様似・戦争の記録第1集−4

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四、万徳丸

第五昭宝丸の次に、ア メリカ潜水艦に攻撃され た手繰り網漁船は、第五 昭宝丸のすぐ西にいた万 徳丸である。
この日の万徳丸乗組員 は次の五名である。 ・菅野久七(船頭・当時 三十七才。無傷。現存) ・田下幸治(機関士・当 時三十一才。即死) ・砂沢輿手松(船員・当 時三十三才。ほぼ即死) ・山上倉之助(船員・当 時三十九才。行方不明) ・中川正二(船員・当時 三十一才。軽傷。昭和六 一年死亡)
船主は、二代目・吉田 勘之助(昭和三十七年三 月、七十一才で死亡)
吉田家は、代々、 ( かねさ)の屋号で吉田商 事株式会社を経営した、 えりも町の「名門」であ る。
初代・吉田勘之助は、 明治四十五年から幌泉村 議に就任。二代・吉田勘 之助は、昭和三十四年に 幌泉村議会議長になり、 三代・吉田勘之助は、昭 和三十七年に幌泉町長な っている。
だから万徳丸は「 万 徳」とよばれていた。
万徳丸撃沈を機に、吉 田家は漁業からは手を引 いた。
万徳丸の生存者で、昨 年八月十七日に米寿を迎 えた菅野久七さん(えり も町本町在住)は、元気 だ。
昨年六月には「日高支 庁地区高齢者コンクール 」で優秀賞を授賞した。 今も現役で漁に出る。
「戦後は自分で漁を始 めた。買ってきた中古の 船が『かもめ丸』といっ た。それから六隻作って 今の船は七隻目だよ。『 第八十三かもめ丸』とい ってね。八十三才の時作 った船さ」
菅野さん宅にうかがう たびに、「君は車か。じ ゃだめだな」といって、 自分でコップに焼酎をつ ぎながら、よどみなく話 す。
菅野久七さんは、明治 四十年八月、室蘭に生ま れた。
「十八才から漁船に乗 り、最初は室蘭で機関士 見習いだった。苫小牧で は、鳥越市長の先代に使 われた。次に、浦河に来 て、井寒台の船越谷の先 代の船に乗った。
昭和十年頃、幌泉に来 て歌別の先代の高松勇策 さん(昭和四十六年、八 十五才で死亡)の高盛丸 の船頭を七年やったよ。
万徳丸に乗ったのは、 昭和十八年からだ」
私が、「だんだん、東 に来たんですね」と聞く と、菅野さんは「そりゃ あ、東の方が浜がいいの さ」という。つまりは、 水揚げが多いということ だ。
「前の日(六月二十二 日、新浜の欽生丸(堀口 助市氏所有)が、幌満沖 でアカガレイの大漁だっ たのさ。それで、幌満沖 に向かったのさ」
そして、運命の時がや ってきた。
「万徳は、五昭宝の五 百メートルくらい西にい たかな。海の上での五百 メートルは、すぐそばだ よ」と菅野さんはいう。
「忘れもしないよ。さ あ、魚をあげるかという 時だった」と、第五昭宝 丸が攻撃を受けた瞬間を ブリッジで目撃した。
菅野さんは「こっちに 来るぞ。海に飛び込め」 と全員に声をかけた。
菅野久七さんは、「飛 び込め」と全員に声を張 り上げて叫んだ。
その時の万徳丸船員の 配置は、ブリッジ(船長 などが指揮する甲板上の 望楼)に菅野久七さん、 機関室に田下幸治さんと 山上倉之助さん、船員室 に砂沢輿出松さんと中川 正二さんの二人。
菅野さんは、カッパズ ボンに長靴をはいたまま 真っ先に海に飛び込んだ が、他の船員はその余裕 がなかった。
機関室に大砲が命中し た。田下幸治さんの遺体 は見つかったがひどい状 態だった。菅野さんはい う。「顔が半分なく腹も 背骨もない。首の皮一枚 がわずか頭につながって いた。見られなかった」
山上倉之助さんの遺体 は見つかっていない。菅 野さんは、「田下も山上 も弾(たま)を抱いたの だろう。山上は田下より もひどく、ばらばらにさ れたのではないか」とい う。
船員室の二人について 菅野久七さんの話を聞こ う。「砂沢は、尻に弾が 当って、キン玉を繰り抜 かれた。苦しみながら甲 板にあがったきたよ。船 員室の出口に腰をかける のがやっとで、まもなく 目を落とした」
こういう、むごい描写 をするのは、まだ遺族な ど関係者が現存している ので、まよったが、「戦 争」というもののむごた らしさから目をそらすこ とはできないと思い、菅 野久七さんの証言をあえ てそのまま書いた。
中川正二さんの名は「 まさじ」という。菅野さ んは「まっこ(正二さん )は運がよかった。ちょ っとけがしただけだった 」という。
ところで、海に飛び込 んだ菅野さんは、どうだ ったか。潜水艦が見えな くなるまで、三十分ほど 泳いでいて、船に上がっ た。
「万徳丸は沈まなかっ たのですか」ときくと、 菅野さんは、「木造船だ ったからね。水は入った が、沈みもしなかったし ひっくりかえりもしなか ったよ」
菅野さんは、軽傷の中 川さんと甲板で救助を待 つ。
菅野さんは、その間の 中川さんのことで忘れな いことがある。
「中川のまっこは、い びきをかいて眠ったんだ よ。気がゆるんだのか、 寝れば死ぬからと、どづ くと、いったんは目をさ ますが、またすぐ、いび きをかいて寝るんだ。あ んな時に寝るんだからだ いしたものだ」
ともかく菅野船頭と中 川正二さんは助かった。
菅野さんは「菅原聞き 書き」の中で「船入澗に 着くと…死んだ人の家族 に『てめえ死なないでど うしておらいの子殺した 』って言われた。あれは 辛かった。でも、国の責 任だべ」と述べている。
当時の軍について、菅 野さんは忘れられないこ とがある。
菅野さんは、二日まえ に幌泉国民学校で、室蘭 からきた海軍の将校の講 演があり、その将校が「 敵の潜水艦は浮上しては 来ない。潜望鏡を出して くるから発見したら衝突 せよ」と話したのを聞い ている。菅野さんは、「 バカな話しさ」とせせら 笑った。
私は、取材の中で、幌 満沖でアメリカ潜水艦に 攻撃された乗組員の奥さ んやこどもさんなど遺族 に、夫、父親の思い出に ついて聞くと、ほとんど の人が「やさしい、いい 人」「よく仕事をする人 」といわれたのが印象的 だった。
万徳丸の船員で、幸い に軽傷で助かった中川正 二さんの奥さんのトキエ さん(当時二十四才、え りも岬在住)の場合も夫 ・正二を「やさしい、い い人だった。仕事はよく する人」といわれる。
正二さんの場合、召集 にかかって、勇払で軍務 につき、一年で帰ってき た。
何日もたたないうちに いとこの田下幸治さん( 万徳丸の死亡者)に頼ま れて万徳丸に乗ることに なった。
その日、トキエさんは 近くで二人の子供を連れ て、畑仕事をしていた。
「砲撃を雷さんと思っ た。子供に『ひとつ雷、 おっかないべ』といった ことを覚えていますよ」 といわれる。
「えりも岬で、幌満沖 の大砲の音が聞こえたん ですか」と、私が念を押 すとトキエさんは、「確 かに、雷のような音を聞 きました」といわれる。
暫くして、「幌泉の手 ぐりが撃たれ、みんな死 んだ」という話を聞く。
トキエさんは、夫・正 二さんのことが心配にな り、「田中の神様」に見 てもらった。
どこの町にも、「占い 師」がいるものだ。えり も岬の「田中の神様」は 、トキエさんの祖母に当 る人だ。
「田中の神様」の「占 い」は、「正二さんは、 元気でいるから心配ない 」と出た。
トキエさんは、とりも とりあえず、幌泉に向か った。
船入り澗は、人でごっ たっがえしていた。万徳 丸の納屋の御飯炊きの人 から、「正二さんは生き ていたよ」といわれて、 あたりを捜すが見当らな い。
正二さんは、船の油を あびて、顔が真っ黒だっ たのだ。沖で仕事をする 時のほおかぶり、紫色の 風呂敷をした人を見つけ て、やっと、夫・正二さ んとわかった。
正二さんは、頭に怪我 をしていたものの、病院 にかかるほどではなかっ た。
トキエさんは、正二さ んから、「事件」の様子 を聞いている。トキエさ んは私に、正二さんの言 葉で一気に話す。
「おれ(正二さん)と 砂沢輿出松は、船員室に 逃げ込んだ。最後の弾が 砂沢に当った。『中川、 おれ、やられたで』と、 砂沢が苦しみながら声を ふりしぼっていう。おれ は、『今まだ、潜水艦が 浮かんでいるから、沈ん だら助けるからな』と、 励ましたが、返事はなか った。もう、目を落とし ていた。機関場にいた、 田下幸治さんは顔がつぶ れたようだった。山上倉 之助さんは、さがしたが 見つからなかった。吉井 さんの大英丸に助けても らった」
トキエさんは夫・正二 さんとの間に八人の子供 さんにめぐまれた。正二 さんが死んで今年で十年 になる。
万徳丸の行方不明者・ 山上倉之助さんの長男、 倉雄さん(当時十六才) 夫妻が息子さんと、えり も岬の西側の断崖絶壁の 下のコンブ小屋で、コン ブを取っておられる。
そのコンブ小屋へ行く のが大変だった。
道路から百メートル位 は、平坦な笹原の中の踏 み分け道を歩くのでよか ったが、急に断崖絶壁の つずら折りとなる。そこ を下るのは命がけと言っ てもおおげさでない。
高さは五十メートル位 だが、なにせ垂直の岩壁 なのだ。
やっとの思いで、コン ブ小屋に着いた。
「よく、こんな所に住 んでおられますね。毎日 この岩壁を上り下りされ るんですか」と聞くと、 奥さんは、「岬の店に買 い物に行ったり、道路わ きのポストに郵便も取り に行きますよ」と言われ た。
「昔は、七軒あったが 今は二軒だけになった」 とのこと。
さて、「事件」に移ろ う。
行方不明者・山上倉之 助さんは、幌泉の東洋が 実家だが、妻サトさんと 結婚してからは、サトさ んの実家の歌別に居を構 え、長男・倉雄さんと、 長女・ハミエさんは、東 洋の祖父母の酉蔵さん、 カヨさんに育てられ、父 親の倉之助さんの記憶は あまりない。幌泉の高等 科時代に一年間、歌別の 父母の家から通ったから 「歌が好きで、上手だっ た」ことは、覚えてる。 倉雄さんは「事件」当 時、日高の造材山で働い ており、「事件」の詳し いことは知らない。
祖母・カヨさんから、 聞いた話を覚えていて、 「祖母は、東洋でひどい 音を聞き、直感的に『倉 之助がやられたな』と思 ったと言っていた」と話 された。
長女・ハミエさん(当 時十四才)は、今は苫小 牧で入院中だが、電話に は出てもらえた。
「孫ばあさんと船入澗 に行きました。父は見つ からず、ジャンバーだけ が上がったことを覚えて いる」と話された。
二女・早苗さん(当時 九才)は、札幌市におら れ、「やさしい最高の父 でした。芝居によく連れ て行ってもらいました。 『仏の倉さん』といわれ るくらいでした」と話さ れた。
「事件」の年、早苗さ んは、幌泉国民学校二年 生。
「授業中に、窓ガラス がピリピリと鳴ったのを 覚えています。先生から 『お父さんの船が撃たれ たので、帰りなさい』と 言われ、子供ながらに、 足がガタガタ震えたこと を忘れません」
「父は、稚内で手繰り 船に乗って帰ってきて、 『今年は船に乗らない』 と言っていたのに、菅野 さんが『何とか乗ってく れ』と頼みに来たんです よ。事件後、あやまりに 来ました」と言われた。
私が「菅野さんは、元 気ですよ」というと、け なげにも、「死んだ人の 分も長生きしてほしいで すね」と言われた。
私は、「『菅野さんが 頼みに来なかったら』と いう思いはありませんか 」と、聞く言葉を飲み込 んだ。
万徳丸の死者・砂沢輿 出松さんは、岩手県久慈 市侍浜(さむらいはま) から、幌泉・東洋の砂沢 家に養子としてもらわれ てきた人だ。
侍浜は、陸中海岸国立 公園北端の漁村である。
明治初期、日高沿岸に は、東北の太平洋沿岸の 農漁村から、移住者が相 次いだ。
余談だが、久慈市のす ぐ南となりは、野田村で 様似町には、野田村出身 者とその子孫が、多くい る。
砂沢輿出松の父親・由 太郎さん(昭和四十年、 七十一才で死亡)自身が 久慈市侍浜の出身で、縁 を頼って輿出松さんを、 もらいに行ったのだ。
輿出松さんは、妻・ハ ナさん(昭和五十四年、 六十六才で死亡)との間 に二男四女に恵まれた。
徴兵で、満州まで行っ た。戦地からの手紙が長 男・満雄さん(当時九才 )の手元に残っている。
輿出松さんは、昭和十 九年に除隊になり、船に 乗った。長男・満雄さん は、父・輿出松さんとい しょに生活した期間は、 短かく、父の記憶は、あ まりない。
「事件」については、 「幌泉に魚をもらいに行 った時、沖の方の水柱を 見た。父の船(万徳丸) が帰って来なかったこと は、覚えています」と話 された。
母親のハナさんは、戦 後まもなく、リュ−マチ で、動けなくなり、残さ れた六人の子供は、祖母 キソさん(昭和六十三年 八十九才で死亡)に育て られた。
長男・満雄さんは、祖 母のキソさんから、 「事件の時間、ばあさ ん(キソさん)は、じい さん(由太郎さん)が、 とってきたタコをゆでて いて、ひざにマキリ(包 丁の一種)が当ってけが をした。ばあさんは、『 輿出松が事故に会ったの ではないかと予感した』 」と、よく聞かされたと いう。
また、「事件」につい ては、「中川のまっこさ んといっしょに、トモ( 船尾)のダンブル(船槽 )に入って弾に当った」 と聞かされていた。
輿出松さんの長女、ア サさん(当時十二才)は 、嫁がれて、東洋におら れる。
父・輿出松さんについ て、「口かずの少ない、 おとなしく、やさしい父 親でした」と言われる。 アサさんは、苫別の畑 にいて、大砲の音を聞い ている。
帰って来ると「万徳 がやられた。おとうさん は、死んでいる」と聞か された。
戦後の苦労については 祖母・キソさんが「子供 が六人残されて、帳面一 冊、鉛筆一本貰えなかっ た」と、よく話していた ことを忘れないという。
長女・アサさんは、更 に、「西は浦河の幌別、 北は、更別(さらべつ) まで買い出しに行ったこ と、広尾まで歩いたこと もある」など、父の死、 母の病気という中での苦 労話をされた。
砂沢家では、「事件」 死者・輿出松さんと、二 女・直子さんの夫の時儀 さん(昭和三十五年、花 咲沖で死亡)のふたりを 供養するため、毎年、お 盆の迎え火・送り火を二 つ燃やしている。
万徳丸のもうひとりの 死亡者・田下幸治さんは 「ノモンハン事件」で負 傷した「傷痍(しょうい )軍人」でもある。
ノモンハンは、中国東 北部(旧満州)の北西の 辺境、黒龍江(アムール 河)の源流であるハルハ 河の右岸にひろがる大草 原のまっただ中にある。
昭和十四年(一九三九 )五月から九月まで、国 境線をめぐって、日ソ両 軍が戦闘、日本軍は一万 八千名の犠牲者を出し、 大敗北を喫した「事件」 が「ノモンハン事件」で ある。
田下幸治さんは、「ノ モンハンで負傷し、退役 後、川崎市の三菱重工で 働き、昭和二十年には、 えりも岬の自宅に戻って いた。
万徳丸には、機関士と して乗った。
「事件」の際、機関部 に砲弾が直撃、田下幸治 さんは、顔、胸、腹をめ ちゃくちゃにやられた。
弟の雄次さん(当時十 七才、えりも岬在住)が 兄・幸治さんを判別でき たのは、ノモンハンで受 けた背中に傷だった。

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