主治医意見書は医師の医療観の鏡、か


はじめに
介護保険での医者の役割
専門医療という『錦の御旗』
医者は書類が嫌い
『と』な意見書のあれこれ
審査会での意見書の『重み』は
医療界のヒエラルキーと介護保険
ふたたび介護保険での医者の役割
おわりに

■はじめに■

 参議院議員選挙が終わり、郵便業界の方面でいろいろゴタゴタあったようですが、介護保険の世界では選挙後という既定路線のとおりにこの10月から保険料の全額徴収が始まりました。来年早々には支給限度額一本化も決まっていて、そろりと始まった制度もいよいよ全速力で動くことになります。
 現場では、介護保険が在宅支援・自立促進という理念を謳っているにも関わらず、実際には施設介護への指向が加速しつつあるような印象があります(註1)。在宅でのサービス利用が支給限度額の半分程度にとどまっているという統計もありました。介護老人保健施設で仕事をしている私も、介護保険発足前に比べて、在宅へもどるかたの割合が目に見えて減っているような印象を持っています(註2)。それがなぜなのか、実態がどうなのか、たいへん興味のあるところではありますが、それはここのテーマに沿う話ではありませんので、いまはその事実を指摘するだけにとどめておきます。
 さて、私の駄文ももう三回目になり、今回はいよいよ私がいちばん書きやすいテーマになりました。書きやすい、というのは、同業者として裏事情によく通じているし、他の職種や組織のことを書くよりもずっと遠慮なくこき下ろすことができるからです。私のように、医者としてあるていどの年齢になり、かつまた医学界の主流から遠く外れた場にいて、いろいろなシガラミにとらわれることが少ないと、この業界の異常さもよく見える、というわけで…。
 ところで、私は介護保険制度の大筋が見えてきた一昨年から、主治医意見書(当時は「かかりつけ医意見書」)は、主治医がそれぞれの患者さんの「何を診ようとしているのか」が分かる書類なのではないかと思っており、そして介護認定審査会でいろいろな意見書を拝見して、やはりそれを確信するようになりました。それで、『主治医意見書は医者の医療観の鏡、か』という刺激的な今回のタイトルになったわけです。

■介護保険での医者の役割■  ページの先頭へ

 介護保険制度が具体化してきたころ、介護も医療のひとつの分野であり、介護保険でも医師が中心的な役割をするべきだという意見がよく聞かれました。この状況、すでに老人保健施設の医者として何年か仕事をしていた私にはいわば『利権争い』のように映っていました。医療という権力の座にずっといた医師には、介護支援専門員を中心としてチームワークで行われる制度が、自分たちのテリトリーを脅かすものに見えたのかもしれません。
 当初、いまでいう『主治医意見書』のような形での医師の関わりは考えられていなかったという噂話も聞こえてきていました。あくまで『意見書』、いままでような『診断書』や『診療情報提供書』ではなく『意見書』、単に意見という名目でしかありません。お医者さんに意見は聞くけど判断はしていただかなくてけっこうですよ、という声が聞こえてきそうなネーミングだと思うのは私だけでしょうか。
 介護は、医療のひとつの分野ではありません。しかし介護と医療とは密接に関係していることは間違いなく、したがって介護保険に医師が関わることは必要でしょう。
 医療では医師がほぼ独裁的な決定権を持っています。「医師の裁量」という言葉は、行政や司法に対してさえときには免罪符になります。そのような世界にどっぷりと浸かってきたわけですから、医師側が介護保険でもそれなりの権力を確保しようとしたのも無理はありますまい。けっきょく、建前のうえでは主治医意見書を訪問調査と同等に扱うこと、介護認定審査会で医師の委員の割合を考慮することなどで折り合いがついたのではないでしょうか。
 もっとも、多くの医師の名誉のために急いでつけ加えておきますが、介護保険にあっても患者さんの生活・家庭などをよく知る主治医の意見はとても大事であるという、ほんとうに要介護者のことを思って危機感をつのらせていた医師が少なくないのも事実です。じっさい、これまで老人保健という医療保険で対応してきた患者さんの治療の一部が介護保険に移行するわけですから、とくに地域で医療を続けている開業の医師の役割は客観的にみても重要であることは間違いありません。
 そういう意味で、介護保険での医師の役割は、中心ではないものの、しかし絶対に必要なものであるわけです。ところが、介護保険の対象になる病人さんが新たに発生する病院、そこで働く勤務医師は、一部の例外を除いて患者さんの生活や家庭環境などについてあまり理解していない傾向にあります。そこに医療保険制度の変化に伴う長期入院への圧力が加わって、介護に無理解な状態のままで在宅や施設に患者さんを送り出してくるために、介護の現場で混乱が生じます。
 介護保険の制度そのものや主治医意見書の書きかたなどについて、制度発足以前から現在にいたるまで、主として医師会を中心に熱心に啓蒙が行われてきました。ところで、一般には意外に知られていないことですが、開業医のほとんどは医師会に所属しているものの、病院や大学で勤務している医師の大部分は医師会とは関係をもっていません。したがって、医師会がいかに頑張っても勤務医への影響力は弱いわけで、開業医が介護保険での医師の役割についてそれなりに問題意識を持つようになっているのにくらべ、勤務医では介護保険が始まって一年半になるのにかなりの温度差を感じさせることが多いのです。このことが、現場の混乱の大きな原因のひとつになっています。

■専門医療という『錦の御旗』■  ページの先頭へ

 じつは私自身も規模の大きな医療法人の勤務医のひとりです。ただ、いろいろな経緯がありまして、私は医師会に所属してあるていどの活動もさせていただいています。
 いっぽうで私は、かつて脳神経外科という分野の診療を基幹病院や地域病院でしていましたから、専門医療の経験もあり、きわめて多忙な中堅どころの病院での診療の経験もあります。そのような場では、ふつうは患者さんの傷病の治療こそ第一であって、それ以外のことはいわば雑音であるという傾向があります。誤解のないようにしていただきたいのは、このようなことは必ずしも悪いとは限らず、高度医療を必要とする傷病の治療ではやむをえない面もあります。
 ただ、それはあくまで実際の治療としてのことであって、医療者の姿勢としては、私はあまり好きな言葉ではありませんが「全人的医療」観がやはり必要だと思います。介護保険が始まりかけたころ、しばしば大学附属病院や専門基幹大病院が「専門医療を行っている場であるから」という、これまでいろいろな場で通用してきたらしい『錦の御旗』を掲げて主治医意見書の作成を拒否し、市町村の担当者を悩ませたということがありました。
 この話を聞いたとき、私は
「そのような医療機関で働く医師は、病気に興味があるだけで、患者さんを『人』として診る気はないのだ」
と感じ、講演会などでもそのように断じてしまいました。
 また、自分は介護保険制度に反対だからとか、どうせ自立(非該当)になるから書くだけ無駄だとか、ひどいのになると「自分はこんな意見書見たことないから」などという理由で作成を拒否する医師もいたようです。全国的に同様の事例が続出したようで、新聞でも報道されたりしたためか(註3)、さすがにそれらの理由で意見書を作成するのを拒否する医師はほとんどなくなりました(註4)。
 主治医意見書は、介護のことに関して記載するものではなく、介護の対象になるかもしれないかたの医療的な状況や心身の状態について医師が記載するわけで、その医師が介護の知識があるかないか、介護保険制度に賛成しているかどうかなどは無関係、ましてや医師が介護の必要度を判断するなどとんでもないということを忘れてはなりません。医師の意地は患者さんに迷惑をかけるだけ、しかも弱い立場の患者さんは面と向かって医師に文句もいえず、そうなるとやはり介護支援専門員さんの出番になるのではないかと思うのでした。頑張ってください、ケアマネさん。

■医者は書類が嫌い■  ページの先頭へ

 ところで、とくに勤務医は書類を作るのに不熱心だという傾向があります。病院で仕事をしていますと、それはもうじつにさまざまな書類の作成を依頼されます。内容がほとんど同じなのに、提出先が違うと書式が微妙に異なるため、同じようなものを何枚も書かなくてはならないこともあります。開業医に比べても、その量と種類は格段に多いと思います。
 そのうえ、自分の時間を潰して必死に書類を書いても、その書類の対価は病院の会計に加えられるだけで、給与所得者である勤務医にはなんの実入りもないのがふつうです。面倒で時間がかかってしかもなんの見返りもない、となれば、たとえ「仕事のうち」とはいえ、書類嫌いの医師をあまり責めるのも酷というものかもしれません。
 もちろん私も書類は嫌いです。できれば作りたくない。しかし、やはりそれを拒否したり遅れさせたりエエ加減に書いたりしたら、迷惑をこうむるのは患者さんやご利用者、家族のかたたちです。そういうことが分かっているからこそ、適切な書類を淡々と作成しているわけで、このことは世の書類嫌いの医師のみなさんにも理解していただかねばなりません。
 書類は溜めるとよけいに面倒になります。できるだけ早く作ってしまって、バックオーダーを抱えないこと、そのためにはITなどの利用でできるだけ手順の手抜きをすべきだと提案しておきましょう。そして、主治医意見書に関しては、日本医師会のシンクタンクである日医総研が『医見書』という専用ソフトを頒布しています(図1)。ちょっと使いづらい部分もあるものの、このソフトがあって私も数百人もの意見書作成の管理ができているというものです。
 そして、多くの医師ががんばって意見書を書きあげているからこそ、認定審査会で出てきた意見書にひどいのがあると、それはもうとても腹立たしくなるわけで、ID部分をマスクしてあるために誰だか識別できない同業者に思わず怒りを向け、その医師を主治医とあがめている患者さんに同情してしまうのです。

■『と』な意見書のあれこれ■
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 そこで、ほんとにひどい意見書、『と』(註5)な意見書があるという実情、これを可能な範囲で例示してみたいと思います。
 すべて主治医意見書の
『(4)障害の直接の原因となっている傷病の経過及び投薬内容を含む治療内容』
という欄でお見せします。お気づきのように、この欄に書くべき内容は、主治医がまさに医師の本業としてやっていることを書くべきところです。
 まずいちばん上のもの(図2-1)。意見書に限らず字が汚い医師が少なくないというのは定説ですが、これは最後まで判読不能部分が多すぎました。少なくとも意見書の文章は他人に読んでもらってナンボのもんです。読めない字が並んでいるのは、何も書いていないのと同じことでしょう。
 しかし、汚い字でもまだ書いてあるという努力は認めましょう。つぎの例(図2-2)はまったくなにも書かれていません。この意見書は末尾の『要介護認定に必要な医学的なご意見等をご記載してください』欄も空白でした。病名は高血圧症、『移動について』欄に「介助必要」とあるのがほとんど唯一の記載です。これが初回の意見書ですので、この医師は診療録(カルテ)にもなにも書いていないのではないかと心配になりました。こういう意見書でも金5000円が保険から支払われているのです。
 三つめ(図2-3)も字が踊っていて読むのに難儀しますが、なんとか判断してみますと「幻覚があるため心療内科にて加療」とあります。しかも「神」と思われる字をクシャクシャと消してあります。神経内科と書きかけたのか。良心的な主治医、かかりつけ医なら、心療内科での加療の内容に関してもあるていど情報提供しようと思うのがふつうではないでしょうか。いかにも「たかが介護認定に面倒くさい」と思いながら書かれたような印象を持ちました。
 近畿地方某市の介護認定審査会から市医師会への『かかりつけ医意見書の記載について』という文書が手元にあります。ここには、医学用語の多用を避けてほしいことや、できるだけ早く処理してほしいことなどとともに、上に指摘してきたような問題も列挙されており、これらのことはおそらく日本全国で発生しており、そしてほとんどのところで、職種間の力関係が作用して医師へ強く申し入れすることに躊躇し、これからも生み出されてくるのではないかと思います。
 そこで、ちょっと荒療治ではありますが、主治医意見書が「介護サービス計画作成に利用されることに同意」してあれば、積極的に患者さんご本人に意見書を開示していくということを私は提案しています。ご自分の介護認定の資料が、図に例示したようなひどいものであれば、患者さんが医師に対して持つ意識も変化するのではないか、と思うのです。そういう点から介護保険が医療を変えることになれば、介護保険本来の目的ではないものの、 いわゆる「結果オーライ」になるのではないでしょうか。

■審査会での意見書の『重み』は■  ページの先頭へ

 ところで、介護認定審査会では、個々の申請者について、訪問調査で得た基本調査と特記事項および医師の作成した主治医意見書を参照して要介護認定をすることになっているのはご承知のとおりです。
 基本調査と特記事項に関しては、一定の研修受講を義務づけられた市町村の職員または市町村の委託を受けた居宅介護支援事業所の介護支援専門員が作成しているもので、前号でも書きましたようにある程度の水準が維持されているように思えます(註6)。
 しかし、主治医意見書に関しましては、これまで書いてきましたように、必ずしも内容について一定の水準にあるものばかりとはいえない事実があります。
 なぜ医師にも調査員のようにそれなりの研修を受けさせないのかという疑問をもたれるかたもおられるでしょう。じつは、日本医師会は介護保険制度が始まる前に意見書の書きかたのマニュアルを発行していますし、またそれぞれの地区医師会で意見書の書きかた講習も実施されてきました。でも、前に書きましたように、勤務医の大部分は医師会のネットワーク下にありません。したがって、日本医師会とは別に組織された団体に属する一部の病院を除いては、くり返しますが新たな要介護認定を要する患者さんがいちばん生まれる場の医師が意見書に関する系統的な知識を持っていないという妙なことになっているのです。
 そういうわけで、審査をしていますと前に例をあげたように『と』な意見書にしばしば遭遇します。『と』な意見書ですと
「主治医意見書の内容を仔細に検討して訪問調査とつき合わせをして公平な審査の一助とする」
などということはできないわけで、要するに意見書は無視、ということになります。この場合は基本調査からコンピュータが結果を出した一次判定結果と、特記事項の内容のふたつだけで二次判定をせざるをえません。つまり、訪問調査にすべて依存するということになります。
 いまのところ制度が始まって間がないということもあって、『と』な意見書の割合はそれほど多くはありませんが、しかしこれから先増えてくる予感もあります。意見書がアテにならんということになり、また調査員の水準が揃って特記事項の内容の信頼性が増し、さらに一次判定の精度が上がってくるようになりますと、認定は基本調査と特記事項だけでしてしまえばよいということにもなりかねません。
 介護保険でも医師の意見を重視すべきだということで今の制度になったのですが、医師のテリトリーを侵されるのではないかという危機感で介護保険での医師の地位を確保しようと思っている医師たちも、そのような縄張り意識からではなく純粋に患者さんの権利を守ろうとして真剣に対処している医師たちも、医師が介護保険の場から外されることは望まないはず。そのためには、医師のすべてが介護保険に理解し協力をするような対策を考えるべきではないかと思うのです(とつぜん大上段に構えて言ってしまいましたが、では誰がそれを考えるのかといわれると、じつはハタと困りはててしまいます)。

■医療界のヒエラルキーと介護保険■  ページの先頭へ

 医療の世界には、最近の「チーム医療」という考えかたにもかかわらず、相変わらず確固とした上下関係、ヒエラルキーが残っています。
 とくに医師に関しては、学閥・医局閥・医師会・いろいろな利権を通じた関係などが複雑に絡みあって得体の知れない相関関係ができています。
 私自身はいろいろの事情があって、医学の世界の主流から遠く離れた傍流に自ら泳ぎ入っていますから、多くのヒエラルキーの呪縛には捕らわれないでいられます。そのような立場から見ていますと、とくに最初から観察することができた介護保険制度では医療の世界の妙な状況が目立ってしかたありません。
 介護保険制度の中枢である厚生省が直轄する国立医療機関や、やはり国の機関である国立大学附属病院が、かつて「専門医療機関の意見書拒否」の代表格であったことは記憶に新しいのですが、これなどは公的な指示系統、職制がほとんど機能せずに、医療界のヒエラルキーが優先された結果だと思えなくもありません。
 そう考えますと、医療と福祉と保健というべつべつの歴史や文化のある領域が合体せざるをえなかった介護保険では、おそらくそれぞれのいままでの論理が通りにくくなり、私が医療界の古い体質をあらわに観察したように、福祉や保健、あるいは行政の分野でも、それぞれにいろいろな矛盾を感じておられるかたもおられるのではないでしょうか。
 そういう軋轢が、それぞれの分野の新しい流れを作る原材料になればいいのですが…。

■ふたたび介護保険での医者の役割■  ページの先頭へ

 いっぽうでテロや戦争や貧困で多くの人命が失われているにもかかわらず、人類の未来に明るい希望をもたらすと期待される新しい知見や技術に裏打ちされた先端医療がもてはやされています。医療といえば、話題になるのはそういういわば『派手』なところばかりのようです。
 しかし、一般の市民にとっての医療は、もっともっと自分の周囲の、きわめて日常的なところにあるのがふつうでしょう。そう考えますと、介護保険での医療が多くの人たちから注目されていることを、医療者は忘れてはならないと思います。そして、そのことが具体的に見えているのが、主治医意見書なのだと、私は断じてしまいます。
 そういうわけで
「主治医意見書は医師の医療観の鏡、か」
と言ってみたわけです。

■おわりに■   ページの先頭へ

 私が医学部を出てから籍を置いていた医局(業界では「ムッター・クリニック」などといいます)にかつて古い扁額が架けてありました。病だけを癒すのは『小医』、人を癒すのが『中医』、国まで癒すのは『大医』という主旨でした。
 私のような一町医者が国家を憂いて地域医療の本業を忘れるのはどうかと思いますが、少なくとも「病気の人の生活」までを診る『中医』ていどにはなりたいものだと、その扁額を見るたびに思っていたことでしたが、いまそれを実践できているかどうか自分では判断できないものの、介護保険制度下での主治医意見書に象徴される医師の関わりは、まさに「人としての病人を癒す『中医』」になる機会であろうかと思います。
 あらためていいますが、たとえ「専門医療」にたずさわっていようと、病人にも生活があるのだという視点はぜったいに必要です。そのことを考えれば、主治医意見書の作成を拒否したり、あるいは患者さんには気の毒で見せられないようなズサンな内容の意見書を作ったりすることの恥ずかしさが分かるでしょう。
 介護保険はほんらいは介護のための保険制度ではありますが、その制度を通じて医療の世界の問題点が浮き彫りになり、医療にフィードバックされ、医療がすこしでもいい方向に変わっていくようになれば、予期していなかったことではありますが、介護保険制度にすこしでもよい評価が下されることになるのかもしれません。



註1:たとえば、山形県の市町村では「在宅より施設介護を希望する高齢者が目立つ」との声がある。施設に希望者が殺到して緊急度の高い人がすぐに入所できないとなると、介護保険への信頼は低下する。入所待ち増加の理由として、施設が不足しているだけでなく、ケアマネジャーを核とする在宅介護支援体制が十分に機能していないことがあると分析している。(時事通信・2001年09月26日)

註2:介護老人保健施設から在宅に戻られないとどういうことになるか。もちろん介護老人福祉施設(特別養護老人ホーム)に入居できた場合はそれでいいわけだが、入所期間があるていど限られている介護老人保健施設ではいつまでも入所していただくわけにはいかず、けっきょく別の介護老人保健施設に移る、いわゆる「老健巡り」となる。姑息的であり、制度上の不備でもあろう。

註3:たとえば、1999年12月7日の毎日新聞に『「主治医意見書」記入拒否する医師/姿勢
が問われる』という斎藤義彦記者の署名記事があり、「意見書拒否の背景には、主導権が狭まることに対する医師の危機感や制度への無理解、行政の無責任な姿勢がある」との指摘もされている。

註4:そういうわけで、いまさら意見書作成の拒否はないと思っていたら、この夏、退院後に私が訪問診療の対応をすることになった患者さんの意見書を書いてくれない医療機関があった。結果的には作成してくれたのでこれ以上の詳細は書かないが、退院すればただちに介護サービスが必要な患者さんの意見書すら専門機関であることを理由に書かないというので、私はほんとうに驚いたのだった。

註5:「とんでもない」という意味のさまざまなものを「『と』な」と表現することが一時流行した。岡田斗司夫氏や唐沢俊一氏が中心メンバーの「と学会」というのがあり、トンデモナイ著作物やモノを研究し揶揄する活動をしているという。その『と』という表現を借用した。

註6:介護保険法第27条および第32条

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