様似・戦争の記録第1集−2

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二、第五昭宝丸

手繰(てぐり)網漁で 「ごしょうほう(五昭宝 =第五昭宝丸)」の甲板 で、仲間五人と仕事をし ていた渋田重信さん(当 時二十一才)は、沖から 浮上したまま近付いてく る潜水艦を見つけた。
「軍艦が来たぞ。魚で もくれてやるべ」と仲間 に話しかけた。日本の軍 艦としか頭になかった。
と、突然、艫(とも= 船の後方)を一発の砲弾 がかすめた。
昭和二十年(一九四五 )六月二十三日午前九時 半頃、幌満沖での米軍潜 水艦による三隻の漁船撃 沈「事件」の「幕開け」 である。
人の名前を言うとき漁 民の間では、今でも「○ ○丸の誰それ」と船の名 前で呼ぶことが多い。
幌泉(えりも)の新浜 では、「渋田」姓が多く 渋田頼助(当時四十五才 )さんの場合は、持ち船 「第五照宝丸」の名前か ら、「ごしょうほう(五 照宝)の頼助さん」と、 呼ばれていた。
渋田頼助さんの妻・マ サさんは、「『五昭宝』 といえば、幌泉郡内では 『一番漁』として知らな い者はいなかった。昭和 十五年(1940)のス ケソ漁で優勝旗をもらっ た」と誇らしげに話す。
「ごしょうほう」こと 第五昭宝丸の船主で船頭 でもある渋田頼助氏と、 六才年下のマサさんが結 婚したのは、昭和三年( 一九二八)四月だ。
事件当時、上は十六才 の男子を筆頭に、一才の 女子まで、四男四女をか かえていた。
「主人は無口だが、一 生懸命働いた。陸(おか )に上がっても、畑仕事 もよくやってくれた。酒 も飲まず、いいお父さん だった」とマサさんは懐 古する。
事件前三日間は、船の 機関が悪く、漁に出れな かった。
終戦間際、重油は欠乏 し、第五昭宝丸の限らず 漁船のエンジンは重油に 魚油をまぜて動かしてい た。
一,二日漁に出たら、 エンジンのガスを取り除 く掃除に数日費やすこと もあった。
この日、昭和二十年六 月二十三日は夏至で、三 時には、東空は白み始め る。
マサさんは、朝四時に は夫・頼助さんを起こし た。四日ぶりの出漁だ。
この日の天候について は「一点の雲もない晴天 だった」という人と、「 どんよりしていた」とい う人など、関係者によっ て異なる。ただ「なぎだ った」ことは、一致して いる。
浦河測候所の記録は「 雲量十割。日照時間0。 東の風。風力四。雨量六 ミリ」とあるから一日じ ゅう曇り空だ。
幌泉港を五時に出た第 五昭宝丸は、アカガレイ を狙って、南西に向け走 る。
乗組員は次の五名。 渋田頼助(四十五才・船 主船頭) 岩館三郎(四十二才・機 関士) 山谷勝三郎(三十二才・ 船員) 渋田重信(二十一才・船 員) 出町正雄(十八才・船員)
二時間ほど走った。当 時の焼玉エンジンでは、 精々十マイル(約十六キ ロ)だ。そこで手繰網を 始めた。
渋田重信さんが、浮上 して接近する潜水艦を見 たのは、三回目の手繰網 を巻き上げていた時だ。
渋田重信の場合、漁船 に乗るのは、この日が初 めてだった。十八才か ら徴用で、室蘭製鋼所 で働いていたが、病気 のため「自宅療養」で 帰って来ていたのが、 たまたま、親戚に当る 渋田頼助さんに頼まれ て第五昭宝丸に乗り込 んだ。
艫(とも)をかすめ た砲弾で、おどろいた 乗組員は、機関室に山 谷勝三郎さん、渋田重 信さん、出町正雄さん の三人、船員室に、渋 田頼助さん、岩館三郎 さんが逃げ込んだ。
何発の機関砲が打ち 込まれたか、渋田重信 さんは、「とにかく、 ものすごかった」こと しか覚えていない。
右肩、頭、右手に破 片がつきささった。
船は、転覆し、船底 を上にした。木造船だ ったためか、幸いにも 沈没はまぬがれた。
機関室の三人は、船 につかまって救助を待 った。「機関室の天井 が吹き飛ばされて、外 に出れた」と渋田重信 はいう。
山谷勝三郎さんの場 合は、渋田重信さんよ り重傷を負う。
アメリカ軍潜水艦の砲 撃の際、渋田重信さんと いっしょに機関室に逃げ 込んだ「第五昭宝丸」の 乗組員のひとり、山谷勝 三郎さんの場合、砲弾が 右腕と左足を貫通した。
救助後、洞口病院に、 三ケ月近く入院し、退院 したのは、終戦一ケ月後 の九月十五日。
奥さんのアキノさんが えりも町本町に健在だ。
山谷勝三郎さんとのあ いだに五人の子供さんに 恵まれた。
山谷勝三郎さんは、昭 和四十八年(一九七三) 四十九才で死亡し、昨年 五月に二十三回忌を終え たている。
山谷勝三郎さんは退院 後も一年間は仕事ができ なかった。
アキノさんさんは、「 (勝三郎さんは)腕を曲 げるのに苦労していたよ うで、手つきがよくなか った」と話す。弾丸の貫 通によって、完治しても 、元には戻らなかった。
「(漁業)組合から、 (勝三郎さんが)助かっ た時のために着替えを取 りにきた」という。
幌泉の各漁業組合は統 合し、昭和十九年(一九 四四)三月に「幌泉漁業 会」を結成しているから 、アキノさんさんのいう 「組合」とは「幌泉漁業 会」をさす。
夕方近くなっても、勝 三郎さんは、戻ってこな い。アキノさんは「(生 きて戻るのは)ダメだな あと思った」という。
そのあと、アキノさん さんはちょっと笑顔にな り「だから、フンドシも 持たせてやらなかった」 と話す。
重傷ながらも、山谷勝 三郎さんさんは、助かっ た。
アキノさんは、兄の大 江福次郎さんといっしょ に洞口病院へ行く。
「兄さんのフンドシを はずしてもらって、勝三 郎に貸してもらった」こ とは、はっきり覚えてい る。あまりにもおかしい ことだったのだろう。
アキノさんは、勝三郎 さんの砲撃現場での様子 を、後で渋田重信さんか ら、「ロープで、貫通し た左足しばった。それで も、波が来れば、海面は 血で、真っ赤になった」 と聞いている。
重傷を負って、一年 間仕事ができず、手足 が不自由になった山谷 勝三郎さんに対し、「 毛布一枚もらっただけ 」と、アキノさんはい う。
同じく、機関室に逃 げ込んだ「出町のアン コ」と呼ばれていた東 洋の出町正雄さんは、 まったく無傷だった。 「運がよかったとしか 、いいようがない」と 渋田重信さんはいう。
機械の影にひそんだ 渋田重信さんと勝三郎 さんが重傷を負い、砲 弾側にいた出町正雄さ んが無傷だったのだ。
渋田重信さんと山谷 勝三郎さんの場合、砲 弾に加えて、機械が直 撃を受け、その破片が 身体にささったことも あるという。
出町正雄さんは、平 成二年(一九九○)六 月、六十三才で死亡し た。正雄さんの娘さん ・頼子さんと、第五昭 宝丸の行方不明者・岩 舘三郎さんの孫・永悦 さんが結婚している。 縁というものだろう。
第五昭宝丸乗組員五名 のうち、船主・船頭の渋 田頼助さんと、機関士の 岩舘三郎さんは、アメリ カ潜水艦の攻撃の際、船 室に逃げ込んだ。
ふたりとも、遺体はあ がっていない。
第五昭宝丸で負傷し た渋田重信さんは、「菅 原聞き書き」では、「ト モ(船尾)の二人は機関 銃の直撃を受け死んだ」 と述べている。
私が、「二人が機関銃 に撃たれたのを見ました か」と聞くと、「いや、 見てはいない。船員室か ら出れなくて、おぼれた のかも知れない。船が流 されていくうちに沈んだ のかもしれない」と話し た。
岩舘三郎さんは、妻マ ツエさんとの間に四人の 女の子供がいた。現在、 東洋(アブラコマ)で「 岩舘家」を継いでいるの は、二女の礼子さんだ。
当時十三才の礼子さん は、「事件」を聞いて幌 泉に駆けつけた母・マツ エさんの悲嘆の様子は覚 えていない。
ただ、父・三郎さんに ついては、「ものをしゃ べらない、おとなしい父 だった。怒られた記憶が ない」という。
戦後、朝早く起き、コ ンブの手伝いを一生懸命 する、礼子さんに、母・ マツエさんから「家を相 続せ」といわれ、夫・泰 治さんと結婚する。 泰治さんは、第五昭宝 丸の渋田頼助さんの従兄 弟(いとこ)に当り、 礼子さんは、「つれ( 泰治さん)も、『渋田 の方からも、岩舘の婿 に行けといわれていた 』とよく話していた」 という。
三郎さんの長女、孝 子さん(当時十五才) は、埼玉県大宮市に健 在だ。
「アブラコマの家で 大砲の音をはっきりと 聞きました。突然ふす まの閉まる音がして、 恐くなって、近くの母 の実家に、はだしでか けこみました」と、事 件当日を鮮明に話す。
「父は、戸、障子の 開け締めのきつい人で まるで、いないはずの 父が居るようだった」 という。
「私は父親っ子で、 かわいがられました。 二日前に父の着替えを 『五昭宝』の番屋に届 けにいってその晩、父 と一緒に泊まったのが 父を見た最後でした」 と、声を詰まらせて話 された。
孝子さんは、父の死亡 に強いショックを受けた 。
近所の人から、「海に 飛び込んで自殺でもする のでないか」と心配され たと孝子さんは語る。
「岩舘家では、その年 はコンブを取らなかった 。その気にならなかった 」と回顧する。
孝子さんは、残された 母・マツエさんについて 「勝ち気な、よくしゃべ る母で、戦争に巻き込ま れた父は犬死にした。国 で補償してほしいと、札 幌までかけ合いに行った が聞き入れてくれなかっ た」ことも覚えている。
さらに、父・三郎さん から言われた忘れられな いことがある。
「父は、『あのバカど も、何考えて戦争始めた か。ぜったいにこの戦争 は負ける』とよく言って いた」という。そして、 「親しい友達にもこのこ とは言ってはならんぞ」 と言われたという。
「父の影響か、ヤギベ ツに来た兵隊によく逆ら った」と語る。
国民が「聖戦」と、教 え込まれた暗黒時代に、 この戦争の本質をつく考 えを持っていた一介の漁 民がいたことに驚く。
今、アブラコマで、岩 舘家を継いでいる二女・ 礼子さんにとって、父・ 三郎さんの形見は、かっ て父・三郎さんがえりも 岬で遭難船の救助に行っ てもらった二羽の鶴が描 かれた額だけだ。
写真はない。「洋水」 の銘がある若いときの肖 像画が飾られていた。
「犬死」については、 八人の子供をかかえて、 苦労を重ねた、死亡した 船主・船頭の妻マサさん も、役場に何度も補償を 求めるがダメで「この辺 の海で死んだら犬死にな んだね」と、「菅原聞き 書き」で語っている。
マサさんは、昭和三十 五年(一九六○)に鱒流 し(「菅原聞き書き」で は「鯨捕り」としている )に行った次男・隆幸さ ん(当時二十八才)を亡 くしている。
隆幸さんの乗った船は 「第二十三万両丸」。 マサさんは「夫が死んだ のは二十三日でしょう。 二十三の付くのは縁起 が悪いから降りれって 言ったんだけど」と、 「菅原聞き書き」で述 べている。
第五昭宝丸では、乗 組員五名中、死者二名 重傷二名である。
現存している人は、 渋田重信さん一人だ。
最近、重信さんは、 奥さんの敬子さんに、 「背中がヒリヒリして 痛い。見てくれ。何か 変だ」といった。 敬子さんは「あの時 の傷だよ」と教えた。 昭和二十五年(一九五 ○)に結婚した敬子さ んは、重信さんの背中 の傷は知っていた。
重信さんは、「こん な所にも傷があったの か」と驚いた。
重信さんは、右肩の 二つの傷は見えるから 知っていたが、背中に もあるのを五十年目に して初めて知った。

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