その多くの時間が書類の作成。もともと書類が多いことを予想して、パソコンを駆使してできるだけ省力化したつもりなのに、それを超える書類の多さである。今日は主治医意見書がぜんぶで6通。施設への診療情報提供書の作成が2件。協力病院への受診のための診療情報提供書が2通。退所関連の書類が2人分6通。
規制を満たすためには書類が要求される。何らかの業務をしたという内容の書類さえ完備できていれば、業務を実際にしたかしていないかはどうでもいいようなのが、この国の制度だというのは言い過ぎだろうか。
ほんと、ばかばかしくなること一度や二度ではなし。
それにしてもこの事件、まだ「生きている」と関係者が主張しているらしく、まことに不可解である。もっとも、心臓が動いて顔色もいいのに「もう死んでいる」ということにすることが法律で決められたりもするわけだから、深く考えてしまうと何が何やら分からなくなったりしそうだ。
それにしても、いろいろと不思議なことが起こるものである。
ちょっと早く停留所に着いて、読みかけの文庫本に熱中しているとバスがきた気配。乗り込むために視線を上げてぶっとびそうになった。バスがチキンラーメンなのである。白と茶色のストライプ。
で、広告効果はとてもあって、つい食べたくなってしまったチキンラーメン同世代のおぢさんだった。
ニュースの映像を見ていたら、GLAYやYOSHIKIが演奏して、安室ちゃんの顔が見え、北島三郎さんが万歳の音頭をとる。現場を見たわけではないから間違っているかもしれないが、これ、おそらくどこかの大手広告代理店のプロデュースじゃないの、と思ってしまった。
皇室の式典にこういう企画がからんでくるのも時代かなあとも思うが、映像のなかに「奉祝」と書かれたちょうちんを掲げている人を見て、これはまた戦前のちょうちん行列のぼーれーかとも思ったのだった。
わが職場では、今日はご利用者の遠足、猪名川町にある公共宿泊所に行って温泉に入って昼食を楽しんでいただいた。奉祝とは無縁の必死の行事が、けっこう強い雨のなか無事終了したのだった。
この日を狙っていろいろな行事もあったようだが、身近では職場の最寄駅である阪急宝塚線川西能勢口駅の総仕上げのショッピング街「ベルフローラ川西」がオープンした。10年ほど前に、阪急と能勢電を高架化し駅前を再開発するということで始まったプロジェクトの完成になる。
帰宅のときにちょっと立ち寄ってみると、いままで場末のコンコースのような雰囲気だった駅東口は信じられないくらいの人出でごったがえしていた。東口と中央口を結ぶ通路も人の流れがすごい。この通路ができて5年ほどになると思うが、人通りがなくてなんとなく物騒なところというほどの寂しい場所だったところである。
あらためて集客施設の勢いを感じた。
近隣では、川西からJRの快速で10分あまりの尼崎駅北側でも、大手ビール工場の跡地を中心とした再開発が完成してビール会社系のシティホテルなどもグランドオープンしたということである。
そして、私の昔から、学生のころからの悪いクセなのだが、ともかくギリギリにならないと準備の詰めをしないのである。早くから端緒はつけておくのはおく。しかし、始まりの勢いさえ確認できたら、あとは日時が迫るまで進捗することが少ない。学生時代は試験勉強で一夜漬けだった。ノートなど勉強すべき材料が揃うともうできたような気になってしまうのだ。
講演の準備も、介護認定審査会の予習も、尻に火がつかないと手をつけない。この性格をなんとかしないと、これ以上に仕事が増えるとちょっく具合が悪いことになりそうである。
ところが、忙しいくせに、ついレンタルビデオを借りてきてしまう。ビデオを見るから仕事にしわ寄せもくるのは分かっている。そして、1週間借りているという安心感で、ビデオもついついギリギリまで見ないでいて、ほんとなら今日が期限、じっさいには明日の開店前に返却すればいいギリギリになって、これから見ようとしている。ついにビデオまで一夜漬けなんである。
今日も出先で昼食をとったあと、約束の時間まですこしあったので、ふつうなら喫茶店でコーヒーを飲みながら文庫本の続きを読んで時間潰しをするところだろうが、やはりそうはせず町をぶらぶら歩いていた。
なぜ喫茶店に入らなくなったかというと、これはもうタバコの煙がつらいからにほかならない。公共の場所での煙についてはほんとに「やめてくれ」といいたいが、喫茶店のそれは、喫煙するために喫茶店に入っている人もおられるだろうから、そこで「煙が迷惑」というのは言い過ぎだと思うし、だからその場に近づかないのが非喫煙者の正しい行動だと思うのだ。
灰皿のないところでタバコを吸うなんてとんでもない、と主張している私は、逆に灰皿のあるところでは吸われてもやむをえないと思う。要はそういう場に近づかなければいいわけである。
非喫煙者としてその程度の譲歩はしているのだから、喫煙者もみなさんがそれなりの「遠慮」「配慮」ということをしてくださればいいのだが、現実は…。
頭痛は私の個性のひとつというか、道連れというか、開き直りというか、ひどいときのコントロールのしかたを確保しているので、マイナスに感じないのである。それでもときどきは「かなんなあ」というときもある。頭痛に悩む患者さんの気持ちがわかるときである。
酒を飲むと頭痛がおこるという気の毒な人がいる。幸か不幸か、私は酒を飲むと頭痛が消える。かくして、今夜も熟睡のために、微妙なホロ酔いを目指すのであった。
秋に亀岡の温泉といえば、これはもうマツタケである。もっとも、私はマツタケに特別に思い入れはなく、嫌いではないので出されれば食べるが高い金を払っても食おうとは思わない程度のものである。そういう意味では「カニ」や「ウニ」などと同じような価値観しかもっていない。
私のそれはそれとして、やはり旅館としてはマツタケ料理を看板にして客集めをするわけで、八寸の小さなマサタケから始まって、スキヤキ、焼き、茶碗蒸、土瓶蒸、マツタケご飯…と、いやまあもう「これでもか」という攻勢であった。もちろん「丹波のマツタケ」がそんなにふんだんに使えるわけはなく、おそらく輸入モノであろう。
ま、季節のものは季節のものとして、素直に賞味してきたのである。
午後7時から北海道の「人気スポットからすこし離れた穴場」というのをやっていて、ずっとチェックをしていたあと、午後9時からこんどは東京西麻布を紹介する番組になった。
場の雰囲気と、出てくる人の印象と、なによりも価格水準の落差に、分かってはいるものの、やはり唖然としてしまった。
もっとも、私が普段生息している場もガサツで人工的でインフレ的なところではある。だからこそ、3ヶ月に一度でかける北海道に思い入れが強くなるのかもしれない。
毎週金曜日の午後、介護認定審査会に出て要介護認定作業をしているわけだが、ようやく今週の認定が終わったと思ったら、帰りに来週の分を渡される。まるで宿題のように毎週毎週くりかえされている。
宿題のようだと言ったら、同じ合議体メンバーの歯医者さんがいわく
「ほんとの宿題なら『忘れました』と先生に謝ればすむんですけどねえ」
というわけで、今日もまた宿題を抱えて夕日を浴びつつ職場に戻ったのであった。
どちらも私にとっては同時代というか、いくつかの作品に自分の人生のうえでのできごとが重なるのである。
演歌でなくニューミュージック系だというのが、私の世代に共通するのかどうか知らないが、こういうことを考えだすのがもう年を感じるということなのかもしれない。
かまやつひろしが歌うのもいいが、たくろうさんの「我が良き友よ」も独特の趣があるのだった。
ゆっくり朝寝と思っていたのだが、パートナーを送り出したあと、もういちど布団に入ったものの、目がさめてしまって寝床で新聞を読んだりしているうち、空腹に耐えられなくなってすぐに起きてしまった。
10時前に家を出て、阪急百貨店川西店で香を購入。紀伊國屋書店をちょっとぶらついてから、職場に出向いた。
書類を書いたり、日曜日に買ってきた「フジバカマ」を職場の庭に移植したり、昼ご飯を近所の丼屋さんにいってとったり、普通の勤務ではできない自由な時間を使いつつ仕事を消化。
余裕のある時間って、血圧も上がらずにいいもんである。
以前の駅前から宝塚大劇場まであたりの景色がどんなだったか、私はとくに宝塚に思い入れが強かったわけでもないので、よく覚えていない。そもそも宝塚大劇場そのものが、同じような時期に新しくなっていて、それを今津線が宝塚を出て宝塚南口に向かうときに車窓の右側、武庫川を渡る手前に独特の姿として確認できる。
宝塚歌劇の好きなかたには聖地であるはずだが、とくだんの興味がない私にとっては、電車の窓から見える宝塚ファミリーランドの遊具や動物のケージのほうに目を奪われるのであった。
カラオケで歌いすぎて「声がかれる」というのとはちょっと違って、声帯が振動していない感じ、たいへんかったるいのである。
長時間の講演を終えたときにも同じようなことになるので、きっといつもいつもしゃべっていれば、それなりに鍛えられてだいじょうぶになるのだろうが、普段はあまりしゃべらないし、しゃべっても大きな声を出さないことが多いので、ま、いわば、声帯の廃用が進んでしまったのかもしれない。
明日も午後に頼まれて人前で90分ほどお話することになっているので、出ない声が戻らなかったらしんどいなあと思っていたが、幸い夕方からのアルコール補給で回復したようである :-)