”時”は一日を細かく分けたもので、昼、夜、朝、夕、日中、黄昏、早朝などと使われます。昔から一時間といった概念はあったようで、董作賓氏の研究によると、殷の時代から新旧両方の時間があり、お互いに相容れなかったようです。両者が一致したのは、
漢の太初の後、十二の名称が用いられました。”十二辰”は、昔の人が赤道圏で東西を12に分けたからです。方位を十二支にしたため、漢の暦を製作する人が借用したのです。一昼夜を十二時辰とし、太陽のある方向を命名しました。日の出が卯、正午が午、日没が酉です。
十二時とは別に”百刻制”も用いられました。春分・秋分は昼夜それぞれ五十刻、冬至は夜六十刻、昼四十刻、夏至は昼六十刻、夜四十刻です。また日の出前三刻を早朝、日没後三刻を昏としました。これは漢以降二刻半に改められました。よって夜は五刻加えられます。また、夏至から秋分までに昼が九刻半減り、秋分から冬至までは十刻半減ります。冬至から春分までは十刻半増え、春分から夏至までに九刻半増えます。また、二十四節の間では、増減が多少変化します。漢初期の計算出は、9日ごとに一刻増減する計算です。下の表を参照してください。
| 二十四節 | 昼の刻 | 夜の刻 | 二十四節 | 昼の刻 | 夜の刻 |
|---|---|---|---|---|---|
| 冬至 | 45.0 | 55.0 | 夏至 | 65.0 | 35.0 |
| 小寒 | 45.8 | 54.2 | 小暑 | 64.7 | 35.3 |
| 大寒 | 46.8 | 53.2 | 大暑 | 63.8 | 36.2 |
| 立春 | 48.6 | 51.4 | 立秋 | 62.3 | 37.7 |
| 雨水 | 50.8 | 49.2 | 処暑 | 60.2 | 39.8 |
| 啓蟄 | 53.3 | 46.7 | 白露 | 57.8 | 42.2 |
| 春分 | 55.8 | 44.2 | 秋分 | 55.2 | 44.8 |
| 清明 | 58.3 | 41.7 | 寒露 | 52.6 | 47.4 |
| 谷雨 | 60.5 | 39.5 | 霜降 | 50.3 | 49.7 |
| 立夏 | 62.4 | 37.6 | 立秋 | 48.2 | 51.8 |
| 小満 | 63.9 | 36.1 | 小雪 | 46.7 | 53.3 |
| 芒 | 64.9 | 35.1 | 大雪 | 45.5 | 54.5 |
さらに”更・点”という制度があり、一夜を五更に分けました。これを一更、二更、…五更、あるいは”甲夜”、”乙夜”…”戊夜”とし、一更を五点に分けました。”更”により夜の定時が分かるようになりました。古代では毎更に太鼓をたたいたので、現在「鼓楼」あるいは「鐘楼」が遺跡として残っています。一更は全てが同じ長さだった訳ではなく、”夜”は日が落ちてから日が出るまででした。よって、具体的な時間の長さを測るのには注意が必要でした。
十日の干支表の語源は、「史記・律書」、「漢書・律暦志」は、後漢の「釈名」と対照的で、大同小異です。
(意味は略、後日掲載します。)
他の解釈では、「太一経」では、「頭は甲から始まり、甲は人の頭を表わす。乙は甲を受け、人の頚を表わす。丙は乙を受け、人の肩を表わす。丁は丙を受け、人の心臓を表わす。戊は丁を受け、人の胸を表わす。己は戊を受け、人の腹を表わす。庚は己を受け、人のへそを表わす。辛は庚を受け、人の股を表わす。壬は辛を受け、人のすねを表わす。癸は壬を受け、人の足を表わす。」としています。郭沫若は十干が2つの系統から発するとして、甲、乙、丙、丁は魚の体のもの、戊、己、庚、辛、壬、癸はものの形、多くは武器から生じたとしました。
十二辰の意味は、「准南子・天文訓」、「史記・律書」、「漢書・律暦志」と、「釈名」の解釈で多くは違いません。「准南子・天文訓」では、「帝は四維を張り、遠くを囲んだ。月は一辰でその場所に帰る。正月を辰、12月を丑とする。1年で回り、終わってまた始まる。寅は万物のみみず(?)を指し、卯は栄えるさまをさす。辰は奮起するさまをさす。巳は生きた蛇(?)を指す。午は反抗を示す。未はわからないさまを指す。申はうめくさまを指す。酉は飽きるさまを指す。戌は滅びるさまを指す。亥は隔てるさまを指す。子は増えるさまを指す。丑はかなめを指す。」また他の解釈もあり王充は「論衡」で十二辰を十二の動物と解釈しました。つまり子、丑、寅…を鼠、牛、虎…としました。
以上で古今の、十日、十二辰の解釈を列記したが、人は信じ難いというそうです。ただし十日、十二支の符号の由来は疑いがありません。
中国で干支は一般に、東漢から使用が始まりました。東漢の建武三十年(西暦54年)以後、六十 甲子の紀年が用いられ、今も続いています。紀年の方法は甲子が一年、乙丑が二年、丙寅が三年、…、癸亥で終わり、1周60年です。その後また甲子で始まり、1924年が甲子の年、1925年が乙丑、1984年がまた甲子です。干支を用いる前は人々は、大歳紀年法を用いていました。この方法は木星の運動によるものです。昔の人は木星が太陽の周りを1周するのに12年かかるのを観測していたので、木星を歳星と呼びました。紀元前4世紀に初めて歳星の紀年法が提唱されました。具体的には天の黄赤道帯を西から東に12に分け、「十二次」と称し、冬至の点を真ん中に取り、星紀としました。
(以下は今後掲載します)
(ここまで8ページほどです。全部で120ページほどあります。完成はいつのことでしょう?)
Written by T_Tatekawa
Date 1997.3.23