、
たいそうな村名だ。(角
川書店刊「角川日本地名
大辞典」)
「事件」当時三十五才
である。岩淵氏はめぐま
れない一生だった。
三人の子を三人の子を
亡くした。
戦後、脳卒中で倒れ、
半身不随となった。守氏
(昭和二十五年生まれ、
札幌市在住)と父子二人
大変な苦労をした。守氏
は「小学校一、二年の二
年間、父の入院した太田
病院で寝泊まりして、病
院から学校に通いました
」と当時の生活を語った
。
退院後、岩淵氏は漁業
の手伝いしながら、守氏
を育てた。「必死でがん
ばる父を見てきました。
夕食の時、父は、茶碗を
持ちながら眠っていたこ
ともあります」といわれ
た。
信心深い岩淵氏は禅輪
寺(栄町)の「世話方」
もした。禅輪寺の馬場泰
観住職は「岩淵氏は自ら
仏旗を奉納し、お参りの
日には朝早くから来て旗
を揚げてくれました。掃
除、薪割りなど、よくや
ってくれました。寒修行
にも歩きました」と岩淵
氏の思い出を話してくれ
た。
岩淵氏は「隠亡焼(お
んぼうやき=火葬執行人
)」も務めた。
晩年は浦河町老人ホー
ム「ちのみ荘」に入所し
昭和五十六年(一九八一
)七十三才の生涯を閉じ
た。
もうひとりの軽傷者・
松中与三郎氏は、多宝丸
乗組員のなかの最年長者
だ。
松中氏は明治十七年(
一八八四)、石川県石川
郡御手洗(みたらし)村
字相川(そうご)(現・
石川県松任=まつとう=
市相川町)で生まれた。
「相川の港」は、江戸
時代から明治にかけて、
北前船の寄港地として、
海運業で栄えた港だ。
松中氏は、大正四年(
一九一五)様似に来た。
大正九年(一九二○)
セキさんと結婚、三女を
もうける。
住居は寺町。現在の様
似町本町は等樹院があっ
たことから寺町と呼ばれ
ていた。現在の本町二丁
目の笹嶋歯科医院の裏手
あたりだ。
長女・サダさん(大正
十一年生まれ。夕張市在
住)は、父・与三郎氏か
ら事件のことを全く聞か
されていない。「おとな
しい父で、聞けば答える
くらいの無口な人でした
」という。
「まじめ一方で、働く
ばかりの父でした」とも
話された。
多宝丸事件より三カ月
前の昭和十九年三月十六
日、陸軍輸送船・日連丸
と護衛の駆逐艦「白雲」
が厚岸沖で米潜水艦の魚
雷により撃沈、三千余名
が海に消えた。
北海道沿海の制海権は
米軍に握られていた。
しかし、明らかに民間
の漁船を攻撃した行為は
「戦争」の名で許される
だろうか。
様似の漁民が、北海道
沿海での民間人の最初の
犠牲となった事件の聞き
書・「多宝丸の悲劇」の
筆を置く。
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