様似・戦争の記録第1集−6

目次にもどる

六、救助船・大英丸

この日、幌泉港から、 もう一隻の漁船が出漁し ている。
第二大英丸だ。船主は 吉井英爾氏(当時三十七 才。平成八年死亡)
第二大英丸は、舳先( へさき=船首)がとがっ て、突き出ており、目だ った船だ。
「事件」の時、幌満か ら、灘走(はだばせ=陸 近くを航行すること)し て、幌泉に逃げ帰る船を 目撃した人は、「大英丸 が逃げてくる」と、すぐ わかった。
吉井さんは、「マグロ のつきんぼ(マグロをめ がけてヤリを投げてとる 漁法)のためさ」と、舳 先をとがらせた理由を説 明してくれた。
当時は、日高沖でマグ ロもとれた。
さて、前日、欽生丸( 堀口助市氏所有)が幌満 沖で、アカガレイの大漁 をし、第五昭宝丸、万徳 丸、艶丸の三隻が、幌満 沖のアカガレイをねらい 出漁し、アメリカ軍潜水 艦の攻撃を受け、沈没し た。
第二大英丸は、陸寄り の幌満口のババガレイを ねらったことが幸いした 。
「どうして、アカガレ イをねらわず、ババガレ イをねらったのですか」 と聞くと、吉井さんは「 値段がいいのさ」と、一 言でいった。アカガレイ とババガレイの差が生死 を分けた。
さて、「事件」に移ろ う。
当初、吉井さんは、ア メリカ軍潜水艦の攻撃を 「日本の潜水艦が演習し ている」と思って、ブリ ッジの屋根に上がって見 ていた。第五昭宝丸ら、 三隻の姿が見えなくなっ て初めて異常事態と気付 き、急いで、幌泉港に逃 げ帰った。
幌泉の船入り澗は、監 視硝からの知らせも入っ て、大騒ぎだった。
救助船が出ることにな り、当時、幌泉では、一 番速いと言われていた、 幸甚丸(近藤倉次氏所有 )が最初に救助に向かっ た。
次いで、逃げ帰ったば かりの第二大英丸が、救 助船となって、現場に向 かうことになった。
第二大英丸には、当時 幌泉漁業会会長で、救護 団長でもあった川村重蔵 さん(当時四十四才。昭 和三十八年死亡)も救護 団旗を持って乗り込んだ 。
第二大英丸の船頭だっ た、斎藤忠夫さん(大正 八年生まれ。当時二十六 才。えりも町えりも岬在 住)の証言を聞こう。
「先に出た幸甚丸が故 障を起こし流れていた。 だから、大英丸が最初に 現場に着いた。ひっくり かえった船底の上にいた 昭宝丸の渋田重信さん、 山谷勝三郎さん、出町正 雄さんを助けた。それか ら、万徳丸の菅野久七さ ん、中川正二さんを乗せ た。『まだ三人いる』と いうので、船員の長沢辰 雄さんと万徳丸に乗り移 って、ハヤスケ(熊手様 の漁具)で探した。田下 幸治さんは見られない程 ひどい状態だった。砂沢 輿出松さんの遺体はいた んでいなかった。山上倉 之助さんは見つけれなか った。艶丸の船体はなか った。ブリッジの屋根に 乗って漂流していたとい う長谷川松三郎さんらは 見つけれなかった」

目次にもどる