鹿児島の歴史      

昭和29年頃の市内
城山展望台から見た鹿児島市内と桜島(昭和29年頃)


 鹿児島市の城山展望台から眺めた、昭和29年頃市内の一部と桜島である。
昭和20年6月16日の空襲で、焼け野が原となった市内も、この頃には復興の
きざしがあちこちに見られる。
 手前の白壁の建物は昭和14年に歴史館として建設され、そのご改装された
美術館で(現在は新しく立て直されている)、その東側に中央公民館が見える。
昭和41年隣に県文化センターが新築されたとき、老朽化した公民館の存続が
懸念されたが、 外壁と内装の模様替えで保存されることになり、 小規模の会
場として利用されている。その北側にはバラック建ての名山小学校と校庭があ
る。



原始  古代  中世  近世  現代

  鹿児島は、旧薩摩・大隈の2国と日向国の南部、それに琉球国の一
部とから成り立っている。 古代、隼人居住の国として大和朝廷に服従と
反乱を繰り返した。 その後大荘園島津荘が出現してから、鎌倉幕府の
守護・地頭として勢力を拡げた島津氏が、 領国支配と南島貿易を展開
した。 明治維新後、西郷隆盛らの維人を多数輩出したが、積極性と消
極性 、開放性と閉鎖性は本県の特色と言われている。
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 旧石器時代・縄文時代の鹿児島は、遺跡から発掘された石器・土器・
塚などで想像できるが、 古代から火山の噴火による火砕流や火山灰
になやまされていたと推測できる。 鹿児島市内の縄文遺跡は、市街地
北部の吉野台地から、 南部の鹿児島湾に臨むシラス台地の 縁辺部に
多く見られる。 これはシラス台地の 透水性が強く、 台地面では水が得
にくいため谷や断層部の湧水地にその住居を求めたためである。
   鹿児島市内の遺跡
     石郷遺跡(吉野町上ノ原)……縄文後期の土器・住居跡
     若宮神社遺跡(池之上町)……縄文後期の土器・住居跡
     大竜小学校遺跡(池之上町)……縄文後期の土偶
     草野貝塚(七ツ島付近)……縄文後期の貝塚・土器
     一の宮遺跡(郡元町)……弥生中期の住居跡・土器
     その他……弥生後期の県立医大遺跡・皇徳寺遺跡・笹貫遺跡
「古代」   戻る
 鹿児島県は古くは熊襲の地、隼人の地とよばれ、宮崎県地方とあわせて
日向と総称されていた。隼人族の反乱は知られているが、中央政府に対す
る反抗は根強く、大化改新の重要政策であった班田制も、約1世紀遅
安時代に入って実施された。 しかし、 大和の勢力がのびるにつれて隼人
族のなかには朝廷に奉仕するものも現われ、朝廷でも隼人司をおいてこれ
管理した。薩摩国と多国ができたのは709年(和銅2)で、のち多
713年(和6) に設置され大隈国に併合した。 平安時代に入ると荘園の開
設が進み、11世紀初期、 大宰大監平季基が島津荘(宮崎県都城市)をひ
らいた。
中世」   戻る
 島津荘は急激に大きくなり、島津荘下司職の惟宗忠久(のち島津氏)は11
85年(文治1)出水地方に入り、のち薩摩・大隈・日向三国の守護となった。
島津氏は鎌倉時代初期には鎌倉におり、鹿児島への居住は1341年(暦応
4)島津貞久が鹿児島郡東福城に入城したのが始まりとされている。 その後
1387年(元中4)清水城が造られ、貴久が1550年(天文19)に内城を築いて居
  ◎ 内城……(鹿児島市大竜町)
       内城は一重の掘をめぐらせた程度の館で、防衛的機能がとぼし
       1600年(慶長5)の関が原の敗戦を機に移転問題が表面化した。
を構えた。この付近の山手地域は武家屋敷が集中し上町と称し、稲荷川河
口と滑川(なめかわ)から 海岸堤防付近(柳の木が植えてあり後の柳町)が民
中心の下町といわれていた。
「近世」   戻る
 室町末期になると島津氏は勢力をのばし、 九州全土を制覇しようとしたが
1587年(天正15)豊臣秀吉の出兵によって挫折した。鶴丸城の構築は 1603
年(慶長7)頃といわれ、1696年(元禄9)に焼失し再建されたが、櫓・天守閣の
ない単純な館造りであった。当時の屋敷は上町中心であったが、 やがて甲
突川の右岸に武家屋敷・町屋敷が立ち並び城下町が形成された。 上級武
士は千石馬場通り沿いに居住し、加治屋町あたりには下級武士が居住して
た。
 戦国時代の甲突川は城山の東麓から御着屋(現在の中町山形屋付近)を
経て俊寛掘(現在の朝日通り)あたりが河口だったそうで、稲荷川の河口とと
もに港になり、海外貿易が盛んとなった。
 島津氏は明 ・朝鮮・南方諸国との貿易に力を入れ、鹿児島・阿久根・山川
坊津などは貿易港として重要な地であった。海外に門戸を開いていたので、
鉄砲・キリスト教は、まこの地に伝えられた。
 関が原の戦いで島津義弘は石田三成についたが、敗れて敵中突破のうえ
帰国した。その後生麦事件の犯人処刑などの要求を拒否したことで、 薩英
戦争がおこり英国東洋艦隊の砲撃で、鹿児島城下は大きな被害をうけた。
また西郷隆盛らの西南の役でも鹿児島の町は焼かれた。
現代   戻る
 1871年(明治4)、廃藩置県により大隈と薩摩は鹿児島県となり、1889年(明
治22) 4月1日市制・町村制により鹿児島市などの市町村が生まれた。当時
の鹿児島市の住宅は約8割が甲突川から稲荷川にいたる地域に集中し、甲
突川南部は荒田・高麗・常盤・鷹師・薬師の各町に人家が見られる程度であ
った
  大正・昭和初期には鉄道の開通や各種学校の創設、ラジオ放送の開始
など町らしくなってきたが、1945年(昭和20)3月以降度重なる空襲、 殊に6月
17日の空襲は鹿児島市内を焼け野が原にし、多くの死者をだした。しかしそ
の後の復興はめざましく、1967年(昭和42)には谷山市と合併してほぼ現在の
鹿児島市ができあがった。1889年(明治22)に誕生した 当時の鹿児島市は
積14.03平方キロ、人口57、822人であったが、2004年(平成16)5月現在の人
口は554,847人となっている。なお同年11月町村合併で604,995人、面積546.
95平方キロとなった。
  ナポリ市(イタリア)・パース市(オーストラリア) ・長沙市(中華人民共和国)・
マイアミ市(アメリカ合衆国)・鶴岡市(山形県)とそれぞれ友好都市・姉妹都市
兄弟都市の盟約を結んでいる。




鹿児島市の一口メモ   戻る

           ○ 鹿児島市の旗と鹿児島市の紋章

鹿児島市の旗 鹿児島市の紋章
鹿児島市の旗 鹿児島市の紋章

         ○ 鹿児島市の花と鹿児島市の木(1968年(昭和43)11月1日制定)

鹿児島市の花 鹿児島市の木
鹿児島市の花(きょうちくとう) 鹿児島市の木(くす)

         ★ 「きょうちくとう」・・・ 夾竹桃。インド原産で、わが国には江戸時代に花を
                       鑑賞するため栽培植物として渡ってきた。高さ3b
                       〜5b、盛夏にかおりのよい濃いピンクの花を多数
                       つける。鹿児島では6月から9月頃までで、公害に強
                       く
車の往来が激しい場所でも育ち、 夏の日照りにも
                       負
けることなく鮮やかな花が咲いている。

          ★ 「くす」・・・・・・・・・・樟・楠。東海地方以西の暖帯林に産する大木で、枝
                        は四方にのびて、 うっそうとした樹冠をつくる。 常緑
                        樹だが、春の芽立ちは全体が黄褐色となって美しい。

                        葉や枝を折ると芳香がある。

 

60万都市誕生   
 2004年(平成16)11月1日、隣接する吉田町・桜島町・喜入町・松元町およ
び郡山町と合併し、人口は604、995人となった。 
           ◎ 旧5町の沿革
 ○吉田町(町花木・・・もくせい)
  薩摩半島の北東部、思川上流域の台地上に位置している。吉田町は
  平安末期〜戦国期に吉田院と称していた。大隈国分八幡宮の神領か
  ら1562年(永禄5)島津氏が治めるようになった。1889年(明治22)吉田郷
  を吉田村と改称し、2035年(昭和47)吉田町となった。
 ○桜島町(町花・・・桜、町木・・・アコウ)
  鹿児島市の対岸にある「桜島」の西半分に位置している。「桜島」は北
  岳・中岳・南岳の火口を持つ円錐状の火山島。記録では文明・安永・大
  正・昭和年間の噴火が大きく、現在も活動中である。
  江戸期からは桜島郷で向島郷ともいう。1889年(明治22)に東櫻島村と
  西桜島村に分かれた。東桜島村は鹿児島市に合併され1950年(昭和
  25)東櫻島町となり、西桜島村も合併の話があったが、そのまま1973
  (昭和48)に櫻島町となった。
 ○喜入町(町花・・・ツワブキ、町木・・・メアサスギ)
  鹿児島市の南、錦江湾沿いに位置している。古くは「給黎」と言われて
  いた。1889年(明治22)に給黎郡喜入村、1896年(明治29)指宿郡に所
  属、瀬々串村・中名村・前之浜村・生見村の4ケ村が合併して成立。
  1956年(昭和31)に喜入町となった。
 ○松元町(町花・・・菊、町木・・・イヌマキ、町花木・・・ツツジ)
  薩摩半島の中部に位置している。鎌倉期から薩摩国伊集院、1889年
  (明治22)に上伊集院村となり、1960年(昭和35) 6大字を継承して松元
  町となる。
 ○郡山町(町花・・・カンナ、町木・・・イヌマキ、町花木・・・つつじ)
  日置郡の最東北部に位置している。鎌倉期から郡山、江戸期からは郡
  山郷、1889年(明治22)に郡山村、1956年(昭和31)に郡山町となる。