様似・戦争の記録第1集−7
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七、おわりに
昭和二十年六月二十三
日午前九時半頃、幌満沖
でアメリカ潜水艦の攻撃
を受け、撃沈した幌泉の
三隻の手繰り網漁船の乗
組員と、その状況をまと
めると次の通りである。
◎第五昭宝丸
- 渋田頼助(船主・船頭
当時四十五才・行方不明)
- 岩舘三郎(機関士・当
時四十二才・行方不明)
- 山谷勝三郎(甲板員・
当時三十二才・重傷・昭
和四十八年死亡)
- 渋田重信(甲板員・当
時二十一才・重傷・えり
も町新浜に現存)
- 出町正雄(甲板員・当
時一八才・無傷・平成二
年死亡)
◎万徳丸
- 菅野久七(船頭・当時
三十七才・無傷・えりも
町本町に現存)
- 田下幸治(機関士・当
時三十一才・即死)
- 山上倉之助(甲板員・
当時三十九才・行方不明)
- 砂沢輿出松(甲板員・
当時三十三才・即死)
- 中川正二(甲板員・当
時三十一才・軽傷)
◎艶丸
- 吉田力雄(船頭・当時
四十才・行方不明)
- 菊池初雄(機関士・当
時三十三才・行方不明)
- 長谷川松三郎(甲板員
・当時三十六才・軽傷・
えりも町大和に現存)
- 川村吉美(甲板員・当
時三十三才・行方不明)
- 河村猛(甲板員・当時
二十五才・行方不明)
- 木村徳四郎(甲板員・
当時二十四才・行方不明)
- 乗組員十六名中、死者
二名、行方不明者八名、
重傷二名、軽傷二名を出
した惨事であった。
なお、この三隻の西側
には、様似の漁船が、操
業していた。
「事件」の際、網を切
ったりして逃げ、難をの
がれた四隻の様似の漁船
の名を記録しておく。
宝栄丸(笹嶋連蔵氏所
有) 幸生丸(岩瀬幸助
氏所有) 拓洋丸(佐藤
金次郎氏所有) 永漁丸
(山中佐太郎氏所有)
当時の乗組員で、現存
している人もおり、証言
も聞いたが、これまでの
聞き書と重複するので、
省く。
ところで、副題を「幌
満沖漁船撃沈事件」と題
した。幌満の住民でこの
「事件」の目撃者の証言
も記録しておく。
秋田チサトさん(当時
二十九才)は言う。
「沖から『ボン、ボン
』という大砲の音を聞き
ました。『敵の船がやら
れている。いいあんばい
だ』と思いました。日本
が負けるなんて思っても
いないから」
昭和六年(一九三一)
九月十八日、関東軍によ
る満鉄線爆破に始まる、
日本のアジア諸国への侵
略戦争、「十五年戦争」
において「事件」の日、
昭和二十年六月二十三日
は、どんな日だったか。
「事件」の五時間前の
午前四時三十分、沖縄・
摩文仁(まぶに)の丘で
沖縄守備軍司令官・牛島
満中将が自決、二十万人
の犠牲者を出した沖縄戦
は終結した。
しかしなお、この日、
大元帥・天皇裕仁は十六
才から六十一才までの男
子、十七才から四十一才
までの女子を国民義勇戦
闘隊に編成する「国民義
勇兵役法」を公布した。
(完)
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