間宮林蔵の肖像

間宮林蔵の肖像  教科書や様々な書物に紹介されているこの林蔵の肖像画は、明治43年志賀重昴の依頼により松岡映丘(東京美術学校(現東京芸術大学)教授であり柳田国男の実弟)が描いたものです。
 この時は、すでに林蔵もこの世になく、その風貌を知るものは地元のおばあさん唯一人となっていました。「小さい頃に見たことがある」というこの証言と、子孫の顔つきを参考に描きあげた苦心の作品です。
 また、大変貴重な史料として、林蔵生前に描かれた肖像が「東韃地方紀行」の挿絵の中に唯一残されています。林蔵が清国の役人と「デレン」において会見をしている場面がそれです。
「東韃地方紀行」は、国の重要文化財として国立公文書館に所蔵されています。その複製品は、間宮林蔵記念館で一般公開しています。ひげの伸びた林蔵の風貌からは、探検(踏査)の厳しさが伝わってきます。(著作権等の問題が解決次第この画面で公開したいと思っています。現在は、間宮林蔵記念館でご覧ください)

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林蔵の生家

間宮林蔵の生家  この生家は、昭和30年11月茨城県の文化財に指定されました。林蔵が生まれた当時は、現在の位置より南に約80メートルほどの小貝川の河畔に建っていたものです。昭和46年に現在地に移築、復元されました。
 移築復元前の生家は、林蔵が生まれた当時から見ると増築がなされていたようです。解体復元の際は、「林蔵が生まれた当時の一般的な茨城県南部の農村の農民の家屋」という時代考証を加え、現在の大きさに縮小されました。
 移築復元に当たっては、その解体作業は大変慎重に行われたようです。現在の生家に使用されている木材のほとんどは、そのまま使用されています。戸袋、床板や腰板などは旧宅の古材をそのまま使用しています。しかし、力のかかる表の柱や痛みの激しい一部の材料は、新しい木材を着色して使っています。

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林蔵の墓石

林蔵の墓石  この墓石は、高さ53センチメートル、幅23センチメートルほどの小さく質素なものです。正面には「間宮林蔵墓」の五文字が刻まれています。この墓には、法名も没年月日もありません。林蔵がカラフト探検に決死の覚悟で旅立つに当たり、自らが建てたと伝えられています。刻まれた文字は、林蔵の自筆とされています。
 この墓石は生家と同様に、昭和30年11月に茨城県文化財に指定されました。林蔵の墓石の右隣には、両親の墓石があります。

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立身窟

立身窟  林蔵が13歳の時、村人が筑波山に参拝した時一緒について行き一晩中「立身出世」を祈願したという大岩です。
 筑波山の中腹、女体山と男体山が分かれるところから少し下ったところにあります。筑波山神社からケーブルカーに乗り終点で降りて、登山道を筑波山神社側に少し下ったところです。
 筑波山は、上平柳村(現在の茨城県筑波郡伊奈町上平柳)から約30キロメートルほどのところにあります。林蔵の時代は、一泊で参拝したようです。

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東京にある林蔵の墓石

東京にある林蔵の墓石  東京江東区深川の本立院墓所にある、間宮林蔵の東京の墓石です。墓石の正面には、「間宮林蔵蕪崇之墓」と刻まれています。この墓表は、水戸徳川家藩主徳川斉昭が選したものです。下級役人でありながら、徳川御三家の藩主より墓石を送られた人物は、恐らく林蔵くらいのものでしょう。この事からも、水戸家と大変深い関係にあったことがわかります。
 こちらの墓石も林蔵が生前から建てていたもので、林蔵の几帳面な性格がをうかがうことが出来ます。
 この墓石は昭和20年3月10日の東京大空襲で焼けてしまいました。幸い拓本が残っておりましたので、その文字をもとに昭和21年5月に新しく建て直されたものです。

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