ギャラリー:所蔵品紹介コーナー


北蝦夷図説

貸本屋
 江戸時代後期、17世紀に入ると著しい経済的発展が見られます。この経済的発展は、物資の流通を活発にするとともに、民衆の知的進歩を促しました。文化が民衆の手のとどくところとなってきます。出版事業も大きく進歩し、これまでの一部の特権階級を対象とした出版から武士、町人を対象とした日用教養書や医学書、名所記、小説などが数多く出版されるようになります。出版部数もそれまでと比較して飛躍的に増加するのです。庶民にとって、文化が比較的容易に商品として購入しうる存在になったのです。
 比較的容易にといっても、書物はまだまだ高価なものでした。庶民にとって書籍の購入は、まだまだ容易ではありませんでした。庶民が手軽に文化に触れる、書籍を手にすることが出来るようになった背景には、貸本屋の存在があります。貸本屋は、18世紀の中頃までに全国的に存在するようになったということです。

貸本として庶民へ
 林蔵の行った樺太探検(踏査)の様子も、時代の最先端の情報として、江戸庶民に伝えられます。林蔵の報告書「北夷分界餘話」も、当時の庶民の知識欲の対象となっていくのです。「北蝦夷図説」は、林蔵が樺太探検(踏査)を終え、幕府へ提出した「北夷分界餘話」を基に安政二年(1855年)木版で刊行されました。全四巻からなり、挿し絵を一巻四巻を橋本玉蘭齊、二巻三巻を重探齊が担当しています。「安政二年乙卯四月刻成 日本橋通北十軒店 江戸書物問屋 播磨屋勝五郎發行」の文字があります。安政二年といえば、林蔵が亡くなってから11年後のことです。
 「…江戸書物問屋 播磨屋勝五郎發行」の意味するところは、幕府へ提出された報告書が、民間人の手によって出版されたということです。シーボルト事件の後、幕府は対外政策を慎重に進めてゆきます。当時としては、林蔵の報告書も国家の重要機密であったはずです。幕府役人が作成した資料を基にした出版は、当時どのような状況だったのでしょうか?「北蝦夷図説」は、大変まれなケースだったのでしょうか。それともごく一般的な状況だったのでしょうか。私にはその辺り、わかりません。どなたか詳しい方がいらっしゃいましたら、どうぞお知らせいただきたいと思います。
 ところで「北蝦夷図説」は何冊くらい印刷、出版されたのでしょうか?現在はっきりとしたことは、わかっていません。いずれにしても江戸の貸本屋に並び、江戸庶民の知的好奇心の的として、ベストセラーとまではいかなくても、かなりの人気であったであろうことは間違いありません。というのも、現在わかっているだけで「北蝦夷図説」は2種類の異なる版があるのです。青表紙ものと赤表紙もの(写真のもの)があるのです。

辻達也著「江戸時代を考える」(1988年中公新書870)p137の中で広庭基介氏の研究として、「文化五年(1808年)、江戸には656軒の貸本屋があり、ど十年ごろ大坂には約300軒あった。」

と報告されています。それらの貸本屋のほとんどの店頭に、「北蝦夷図説」は並んだのでしょうか。初めて「北蝦夷図説」を手にした江戸時代の人々は、どのような感想を持ったのでしょうか。大変興味深いところです。


 間宮林蔵の自筆とされる史料は、ほんとうに数が少ない状況です。これらの手紙は、その中でも林蔵の人となりをうかがわせる貴重なものです。今回、取急ぎ写真のみの掲載となりました。今後、手紙の内容を詳しく解説していきたいと思います。
 写真は、35mスライドとして撮影されたものを元に掲載しました。拡大しているため、少し鮮明でない部分もあることをご了承ください。

その1

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その2

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借用証文

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りきよりの手紙

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