なのになんなんだ、この暑さ。さすがに朝夕の風は涼しくなってきたが、日中の日差しは「ここは熱帯か」というほどのままの北摂。昨日といい今日といい、夕方には身体がベットリ。顔はギトギト。
ほんと、何かまた天変地異でもあるんじゃないかと思っていたら、天変ではないおそらく人災、東海村がたいへんなことになっているようだ。
1年半ほどしか使っていないので、まだ故障するようなはずはないのだが、と思いつつ、しかしこのような不確実なことでは困るのである。
今日の午後、大阪梅田に所用ででかけたついでに、携帯電話屋さん(というのかどうか)に立ち寄ってみると、1000円で機種変更ができるという。なんといっても業務に使うものなので、思い切って取り替えることにした。古い端末はまだまだ外見上もきれいなものなので、捨ててしまうのにはちょっとづ罪悪感があったのは確か。
それにしても、40分ほどですべてのメモリーともども新しくなってしまった。大きな端末でやっと一日しかもたない電池をだましだまし使っていたころと隔世の感。
隣りの市とはいえ、私の職場からみると、たかだか徒歩10分もいらずにその市域になるので、かなりな部分がわが診療圏になる。しかし、市当局はそのような意識はほとんどないようで、ヨソの市の事業者という目で見られていたのが残念だった。
そのうえ、介護保険は市町村単位ということもあって、システムから各書類まで、ともかくすべて違うのが、事業者にとってはたいへん煩雑でまいっている。私の職場では、ざっと数えても、6市3町(1府1県)が関係しているため、考えるだに恐ろしい。
すでに毎日数枚ずつ「主治医意見書」を書いていて、私はもう介護保険にどっぷり浸かっているのである。
施設では先週から代行申請の受付を始めていて、今週は基本調査の依頼がどんどんきている。午後から外来診察に母体病院に出向くと「主治医意見書」が6通届けられていた。外来診察のあとで必死に作成したが、ここのところ慣れていないボールペンでの記入で手が痛くなってしまった。
世間では、囲い込みのための営業活動が厚生省の通達など無視のていで露骨にされているらしいし、利用者の側もなんとなく浮き足立っているようである。
これからしばらくいろいろと混乱しそうだが、やらざるを得ない。
靴が痛んで、雨のたびに底から水が染みてくるようになったので、大阪港にあるサントリー・ミュージアムでやっている「日本のガラス2000年―弥生から現代まで」を見にいくついでに、南港の安売り店「 Kou's」へ新しいものを買いに行った。つまり、この「 Kou's」が、あの中内功さんの名前をとったらしい店、要するにダイエーの系列店だということをうっかり忘れたまま、ダイエー球団優勝の翌日にそこへ買い物に行ったというわけである。
どうなったかは言わずもがな。ま、安いものを買えたのでしゃあないといえばしゃあないのだが、いやはや、疲れた。
薄暗くなった糺の森(ただすのもり)を歩いて下賀茂神社に参拝したあと、週末だというのに客の少ない祇園の飲み屋街を抜け(途中で女子プロレスの長与千種さんとすれちがったような…)、とみに大衆化した先斗町(ぽんとちょう)へ。
メニューも看板もなく暖簾だけの店、格子窓から漏れ見えた店内に若者がけっこういるのに気を強くして、ほんとの一見の店に入ったのだった。
古い民家かお茶屋をリストアしたらしいレトロなインテリアに落とした照明、こだわっているらしい食器、静かに流れるジャズにしゃれたネーミングのメニューと、いわゆるいまふうの居酒屋である。それほど大きいお店ではないのだが、つぎつぎにお客が入って、待ちが出ている(私が入ったときは幸運にも待たなくてすんだ)。
京都にまできて大阪にも最近よくあるような居酒屋、と思いつつも、注文したものを口にして感動。「胡麻豆腐」や「くみあげ湯葉」や「スジとコンニャクのドテ焼き」、これらがいずれも京風の薄味でまとめられているのである。私らの口にちょうどよい。こういう味付けのものが、若い人たちに受け入れられているのをみて、まだまだ味文化はだいじょうぶだと思った次第(ちょっとおおげさかな)。「1497」と称する地ビールもさっぱりとした喉ごしのいいもので、あっという間に3杯もおかわりしてしまった。
飲んだあとでひさしぶりに食べた南座隣の「松葉」のにしん蕎麦。ここでもにしんの味付けもダシの味も京都の薄味。
ああ、いい週末だった。
高校のときに阪神電車で通学していて、川筋ごとに電車の線路を塞ぐように大きな扉がある景色が記憶に鮮明である。高潮の危険があるときには、この扉が閉められて、もちろん電車は走らなくなる。それほど第二室戸の被害が衝撃的だったわけだ。
その後、阪神電車の線路のほとんどが高架化され、高潮堤防よりはるかに高い鉄橋になったので、この電車線路の防潮扉も姿を消している。道路の扉はまだあちこちにあるようだ。
今回の台風での熊本県不知火町の悲惨な高潮被害の映像にはショックを受けた。第二室戸ではあれほどの人的被害もなかったと思う。しかし、山口宇部空港が水没している絵を見て、これは何十年か前の大阪の臨海部と同じだと思ったのである。
人の考えることなど、ほんとたいしたことはないようだ。
トルコで大きな地震があって、ちょっとヒヤリと5年前を思い出したものの、テレビで流される映像はやはり異国のもの、身につまされるとまでは私は感じなかった。
しかし、今回の台湾の地震、時間がたって震源付近の映像がどんどん流されるようになると、景色が日本によく似ているだけ現実味があって、思わず背筋が寒くなってくる。
寝ている周囲を見渡して、倒れて危ないものがないのか改めて確認したりもする台風前夜。
「どうするの」と私のことを心配してくれる人が何人かおられたが、どうすることもない。私はすでに手に入れている :-) 気の毒なのは、予約申し込みをしてまだかまだかと待っていたかたがただろう。このまま製造中止ということになればほんとに気の毒である。
で、私はというと、e-one が売られなくなれば、いま使っているマシンはレア物ということになる。プレミアがつくかどうかは分からないが、すくなくとも話のネタにはなるに違いない。使わずに箱に入れて保存しておこうかなどと思う今日このごろ(冗談でっつせ)。
駅を降りて雨のなか駅前の横断歩道で信号待ちをしていると、目の前に乗用車が2台とまった。横断歩道をしっかりとブロックする形でとまった車から、6人ほどの中高年女性がワラワラと降りてきて、駅から降りてくるらしい同行者を待っている風情。みなさん、ゴルフに行かれるらしい。
しかしなあ、信号が変わっても、傘をさした歩行者は車が邪魔で歩きにくいのだよ。反対側で交通監視をしていたお巡りさんが気づいて、近づきながら笛を吹いて注意しても、知ってか知らずか仲間で話に夢中。
うーむ、さすがは上方のおばはんやねえ(おぞおぞ)。
それでもいい話が思い浮かばず、朝からボーッとしながら仕事についたのだったが、回診していてふと思い浮かんだ話、昼休みに一気に書き上げて(というほどの字数のものでもないのだが)、午後の外来診察は落ち着いてすることができたのだった。
はじめのうちは編集者が「これこれについて書いてください」と注文してくれていたから引き受けていたのに、いつのころからかテーマも考えてくれということになったのが敗因。季刊とはいえ、3ヶ月などあっという間である。
一時期ほどの熱気はすこし薄れているように感じたものの、やはりパソコン関連を中心に人出が多い。パソコンの量販店やマニアックな専門店や半分ジャンク屋のような店や、時間にとらわれずにかなりうろついてきて、なおかつよけいな買い物をせずにすませたのはたいしたものである。
パソコンは、例の i-macから始まったスケルトン路線と、vaio系のデザイン路線が全盛。しかし、買い手も売り手も何を中心に考えればいいのか分からなくなっているような印象があった。
あやうく衝動買いしそうになったのが、MP3 関連。ポータブルプレイヤーが2万円弱であり、CDから曲をコンバートしてMDプレイヤーの代わりに使ってみるかとかなり迷ったのだ。箱を手にしたり戻したり、しかしまあ衝動後のこういう迷いかたのときは、買ってもたいていあまり使わないことが多いのでかろうじて思いとどまったである。この迷いが2ヶ月持続したら買うことにしよう。
家電量販店に行ったりそのチラシを見ると、私がよく使っていたころとは画質も雲泥、大きさも何分の一というようなデシタルビデオカメラがいっぱいあるのに驚き、かつ油断するとつい手にとっていたりする。ま、買っても何に使うのかという難問があるのが、かろうじての抑止力になっている。
ところが、今日、医師会の講演を職場のビデオカメラを使ってずっと録画していて、ああ、こういう使い道があるのかと思ったとたん、ビデオカメラに俄然興味が湧いてきたりして、ああ、危ない危ない。物欲退散祈願が必要。
改札を出て階段を降りると、かつて木造の古びた駅舎のあったところにはJR直営のコンビニができていた。本家はこの旧駅舎からすこし下った真正面にあるのだが、あまりに商店街の様子が変わっていて、いったいどこがそうなのか、すぐには分からなかった。
お通夜がいとなまれている会館には、商店街を抜けて古い町並みの間の狭い曲がりくねった道路をしばらく歩く。このあたりにくると、ずーーっと昔に歩いたときの記憶がすこし戻ってくる。この、自然堤防をたどる道路に沿った家々には名残りがある。表札に私の苗字に似たものが散見される。都市化したとはいえ、やはり村は残っているようだと思いながら参列したお通夜、導師はずっと檀家でいるお寺の若住職。葬儀屋さんも地元、ふるまわれた巻き寿司をおさめた店も古くからのところらしい。
お参りくださった人の数に驚き、私にはわからないが父には分かる地の人がおおぜい。私はこの地に住んだことはないが、なんだか自分のルーツを見ているような感覚にとらわれたのだった。
私は最近でこそ疎遠になっているが、いまや大阪市の都市化に呑まれてしまったものの、かつてはまだまだ河内の農村のままだったご本家には、子どものころから正月だお祭りだお盆だといってよく遊びに行ったものである。
牛小屋兼農機具倉庫の横の通路を抜けると、中央に井戸のある中庭に出、勝手口を入ると大きな竈が据えられた土間の台所があった。手前におばあさんが寝込んでいた隠居部屋、右に広い茶の間、その奥に仏間と座敷、座敷の奥の縁側の端にご不浄があり手水鉢があった。縁側から裏の畑と田んぼが見渡せた。おそらく典型的な河内の農家。
夏祭りに遊びに行くと、今日亡くなった伯母がクルミモチをたくさんふるまってくれた。
その本家は、いつのころか建て替えられて上がマンションになっている。裏の畑はいまやぜーんぶ宅地。
明日はお通夜である。