21世紀にもっていきたい利用者との新しい関係

はじめに
自己紹介を兼ねて
インタビュー技法
インフォームドコンセント
まとめにかえて


はじめに

 みなさん、はじめまして。ご紹介いただきました上農でございます。聞くと見るとでイメージ大違いということはありませんか。言われる前に言っておきますが、たいへん恐そうな顔をしておると思いますが、これでもたいへんやさしい医者で通っておりますのですよ。
 さて、じつは私はこの会のセットをなさった富島さんとは、今日が初対面であるのはもちろん、直接お話するのも今日がほとんど初めてであります。この会の打ち合わせはすべて手紙や葉書とファックスでやっていまして、私などはいまや可能であればほとんどE-mailでやってしまいますから、とくに不安というようなこともなかったのですが、富島さんのほうはひょっとして今日ほんとうに私が現れるまで心配なさっていたのではないか、などと思っています。
 半月ほど前には、お昼ご飯はどうしますか、というようなファックスが届きまして、ははーん、これは私が忘れていないかどうか、期日も迫ってまっせ、というようなことを遠まわしに言ってこられたんだなと直感しました。図星だったようですが、それをうまく別の話題に乗せて確認してこられたところに富島さんの配慮を感じました。えー、初対面のかたのことをこういってしまっていいのか分かりませんが「したたか」といいますか。ね。
 それで、今日いただいているお題が『21世紀にもっていきたい利用者との新しい関係』という、いやー、私はじめはどうしようかと思いましたよ。そんなだいそれたお話を私なんかができるわけがない。私は勉強が嫌いで、ほんとに現場で喚いているだけの『超町医者』ですから、「21世紀にもっていきたい」というような、えーと、そういえば液晶テレビのコマーシャルでそういうの、ありましたね。吉永小百合さんかがおっしゃってました。
 ともかく、あとですこし触れますが、いわゆる『大阪のノリ』で診療や相談をしているだけで、ま、それが新世紀にもっていったらいいのであれば、そういうお話ならできますけどね、というわけでした。
 そもそも富島さんが私に目をつけられたのは、大阪のささえあい医療人権センターCOMLという市民団体が出版したこの『患者白書』という本の対談での私の話がきっかけらしいのですね。で、この本の『本音で語り合おうよ、患者と医療者』と題した対談のなかで、私がまず口火を切った言葉が「人選が間違っているんじゃないかな」というものですし、途中に「私は外来診察が嫌いだ、なぜなら面倒くさいから。でも仕事だからイライラしたりしたらあかんと思うて医者を演じている」などという衝撃的な発言をしているのです。しゃべっているときはあまり感じなかったのですが、活字になるとインパクトが強いです。自分のことながら。
 えーと、この本、私はちょっとこのささえあい医療人権センターCOMLの回しものでもありますので、なぜ回しものかという事情はのちほどお話いたしますが、今日は10冊ほど持ってきています。よろしければお買い求めください。持って帰るのは重いですし。
 普通に読んだら「なんやこの医者」というふうに感じるはずなんですが、富島さんはこの対談で私がいちばん言いたかった「プロとはなにか」ということをちゃんと見抜いていらっしゃったようで、いちばん最初にていねいなご依頼の書簡をいただいたなかに、患者さんの自己決定に対する医療者のプロとしての私の考えかたをズバリと指摘してくださっていました。
 『パターナリズム』という言葉があります。医者で言いますと「病気のことは医者に任せておけばいい。なにしろ医者は治療のプロなのだから」というような意識のことだと私は理解していますが、私は「患者さんの意思を徹底的に重視して、客観的に考えうる最善の方法と患者さんの意思の調整をはかるのがプロやろ」と思います。ま、私には『パターナリズム』を発揮するほどの能力も自信もないだけなのかもしれません。じっさい、「ワシに任せておけ」タイプのお医者さんを見ると「偉いなあ、すごい自信やなあ」と単純に感心してしまいますから。
 ま、冗談はともかく、そういうわけで今日の会の演者をお引き受けすることにしたのです。あ、さきほどまでの話の流れは今日の主題に沿っていてそのまま続ければよかったかもしれませんね。私は診療ででもよく話を脱線させてしまいますので、こういうまじめなしゃべりはちょっと苦手なんです。
 で、富島さんとは打ち合わせのための書簡やファックスを何度かやりとりしていたのですが、そのうちに本題の打ち合わせのほうは簡単にすませて、ぜんぜん関係のない話題で、いわば『文通』のようになってきました。
 私はE-mailのやりとりででもよくそういう話題展開をするのですが、富島さんが自然にそれについてきてくださったことにちょっと感心しました。私は診療でも相談でも、そのような『余裕』といいますか『話の拡がり』といいますか、そういうものがとても大事だし、それによって自然に相手との距離が測れると思っています。もちろん深刻な話のときにオチャラケはやってはいけませんが、その場に応じた対応というものが必要なのではないかと思っています。
 あ、富島さんを誉める会ではなかったのでした。

自己紹介を兼ねて

 というように偉そうなことを言っておりますが、私が27年ほど前に医学部を卒業して医師免許をいただいたとき、そういうような問題意識など考えたこともありませんでした。もちろん医学部のカリキュラムのなかに、患者さんとのコミュニケーションのとりかたなどというようなものはまったくありませんでした。なにしろ当時はまだ日本医師会に武見太郎という怪物のような会長がいて、医者の権力はとても大きかったのです。厚生省の官僚がパターナリズムの餌食になっていたような時代だったわけです。
 そして、そのころは、たとえば診療所や病院が薬を1000錠買ったら1000錠のオマケがついてきたり、カラーテレビを景品にもらったり、勤務医でもアゴアシつきで旅行や新地に接待されたりという時代だったんです。
 私が医者になったのは、まさにそういう時代のいちばん最後の時期でした。
 そのころにすでに医者として活躍していて、そういうエエ目をたっぷり味わっていた医者連中は、その後の患者さんと医者や、製薬企業などと医療機関との関係の変化や、あるいは世間の倫理観の変化、情報公開という世の中の流れに気づかず、いまになっても『お医者さまの権力』という幻想にとらわれていて、いろいろな醜態を演じてしまっているわけです。
 最近では先日収賄ということで逮捕された大阪の枚方市民病院の名誉院長、辰巳卓郎さんの義理のお父さんだそうですね、余談ですが、あの人など、いまから20年ほど前の病院をそのまま引きずっておられるようで、私なんか思わずそのころ勤めていた病院のある部長の顔を思い出してしまいました。
 じっさいにエエ目を味わった医者連中はちょうどあの名誉院長くらいの年齢になっていますから、ぼつぼつ医療の第一線から消える人々です。新世紀には持っていかなくてすみそうです。しかし、それを見て、あるいは、そういう医療の世界の傲慢なところだけ見て、その後の変化を学んでいない医者というのがまだまだおおぜいいます。
 私が親しくしている医者には、私と同じような感覚で診療しているのがけっこうおります。27年前に医者になったばかりのころから何がどう影響してきたのか、私は今回のことをお引き受けするために改めて自分のことを振り返ってみました。
 自己紹介をかねて、なぜ私のようなヘンコな医者ができたのかをちょっとお話しておきたいと思います。
 私は1973年に奈良県立医科大学を出ました。公立の医科大学に入学できたのは、これはもう『運』という以外にはありませんで、学生のときから私は『ほんとにありがたくいただいた学歴』と思っていました。私の家系は医者とはほとんど関係がありません。私の名前でお分かりのように、父の実家の家業は農業でしたしこの7月に亡くなった父は、あ、父の最期の話もちょっとのちほどするつもりですが、この父は亡くなる直前まで母の父地かせ創業した建築会社の経理マンとして仕事をしていました。つまり私の家は建築を中心とした商売人です。その影響で私のすぐ下の弟は一級建築士をしており、彼のほうがウチの家系の正等な継承者といえます。
 それで、私は医者になってその世界に入った時点で、「この世界は変だ」ということを感じました。医学部の学生のころからすでに「先生」と呼ばれることがあってなんとなく違和感はあったのですが、医者になってしまうと「なんやこいつらは」という感じになってしまいました。
 1年間大学の脳神経外科の医局で研修したあと、大阪府と奈良県の国公立病院の脳外科や外科をいくつかローテーションで回りました。ふつうこのローテーションは、教授から医学博士の称号をいただくための義務として従わなくてはならないのですが、お気づきのように私たちの世代は大学紛争のいちばん激しいのを経験しており、私の同級生の多くが『学位拒否』という態度をとっておりました。もちろん私もそうだったので、はじめから医者の世界ではヘンコと見られていたようです。
 いまでもしばしば問題になる『医者への付け届け』、もちろん私の研修時代からありました。そしてそれはいまよりももっと公然としており、誰も疑問に感じなかったというか、疑問をもつこと自体がとんでもないことだった時代です。
 卒業後2年や3年の私などはもともと付け届けがくるような立場ではありませんでしたが、先輩が患者さんからもらった祝儀袋を私にも配ったり、製薬会社の接待に業務命令だと言って付き合わされるということがあとをたちませんでした。さきほどの枚方のオヤジの事件で私が思い出したというのはこのころのことです。
 ところが、大阪市内の大きな公立病院に勤務していたとき、脳外科の手術をした幼児の父親が私に「お礼」といって差し出した祝儀袋を、私はいつものように普通にお断りしたところ、そのかたは「助かります。本当のことをいうと私たちお金の工面がたいへんなんです」と泣き出してしまいました。お断りするとたいていは「返す」「とれ」の押し問答になりますので、この若い父親の姿にはたいへん衝撃を受けました。
 私はこのとき以来、患者さんからの、とくに現金の付け届けは絶対に断るという方針をとることにしました。
 ちょっと深刻な暗い話になりましたので、それにまつわるおもしろいお話をしましょう。
 その後奈良県南部の山間部の総合病院に勤めていたとき、そのあたりの広大な山持ちの患者さんの受け持ちになりました。吉野の山持ちといいますと、ちょっとケタが違う長者なんですね。緒方拳さんが出ていた「大誘拐」というコミカルな映画がありましたが、あの誘拐犯といっしょになって警察を右往左往させた「刀自」さん、刀に自分の自と書きますが、ああいうとんでもないお金持ちが実在するんです。
 そのかたのご家族が入院の直後に事務職を通じて私につけ届けたんです。で、その祝儀袋はずっしりと重くて、確かめてみますと10万円入っていた。バブルのはるか前の10万ですよ。ちょっと驚きましたが、いっぽう私はムカッときまして、直接そのご家族に返しました。もちろん「そんなことをいわずに気持ちですから」と相手は受け取ろうとしませんが、そこで私はとんでもないことを言いまして「あなたの家くらいならフタケタ違うのではないか」、つまり一千万円くらいもってこいという意味のことを言ったんです。
 年金でほそぼそと暮らしておられる患者さんが無理して数万円包んでくる、その比率でいうと山持ちなら一千万が『気持ち』だと言いたかったわけです。ま、いろいろありまして、そのかたは私の真意を汲み取ってくれて、その後の関係はたいへんうまくいったのですが、ま、ひとつ間違うと首になっていたかもしれません。あ、もちろん一千万いただいたわけではありませんよ。
 学位拒否のまま、私は1985年にいま所属している医療法人の急性期病院に就職しました。ひとりで脳神経外科をやりくりし、1987年ごろから在宅の寝たきりの患者さんの訪問診療、当時は訪問診療という制度がなく、往診という形で対処したのですが、それを始めました。そこで学んだのが、在宅で静かに最後を迎えたいという患者さんやご家族の強い希望のことでした。
 そして、それをこんどは病院のほうにもフィードバックするようになって、いわゆるスパゲッティ状態を拒否される患者さんが少なくないことも知りました。
 そして、さきほどちょっと触れましたが、ささえあい医療人権センターCOMLとであったのがちょうどバブル末期ごろだったと記憶していますが、そこの『患者塾』という集まりの常連になったことで、さらに患者さんやご家族の生の声を聞くようになったのが、いまの私の患者さんとの関係を形作る決定的な契機になったように思います。病院や在宅現場で『患者さんと医者』という関係のままでは、やはりほんとうのところを理解するのが難しかったかもしれません。
 もうひとつ、私には特別なチャンネルがあります。
 学生のころはアマチュア無線に熱中していて、いっしょに遊んだり酒を飲んだりする機会は、同級生よりそういう無線仲間とのほうが圧倒的に多くありました。
 また1988年ごろからは、パソコン通信というものにはまりまして、いまは「@nifty」になっている「ニフティサーブ」の熱心な会員になり、そのうちそれが高じて「医と社会のフォーラム」と「在宅ケアフォーラム」というふたつのコミュニケーションの場の主宰者として@niftyと契約して運営するようになりました。
 それらの場でも、医療者とよりも、いろいろな業種のいろいろな年齢層の、いろいろな立場のひとたちと交流するようになり、要するに私は医療という世界の異常さを客観的に見れる状況にしていただいたわけです。
 1997年に所属する法人が初めて作った老人保健施設に、計画段階から関係していたために初代の施設長をすることになり、そのすこし前から訪問診療を通じて交流していた福祉関係のかたとの関係がさらに深くなりました。
 介護保険への移行をを目前にして、福祉の世界もいろいろと模索しておられたころだったと思いますが、じつは、今日は福祉方面の出身のかたもおおぜいおられるようなのでちょっと言いにくいのですが、福祉のほうも医療とおなじくらい異常な閉じた世界だと、私はおつきあいが深まるにつれ思ったのでした。
 「医者の傲慢、福祉の独りよがり」と私は地元で揶揄したことがありますが、古いパターナリズムの医者と同じメンタリティを持った福祉関係者が少なくないことに、ちょっと驚いた記憶があります。
 そしていま、介護保険は『利用者本位』『自己決定』と強調されていますが、ま、こういう言葉が強調されているうちは、現実にはそうではないということですから、私たちはほんとに注意していかなければならないと思います。

インタビュー技法

 話はガラッと変わりますが、明石家さんまさんのトークってすごいですね。トークというか、インタビュー技術というか、人から話を引き出す巧さにはほんとに感心します。
 田原総一郎さんという、攻撃的なインタビュー技術を持つ人もいます。正統派では、黒柳徹子さんのような人もいらっしゃいます。
 なにが言いたいのかといいますと、医療でも福祉でも、利用者さん患者さんとの関係作りの最初はやはりコミュニケーションの確立だと思いますし、専門職の立場である私たちとしては、これはもうとっかかりはいかに上手にインタビューして相手のニーズや背景を聞き出すかということだと思うのです。
 インタビューが双方向のコミュニケーションになり、自然な形でサービスの提供に移ることができれば非常にうまくことが運ぶのではないでしょうか。
 そしてここで問題なるのは、よいインタビューをするためには、それなりの知識や見識が必要なのだということです。雑誌や新聞の記者さんから取材を受けたりインタビューを受ける機会が私にはけっこうあるのですが、聞かれているほうとしましては、インタビューワーの側がその話題についてどれだけ知っているかということがすぐに分かってしまいます。勉強していないヤツは、質問もトンチンカンであり、こちらの答えの理解ができなくて、けっきょくたいした内容のものができないということになります。もちろんそのまま記事にされたりしては困るので、そういう場合はこちらもほとんど実のある内容は話さないわけですが。
 さんまさんや田原さんは、番組本番前に相手のことをきっとかなりリサーチしていると思います。あるいはその時のテーマについての予習がきっちりできているはずです。
 さきほど言いましたように、医療や福祉の世界は一般世間からみて異常です。ま、これは医療や福祉だけでなく、たとえば警察、たとえば一流メーカーの社内、たとえば政治家、たとえば学校などなど、いまの日本にはいっぱいあります。
 その世界での常識のまま行動すると、このあいだからの警察の不祥事や、自動車や太陽発電パネルのごまかしになったりして、世間の信用を落とすわけです。私たちが仕事をしている世界もそうだということを忘れてはなりますまい。
 まずしなければならないことは、インタビューのきっかけには私たちのほうの世界ではなく、ごくごく一般的な世間で普通だと思われる常識から入らなければならないということだと思います。つまり、ごく普通の常識を持つ、ということでしょう。
 これはそんなに専門的なことではなく、ごくごく単純なことからそうなんです。
 たとえば、医者の感覚でいきますと、病気の治療のために医者が患者さんに指示したことは患者さんは守ってあたりまえというのが普通でしょう。だから処方した薬をちゃんと飲んでいないことが分かったら激怒するわけです。しかし、世間の常識でいいますと、大の大人がきちっとした説明を受けず納得もせずに他人の命令をきけるかいな、というのが多くのかたの考えではないでしょうか。それで、説明もなしに出された薬を唯々諾々と飲むほうが少ない。
 だから医者としては、治療のためにはこの薬をこういうふうに飲まなければならないのですという説明をきちっとして、納得していただかなければならないはずなのに、医者の言うことは聞くべきだなどと傲慢なことを考えていたり、言うことを聞くに違いないなどと無知なために、ややこしいことになってしまうのだと思います。
 インタビューというのは聴くことです。ですから、私たちの仕事は基本的に聴く、聴いて必要な情報を得るということが最終的な目標なのです。この『聴いて必要な情報を得る』というのがなかなかできていないのではないでしょうか。
 つまり『必要な情報だけ聞く』というのが、上手な病歴のとりかたであり、インテークであるというように教育されてきていないでしょうか。そう心がけていないでしょうか。
 いまやインターネットの時代で、世の中に情報があふれかえっていますが、多くの情報のなかから有用なものを取捨選択する技術が必要だということがしばしば指摘されています。それと同じことが私たちの仕事の場でも考えられます。
 患者さんやご利用者やご家族の話はえてして拡散してしまいがちになり、たとえば外来診察の限られた時間ではそういう話のお相手はたいへんしづらいものです。しかし、こういう拡散した話のなかには、そのかたの人生観が含まれていたり、興味の方向が見えたり、またそのかたの知的レベルや理解力を判断する内容が含まれていたりします。けっして無駄な時間ではないと思うのです。
 さきほど紹介しました『患者白書』の対談で私が外来診察が嫌いだと言っているのは、こういう聞き取りをとくに初診のかたの場合はかなりやることにしているからでもあります。逆に、何度かの診察のうちに、その患者さんからとても興味深い話を聴くことができて得した、と思うこともあります。インタビューを続けると、イライラの種だけでなく、こういうふうに自分の知識の幅を広げられるようなことがあるのでオモロイ面もとても多いのです。
 ただ、なにかの話をオモロがれるかどうかは、日ごろから私たちのほうが雑多なことに対する好奇心というか野次馬根性というか、そういうものを持っていないと、かえって苦痛に感じてしまうことになるかもしれません。
 そういう意味で、非常な偏見かもしれませんが、私はとくに臨床の医者などは、好奇心旺盛で野次馬、新しモン好きでなければいい医者になれないのではないかと思っています。自分でいうのもなんですが、私なんかはとても野次馬ですが、しかしそれでもまだまだ臨床医としては未熟だなあと思うくらい、世の中の患者さんにはすごい人たちがおられます。
 仕事の時間内にぜんぜん別のジャンルのオモロイ話が聴けるなんて、なんという役得、と思っていればいいのではないでしょうか。
 で、このやりとりのなかに、私は、これはまあ大阪の商売人の家系に生まれ育った私の持って生まれた性癖なのかもしれませんが、けっこうボケと突っ込みというテクニックを使ってしまいます。
 深刻な話や慎重な説明のなかでは漫才のようなヤリトリをするわけにはいきませんが、すくなくとも「ああ言えばこう言う」的なやりとりを、大阪のノリのリズムでやっていることは確かです。
 もちろん、ちょっとした雑談でそういうマジメな制約がない場面では、それこそ横で見ていると漫才か漫談のようなことになっているかもしれません。相手のかたも大阪のノリであねと、これはもう医者と患者さんの関係では完全になくなっていることも少なくないようです。

インフォームド・コンセント

 で、インタビューをして情報を得たうえで、こんどはこちらから、医療であれば検査や治療の方法など、介護や福祉のジャンルなら処遇やケアプランを提示して説明することになります。『インフォームド・コンセント』という言葉をご存じだと思います。これはもともと医療現場での患者さんの自己決定に関して言われだしたものですが、なぜ医療現場で言われだしたかというと、医療現場ではかつてそれがほとんどなかったからです。
 他のシーンでは、たとえば車を買うとき、私たちはある程度は車についての情報を得て、自ぶんで判断して買います。牛肉などはスーパーのチラシで知って、現物を見て、どのパックがよさそうか選んで買います。しかし、以前の、あるいは今でも、医療現場にそういうプロセスが稀薄だから、ことさら言われだしたわけです。
 この言葉は一般には『説明と同意』と訳されていますが、ささえあい医療人権センターCOMLの辻本代表はこれを『理解と選択』と提唱しておられます。私もこの訳に同意しています。『説明と同意』では、複数の選択肢がなくてもよいことになります。医療でも介護でも福祉でも、選択肢が唯一ということはないでしょう。故意かどうかは別にして、複数の選択肢を提示しないという場面はよくあるようですが。
 私たちが患者さんやご利用者になんらかの情報を提示して同意を得ようとするとき、もし選択肢がなくて、○か×か、というような形で同意を迫る可能性があるなら、それは情報を提示するほうの怠慢か無知だと、原則的には考えておいたほうがよいと思います。
 少なくとも常に「何もしてほしくない」という選択肢は存在するわけですから、『何かをする』と『何もしない』のふたつはぜったいあるでしょう。『何もしない』選択をしたときの結果についての説明も、もちろん十分にしなければなりません。そして、その説明は恫喝や脅迫であってはならないのは言うまでもありません。
 私の考えでは、インフォームド・コンセントは、外来診察で薬を処方するような日常的なところでも留意すべきだと思っています。ですから、処方にインフォームド・コンセントを求めるためには、その場で薬の情報を提示しなければならないわけで、いまやっているような薬局で薬が渡されるときに薬の説明をしたり書いた文書を手渡すというのでよし、とするわけにはいかないわけです。
 そして、これが非常にたいせつなんですが、患者さんやご利用者の自己決定は、そのときどきで変化するということです。最初は1を選んだが、やってみたらやはり2のほうがよかった、とか、ある方法を選択したが苦痛が強いのでやめたいとか、そういう変動がおこります。
 そのときには、変更したいという希望があった時点で再度のインフォームド・コンセントをする必要があります。
 こういう変動でいちばんシビアなのは、在宅でターミナルケア、まターミナルには限らないのですが、在宅医療の現場でよくあることです。最期まで自宅にいたい、あるいは自宅で看取りたいというご希望で在宅療養をしていて、そのうちたとえば苦痛が強くて自宅ではそれに対処する方法がない場合や、看護にあたっているご家族がいろいろな理由でギブアップなさったとき、医療チームは冷静に判断して入院でのターミナルケアに方針転換をしなければならないことがあります。
 在宅医療に熱心な医療者は、えてして「なにがなんでも在宅」というふうに凝り固まりがちで、気をつけなければなりません。私の場合は初期の段階で「つらくなれば入院というふうに手配しますよ」という一言を必ず言っておくことにしています。
 しかし、たとえば在宅での看取りをあきらめて入院となったとき、その病院では「できるだけの延命治療をする」方針だったりしますと、これまた自己決定の余地がなくなりますから、支援の病院でもそれなりの意識を持っていただきたいと思うのですが、それがなかなか難しいのはみなさんご存じのとおりです。
 たとえば、無用な延命治療をしてほしくないので、苦痛を除く以外の治療はしてほしくないというような希望を述べたら、「では病院に入院している意味がないので」と退院を迫られたというケースをしばしば聞きます。その主治医は、何かの治療行為をすることだけが患者さんに対する医療であると思っているのですね。こういうお医者さんが、えてして妙なプライドがあって、治療方針などに対する希望や疑問を受けると逆上したりするのでしょう。
 話はすこし逸れますが、お医者さまのプライドってなんでしょうか。私なんかからみますと、ほんとにプライドの高いお医者ってそれほど多くないような気がします。
 というより、「プライドを傷つけられた」とおっしゃる場合、それはたいてい「メンツを潰された」だだったりします。プライドというのは知識や見識や素質に裏づけされた高度なものですが、メンツは、単に馬鹿にされるかどうかで計れる程度のしょうもないものでしょう。
 つまり、プライドというのは、ちょっとやそっとで傷つけられるものではなく、自信に裏付けられているぶんだけ余裕があります。たとえば、セカンドオピニオンをしたいと言われたとき、自信があれば「どうぞ」ということが言えますが、それほど自信がなく単に医者だからというだけで優位に立っているつもりだったとすると、「ワシを信用でけんのか」と怒り狂うことになります。それはメンツを潰されたからですね。
 あ、私は自分によく見えている医者の例ばかり言ってますが、これはほとんどすべての専門職にあてはまることです。私は医者以外にはプライドを持てるほどの専門性を持ったものがありませんが。
 話はもどりますが、自己決定が状況によって変動する例を私はごく最近経験しました。
 7月に父が亡くなったことをさきほどお話しましたが、父は4年前に肝硬変肝癌と診断されていました。しかし、体調を崩したときに入院して治療する以外、ずっと今年の6月まで仕事をしていました。父はきわめて意思の強い人で、癌の告知をどうすべきか迷いましたが、けっきょく明確な告知はしませんでしたが、おそらく自分の病気については知っていたと思います。数年のうちに遺言を作成し、墓を建て、私たちの住まいについてのアドバイスをすませました。
 しかし治療方法に対しては、たとえば肝癌に対する塞栓術、これは足の付け根から管を動脈に入れて肝癌への栄養血管を塞ぐモノを注入する方法ですが、これをたびたびするうちに、前後のつらさに音をあげるようになり、主治医の粘り強い説得が必要になってきました。それは、私や私の末の弟が医者ですから、私たちへの不満としても出てきていました。
 父は、人一倍