萩は山口県の北部を流れる阿武川下流のデルタ(三角州)上に発展(?)してきた街です。もともとは戦国時代に中国地方一帯を支配していた毛利氏が、関ヶ原の戦いに破れ、江戸幕府に領土を周防・長門の2国に領土を削封され、この街に居城を定めた時から、本格的な街づくりがはじまりました。もっとも毛利氏がやってきた頃は、まだ現在の三角州には湿地帯が多く、街路の整備も江戸時代以降なので、その意味では比較的新しい街と言えます。江戸時代には毛利36万石の城下町として栄えていました。歴史の好きな人なら、高杉晋作や桂小五郎、伊藤博文、山県有朋ら明治維新の原動力となり活躍した幕末の志士たちが多く輩出した街と言えば、わかりやすいでしょうか。
130年前の事件が未だに尾を引いている事件は、この日本にもあるんですよ。100年200年規模の大事件は何も香港返還だけではありません。
萩と会津の関係がどうこうという問題は、私が高校生の時にもありました。その時は、高校の生徒会長同士が双方の学校を訪問するというものでした。確か私の1つ下か2つ下の学年のことだったと思います。高校生同士だと別段、何でもないことが、政治家同士の交流だとそれぞれの支持者の手前、握手するだのしないだの、メンツが邪魔してややこしくなってます。上記の記事にもあるように萩市長が昨年10月に会津に行った時には、握手すらしなかったらしいです。決して身内ひいきではなく、こういう問題は先に動いた分、萩市長の方が賢いように思えますが、とにかく第3者的に見ると非常にアホらしいですね。
私は、残念ながら会津に行ったこともなければ、会津出身の方とお会いしたことはありません。ただ私の考えを述べさせてもらうと、まずは「長州だけが悪く言われる筋合いはない」ということです。明治新政府軍として会津軍と戦ったのは、何も長州だけではないでしょう。薩摩や土佐はどうしたという気持ちがありますね。会津戦は白虎隊の悲劇の話がありますが、戦争は殺し合いで死人が出るのは当り前で、「少年兵だから可愛そう」「悲劇を引き起こした政府軍が悪い」というのはおかしいと思います。大人なら戦争で死んでも良くて、子供なら悪いということでしょうか。
次には「先に長州が会津にやられている」ということです。もう少し歴史の勉強をしてほしいわけですが、長州藩は薩長同盟まで朝敵の扱いを受けてました。その原因となった事件が「禁門の変」で、ここで長州藩と会津藩は一戦交えてるわけです。この時、長州藩は会津藩と薩摩藩の連合軍に破れ、京都での勢力を弱めていくことになっていくわけですが、この戦いで、長州藩は久坂玄端、入江杉蔵といった松蔭門下で4天王と称された逸材を失うわけです。明治維新を遅らせた事件だったことは間違いないでしょう。個人的なことでは、私の父の母方の家は長州藩の下級武士でして、その一族がこの禁門の変で死んでいます。
戦争ですから、どっちが悪いとかいうことも愚問だと思うし、それを未だに引きづるのもさらに愚かに見えます。
萩には数多くの史跡・観光名所があり、この場ですべてを紹介するのは不可能なので、私のおすすすめのスポットをいくつか紹介します。
久々の更新です。ずいぶんご無沙汰しました。
萩のネタは地域紙から拾ってますが、なかなか良いネタがなかったというのも、更新がおろそかになった理由です。
萩と会津の問題に関して、私の考えはとりあえず載せておきましたので、感想等を色々な方から寄せていただけると幸いです。
萩へは5月の連休に帰りました。もう2カ月前なことで、今さらという気もしますが、帰ってみて、今回は久々に街のほうに出たので、驚くことが多々ありました。
中でも商店街の荒廃ぶりには愕然としました。街で一番大きな商店街で閉店の店舗がかなり目立ってました。北浦唯一の百貨店も店を閉め、他にもこの商店街から撤退する店の話も多く聞きました。人通りの少なさは今に始まったことではなかったのですが、正直ここまでとは思ってませんでした。
自分がどうこうできる問題でもないし、外野が何かを言うのも筋違いですが、もっと何とかならなかったのかという気がします。この街の不況なんて、今に始まったことではなく10年来の問題で、それが悪化しているというのは、相当深刻ですね。
う〜ん。ちょっと何とも言えないです。