様似・戦争の記録第2集−3

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三、西村利春氏の証言

私が、多宝丸事件の現 存者・西村利春氏を最初 に訪れた時「あの、多宝 丸…」と言っただけで西 村氏は、即座に「まあ、 上がりなさい」と言われ た。
西村氏は、「他人に、 多宝丸事件について話を するのは君が初めてだ」 と言われた。
西村氏は、五十一年前 の事件について、細部ま でよく覚えておられる。 後述するが、多宝丸は, 二昼夜半も漂流すること になる。その間、生死を さまよった西村氏にとっ て、決して忘れることの できない事件だ。
手ぶり身ぶりを交え、 時には腹這いになって、 また、時にはチラシの裏 に絵を書いて事件の様子 を話された。そばで聞い ておられた奥さんのミヨ さんも「私も、こんなに 詳しく聞くのは初めてで す」といわれた。
私が「それから、どう なりましたか」と、先を 急ごうとすると「まあ待 て。その前にまだある」 と私を制して、更に詳し く様子を話されることが 再三あった。
西村氏の話を、できるだ け正確に伝えたいと思う 。
事件が起きたのは昭和 十九年六月十一日午前三 時三十分頃だ。西村氏は 最初、「十三日だ。五十 年間十三日を厄日として 気をつけてきた。間違い ない」と断言された。し かし、後にのべるように 、事件発生は十一日であ る。
この日の午前三時三十 分頃多宝丸が「ストップ 回転(エンジンはかけた ままで、ハンドル棒はニ ュ−トラル状態)」で、 マス流し網の巻き上げが 、七十反のうち、あと十 反(百メートル余)を残 すだけで、沖の先端の網 の黒旗も見えていた時だ 。
(流し網の場合、目印 として、沖の先端の網に 黒旗を付ける。一キロを 越える流し網だから、途 中にも目印が必要で、当 時は「だるま灯」と呼ば れたカーバイトを使った ランプも置く)
西村氏は、「黒旗のす ぐ近くに、潜水艦が浮上 した」といわれるから、 多宝丸との距離は百メー トル位だったのだろう。
西村氏は、潜水艦の司 令塔から、四人の兵士が 出てきたのを目撃してい る。夏至も近く、しかも 道東の朝三時半は、もう 明るい。
「潜水艦の砲頭が多宝 丸に向けられるまで、『 万歳』をしていた」と西 村氏は語る。
潜水艦の機関砲が火を 噴いた。
乗組員は、事態の異変に 驚き、あわてて、高さ二 十センチ程のハッチコー ミン(ダンブル=船槽= のふたの枠)の陰に身を ふせた。
ブリッジ(甲板上の船 頭が指揮する望楼)から 川上留吉船頭が「ホスペ (全速)」の鈴(りん) を鳴らした。機関士の西 村氏への指示だ。
「急いで機関部に入っ て、フライホイルをトッ プにして、スターターを 切ろうとした」と、西村 氏は言った。この場面に ついて、若干の説明をし たい。
西村利晴氏は、多宝丸 がアメリカ潜水艦の襲撃 を受けた直後、船頭の川 上留吉氏から、「全速」 合図を受け、急いで機関 部に入った。
当時のほとんどの漁船 の内燃機関は、「焼玉エ ンジン」だった。
「焼玉エンジン」は、 ピストンで圧縮されたガ スを、火薬のつまった鋳 物の球に接触して爆発さ せる機関で、通常は重油 を燃料とする。戦時中、 特に、終戦間近には、石 油不足で、魚油などが使 われた。
事件に遭遇した多宝丸 の場合も、石油不足のた め、本来は、中村謙次郎 氏の所有だが、三上瀬左 衛門氏(明治二十七年生 まれ、当時五十才、昭和 四十五年死亡、所有船・ 三笠丸)、小田覚蔵氏( 所有船・覚栄丸)、川上 留吉氏(所有船・欣栄丸 )の四船主の共同船とし て、昭和十九年のマス流 し船になったのだ。
さて、西村氏が機関部 に入ると、「ストップ回 転」でかかっていたはず のエンジンが止まってい た。後で考えると、エン ジンは、既に、機関砲で やられていたと、西村氏 は言う。ともかく、機関 士の西村氏は、フライホ イール(はずみ車=回転 軸の先端に取りつけられ て、回転の増減をはかる もの)をトップにした。 つまり最高回転にした。 そしてスターター(焼玉 に圧縮ガスを送るスイッ チ)を入れようとしたそ の瞬間に、西村氏の左足 の大腿部のうしろに、機 関部の壁をつき抜けた機 関砲の破片が突き刺さっ た。
続いて、左腕に、強烈 な砲が当り、砲の勢いで 体が一回転した。
西村氏は、血みどろに なりながらも、近くの十 二ボルトのハッテリーに 頭を付け、横たわった。
腰にも二発が当ったが 幸いにも革帯(バンド) にささり、腰には砲の先 端が入っただけだったの で、西村氏は気付かず、 病院で革帯をはずされた 時、初めてわかった。
「もし、革帯がなかっ たら腹を貫通し、生きて はいなかった」と西村氏 は、いう。
更に、肩をやられた。
「あと一発で終わりだ な」と、気もトロトロし 始めた時だ。夢うつつの 中で、花束を持った母親 のやえさんが現れた。
やえさんは昭和五年、 西村氏が三才の時に死亡 している。
その母親・やえさんが まぼろしのように現れた のだ。西村氏は、母親の 持つ花束をとろうとする たびに、花束は遠ざかり なかなか、つかめない。
母親の姿が消えた時、 西村氏は、はっと意識を 取り戻した。機関部に火 が回り、西村氏の頭髪が 焼け、熱くて目ざめたの だ。
西村氏がここまで話す と、奥さんが「花束をと らなくてよかったね」と 合いの手をいれた。
私は、この種の「いわ れ」にうとい。
「どうしてですか」と 聞くと、奥さんは、「死 んだ人の花を受け取った ら死者に導かれて『あの 世』に行ってしまうと、 よく言いますよ」と答え られた。「川の対岸の死 者に招かれても、行った ら死ぬ」と言う「いわれ」 もあるという。
ここで、やや専門的に なるが、「焼玉エンジン 」について、述べたい。
当時、小林鉄工所職員 で、多宝丸など、様似の 漁船のエンジンの設置、 修理を専門に扱っていた 小林政美氏(大正十二年 生まれ、当時二十一才、 浦河町在住)に「焼玉エ ンジン」について、以下 、御教示いただいた。
「焼玉エンジン」の燃 料は重油で、重油には三 段階あり、やわらかい、 一番いいものをA重油, 少しどろっとしたものを B重油、原油に近いもの をC重油といい、多宝丸 はB重油と魚油(イカ、 ニシン、サメ、スケソウ などの油)の混合油を使 用していた。油が硬いの で、炭をおこして、やわ らかくしてから、エンジ ンを始動させた。「今思 えば、危ないことをして いました」と小林氏は語 った。
西村利春氏も、「炭火 の不始末で、ボヤを起こ した漁船もあった。不純 物が多く、ピストンのリ ングがこびり付き、三日 に一回は掃除が必要で、 機関士仲間では、『三日 切りのガス掃除』という 言葉をかわしていたもの だ」と話す。
「焼玉エンジン」の馬 力は、当時の農商務省認 可の「農林馬力」といい、 五馬力から最高百十馬力 まであった。
二十馬力まではピスト ンは一本、七十馬力まで は「ダブル」といって二 本、それ以上は三本で、 多宝丸の場合は、二十馬 力で「農林馬力二○」と いう種類で、ピストンは 一本だった。
ピストンについていえ ば、「焼玉エンジン」は 二往復に一回爆発する「 二サイクル」(ちなみに ジーゼルエンジンは四往 復に一回爆発する「四サ イクル」である)
多宝丸の機関部で左足 大腿部(だいたいぶ)、 左腕、腰などに、砲弾や その破片が突き刺さり、 火災発生により、頭髪が 燃えて重傷の西村利春氏 は、機関部から抜け出そ うとして、立ち上がろう とするが立つことができ ない。
すると、誰かが尻を押 してくれた。西村氏は、 「誰だったか。とにかく 死ぬか生きるか時だった から」といわれた。
西村氏は、「はっきり はしないが、小田覚蔵氏 も機関部に逃げ込み、あ とで、機関部のドアから 船員室に回ったと思う。 だから、私を押し上げて くれたのは、小田氏だっ たかもしれない」と記憶 をたどられた。
やっとデッキ(甲板= かんぱん)に出た西村氏 は、ブリッジにいた船頭 の川上留吉氏に「船頭」 と呼びかけるが、ラット (操舵輪)をがっちり握 ったままで、微動だにせ ず、目は開かれていた。
西村氏は「船頭は、や られたな」と直感的に思 ったが、弾は飛んでくる 、火は燃え、煙が渦巻く なか、しかも、左足をや られ、這う(はう)だけ が精一杯の西村氏にとっ て、助ける状況ではなく 声をかけるのがやっとだ った。
西村氏は舳(とも=船 尾)の船員室に向かう。 「あんな事態のなかでも 船員室に置いてあった私 物が気になって」と西村 氏はいう。
「柳ごおりの中に、金 も三百円入れていた。当 時としては、大金だよ」 といわれた。
昭和十九年当時、たば こ(ゴールデンバット) 二十三銭、ビール一円三 十銭、三級酒五円、一日の 大工手間賃三円九十銭、 巡査初任給四十五円(朝 日新聞社刊「値段の明治 大正昭和風俗史」)だっ たから、三百円といえば 確かに大金だ。
船員室に入ろうとした 西村氏にとって、小田覚 蔵氏と鉢合わせになった 時の驚きを忘れることは ない。
「びっくりしたどころ ではない。小田さんの片 目の玉が飛び出て、口あ たりまで下がっていた」 という。「どちらの目で すか」と聞くと、西村氏 は「まてよ」といって、 右手と左手を交互に目に 当てて考え、「いや、ど っちか、はっきりしない な」という。
小田覚蔵氏については 後述するので、その際、 目についても明らかにす る。
船員室も火の手が回り 西村氏は、小田氏を引っ 張り上げた。
船員室で目をやられや 小田覚蔵さんと、入口で はちあわせた西村利春さ んの二人は、砲弾が飛び かい、船が燃え始めて火 の粉が降りしきるなか、 腹這いになって、まだ火 の手の回っていない船首 に向かった。
西村さんはいう。「弾 が(自分らが)逃げたあ とあとに来た。運がよか った」
ふたりは、船首近くの 普段は、食糧やロープな ど船具入れてある第一ハ ッチにたどり着き、頭か らころがりこんだ。
しばらくして、一大音 響とともに船が爆発し、 ブリッジ、機関部、船員 室が吹き飛んだ。
その後、砲撃が停止し た。
西村さんらが入った第 一ハッチにも弾が当り、 海も見えたし、船体の様 子ものぞけた。船はシリ ンダーとフレーム(船の 肋骨)が残っているだけ で海面すれすれに浮かん でおり、筏(いかだ)み たいな船になっていた。 幸い軽傷だけですんだ 松中輿三郎さん、菅原卯 吉さん、岩淵為吉さんの 三人が、ジャケットなど 重いものを海に投げ捨て ていた。船が沈まないよ う、船体をできるだけ軽 くしようと必死になって いたのだ。
多宝丸が、アメリカ潜水艦の砲弾に より壊滅的な打撃を受けながらも沈没 をまぬがれたのは、軽傷の乗組員三人 による、船体をできるだけ軽くするた めの必死の作業が大きかった。
さらに、多宝丸は洋型船で、スクリ ュ−が固定され、舳(とも=船尾)が 安定しており海水が船内に入りにくく なっていたことも幸いした。
かろうじて、海面すれすれに浮かび 筏(いかだ)同然の船になった多宝丸 のその後について、釧路警察署が当時 作成した、事件死亡者の川上留吉さん の「検視調書」から推定しよう。
それによると「死傷ノ年月日時」は 「昭和十九年六月十一日午前三時三十 分頃」とあり、「検視年月日時」は、 「昭和十九年六月十三日午前十一時三 十分頃」とある。
事件発生から検視まで、二日と八時 間、つまり、およそ「二昼夜半」流さ れたことになる。
当初、西村氏は「今の今まで、五昼 夜流されたと思っていた。検視調書を 見せてもらって納得した。『二昼夜半 』だったから助かり、五昼夜だったら 命がなかったでしょう」といわれた。
事件発生日についても西村氏は「五 十一年間、六月十三日と思いこみ、厄 日として注意してきた」と話されてい た。西村氏が入院した十三日と混同さ れてきたと、わたしは推測する。
多宝丸事件発生日は、昭和十九年六 月十一日である。
アメリカ潜水艦の砲撃 を受けた多宝丸は、即死 した船頭・川上留吉さん と、重傷の西村利春さん 小田覚蔵さん、それに軽 傷の三人を乗せて筏(い かだ)のようになって漂 流した。
私が「波はなかったの ですか」と西村さんに聞 くと、「六月の海は『夏 海』といって、幸いに凪 (なぎ)の日が続いた」 といわれた。
「でも、釧路の霧はす ごいでしょう」と聞くと 「ああ、マス流し時期の 五、六月の釧路のガスは ものすごいものだ。厚い カーテンのような、雨み たいなガスだ。カッパを 着て仕事をしたものだ」 という。
釧路地方気象台の記録 によると、昭和十九年六 月十一日は「雨量○、南 の風、風力二・四」でほ とんど一日中「霧雨」。 十二日は昼頃晴れ間が見 えるが、後は霧雨。十三 日、つまり、検視の日だ が、午前中は、曇りか霧 雨。午後、雨になってい る。
天候のことを聞くと西 村さんは「そうだ。攻撃 された時、運悪く、劇場 の幕が開くようにガスが 晴れた。それでアメリカ 潜水艦に見つかったんだ 。ガスがかかっていたら 見つからなかった」と思 い出したように話された 。
釧路のガスの晴れ間が 「多宝丸の悲劇」を生ん だともいえる。
「漂流中、食べ物はど うしましたか」と聞くと 西村さんは、「食糧なん か吹き飛ばされて、ある わけがない。ほとんど飲 まず食わずだった。かろ うじて第一ハッチの中に 米が二俵残っていた。そ れも焼け焦げていて、そ れをかじった程度だ」と いう。
漂流中のことも西村さ んは鮮明に覚えている。 十一日、日本の復葉練習 機(赤く塗っていたから 俗に「赤とんぼ」といわ れた)が飛んできて上空 を旋回していった。「発 見してくれたぞ。知らせ に帰ったから、救助船が 来るぞ」とみんなで期待 したが来なかった。
大きい貨物船が沖を通 り、棒に服をひっかけて 救助の合図をしたが発見 してもらえず、通過して しまった。
漂流する多宝丸を発見 したのは釧路のマス流し 漁船・八幡丸だ。
川上留吉さんの検視調 書の、「発見年月日及原 因」欄に「昭和十九年六 月十二日午後十時○分頃 届出ニ因ル」とある。
多宝丸が攻撃されてか ら三十時間半後だ。
このとき、八幡丸との 間に、ちょっとした、い ざこざがあった。
八幡丸の船頭が、「船 火事を起こしたのか。そ れなら待っていれ。網を 打ってから曳行(えいこ う)するから」と呑気な ことをいう。
冗談ではない。死者、 重傷者をかかえた多宝丸 乗組員は「潜水艦にやら れた。救助してくれ」と 必死になって頼んだ。
結局、曳行してくれる ことになったが、霧深い 夜だ。曳行作業は、翌十 三日、夜が明けてから行 われた。ロープを舳(と も)から船首まで大回し をかけ曳行され、午前十 一時半頃、現・旧釧路川 河口近くの水上派出所前 船入澗に繋留された。
釧路に曳行された多宝 丸の乗組員のうち、重傷 の西村利春氏と小田覚蔵 氏は、長内外科医院(当 時、釧路市北大通一丁目 にあった。現在は春日町 に移転)にタンカで運ば れ、二人とも、同じ部屋 に入院した。
西村氏は「体格のある かっぷくのいい院長」と 記憶されている。
当時の院長は長内丑右 衛門氏で、釧路市医師会 長で、釧路市消防団長も されていた。
西村氏は、左大腿部に 砲弾の直撃を受け、ズボ ンが血糊(ちのり)で鉄 板のようにビンと張り、 腰から下は感覚がなかっ た。
院長は、メスでズボン を足元まで切り裂いた。 その時、二発の砲弾がバ ンドに突き刺さっていた のが発見された。このバ ンドが西村氏の命を救っ たことは前述した。
左足が真っ黒になって いた西村氏に、長内院長 は「足を切断する」とい った。西村氏は「切らな いでくれ」と懇願した。
結局、「わかった。や るだけのことはやろう」 ということになり、麻酔 剤もない時代、砲弾を取 り除くため、文字通りの 「荒療治」が行われた。 「死ぬほど痛い思いを したが、おかげで助かっ た」と西村氏はいう。
砲弾の破片が全部摘出 されたわけではない。
戦後、「傷によい」と 聞き、下北半島の下風呂 (しもぶろ)温泉に湯治 に行った時、傷口から破 片が浮き出てきたことが 何度かある。
数年前、様似病院でレ ントゲン写真を撮った時 にも破片が写っていた。
いまだに、五十二年前 の砲弾の破片が体内にあ り、足がつっぱる。西村 氏は、足を動かす運動を 毎日続けている。
「いまさら、破片を取 ろうと思わない。墓場ま で持って行くよ」と西村 氏はいわれる。
さて、荒療治後の西村 氏は、三ケ月はベッドに 寝たまま動けない状態が 続いた。その間、小田覚 蔵氏の看護につきっきり の奥さん・フサさん(明 治四十三年生まれ。当時 三十四才。昭和六十年死 亡)に、「しものほう」 までめんどうをみて もらったという。
一九九五年十二月十五 日、西村氏が様似町図書 館講座「戦争の証言」で 講演した際、聴衆者のひ とり、小田フサさんの娘 さん・コトエさんに、五 十一年ぶりに、会い、「 あの時は、おかあさんに 大変お世話になりました 」と、お礼を述べた。
憲兵が軍刀を下げ、入 口で見張られているとい う入院生活だった。
「北海道での民間人の 最初の被害だ」といわれ て、看護婦も含め箝口令 (かんこうれい=他人に 話すことを禁じる命令) がしかれていた。
西村氏らは、看護婦か らは「兵隊さん」と呼ば れ、「軍人」扱いを受け ていた。もちろん、「軍 人」ではないから、戦後 何の補償もない。
その後の西村氏は、昭 和十九年暮れに退院、様 似に帰った。二十年春、 小樽海員養成所に入学、 小樽で終戦を迎える。
戦後、様似、浦河の漁 船に乗り、昭和二十九年 東邦電化(現・日本電工 日高工場)に入り、五十 九年退職した。

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