第三回 「私が老健の医者をやめたわけ?」

■集団での介護は「利用者本位」になりうるか■
■世の中ひどく荒れている■
■再び「これからどうなるんや」■


 突然ですがお詫びしなくてはならないことがあります。「老健常駐医師のちょっといわせて!」という連載にもかかわらず、2003年の10月から私は老健常駐医師ではなくなってしまいました。在宅医療に特化した「おおむち診療所」を10月1日付で川西市に開設したのです。
 連載の第二回目の原稿を書いているときに、じつは漠然とした予感がありました。7年前に老健常駐医師になったときに比べて、あまりにも状況が変わってきていて、ほんとうにこれは私がしたい仕事なのだろうかと思い始めていたのです。第二回目の最後に

『要するに私は老人保健施設の役割はどうなったんや、といいたいのです。これからいったいどうなるんや、ともいいたいのです。
 もっとも、「どうなったんやどうなるんや」とわめいているだけでは、仕事の帰りに飲み屋でクダを巻いている単なるオヤジにすぎません。自分の回りでだけでもなんとかいい方向に向けたいものだとは、じつに思うのです。できることなら、ですけどね』

と書いています。「できることなら」と、その時はまだ少しは希望を持っていたものの、その後も誌面では書くことはできませんが、いろいろとネガティブな状況が続き、やはり一人で突っ張っていても大勢はそんなに変わることがなさそう、けっきょく「自分の回りでだけでもなんとかいい方向に向けたい」と考えますと、国の制度の締め付け・不自由さや、大きな組織のなかでその論理に押されて仕事をするよりも、病院や介護老人保健施設の事情をよく知ったうえで在宅専門の診療所をやってみるしかないかなと思いいたったのでした。
 また、ついでながら、そして勝手なことかもしれませんが、それによって自分のストレスも減るのではないか、ぼつぼつ同級生や先輩の訃報が増えてきて、自ら心身の健康にもすこし自信がなくなりつつある私自身のためでもあるということもあります。

集団での介護は「利用者本位」になりうるか

 さて、自分のことはそれくらいにして、本題に戻ることにしましょう。
 介護保険制度が始まったとき、介護のための施設は特別養護老人ホームと老人保健施設くらいしか、現実には、ありませんでした。その後、厚生労働省がさまざまな規制の緩和と強化をくりかえし、さらに介護施設の需要が厳然としてあるうえ、介護をビジネスチャンスと見た企業群の参入など、いろいろな要素が複雑にからみあって、痴呆対応型共同生活介護を行う高齢者グループホームや、特定施設生活介護の有料老人ホームが激増しました。
 私が仕事をしている川西市周辺もその例外ではありません。グループホームや有料老人ホームは原則として個室対応であり、規模も老健や特養ほど大きくありません。集団的な介護であるものの、その集団は従来の老健や特養に比べるとかなり小さなものです。
 介護保険では「利用者本位」ということが強調されていますが、集団が大きくなれば「個」はどうしても埋没してしまいます。危機感を持った先進的な特養や老健で「ユニットケア」という試みもなされています。しかし、私の偏見かもしれませんが、大きな施設のなかでのユニットケアはやはり限界があるように思えます。もっとも、私が勤務していた施設ではユニットケアを導入するまでにはいたっていなかったので、私自身にその経験がありませんから、
「そんなことはおまへん」
という反論があるだろうことは承知しています。じっさい、市内の別の老健で最近になってユニットケアを導入したら、利用者側の変化はまだ見えてこないものの、スタッフ側には今まで把握していなかった利用者の姿が見え、また仕事の中身がかなり(よい方向に)変化したようだということを聞きおよんでいます。
 居宅サービスと分類されているグループホームや有料老人ホームと、施設サービスである老健や特養とは、利用者側から見ますと、経済的な負担の違いはありますが、なにがどう違うのかよく分からないようです。利用者だけではなく、医療者や介護事業関係者でもきっちりと認識できている人はそれほど多くないように思います。
 そして、大規模な施設での介護では利用者本位という「個」を重視した介護は無理なのではないかという疑問が、グループホームや有料老人ホームの増加でにわかに膨れてきたきたのでしょう。しかし、これらグループホームや有料老人ホームは個々の能力差がきわめて大きいのも事実であり、一部にはかなり悪質、低レベルの施設もあることには注意が必要です。
 第二回でも書きましたように、老健や特養では医療依存度の高いかたの割合が増え、要介護度の高いかたの割合も増えています。しかし人員基準はそのままですから、とくに介護度の低い(手のかからない)利用者一人ひとりの介護に関わる密度が減っていることは間違いありません。とくに老健では入所期間に限度があるため、介護者側と利用者側との関係性がますます希薄になっているのが現実ではないでしょうか。
「もっとお話を聞いてあげたいのだけど、その時間がとてもとれない」
「こういう仕事をするために介護(看護)職をしているのではない」
というような、現場の真面目な職員の、一種の悲鳴をあちこちで聞くことが少なくありません。こういうことで「利用者本位」は可能なのでしょうか。

世の中ひどく荒れている

 それでも、特別養護老人ホームや老人保健施設には入居・入所待ちのかたがおおぜいおられます。だからといって施設サービスを飛躍的に増やすことは、政策として考えられていません。施設サービスは国としてお金がかかりますから、家族という無償の労働者を介護にあたらせることを想定しています。
 しかしこの国はここ数年とても「荒れて」きているように見えます。景気の回復の見込みは見えてこず、介護休暇などという制度はあっても、現実には多くの勤め人にはほとんど使えないのが現実、まして自営業で生計をたてておられるかたが家族を在宅で介護することなど、とてもできない状況ではないでしょうか。
 けっきょく、気持ちはあっても実際には家族介護ができないので、あるていどの経済的な負担で介護の肩代わりをしてもらえる「施設」が頼られるようになっているのです。いわば「売り手市場」のような状態が続いており、そこには良い意味での競争原理は働く余地がないとも考えられます。
「入れてもらえるだけありがたい」
という、かつての病院での『社会的入院』と同じ状況がかいま見えています。
 そのうえ、なんどもいいますように施設では医療的処置を要する利用者が増えてきて、病院と施設の境界がよくわからないようになってきていますし、おそらくこれは今後もっと顕著になるでしょう。
 私が川西市の病院での仕事についたころ、その病院のいくつかの病棟に入院しておられたのは、介護だけが必要で医療は二の次という患者さんたちでした(ときにはそのどちらも必要のないかたもおられました)。まさにそのころの雰囲気が老健で再現されているように見えたりもします。
 いっぽう、ここのところの不可解な事件に象徴されるように、この国はなにか根底から変わりつつあるような気がします。もちろん、悪い方向へ、です。
 暴力や殺人、人を騙すなどという極悪なものでなくとも、なんとなくこれまでこの国にあった「倫理」というものが崩れていっていることもまた、老健の仕事をしていて感じました。いままで書いたように、やむをえず介護を施設に委ねるしかない家庭がたくさんあるのは事実ですが、それとは別に
「介護する気なんかあれへん。金を出すのもいやや。介護が商売やったらなんとかせんかい」
というような気分がかいま見える不真面目な家族が増えてきています。そして施設に入ったまま家族との関係が希薄になり、家庭での居場所がなくなるどころかひどいときには本人の年金まで使われてしまって、介護保険の一部負担金が未収になって事務職員が苦労するという姿を見ることが少なくありません。「そうやそうや」という声が聞こえてきそうです。
 かくして、在宅療養しておられるかたの一時的な受け皿としてや、病院から在宅復帰するために前段階として日常生活の訓練をする場所としての介護老人保健施設の機能は、急速に有名無実と化しているのであります。

再び「これからどうなるんや」

 今回は自分自身の転進と時期が重なりまして、ちょっとハイテンションな内容になってしまいました。
 老健から離れて約一ヶ月、外から見るようになりますと老健に対してさらに「これからどうなるんや」という印象を強くもつようになっています。ほぼ在宅医療「だけ」に携わった状態で老健や特養を眺めますと、それはそれは敷居が高い。
 奥さんを男手ひとつで介護されている高齢の男性は今にも倒れそうだし、十年以上にわたってお母さんを介護しておられる女性は
「ショートステイに預けるのはいいが、つぎのショートステイの日程を保証できないといわれると、ショートステイの間も気分的にのんびりできない」
とおっしゃいます。
 利用者側の希望する日程でショートステイができないなんて意味ないじゃん、と思ってしまいますが、しかし施設の側には、自由に空床を作っていては経営に影響するという事情があり、それはそれである程度はですが、理解できます。
 利用者、家族、現場スタッフ、経営者、自治体担当者のそれぞれがいろいろともがいているというのが、今の介護の実情でしょう。ほんとに
「これからどうなるんや」
です。


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