●間宮林蔵(1780-1844)

 間宮林蔵は、19世紀のはじめ、北海道から樺太(からふと)千島列島(ちしまれっとう)で20年以上も生活しました。特に樺太探検では、間宮海峡を発見し、その名前が今でも世界地図にあります。

間宮林蔵の肖像
間宮林蔵の肖像

機械もなく、車も飛行機もないころ、まだ日本人がだれも行ったことがない所へ行くのですから、林蔵の探検は命懸(いのちが)けの仕事であったことでしょう。しかし、これは江戸幕府にとって、大切な仕事でした。強い精神力と努力によって林蔵は、見事にその任務を果たしたのです。


 間宮林蔵は、安永9年(1780年)常陸国筑波郡上平柳村(ひたちのくにつくばごおりかみひらやなぎむら(現在の茨城県筑波郡伊奈町上平柳))に生まれました。林蔵は、お父さん庄兵衛、お母さんクマの間に一人っ子として生まれました。なかなか子供が生まれなかった林蔵の両親は、月読神社(現在の稲敷郡茎崎町)にお参りをして、やっと林蔵が生まれたという言い伝えがあります。両親の愛情を一身に受けて育った林蔵は、幼い頃から神童と呼ばれていたようで、幾つかのエピソードが語り継がれています。

 林蔵が幕府の役人になるきっかけとなったのは、毎年春に田に水を引くために、小貝川を堰止める工事でした。小貝川の流域はたいへん豊かで、おいしいお米の取れるところです。毎年春になると、小貝川を堰止めて小さなダムをつくります。そして、たまった水を田んぼに引きます。小さなダムといっても、工事はとても大変でした。幕府の役人が地元の人々と協力して工事をするのですが、なかなかうまくいきません。その工事の様子を林蔵が見ていて、よい方法を提案しました。この方法がうまくゆき、林蔵の才能が認められ、役人として仕事をするようになるのでした。林蔵は生まれ故郷を離れ、江戸に修行のため旅立つのです。一人っ子として大切に育てられた林蔵ですから、いくら幕府役人に認められ江戸に修行に出るといっても、両親の思いは複雑であったに違いありません。



間宮林蔵が樺太を探検した道順
間宮林蔵樺太探検経路図

 ふるさとを後にした林蔵は、日本各地で行われた治水(ちすい)工事(川の氾濫(はんらん)防ぐ工事)や、新田開発工事(新しい田んぼを造る工事)に出かけて行ったようです。そして、工事をしながら測量や土木技術を勉強したようです。でも、林蔵がどこのどんな工事を、誰と一緒にしたのか、よくわかっていません。

 若い林蔵は、19歳になった年、はじめて北海道に行きます。寛政(かんせい)11年、先生の村上島之允(むらかみしまのじょう)の家来として北海道に行くのです。それから文政(ぶんせい)5年(1822年)松前奉行が廃止されるまで、林蔵は、ずっと北海道で、主に測量の仕事を続けます。19歳の年にはじめて北海道に渡ってから林蔵は、43才までの23年もの間、北海道を中心として活躍したのです。

 林蔵は、間宮海峡を発見した後、北海道測量という大事業を行います。カラフト探検はあまりに有名ですが、北海道全土を測量し、伊能忠敬(いのうただたか)の大日本沿海輿地全図(だいにっぽんえんかいよちぜんず)の北海道部分を完成させていることも大きな業績です。その成果はさらに、今の北海道地図の基本となる『蝦夷図(えぞず)』の完成となって行きます。林蔵の『蝦夷図』には、主だった集落の名が、とても細かく書かれています。林蔵が北海道を測量した歳月は、何と12年間にも及びます。詳しく記された地名は、林蔵が長い歳月をかけて、それらの土地土地を訪れていたのだということを意味しています。北海道の、すべての町や村を歩いてまわる。それも正確に測量をしながら。林蔵は12年間、北海道を歩き続けたのです。


 江戸に戻ってからの林蔵は、今度は全国をくまなく歩き、外国の船が日本に来たという報告の調査の仕事をします。江戸時代も後半になると鎖国をしていた日本にも、たくさんの外国の船が近づいてくるようになっていたからです。ヨーロッパの人々がさかんに、「日本はどんな国なのだろう?」と調査に来ていたのです。シーボルトというオランダのお医者さんを、皆さんは知っているでしょう。シーボルトは、日本にヨーロッパのすぐれた考え方や技術を紹介しました。それといっしょにシーボルトは、日本のことをとても詳しく調べていたのです。日本の、江戸幕府の持っていた大切な地図(これらは伊能忠敬や間宮林蔵によって作られたものでした)をシーボルトはヨーロッパへもって帰ろうとしていました。地図は当時、とても大切な情報でした。そのためシーボルトは、日本を追い出されてしまいます。シーボルト事件です。シーボルト事件で幕府は、「外国の人々(特にヨーロッパの人々)に、私たちの国「日本」をきちんと認めさせなければならない」という大切なことを考えるようになりました。

 シーボルト事件の後林蔵は、告げ口をした人間として、さびしく死んでいったと思われています。でも、ほんとうはそうではなかったようです。それは、シーボルトや林蔵、シーボルト事件に関係のあった人物たちを詳しく調べていくうちにわかってきました。


 シーボルト事件が起こった後も林蔵は、日本に近づいてくる外国の船があると調査に出かけていきました。晩年の林蔵は、水戸家の殿様にも林蔵の知っている樺太(サハリン)や外国のことを教えたりしています。そして、林蔵の調査、知識が、江戸幕府の外国との交渉に活かされます。特にロシアと日本が1854年に結んだ条約「日露和親条約」の中には、林蔵の樺太(サハリン)から大陸にかけての地図が参考にされました。日本が樺太から大陸の調査をしており、ロシアの動きを知っていたことは、日本にとって条約を結ぶのにとても有利だったのです。林蔵は、幕府の役人として天保(てんぽう)15年2月26日(1844/02/26)江戸の自宅でなくなります。65歳の波乱に満ちた生涯でした。


 林蔵には子供がいませんでした。それは、林蔵の仕事から仕方のないことだったのでしょう。北海道で長い間仕事をするということは、今で言えば長い間外国で仕事をするのと同じようなことだったでしょう。知らない土地に一人で暮らすのですから、普通の人のように、家庭をもつことができなかったのかもしれません。

 林蔵がいなくなった上平柳村の生家は、親戚の鉄三郎がつぐことになっていました。林蔵が生きているうちに、林蔵と親戚の人たちが話し合って決めてありました。江戸では、林蔵の死んだことを秘密にして、跡目相続(武士の家を子供にゆずること)について許可を幕府に求めました。死んでから6ヶ月たって、正式に家をつぐ者が決まりました。林蔵が親しくしていた友達の青柳家から鉄次郎が養子となりました。


 その後の系図は次の通りです。

茨城伊奈間宮家(林蔵)−正平(鉄三郎)−梅吉−正倫−正倫−林蔵−雅章−正孝

 東京間宮家 (林蔵)−孝順(鉄次郎)−孝義−馨−林栄



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