クリニカルスタディ/2001年11月号

高齢者ってどんな人?


◆なんだか妙な気分なのだ

 いきなり私ごとでもうしわけないのですが、じつはまもなく私の長男夫婦に子どもが生まれます。つまり、世間的には私は「おじいさん」になるわけです。
 たしかにこってりした食べ物を好んで口にすることはなくなりましたし、新しい外国語を覚える気力はありません。休日には京都へ行って静かなお寺やお庭を見てまわり、車の運転もおとなしくなりました。しかしいっぽうでは、アジアン雑貨の店でインテリア小物を物色し、MDウォークマンで小野リサや三木道三を聴きつつ若者向けのタウン雑誌を読む、そして生来の鉄道や飛行機のマニアとしてのパワーは衰えることがありませんし、パソコン5台を駆使してインターネットに常時接続し、自分のホームページを管理するというような生活をしています。
 私は客観的には「おじいさん」であっても、自分ではまだ青少年だという気分が濃厚に残っています。みなさんの親御さんよりすこしだけだとはいえ上の世代になる私がまだこういう若い気分でいるのです。そう考えますと、世間で漠然という「高齢者」がみんな同じように「年をとった人」であるわけがありますまい。
 しばしばマスコミに名前が出る元首相のN代議士は80歳をはるかに超えてもいまだに生臭い政治世界の中心におられます。いっぽう、私と同じ団塊世代なのになんともオジン臭い人もいます。
 今回の特集を始めるにあたって、みなさんにはまずおおぜいの身近な高齢者のかた、もしそういうかたがおいでにならないのだったら、たとえばタレントさんや政治家やアーティストを思い浮かべていただきたいのです。「みんないっしょのお年より」ではないことにすぐに気づかれるはずです。

◆お年よりは人生の大先輩だ

 というわけで、いろいろなお年よりがおられるのだということを少しはお分かりいただけますでしょうか。しかしながら、すべてのお年よりに共通していえることもあります。それはみなさん人生の先輩だという点です。私たちがどう転んでも学んでも、自分より年上の人たちはその日数、年数だけ確実に私たちより人生の経験を持っておられるという事実があります。
 もっとも、その人生の長さが必ずしもいい方向に向いているとは限りません。
 お年よりとおつきあいしていますと、見た目や第一印象からは考えもつかないようなとんでもない経歴をお持ちであったり、ものすごく頭がよく博識だったりして、思わず尊敬してしまいたくなる立派なかたがおられる反面、絵にかいたような俗物や、ひどく悪い性格のかた、強烈な差別意識をあらわにする人なども少なくありません。
 人生経験が長いぶんだけ、良いにつけ悪いにつけ、極端になってしまっているという傾向もあるのでしょう。

◆ハタチ過ぎれば老化が始まる

 ところで、人間の脳の細胞の数は二十歳代の前半がピークで、その後は一日数十万個づつ壊れていっているのだという話があります。
 特別なことをしていないと筋肉の力をはじめ、いわゆる「体力」もどんどんなくなっていくのは自然の摂理というもののようです。
 脳の力と体の力が衰えてくれば、いわゆる「気力」も低下してくるのが俗人の悲しいサガです。かくして、私のように五十路を超えるころになりますと、新しい外国語を覚えたり、未経験のスキューバダイビングに挑戦してみたり、外科医として長時間の手術をしたりということが難しくなってくるわけです。
 元気いっぱいの二十歳代からたかだか30年でこの体たらく。この調子であと30年たったらと考えるととても不安になります。これは二十歳代のころには思いもしなかったことです。
 いま、私が仕事で関わっているお年よりのかたがたは、まさに自分の30年後(この不摂生でも生きていられればの話ですが)の姿です。

◆人は過去の栄光に生きたいのだ

 こうして、知力体力気力の弱りを自覚はしていても、でもかつての自分はすごかったんや、という気持ちが心のどこかにしつこく残っているのが普通です。
 そういう「自分の中にある過去の栄光の記憶」や、そこからくる「自尊心」というものを侮辱されるようなことがあると激しく反応してしまうこと、これはもう年齢に関係ありますまい。
 ほとんど孫以下のような小童(こわっぱ)から人を小バカにしたようなもの言いをされたりして、思わず過剰な怒りに身を震わせてしまうという状況、こういう場面をみることが少なくありません。
 私がスタッフによく言うことに
「親しさと馴れ馴れしさとは別である」
というのがあります。人間関係にはそれぞれの距離感と親密度というものがあり、たとえば私があるお年よりととても馴れ馴れしくしゃべっていたとしても、別の人が私がそうしているのと同じような馴れ馴れしさでしゃべることは必ずしも許されないのです。
 かといって、杓子定規(しゃくしじょうぎ)な外食店のマニュアル風の会話は、人生経験豊かなお年よりからすぐにその偽善性を見破られてしまいます。「馴れ馴れしくなく親しく」というのはなかなか難しいのですが、これは高齢者のかたに対するだけではなく、医療者としてはすべてのコミュニケーションの基本でもあるのではないでしょうか。

◆個人を個人として尊重し…

 なんだか憲法の条文のような見出しですが、「馴れ馴れしくなく親しく」をお年よりとのコミュニケーションにあてはめたとき、絶対の禁じ手というものがいくつかあります。
 まず、幼児言葉はぜったいダメ。これはたとえば病気やケガで脳の障害が残ったかたとのコミュニケーションの場合でもいえますが、言葉がでにくかったり不明瞭だったりするかたに対して、幼児に対するような言葉使いで呼びかけることはいけません。私は幼児に対してさえ、特別な言葉を使うことに批判的です。こういう会話は無意識に相手を見下している気持ちの表れであるとまで思っています。さすがに専門職でこういう会話を露骨にするかたは、あまり見かけないようです。
 つぎによく言われていることですが「おじいちゃん、おばあちゃん」という呼びかけもよくありません。しかし、これは分かってはいてもついやってしまうようです。はじめに書きましたように、私は今年中にでも「おじいちゃん」になります。事実上のおじいちゃんであっても、他人からは絶対にそう呼ばれたくはないし、じつは孫から呼ばれたくもありません。そういえば余談になりますが、私の実家のほうでは、いつのころからか祖父を「おおパパ」祖母を「おおママ」と呼ぶ習慣ができておりました。私自身は自分の祖父母をそのように呼んだことはないのですが…。つまり、みんな「じいさんばあさん」と呼ばれたくないのかもしれません。
 大阪では昔からそれほど親しくなくても女性を「ねえちゃん」と呼ぶことがあります。これを読んでおられるみなさんが、道で知らぬ人から「おねえちゃん、お元気でっか」と声をかけられたとき、どういう感想をお持ちになるでしょうか。

◆昔はよかった、早うお迎えがきてほしい

 正しい答えのない問いかけが、お年よりと話していてよくあります。その典型的なのが「昔はよかった」話と、「いつまでも生きていたくない」愚痴です。
 大阪の人間の会話では自然にボケと突っ込みがある、とはよく言われていることですが、私のように大阪どっぷりのおっさんですと、
「早ようあの世に行きたいわぁ」
と愚痴られれば
「あー、あの世も高齢化進んで人口過剰で順番待ちやで」
などと切り返す。あるいは、
「昔は元気でようけ女を泣かしたもんや」
「いまも隠れてワルサしてんねんやろ」
などと、男なら言われて悪い気はしない突っ込みをしたりします。
 この方法はひとつ間違うととんでもなくハズして悲惨なことになりかねないので、どなたにでもお勧めすることはできませんが、こういう場合にいちばん簡単で有効なのはいわゆる「傾聴」でしょう。
 うまく合いの手を入れながら話を引き出して聴く、これは一種のインタビュー技法であって、医療者にとっては習得しなければならないことのひとつだと私は思っています。
「あれまあ、私なんでこんなことまでしゃべってしもたんやろ」
と思わせれば大成功です。ご本人はしっかりしゃべったということで、一種の満足感をも味わわれることでしょう。
 もっとも、痴呆などで記憶に障害があるかたの場合、まったく同じ話がとめどなくくり返し出てくることがあって、こうなりますとそのかたが気を悪くされないようにその場をどうまとめるかがたいへんな作業になります。

◆記憶に残る私の失敗

 私はいま介護老人保健施設の医者という仕事をしていて、施設のスタッフに対していわば指導的な立場にあります。そして、この文章でもエラソーにお年よりとのコミュニケーションのことを書いてきました。
 しかし、私もいままでいくつかの失敗をし、またまだまだ人生の先輩がたに学ぶ毎日を過ごしている修行の身です。『高齢者って、どんな人?』の最後に、私がいまだに恥ずかしく思っている失敗談を二つほどご披露して、みなさんのご参考にしていただこうと思います。
 「ねえちゃん」と呼ぶ大阪のことを前に書きましたが、大阪ではまた「おとうさん、おかあさん」という呼びかけもします。自分を中心として、自分の親の世代くらいのかたには「おとうさん、おかあさん」と呼び、それ以下はずっと「おねえさん、おにいさん」なのです。私はお年よりをお名前でしか呼びませんが、たとえば私の施設に入っておられる女性だと「おかあさん」「おかあちゃん」なのです。普通はそれで問題はありません。大阪の芸人さんたちがよくこの呼びかけをしています。鶴瓶や小枝の両師匠がするインタビューなどを注意してみてください。
 で、百歳近い父親の介護をしておられた女性に、ある日つい私は「おかあさん」と呼んでしまったのです。この女性が大阪ベッタリのかただったらそれほど叱られなかったのかもしれませんが、
「私はこの父の世話があっていちども結婚していません。結婚してない女に『おかあさん』はやめてください」
と言われてしまいました。もちろんすぐに謝罪しましたが、そのお宅への訪問診療の足どりがしばらく重かったことでした。
 もう一人のかたの反応は男の私には思いもよらないものでした。苗字で呼ばないで、と言われたのです。
 自分は自分の意志でこの家に嫁いできたのではないし、この家ではいいことは何もなかった。夫が死んでも私はこの家から離れることを許されなかった。せめて私を呼ぶときは苗字ではなく名前のほうにしてほしい、とおっしゃるのです。それまでずっと苗字でお呼びしていましたが、「家」というものに対する女性のいろいろな思いに驚くとともに、個々の人の内面の複雑さに思いいたった経験でした。

◆お年よりと交流するのはおもしろい

 くり返しになりますが、やはりお年よりは人生の先輩であって、いろいろと教えられることが少なくありません。自分の糧になる話題や経験談をお聞きするのもおもしろい。世代のギャップはたかだか数年の違いだけでも存在しますが、数十年の世代の差は逆にコミュニケーションしやすいかもしれません。
 お年よりの場合に限らず、自分がしたいことしてほしくないことをいかに想像し行動するかが、医療者としての基本的な心得ではないかと、いまいちど御託を並べて私のヨタ話の締めにしたいと思います。


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