松戸市早朝テニスクラブ

 
強者(ツワモノ)たちへの追憶     
                        最終更新日2004.4.11


「鴇田忠彦さんをしのぶ会」開催       

多年にわたり松戸市早朝テニスクラブ、松戸市テニス協会でご活躍されていた鴇田忠彦さん(享年61歳)が昨年11月21日逝去され、早や5カ月近くが過ぎ去りました。都立大学、一橋大学で教鞭を執られる多忙な日々の傍ら、生涯スポーツとしてテニスをこよなく愛し続けた鴇田さんでした。


平成16年4月11日(日)午後3時〜午後5時、小金原市民センター2Fホールに多数のテニス関係者が集い「鴇田忠彦さんをしのぶ会」を開催しました。(主催=松戸市早朝テニスクラブ有志、松戸市テニス協会有志)
                    

    奥様の靖子さんが思い出を語られているところです。

最後に全員で腕を組んで早朝テニスクラブ愛唱歌「今日の日はさようなら」を合唱しました♪♪♪♪  
        

         

      
                鴇田さんの遺影を囲んで記念撮影いろいろ

   

訃報

鴇田忠彦氏ときた・ただひこ=一橋大学大学院経済学研究科教授)11月21日、腎不全で死去。61歳。葬儀は近親者のみで済ませた。自宅は千葉県松戸市小金原3の7の15。喪主は妻、靖子さん。
専門は医療経済学。政府の米価審議会や医療保険・福祉審議会、都の都立病院改革会議委員などを歴任した。     
(読売新聞 2003年12月2日付 おくやみ記事より)

鴇田忠彦先生、突然の訃報に接し言葉を失っております・・・。

以下は、小生の個人的ホームページで「松戸市早朝テニスクラブ」の名物(?)的人材を紹介するコーナーで書いていた文章である。「早朝の強者たち」というタイトルだったが、鬼籍に入られた方々とともに鴇田先生を紹介していて、先生ご本人から「あのコーナーはなんとかしてほしい。松戸市シングルス準優勝の山野辺くんを紹介する原稿を書くから、いまクラブで活躍中の人物とともに(ご自身を)紹介してほしい」と苦笑混じりに言われていた。しかし、その原稿は、とうとう頂戴することができなかった・・・・。
                            (合掌   
2003年12月2日夜)




▼鴇田先生は、昭和58年に“新生した”松戸市早朝テニスクラブの初代代表であり、先頃まで松戸市テニス協会の副会長として活躍された。

▼鴇田先生は、一橋大学経済学部教授の要職にありながら、「早朝Aチーム」の監督(本人は兼プレーヤーと自称)を長年努めてこられました。「早朝Aチーム」はMリーグクラブ対抗戦において、ずーっと1部リーグや2部リーグで頑張っています。ちなみにM(松戸)リーグクラブ対抗戦の1部リーグは、各テニスクラブのコーチ陣などが出場、ハイレベルで争われているリーグで、われわれレベルで、ここでプレーするのはとても勇気がいります。

▼ちなみにB級テニス通信(編集主幹=しゅうちゃん)でおなじみの「早朝Bチーム」は現在、Mリーグの3部にあり、「早朝Cチーム」は5部リーグ、「早朝Dチーム」は7部リーグにいます。さらに「早朝Eチーム」が10部リーグに登録されていますが、ここまでクラブメンバーが対外試合に熱心になった背景には鴇田先生の努力が大いに影響していると言っても過言ではないでしょう。

▼さて私見ですが、ダブルス試合などで鴇田先生のカエル跳びボレーを拝見すると、観ている方が、どちらかというと「恥ずかしい」ような…。でも、前述のものすごいレベルの1部リーグで、かつて鴇田先生は選手として試合に出場、当然、負けはしましたが、しかし、なんと0負けではなく2ゲームもとり、本人は「もっとゲームがとれたのに!」と悔しがりながら、引き上げてきたのでした!この勝負に対する執着心は大したものです

▼でも、普段のテニスでも、ダブルスを組むときに、勝つために組む相手を選ぶので、周りからひんしゅくを買うこともあるみたいですよ!
   注! 年賀状で、そんなことはないと否定されてきた(2000.1.31)。


▼なお、2002年2月1日付読売新聞夕刊、2002年12月25日付日本経済新聞に鴇田先生の専門である医療制度改革についての解説や論文が掲載されています。もちろん、テニスとはなんの関係もありませんが、興味のある方はこちらへ。
             一橋大学経済学部「鴇田ゼミナール」のホームページへ
                     

                     鴇田先生「プロフィル紹介」の大学ホームページへ

▼しゅうちゃんが初めて早朝テニスに出勤(?)した昭和57年(1982年)4月のある朝、栗が沢コートの6番コートから手招きされてお手合わせをしていただいたのが、鴇田先生です。「早朝テニスでボールを打つ数をこなすと、君はすぐ巧くなるよ」と激励(?)されたことをいまでもよく覚えています。その鴇田先生をアッという間に追い抜き、悔しがらせているのですが、テキはいまでも小生のことをライバル視しているようです。

写真は、平成2年(90年)11月の流通経済大学との対抗戦でのスナップ、前列左端が鴇田先生。後列右から3番目でVサインを出しているのが、しゅうちゃん。

早朝テニスクラブと流通経済大学テニス部との対抗戦も、鴇田先生のイニシアティブでスタートし、年々盛り上がってきた企画だ。みんなで竜ヶ崎に行くのは楽しみだった(写真下は91年9月、試合前のあいさつで勢揃い)

92年6月21日、北豊島コートで、早朝テニス祭り。後列左端が鴇田先生。


▼最近は、先生のテニスも国際化され(本人の弁)、その活躍ぶりをぜひ、小欄で紹介されたし、と写真を送ってこられました(99年12月7日)。しょうがない?から掲載しましょう。

9月のある日、えげれすのヨーク市、ハンチントン家のグラスコートで。
ペアはハンチントン夫人といって、ウインブルドンにも出場した英国最初の女子プロだそうです。
トンチンカンな鴇田先生のプレーぶりにさぞ、驚かれたことでしょう!
                    (うまいっ!ザブトン1枚をしゅうちゃんに!)

99年10月8日、松戸市と韓国・大邱市との日韓親善テニスが行われた。鴇田先生は松戸市の選手団の団長として歓迎の任を担われた。

(通訳のおねえさんと、市長主催のパーティー会場で)


訃報
平成14年7月22日、藤村甲郎氏が亡くなられた、83歳だった。
八柱の「森のホール 松戸儀式殿」で通夜(24日)、告別式(25日)がしめやかに執り行われた・・・合掌       
2002年7月26日


 

▼藤村先生は、98年(平成10年)5月4日、戦績の記録をつけ始めて以来、なんと1万試合を達成した!記念のボールペンを小生もいただいた。昭和56年10月から平成10年5月まで6060日、16年と7ヶ月3日で果たした記録。ほとんどダブルスだが、ちなみに3768勝5729敗503引き分け。

藤村先生とダブルスで組むと(対戦しても)記録されるので、みんな、戦々兢々となるのだ!

その恐るべき記録から抜粋してみた。

記録開始 昭和57年試合数326、       63歳
     平成元年 試合数546、累計3642 70歳
     平成3年10月5000試合達成    72歳
     平成7年 試合数990、累計8120 76歳

▼藤村長老は、もと数学の先生、現在、松戸フレッシュクラブ(会長・室谷邦雄さん)の一員でもあった。

注=フレッシュクラブとは、シルバーテニスの普及に貢献する、入会資格65歳以上のテニスサークルで、メンバーのなかにはNHKで紹介された90ウン歳の現役プレーヤ−もいる。


訃報

1999年大晦日、「早朝テニスクラブに、名物人間・横田あり」と謳われた横田 實(よこた・みのる)氏が逝去された。68歳だった。

鴇田氏から追悼文を当ホームページにぜひ掲載乞う!と送付してきたので、ここにその全文を掲載して、在りし日の横田氏を偲びたいと思う。合掌
              2000年2月18日shu

                      

 横田 實氏を送る

 松戸市早朝テニスクラブ第3代代表 横田 實氏が、平成11年大晦日に逝去した。
同氏は同年春から体調不良のため入院加療されたが、持ち前の勇猛心によって闘病生活も順調で、半年余り神奈川県大磯の自宅で静養し、好きな庭弄りをするまでに回復した。しかし平成11年12月半ばに再度入院し、正月を家で過ごすべく30日に一時退院をしたが、翌31日急逝した。昭和6年7月生まれの享年68歳、遺族は奥様と一男一女である。菩提寺は大磯駅に近い島崎藤村の墓地もある地福寺で、『實相院毅昌英俊居士』が戒名である。

 農林省官吏だった父君の転勤で幼時から各地を移り住み、千葉県立佐原高校から早稲田大学理工学部を卒業し、とくに神奈川県下の橋梁などの土木設計を生業とした。母方の実家の関係で大磯町に在学中から居住したが、そこで淑子夫人と知り会った。新設間もない常盤平団地に新所帯を持ち、2年前大磯に転居するまでおよそ30年近く住んだので、松戸にはほぼ半生を過ごしたことになる。松戸では川柳やテニスを通じて、地域住民と交流を深めることになったが、小生もそのようにして友誼を結ぶようになった。

 横田氏は一言でいえば豪放磊落で、近来まれに見る快男児だった。小事に拘泥せず、小市民的な生き方を喜ばず、小利よりもつねに大義を求めた。友人としては信義に厚く虚言や諂いはなく、申し分のない人物であった。しかし並外れた酒豪で、収入の多くを消尽してしまうことから推察するに、家庭人としては多分落第であった。生涯の仕事の土木設計では個人として神奈川県下では著名だったが、それだけに時流に乗ることができず、組織人として大成することはなかった。まさしく横田氏は正真正銘の侍であったが、遺憾なことに氏はあまりに遅く生まれ過ぎた。横田氏ほどの剛毅な胆力と鋭敏な知能、さらに類まれな感性の持ち主なら、幕末激動の時代に生まれれば、大磯に現在でも名残を留める多くの明治の元勲の仲間入りも、あながち夢ではなかったろう。

 横田氏にまつわるエピソードは尽きることはない。彼の人生そのものがまさしくエピソードであった。テニスについては周知であるから省くとして、一つだけ紹介しよう。彼が学んだ早大理工は現在でも漕艇の盛んなことで知られているが、彼の時代もそうだった。あるとき彼を含めたフォアのメンバーは隅田川を遠漕したが、そのうち彼の発案で山谷堀を遡って、艇をそのままにして大門から登楼し、翌朝きぬぎぬの別れをした後に何食わぬ顔をして、艇庫に戻ったそうである。小生のボート歴は間もなく40数年になり、多数の先輩からボート談義を聞かされたが、この話に勝る痛快なものを寡聞にして知らない。

 横田氏はテニス以外にも多彩な趣味をもち、実と号して当意即妙な川柳を瞬時に発句することで、しばしば我々を驚嘆させた。その味のある文字に綴られた17文字の川柳は、素人離れしたもので江戸の文人を彷彿させた。ちなみに最近の作品を以下に披露しよう。

  今日も無事 生きたと思う 旨い酒     暦だけ 嘘を吐かない 朝が来る

  悔いを消す 酒が空しく 胃で揺れる    花は佳し この丹精を 裏切らず

これらはいずれも発病後の作品であり、健在だった時期よりも、さらに人生を見る深みが増し、ある種の諦観が伝わってくると思えるが、如何であろうか。

 我がクラブは、この数年田中全人・本沢咲子の貴重な会員2名を失っている。ここで横田 實氏を失ったのは痛恨の極みである。とくに田中・横田の両氏は昭和58年、クラブの難産の末の創立の中心であり、稲垣氏が実質的にクラブを離れた現在、ついに小生が孤塁を守るのみである。4人のうち誰が欠けても現在のクラブはなかった。田中全人氏が45歳で早世したとき、小生はその端正な風貌と温かい人柄から、「彼は全ての女性に愛され、かつほとんどの男性にも愛された」と書いた。今横田 實氏について、「彼を理解できる女性は稀だった、そして彼を理解し得た男性もほんの少しであったが、彼のようには生きられないと深く羨望した」と書くべきだろうか。

 小生が生前彼に最後に会えたのは、急逝される5日前で、平塚市民病院の眺望の良い個室においてであった。さすがに体力の衰えは明らかだったが、以前ほどではないとしても闘病への気力は依然として残っており、看護婦さんには病気と闘っていると明言し、小生にはまだ死ぬわけにはいかない、と述懐されていた。いっものように簡単な別れの挨拶をしたのだが、それが本当に最後になるとは、人の世の儚さを思い知らされた。

 横田實氏の納骨は、冬晴れの平成12年2月5日に、上記、大磯の地福寺で行われた。その折に作成した小生の駄句に、今は亡き彼は、何と言って笑うだろうか。

 梅の香の ほのかに匂う 友の寺       穏やかな 海辺に眠れ 猛き友

 在りし日の 君を偲んで 交わす酒

 ともあれ彼は今や、相模湾を望む大磯漁港に近い地福寺の墓地で、永き眠りについてしまつた。会員諸兄姉よ、もし心あらば、東海道本線大磯駅を過ぎるとき、横田 實氏を偲んで一瞬の瞑目をなされんことを、故人の知遇を得た小生は伏して乞い願う次第である。

                             平成12年2月 合掌 鴇田忠彦拝

追記

 横田 實氏発病以来、大磯に見舞われ、かつ葬儀などに参列された、古市・稲垣・本沢・国吉および高橋の各氏に対して、淑子夫人からお礼の言葉が寄せられている、記してお伝えする次第である。さらに夫人からは、永年故人がお世話になった、多数の会員各位によろしくとの言葉を預かっている。この場をお借りしてそれを伝えたい。なお遠方であるが故に、故人と夫人の強い要望で、彼の発病を知りながら小生は関係各位に通知しなかったが、そのことをここに謝すとともに、ご理解を得たい次第である。

 横田 實氏は、松戸市テニス協会の理事や監事などの役員を永年務められ、平成5年に松戸市体育協会から体育功労賞を受賞している。このとき実質的に体育協会に堆薦したのは、平木理事長であり、以下の推薦文を書いたのは小生だった。横田・平木・鴇田の3名はそれぞれ個性が強いうえに互いに頑固であったが、何故か知り合って10数年になるのに諍い一つしなかった。以下の推薦文とそれに対する平木・横田両氏の反応は、そんな関係を伝えている。私的な書簡も含まれているが、原文のまま記載することを許されたい。


松戸市体育協会会長殿                       平成5年2月

                            推薦団体 松戸市テニス協会

                                 会長 神倉和是

 候補者氏名 横田 實

   昭和6年7月3日生

 横田 實氏は、中学・高校時代はサッカーやバスケットボールを愛好し、早稲田大学理工学部在学中は漕艇に興味を覚え、とくに遠漕を好んだ。社会人となってからは、各種のスポーツを試みたが、景観を楽しみながらのサイクリングを日常的に最も愛好した。現在でも、松戸と神奈川県大磯町の居宅とをしばしばサイクリングで、行き来することがある。満50歳を期してテニスを思い立ち、爾来テニスに打ち込んでいる。  テニスの実績としては、昭和61年度松戸市市民大会において、壮年の部準優勝をはじめ、壮年の部の常連であり、クラブ対抗戦などにおいて活躍した。横田 實氏の特筆すべき貢献は、上記のようなプレーヤーとしての実績もさることながら、その卓抜した指導力と芸術的な才能によって、松戸市テニス協会や松戸市早朝テニスクラブの発展に努めたことである。とくに平成元年に創立25年を迎えた、テニス協会の『25年誌』の編集をほとんど独力で完成させたことは、テニス協会の存続する限り銘記されるべき実績である。横田氏は松戸市内のほとんどのテニスコートを訪れて、得意のスケッチでカットを描いたのであるが、都市化の進展でいくつかのコートは消滅し、現在では往時をしのばせる貴重なものである。横田氏の貢献によって、おそらくこの『25年誌』は他の追随を許さない立派な記念誌として、類書の模範となった。さらにテニス協会では過去10年にわたって役員を務め、その豪放磊落な人柄から、松戸のテニス界の代表的な人物として慕われている。

 上記以外の特筆すべき事項としては、テニス協会から派遣されて、松戸市体育協会の評議員を務めたこと。さらにテニス協会傘下の松戸市早朝テニスクラブの代表を務め、松戸市のテニスの普及・発展に貢献したことが指摘できよう。

 (以上は小生の横田氏への推薦文で、それを理事長の平木氏に送ったのであるが、それに対する平木氏の返礼は次のようなものだった。)


 鴇田先生 早速、名文を有難うございました。同氏の”国葬”の際の弔辞に盗用させて頂きます。                                       1993年2月20日 平木


(さらにこれらに対する横田氏の礼状は以下のようなものであった。)

前略 過日は過分なお見舞いを、且つ、退院祝いまで頂戴いたし、恐縮の限りです。どうも有難うございました。お蔭様で術後の経過は、本人の性格とは裏腹に順調であり、家内共々喜んでいるところでもあります。

 この度は至らぬ小生のために、これ又過大な評価の推薦文を起筆して傾き、まことに光栄とも思う反面、何とも面映い気持ちで一杯であります。それにしても昔小生がしゃべったことを逐一、インプットされ、

又、自在にアウトプットされる貴殿の記憶力の素晴らしさには改めて敬服いたしております。

 とまれ、過去に表彰など縁のない小生の人生にとって、これは一大椿事であります。又、平木氏のメモを読み、思わず苦笑しているところでもあります。反語のようで、自分でもちょっと抵抗があるのですが、駄句一つを添えてお礼のことばにする次第です。

                       先ずは取り急ぎご挨拶まで。        不尽

      表彰をされ 葬儀屋に 予約する  実

 鴇田大兄                           平成五年如月二十日

  


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