様似・戦争の記録第2集−4
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四、即死した川上留吉船頭
事件死亡者・川上留吉
氏は、明治四十一年(一
九○八)四月一日、父・
亀吉氏、母・シゲさんの
四男四女の三男として様
似に生まれた。
事件当時三十三才であ
る。
父・亀吉氏は、明治三
十四年(一九○一)石川
県蝶屋村(現・美川町)
から北海道に渡って来た
人だ。
さて、多宝丸は、中村
謙次郎氏の所有船だが、
川上留吉氏ら、四人の共
同船としてこの年、昭和
十九年のマス流し漁船に
なったことは前述した。
川上留吉氏の所有船は
「欣栄丸」といい、「か
げ」でスケソウ漁などを
していた。
江戸時代、会所町の西
側は様似の中心地で長屋
(シャマニ会所の役人の
住宅)が何棟かあった。
今でも年配者は会所町を
「長屋」と呼んでいる。
正確には、会所町の西
側が「長屋」で、東側は
「かげ」という。
川上留吉氏の家は当時
「かげ」にあった。
川上留吉氏は、共同船
・多宝丸の船頭として出
航した。
留吉氏の長男・博氏(
昭和九年生まれ。当時九
才)は様似を出航の際の
父・留吉氏のことをいく
つか覚えている。
一つは、「アメリカ軍
と出会った時のために、
猟銃を持っていった」こ
とだ。この猟銃は、浜う
んべの岡本三吉さんが持
っていた物で、様似川河
口で白鳥やカモを捕って
おり、「かげ」の留吉氏
に預けていたのだ。
もちろん、留吉氏は、
アメリカ潜水艦の圧倒的
砲撃に対し、猟銃で立ち
向かうことはなかった。
もう一つは、留吉氏が
普段は持って行かないよ
うな、いい着物を柳ごお
りに詰めて持って行った
ことだ。
博氏は、母・キヨさん
(明治四十四年生まれ。
当時三十三才。昭和二十
二年死亡)が「おとうさ
ん、変だなあ」といった
ことを覚えている。
博氏は当時、様似国民
学校三年生で、事件を学
校で先生から知らされる
。
とり急ぎ、博氏は、母
キヨさん、弟の務(つと
む・昭和十一年生まれ。
当時八才)くん、妹の幸
(こう・昭和十四年生ま
れ。当時四才)さんの家
族四人いっしょに釧路に
向かった。
釧路に着いた川上博氏
一家は、早速、多宝丸が
繋留されている船入澗に
行き、筏(いかだ)のよ
うになり、見るも無残な
多宝丸を見た。
川上留吉氏の遺体は、
まだ毛布をかぶせられ、
多宝丸の船内にあった。
当時八才の博氏自身は
父・留吉氏の遺体を直接
見ていない。お母さんの
キヨさんが見ており「胴
体だけだった」と聞いて
いる。
大変むごいが、釧路警
察署作成の「検視調書」
の「屍体ノ所在現場ノ模
様屍体ノ状態」欄をその
まま記す(句読点と改行
は森)。
「屍体ハ、釧路市港町
釧路警察署水上派出所前
船入澗内繋留中ノ多宝丸
船内ニ在リ。
屍体ノ状況ハ、敵潜水艦
(艦砲射撃)ニ因ル直撃
死ニシテ致命傷ト認メラ
ルル。状況左ノ如シ。
屍体ハ、多宝丸舵室ノ
下部ト認メラルル船底ニ
頭方ヲ右舷ニシテ仰臥シ
アリ。
同船舵室、船員室、機
関部ハ敵潜ノ砲撃(焼夷
弾ト認メラルル砲弾)ニ
因リ発火焼失シタモノ。
死体ハ、舵室内ニアリ
シタメ焼燃セラレタ。其
ノ大腿部、両上膊部ヨリ
先端ハ焼失シ居り。
又、頭部、顔面ハ後頭
部ヲ僅カ残リタル程度ニ
シテ、大部分ハ砲弾ノ直
撃ヲ受ケテ粉砕飛散シ、
原型ヲ認メズ。頚堆骨ヨ
リ下部ヲ止ミツノミ。
死体ノ火炎□直接□、
頭部、腹部、肋骨ハ焼失
シ、各内蔵機干(関)露
出。其ノ表面炭化ス」
川上留吉氏は、両手両
足を「焼燃」、頭、顔は
「粉砕飛散」、「原型ヲ
認メ」られない程の状態
になっていた。
胴体が残っていたこと
について、西村利春氏は
「ラット(舵取り輪)を
がっちり握っていた船頭
(川上留吉氏)は、ラッ
トを握ってまま、船底に
落下のではないか。胴体
がラットの下敷きなって
いた。猛烈な砲撃のなか
で、自分は粉になっても
乗組員を守る船頭の責任
というか、執念だと、今
でも思っている」と話さ
れた。
遺体は、釧路で荼毘(
だび)に付された。
留吉氏のおくさん・キ
ヨさんは、お骨を拾った
時「二十七個の弾丸があ
りました」と、入院中の
西村氏を訪ねてきた時、
話されている。
川上留吉氏は、三十六
才の生涯を閉じた。
大黒柱を失い、幼い子
供をかかえたキヨさんの
苦労は、大変なものだっ
ただろう。夫・留吉氏の
あとを追うように、三年
後の昭和二十二年、三十
六才の若さで死亡した。
多宝丸は、マス流し漁
中の被害だが、「それも
軍の命令だった」と西村
氏はいう。
多宝丸自体も、ブリッ
ジに木製の偽装砲を取り
つけ、ファナ(煙突)に
も黒ペンキを塗り、「軍
船」仕立てだった。
しかし、川上留吉氏は
「民間人」としてしか扱
われなかった。博氏は数
年前に役場に行き「父親
にお金が出ないか」と交
渉したがダメだった。
口数の少ない博氏は、
最後に、ぼそりと「戦争
はいやだ」といわれた。
川上留吉氏の死亡届が
ある。(目次の前ページ
参照)
届出人は、岩瀬幸助氏
(明治三十八年生まれ。
当時三十九才)になって
いる。川上氏の「所在」
は「釧路市錦町壱丁目壱
番地」で、岩瀬氏の「所
在」も「死亡者と同じ」
とある。
「釧路市錦町壱丁目壱
番地」は、旧釧路川の右
岸・幣舞(ぬさまい)橋
のたもとで、岸壁、市場
など、漁業施設の中心地
であり、様似のマス流網
船団の根拠地でもあった
。現在は複合商業施設「
フィシャーマンズワーフ
MOO」が建っている。
岩瀬幸助氏は、マス流
網船「幸生丸」の船主で
この時、釧路にいた。
事件からそれるが、こ
こで鮭鱒流網漁の歴史に
触れる。
大正初期まで、マス漁
は、イワシなどを餌料と
する「はえなわ」漁法だ
ったが、六月中旬以降に
なるとイワシ、ニシンが
来遊してきて、マスはこ
れらを捕食し、はえなわ
餌料には付かなくなり漁
法の転換が望まれるよう
になった。
大正五年(一九一六)
北海道水産試験場が日高
沖合で流網漁法を指導し
試験操業をおこなった。
様似で鮭鱒流網漁が始
まったのは大正十一年(
一九二二)で、五隻が着
漁、翌十二年には、新規
着漁者に奨励金を交付す
るなど様似漁業組合(当
時組合長は三上重蔵氏)
の積極的な奨励策によっ
て、十四隻に増加した。
鮭鱒流網漁に初めて動
力船が使用されたのは様
似だ。大正十三年、小島
初次郎、川上源吉両氏の
共同船・豊漁丸で着漁し
た。(中井昭著全鮭連発
行「鮭鱒流網漁史」)
事件の年、昭和十九年
に釧路港を拠点にした鮭
鱒流網漁船は、幸生丸の
ほか次の船である。
( )内は船主。敬称略。
- 幸漁丸(八木田和吉)
- 高砂丸(川上政一)
- 大栄丸(佐々木幸蔵)
- 幸福丸(山中勇蔵)
- 高進丸(田口高行)
- 永漁丸(山中政之助)
- 三福丸(岡本三吉)
死亡届人が岩瀬幸助氏
であるのは鮭流網漁船の
長老格だったのだろう。
事件死者・川上留吉氏
の弟、亀太郎氏(明治四
十三年生まれ。当時三十
五才)にも「悲劇」があ
った。
亀太郎氏は、川上源吉
氏所有の高砂丸船頭とし
て乗っており、根室で、
妻セツさん(大正六年生
まれ。当時二十四才)か
ら「召集令状が来た」と
いう電報を受け取った。
「事件」前日、つまり
昭和十九年六月十日、様
似へ帰る途中、留吉氏に
知らせるため、釧路に立
ち寄った。
多宝丸船上で、昼食を
ともにし、「兄貴、おれ
、召集令状もらったじゃ
」と亀太郎氏がいったこ
とを西村利春氏は記憶し
ている。
この「昼食会」が兄弟
の永遠の別れとなった。
亀太郎氏は、六月二十
七日、旭川の第七師団野
砲隊に一等兵として入隊
したが、船長の免許を持
っていたこともあって、
隊では、海図の見方や船
についての講習を行い、
「下士官クラス扱いだっ
た」と同じ部隊にいた佐
藤富治氏(様似町西町在
住)はいわれる。
亀太郎氏は、昭和二十
年三月二十三日、山口県
串ケ浜から輸送船・華長
丸に乗船して、沖縄・那
覇に向け航行中、戦死し
た。
セツさんの手元に、昭
和二十一年十月三十一日
付、「札幌地方世話部長
・日生駒太郎」名義で、
セツさん宛の「死亡通知
書」があるが、「戦死」
のいきさつは何も書かれ
ていない。
セツさんは、夫・亀太
郎氏の「形見」を持って
いる。セルロイドの名札
だ。表に「川上亀太郎」
と彫られ、その前に「三
月十日」、あとに「形見
の品」とペン書きされ、
裏にも、「元気で行きま
す。皆々様によろしく」
とペン書きされている。
死の十三日前、出航を
控えた亀太郎氏が書き込
んだものだろう。「形見
の品」とあるから、死を
覚悟の上だ。
この前後の年表をひも
とく。
★二月十九日、米軍、硫
黄島に上陸。三月十七日
守備隊全滅(戦死二万三
千名)
★三月九日〜十日、東京
大空襲(二十三万戸焼失
死傷者十二万名)
★三月十四日、大阪大空
襲(十三万戸焼失)
★四月一日、米軍、沖縄
本島に上陸。六月二十三
日、守備軍全滅(戦死九
万人、一般島民死者十万
人)
セツさんさんは三十五
才の夫に、まさか召集が
来るとは思ってもいなか
った。その「まさか」が
本当になった。
さらに、昭和二十年五
月十七日、三十一戸が全
半焼した火災で、現在の
本町二丁目の中通りにあ
た川上亀太郎宅も類焼し
た。
「夫が帰って来たら、
家を建てよう」と思って
いたセツさんは、すでに
亀太郎氏が戦死していた
ことは知るよしもなかっ
た。
でも、六年間は「今帰
って来るか」と待ったセ
ツさんにある日、夢枕に
夫が現れ、「おれは海の
底にいる。これからのこ
と考えれ」といわれ、新
しい人生を歩む。
川上兄弟は共に船で戦
争の犠牲となった。一人
は「民間人」として、一
人は「軍人」として。
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