様似・戦争の記録第1集−5

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五、艶 丸

救助船に発見されず、 米軍潜水艦の攻撃で吹き 飛ばされた、ブりっジの 屋根に乗って漂流する長 谷川松三郎さんは、必死 で水をかき、陸をめざし た。
早朝から、手繰り網を 引っ張り、朝食もとって いなかった。「事件」は 午前九時半頃で、それか ら漂流が始まり、空腹だ ったが、とにかく、必死 だった。
日が暮れると、べたな ぎになった。ガスがかっ てきたが、時折、ガスの 晴れ間から、月がのぞい て、アポイ岳が見えた。
ちなみに、国立天文台 に問い合わせると、この 日の月は、十六夜。
海上を漂う長谷川さん には、月明かりに照らさ れたアポイ岳が、はっき りみえただろう。もちろ ん、生死がかかった長谷 川さんにとって、「いざ よい(十六夜)の月」を 観賞する余裕などあろう はずがない。
何度か、近くを、「ジ ャガジャガ」と、エンジ ン音を響かせ、船が通り 過ぎたが、敵か、味方か わからず、助けを求める こともできなかった。
夜になった。長谷川さ んは、睡魔とも闘った。 点呼の声、「もとい」 「一、二、三、四、五… …」を、大声で気合いを かけて繰り返し、眠気を 振り払った。さらに、体 に波がかかり、寒さで震 え上がった。
夏至を過ぎたばかりで 夜明けは早い。
様似の沖合いも通り過 ぎた。「陸からは、おれ が見えないのか」
長谷川さんの、疲労と あせりも限界にきた。
意識は、もうろうとな りながらも、手は、水を かいでいた。
昭和二十年六月二十四 日の朝、鵜苫で、配給所 を兼ね商店を営んでいた 盛清五郎さん(当時六十 一才、昭和三十五年、七 十六才で死亡)は、何気 なく、双眼鏡で海を見る と、板に乗って、手で水 をかきながら、海を漕い でいる人間を見つけた。
そのことを、建網を営 んでいる久野漁業の漁場 に知らせた。久野漁業か ら「三八船(さんぱせん )」が救助に向かった。
こうして、長谷川さん は、ブリッジの屋根の釘 が足にささって、軽い傷 を受けただけで、まる一 昼夜の漂流の末、助けら れた。
漁村には、凍えた漂流 者を、女性の肌のぬくも りで暖めて正気に戻すと いう習わしがあり、いろ いろな「漂流記」に出て くる。
長谷川さんの場合も、 鵜苫の佐藤美代さん(当 時五十一才、昭和五十六 年、八十七才で死亡)に 暖められ、息を吹き返し た。
さて、長谷川松三郎さ んの奥さん・トクさん( 当時三十二才)は、帰っ て来ない夫・松三郎さん は生きてはいないものと あきらめ、歌別で、死花 花(しかばな)を作って 立てていた。
ところが、翌日になっ て、夫・松三郎さんの「 生存」の知らせを受けた のだ。
松三郎さんを迎えに行 く。
もう一人、生存を信じ て、迎えに出た艶丸乗組 員の妻がいる。
艶丸の甲板員で、「事 故」行方不明者の木村徳 四郎さんの妻・ツルエさ ん(当時二十八才、えり も町大和在住)は、「艶 丸の乗組員が、帰って来 る」と聞かされ迎えに出 た。
長谷川松三郎さんが、 バスから降りてきた。ツ ルエさんは、「うち(夫 ・徳四郎さん)も降りて くるべな」と待ったが、 バスは車庫に入ってしま った。
「『うちは、死んでし まった』と思ったら、一 気に涙があふれました」 と、ツルエさんは五十年 前のこの瞬間を、目頭を 押さえて、話した。
ツルエさんは、ひとり っ子だったので、昭和八 年(一九三三)、えりも 岬から徳四郎さん(旧姓 ・村田)を婿(むこ)に 迎えた。
「事件」当時、二男一 女と、さらに、ツルエさ んのおなかには、八ケ月 の子供が宿っていた。
ツルエさんは、「事件 」当日のこともはっきり 覚えている。
この頃、木村さんの家 は、能入寺(えりも町本 町)の向かいにあった。
能入寺のばあさんが、 飛び込んできて、「ツル エさん、早く見れ。アメ リカと日本が交戦してい る」と教えられた。
浜に出ると、真っ白い 水柱が立っているのが、 はっきり見えた。ツルエ さんは、夫・徳四郎さん の船が攻撃されたとは、 考えもしなかった。
しばらくして、艶丸船 主・渋田藤次郎さんのお くさんのユキさん(当時 五十才、昭和四十年、七 十才で死亡)が、「監視 硝の人から、船が沈んで しまったと、知らせがあ った。助けに船も出てい るから、着替えを持って 船入り澗に来てくれ」と 言われ、船入り澗に駆け つけた。
船入り澗は、黒山の人 だかりだった。救助船が 戻って来たが、夫・徳四 郎さんはもとより、艶丸 乗組員は、一人も助けら れなかった。
ツルエさんは、泳ぎの 達者な、夫・徳四郎さん が死んでいるとは、思わ なかった。
鵜苫沖まで漂流し、救 助された、長谷川松三郎 さんはその後、「木村の かあさんには、会いたく ない。自分だけ生きてす まない」と言っていたと ツルエさんはいう。
ツルエさんは、夫・徳 四郎さんの三十三回忌に 長谷川さんをよんだ。
集まった親戚の前で、 長谷川さんは、初めて徳 四郎さんの当時の様子を 話してくれた。
その時の長谷川さんの 話を、ツルエさんは、覚 えている。
吹き飛ばされたブリッ ジの屋根につかまった木 村徳四郎さんは、膝に弾 が貫通し、出血がひどか った。長谷川さんが「や られたか」と聞く。木村 さんは、「いや、たいし たことない」と答えたも のの、ブリッジの屋根か ら落ちては捕まりしてい たが、いつの間にか、木 村さんの姿は見えなくな ったという。
ツルエさんは、毎年、 息子さんの英雄さん(当 時六才)、「事件」当時 おなかにいた二三男さん と一緒に、お盆の迎え火 を燃やすのを楽しみにし ている。線香とろうそく 、それに徳四郎さんがと ても好きだった、たばこ に火をつけ、供える。
艶丸船頭で行方不明者 吉田力雄さんの奥さん・ 栄さん(当時二十八才) は、苫小牧の病院に入っ ておられる。
昭和十年(一九三五) に十八才で、一回り年上 の力雄さんと結婚した。
艶丸は、しばらく、漁 に出なかったが、前日に 欣生丸(当時幌泉村新浜 ・堀口助市氏所有)がア カガレイの大漁で、出漁 することになった。
前日、力雄さんが、「 坊主頭にしてくれ」と頼 んだので、栄さんはバリ カンで、力雄さんを頭を 坊主にしたことを、覚え ている。
「事件」当日の朝、栄 さんは、力雄さんに「船 が二つに裂けた夢を見た から、今日は漁に出たら だめだよ」と言う。
栄さんは、「今思えば 坊主頭も、夢も不吉なこ との前触れだったと思い ます」と語る。
力雄さんは、「おれ、 船頭だもの、行かないで どうする」と言い、出漁 する。
「事件」の際は、ダン ブル(船槽)のふた板に つかまり、漂流したが、 行方不明となった。 栄さんは、夫・力雄さ んについて、「小柄で、 几帳面な人」と話すが、 「道楽には、泣かされま した」と語る。
一昨年、五十回忌を、 白老町竹浦の禅照寺で営 んだ。仏さん(位牌)は 栄さんが持っており、今 も、病院にいても、毎朝 おまいりを欠かしたこと はない。
もう一人、艶丸乗組員 で、行方不明者の川村吉 美さん(当時、三十三才 )の奥さんだった、いく さん(当時二十八才)は 、戦後再婚され、現在は 浦河町で幸せな老後を送 っておられる。
私は、訪問することを ためらった。が、おもい きって、いくさんを、訪 ねた。
案ずるには及ばなかっ た。いくさんは、口を開 いてくれた。
いくさんは、「事件」 の朝、幌泉で、バカーン 、バカーンという音を聞 いている。沖に水煙が上 がったのも見ている。
その時は、「日本の軍 艦が演習でもやっている んだべ」としか思わなか った。
後に、艶丸が撃沈され て、夫・吉美さんが、行 方不明になったことを知 らされる。
いくさんにも、その朝 不吉なことがあった。
沢に行って、カタクリ の花を摘み、流しの窓に 水をさして生けたが、な ぜか、ぐったりしてしま った。「けったくそ悪い 花だな」と嘆いたことを 覚えている。
いくさんは、昭和十一 年(一九三六)、十九才 で、吉美さんと結婚した 。
夫・吉美さんについて は、「やさしい、いい人 でした。一度もたたかれ たことがありません」と 話す。昭和十八年(一九 四三)の冬、ひとつぶだ ねの吉明くん(八才)を 交通事故で失っている。
そして、夫も失った。 戦後、縁あって、再婚 した。最後に、「六月二 十三日がおやじさん(吉 美さん)の命日というこ とは、わすれたことはあ りません」と話された。
艶丸機関士で行方不明 者の菊池初雄さん(当時 三十三才)の場合、「不 運」だった。
艶丸機関士は、船主・ 渋田藤次郎さんの婿(む こ)の菊池岩一さんだっ たが、体調をくずして二 、三日休んでおり、代わ りに、船主の甥(おい) にあたる初雄さんが機関 士として艶丸に乗ること になった。そして、「事 件」に遭遇した。
ダンブルのふた板につ かまって漂流するが、力 尽きる。
初雄さんの奥さん・コ ヨさん(当時三十一才、 えりも町大和在住)は、 「夫は、北支まで行って 無事で帰って来たのに、 ここでやられて、何の補 償もない」と嘆かれた。
コヨさんは、昭和十年 (一九三五)二十一才で 、初雄さんと結婚し、二 男二女に恵まれた。
コヨさんは「事件」当 日について、「ガスが濃 いで、水気があってキャ ベツを植えるのにいい日 でした。畑でキャベツの 苗を植えている時、大砲 の音を聞きました」と、 覚えている。「その後は 、夢中で子供を育てまし た」という。
長女の敬子さん(当時 九才、室蘭在住)は「小 学校三年で、大砲の音で 机の下に隠れたことを覚 えています」と、語る。
父・初雄さんについて は「しつけはきびしかっ たが、子煩悩で、特に、 長女の私がかわいがられ ました」と語る。
「四才の弟・良彦を連 れ、生まれたばかりの妹 ・悦子を背負って学校に 通いました」と、長女と しての苦労話をされた。
菊池家では、毎年、お 盆の十三日の昼に、墓参 りを済まし、小さな船を 作り、夕方、薪を燃やし 海で死んだ霊が暖まりに 来るのを、迎える。
同じく、艶丸乗組員で 行方不明者の河村猛さん (当時二十五才)は、徴 兵で、旭川に行き、この 年、昭和二十年二月除隊 になり四月から艶丸に乗 った。
「事件」の際は、菊池 初雄さんと一緒に、ダン ブルのふた板につかまり 漂流し、行方不明となっ た。
猛さんは、二ケ月前に 結婚したばかりの新婚だ った。奥さんは戦後再婚 されている。
猛さんの姉・タヨさん (当時三十四才)が、え りも町に健在で、話が聞 けた。
「兄の千代吉が、川崎 船に乗って、庶野沖で遭 難し、遺体が上がらなか った。昭和十八年(一九 四三)に死んだ母親(ナ オヨさん)は『子供たち を漁師にするな』と、口 ぐせにしていました。弟 の猛は、いつのまにか艶 丸に乗っていました」と 当時を思い出して、話さ れた。
もうひとり、猛さんの 姉・タケノさん(当時三 十二才)もえりも町にお られる。
タケノさんは、「事件 」の前日に猛さんに会っ ている。「その時、猛は 『おれたち、明日は休み だ』と言っていたのに。 おとなしい弟でした」と 話された。
遺族一人一人が、五十 一年前の「事件」犠牲者 を忘れることはない。

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