「南京事件はなかった」(百田尚樹 虎ノ門ニュース 2016年4月12日)
☞音声ファイル1
「南京事件には証拠がない」(有本香 虎ノ門ニュース 2016年4月15日)
☞音声ファイル2
「南京虐殺については、国会議員の自分たちが史料を収集して研究しました。当時の南京の人口は、日本軍の占領後に20万人から25万人と増えているので、30万人虐殺はあり得ません。南京虐殺があったというウソが世界に広まったのであり、日本は宣伝戦に負けてしまっている。"自虐教科書"の記述は左翼思想の学者の歴史書に依拠しているためです」
「南京虐殺があったとされる1938年1月1日に南京に中国人自治会ができ、中国人が日の丸を振(ふ)って日本軍を歓迎しており、虐殺などなかった証拠です」
「日本に厳しかった『ロンドン・タイムズ』『ニューヨーク・タイムズ』も当時一行(いちぎょう)も南京虐殺について報道していない」
「国際連盟議事録を調べた結果、1938年1月の国際連盟理事会で中国代表の顧 維鈞(こいきん、1888年1月29日-1985年11月14日)が『南京で2万人の虐殺と数千の女性への暴行があった』と演説して、国際連盟の行動を要求しましたが、採択(さいたく)されませんでした」
「顧 維鈞(こいきん)代表が訴えても無視されたのは、国際連盟が、南京虐殺を認めなかった証拠です」
「したがって、南京で行われたのは、通常の戦闘行為だったというのが結論です。すなわち、南京事件はなかった」
これら極右言論人・極右政治家の発言は、すべてデタラメです。
南京事件(南京大虐殺)はあった。しかも、証拠もあります。
- 日本軍による占領前の、南京市の人口は115万人だから、30万人虐殺は可能。
- 「日本軍による南京占領後に、当時の南京の人口が20万人から25万人に増加しているから、30万人虐殺はあり得ない。よって南京事件はなかった」という主張は、もっともひろく流布(るふ)されている南京事件否定論だが、南京城内につくられた国際安全区内に居住した市民・難民の数(50万人)を、南京市全体の人口(115万人以上)とすり替えている。
- 実際には、日本軍占領前の南京城内には約50万の市民・難民がいました。行政区としての南京市には(南京城の)近郊六県も含まれ、南京城内と近郊六県をあわせると、100万人以上の住民が残っていました。
- さらに、(南京市には)中国軍兵士・軍夫が約15万人いて、日本軍の虐殺の犠牲になりました。
- 南京事件の犠牲者の総数が、厳密に確定できないのは、南京攻略のための戦いに参加した日本軍部隊の戦闘詳報、陣中日記などの大半が、「太平洋戦争に関する戦争史料はすべて焼却せよ」という軍部の命令により焼却されてしまったからだ。
- すなわち、1945年8月14日のポツダム宣言受諾後に、ポツダム宣言第10項(「一切の戦争犯罪人に対しては厳重なる
処罰を加へらるべし」)にもとづく、連合国(米英ソ)の責任追及を恐れた軍部の命令(「太平洋戦争に関する戦争史料はすべて焼却せよ」)により、証拠隠滅
のために、大半の戦争史料が焼却されてしまったからだ。
- 要するに、大日本帝国の軍事指導者たちは、すべての戦争史料の焼却を命じて、責任逃(のが)れを企図した。
- 1945年8月14日から1週間ほどかけて、内地(日本固有の領土)の公的機関や外地(朝鮮・台湾など)の軍事機構の末端では焼却を続けた。そして、一週間ほど煙が上がりつづけていた。
- こうして、大日本帝国の軍事指導者たちは、太平洋戦争を知らしめる記録を存在しない状態にしようとした。
- 軍事指導者たちは、ポツダム宣言第10項にもとづく、自(みずか)らの罪を恐れて、いっさいの史料の焼却を命じた。これが私たちの国の基本的な体質なのだ。
- それゆえに、南京事件を論ずるときに、「日本にはその種の史料が残っていない、だから南京事件は存在しない」のだと主張するのは、国際社会で大恥をかくことを覚悟(かくご)しなければならならい。
- 南京事件否定論は、まるで「宗教」でもあるかのようだ。
- お茶の水付近の古本屋の主人は、こう証言する。「憲兵だった者が、古本屋を回って、自分たちの罪業(ざいごう)をつづった記録文書を買いあさっている。それを一ヵ所に集めて次々に焼却している」。こういう組織だった動きは、憲兵隊の罪業(ざいごう)を後世に残すまいとする焦(あせ)りであるが、古本屋の主人たちが、これに抵抗してあまり表の棚(たな)には、その種の書を出さなかった。
- こうした戦争の記憶と記録を解体させようとする動きは、1945年8月14日に、軍事・政治指導者たちが、「一切(いっさい)の史料を焼却せよ」と命じたその命令が、今なお生きているを意味する。
- さらに、南京事件の犠牲者の総数が、厳密に確定できないのは、1937年12月の南京事件から日本敗戦の1945年8月までの7年半、南京は日本軍の占領下に置かれたので、中国の南京市政府や中国人機関が、南京事件の犠牲者数を調査できなかったからだ。
- 南京事件否定派は、南京事件の犠牲者数の厳密な確定が、不可能なのを利用して、南京事件の事実自体も証明できないかのような問題のすり替えをしている。
- 西川議員は、国際連盟が非難行動をしなかったのは、南京虐殺を認めなかったからだと主張している。
- しかし、これはちがう。すなわち、ナチス・ドイツのヨーロッパ制覇(せいは)の危機に直面していたイギリス・フランス(ともに国際連盟に加盟)が、対日非難や対日制裁行動を実行する余裕がなかったのは、世界史を少しでも勉強していればわかる。
- 西川議員は、南京事件が『ニューヨーク・タイムズ』で報道されていないと主張する。
- しかし、これはちがう。すなわち、(国際連盟に加盟しなかった)アメリカでは、南京事件発生と同時に、南京事件が『ニューヨーク・タイムズ』をはじめとして広く報道されたので、アメリカ国民は抗議と非難の対日ボイコット運動を開始、それが対日経済制裁へと発展し、やがて日米開戦にいたった。
- 南京事件が歴史的事実であることは、学問的・歴史学的に証明され、日本の歴史学会では定説となっている。
- 日本の戦争を侵略戦争と断定した東京裁判(極東国際軍事裁判)で、南京事件が戦時国際法や人道法に反する残虐事件として裁(さば)かれたのは、それだけ南京事件が国際社会に知られ、立証できる膨大(ぼうだい)な証拠資料がそろっていたからで、南京事件はでっち上げられたものではない。



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