暦の要素、および中国古代暦の通則

暦で重要となるのは、一般的に年、月、日、時ですが、中国の古代の暦では独自に、うるう月の設置、24の節、干支などを定めました。この点により、中国の古代天文学が世界の天文学の発展において重要な位置を占めるのです。

1.年

古代の暦では、年はいろいろなものが用いられました。回帰年は、太陽の回りを地球が一周する時間で、地面にさした竿の影の長さがもとに戻るまでの時間です。(現在では春分から春分までで定めています。)太陽年は12か月です。恒星年は、恒星が黄経を一周する時間、食年は太陽が黄道を一周する時間です。これらの長さは次のようになっています。

2.月

古代の暦では月も使用していました。朔望月とは、満月から満月までの時間(昔の人は用いなかった)で、恒星月は月が恒星との位置関係で再び同じ位置に来る時間、つまり月が黄経を一周する時間、近点月は地球に一番近い点に再び戻るまでの時間、交点月は再び黄点、あるいは白点に戻るまでの時間です。これらの長さは次のようになっています。

朔望月が最も早く用いられ、新月が出た日を月初めとしました。”朔”という字は、西周の「詩・小雅・十月の交」に現われています。

3.日および時

誰が”一日”と言ったのでしょう?古くから人々は「日が出て耕し、日が沈んで休む」とし、太陽が昇れば一日の始まりで、沈めば終わりとしていました。沈んでからは月の光を用い、昼と夜を合わせて”一日”としました。一日は夏王朝の時代から用いられ、殷では鶏が鳴くのが一日の始まり、周以降は夜半が一日の始まりとなりました。

”時”は一日を細かく分けたもので、昼、夜、朝、夕、日中、黄昏、早朝などと使われます。昔から一時間といった概念はあったようで、董作賓氏の研究によると、殷の時代から新旧両方の時間があり、お互いに相容れなかったようです。両者が一致したのは、

  1. 昼を”日”、夜を”夕”としたこと。
  2. 夜を分割せず、武丁時(旧派)では昼を7つ、祖甲時(新派)では、昼夜を10、夕を3つにわけたこと。
です。「左伝」の昭公三年(紀元前537年)に「日の数十。よって十時、または十位という。」と記されています。「随書・天文志」では昼、夜それぞれ五つに分割されています。両方の記述から、春秋戦国時代には、昼と夜は均等に分割され、十時制が用いられていました。その中で夜は”五更”制に変わりました。「准南子・天文訓」では一昼夜を十五に分けています。

漢の太初の後、十二の名称が用いられました。”十二辰”は、昔の人が赤道圏で東西を12に分けたからです。方位を十二支にしたため、漢の暦を製作する人が借用したのです。一昼夜を十二時辰とし、太陽のある方向を命名しました。日の出が卯、正午が午、日没が酉です。

十二時とは別に”百刻制”も用いられました。春分・秋分は昼夜それぞれ五十刻、冬至は夜六十刻、昼四十刻、夏至は昼六十刻、夜四十刻です。また日の出前三刻を早朝、日没後三刻を昏としました。これは漢以降二刻半に改められました。よって夜は五刻加えられます。また、夏至から秋分までに昼が九刻半減り、秋分から冬至までは十刻半減ります。冬至から春分までは十刻半増え、春分から夏至までに九刻半増えます。また、二十四節の間では、増減が多少変化します。漢初期の計算出は、9日ごとに一刻増減する計算です。下の表を参照してください。
「続漢志」に記載された二十四節の昼夜の刻の値
二十四節昼の刻夜の刻二十四節昼の刻夜の刻
冬至45.055.0夏至65.035.0
小寒45.854.2小暑64.735.3
大寒46.853.2大暑63.836.2
立春48.651.4立秋62.337.7
雨水50.849.2処暑60.239.8
啓蟄53.346.7白露57.842.2
春分55.844.2秋分55.244.8
清明58.341.7寒露52.647.4
谷雨60.539.5霜降50.349.7
立夏62.437.6立秋48.251.8
小満63.936.1小雪46.753.3
芒 64.935.1大雪45.554.5

さらに”更・点”という制度があり、一夜を五更に分けました。これを一更、二更、…五更、あるいは”甲夜”、”乙夜”…”戊夜”とし、一更を五点に分けました。”更”により夜の定時が分かるようになりました。古代では毎更に太鼓をたたいたので、現在「鼓楼」あるいは「鐘楼」が遺跡として残っています。一更は全てが同じ長さだった訳ではなく、”夜”は日が落ちてから日が出るまででした。よって、具体的な時間の長さを測るのには注意が必要でした。

4.干支

干支は”天干”と”地支”を合わせた呼びなです。甲、乙、丙、丁、戊、己、庚、辛、壬、癸を天干(または十天干、古くは十日)といいます。子、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥を地支(または十二支、古くは十二辰)といいます。十と十二の最小公倍数は六十なので、干支の順序は六十で一周する。よって六十甲子または六十花甲子といいます。

十日の干支表の語源は、「史記・律書」、「漢書・律暦志」は、後漢の「釈名」と対照的で、大同小異です。

(意味は略、後日掲載します。)

他の解釈では、「太一経」では、「頭は甲から始まり、甲は人の頭を表わす。乙は甲を受け、人の頚を表わす。丙は乙を受け、人の肩を表わす。丁は丙を受け、人の心臓を表わす。戊は丁を受け、人の胸を表わす。己は戊を受け、人の腹を表わす。庚は己を受け、人のへそを表わす。辛は庚を受け、人の股を表わす。壬は辛を受け、人のすねを表わす。癸は壬を受け、人の足を表わす。」としています。郭沫若は十干が2つの系統から発するとして、甲、乙、丙、丁は魚の体のもの、戊、己、庚、辛、壬、癸はものの形、多くは武器から生じたとしました。

十二辰の意味は、「准南子・天文訓」、「史記・律書」、「漢書・律暦志」と、「釈名」の解釈で多くは違いません。「准南子・天文訓」では、「帝は四維を張り、遠くを囲んだ。月は一辰でその場所に帰る。正月を辰、12月を丑とする。1年で回り、終わってまた始まる。寅は万物のみみず(?)を指し、卯は栄えるさまをさす。辰は奮起するさまをさす。巳は生きた蛇(?)を指す。午は反抗を示す。未はわからないさまを指す。申はうめくさまを指す。酉は飽きるさまを指す。戌は滅びるさまを指す。亥は隔てるさまを指す。子は増えるさまを指す。丑はかなめを指す。」また他の解釈もあり王充は「論衡」で十二辰を十二の動物と解釈しました。つまり子、丑、寅…を鼠、牛、虎…としました。

以上で古今の、十日、十二辰の解釈を列記したが、人は信じ難いというそうです。ただし十日、十二支の符号の由来は疑いがありません。

  1. 干支による紀年

    中国で干支は一般に、東漢から使用が始まりました。東漢の建武三十年(西暦54年)以後、六十 甲子の紀年が用いられ、今も続いています。紀年の方法は甲子が一年、乙丑が二年、丙寅が三年、…、癸亥で終わり、1周60年です。その後また甲子で始まり、1924年が甲子の年、1925年が乙丑、1984年がまた甲子です。干支を用いる前は人々は、大歳紀年法を用いていました。この方法は木星の運動によるものです。昔の人は木星が太陽の周りを1周するのに12年かかるのを観測していたので、木星を歳星と呼びました。紀元前4世紀に初めて歳星の紀年法が提唱されました。具体的には天の黄赤道帯を西から東に12に分け、「十二次」と称し、冬至の点を真ん中に取り、星紀としました。

(以下は今後掲載します)

(ここまで8ページほどです。全部で120ページほどあります。完成はいつのことでしょう?)


目次に戻る

トップページに戻る

Written by T_Tatekawa

Date 1997.3.23