様似・戦争の記録第2集−2

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二、事件の概要

昭和十九年六月十一日 午前三時半頃、釧路管内 白糠沖二十キロ付近で、 様似のマス流し漁船・多 宝丸がアメリカ潜水艦の 攻撃を受けて、死者一名 、重傷者二名を出した「 事件」は、これまで文字 になったことはない。も ちろん「様似町史」も全 くふれていない。
様似町民の間でも、遺 族や一部関係者以外には 知られていない。
一般に、民間人の戦争 の被害について、各市町 村史や各地の「戦争(空 襲)を記録する会」の出 版物を見ても「空襲」が 中心で輸送船、漁船の被 害のついては、ほとんど 触れられていない。
「多宝丸事件」は、昭 和十九年六月という、比 較的早い時期の「事件」 であり、「アジア太平洋 戦争」において、北海道 における民間人の最初の 犠牲者を出した「事件」 であると私は推測する。
「事件」に遭遇した多 宝丸の六名の乗組員とそ の状況は、次の通りであ る。
多宝丸の船主は、中村 謙次郎氏(明治三十四年 生まれ、当時四十三才・ 昭和三十三年死亡)。
幸いにも、多宝丸の機 関士だった西村利春氏が 現存されており、西村氏 から、「事件」の証言を 聞くことができた。
西村氏は、昭和十五年 三月、様似尋常小学校を 卒業すると、多宝丸の乗 組員になる。「飯炊き」 から始まり、次に「油さ し」、つまり、機関助士 となる。昭和十九年には 機関士になった。
戦時中、漁船は軍の輸 送船として徴用された。 西村氏は、多宝丸で、 様似から小越(おごし= 今のえりも岬)まで、ト ラック二台分の弾薬、食 料を運んだことがあった という。
その時、ザーベル(軍 刀)をさげた高級将校も 同乗し、酔っぱらった( 船酔いした)ことを覚え ていて、「おかしくて、 しょうがなかった」とい う。
さて、「事件」に移ろ う。
前日の十日の夕方、釧 路港を出た多宝丸は、翌 十一日午前三時頃、白糠 沖で、マス流しの網を巻 き上げていた時、多宝丸 のすぐ近くに、潜水艦が 浮上した。西村氏ら、乗 組員は、日本軍の潜水艦 と思い「万歳」をした。
突然、潜水艦は、機関 砲の砲頭を多宝丸に向け た。
多宝丸の悲劇の幕開け である。

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