もちろん、自分の職場はまさに老人保健施設ではあるが、施設の行事としての敬老の日は別の日に予定している。わが親は健在で、まもなく80歳に手が届こうかという高齢であるが、彼らに「敬老の日」だからといってなにかすると、きっと怒るのである。だから、毎年、私はあえてこの日を気にしないようにしているようだ(人ごとみたいだけど)。
毎日お年よりのお相手をしていると、なんで今日だけ、などとつい悪たれ口をたたいてしまうのであった。
郵便局でも ATMが普及してきたが、最近みかけるのが振替を扱う機械である。手書きの振替用紙を OCRで読み取って無人で手続きをする機械。なかなかよくできた機械なのだが、しかしいかんせん、かなり操作が煩雑なことと、一件の処理に時間がかかる。私のような者でも操作にはちょっとウロウロすることがあり、お年よりにはちょっとしんどいようである。
今日もあるアプリケーションのアップデートの送金に近くの郵便局の自動振替機から振替をしたのだが、ここではずっと一人の郵便局員さんが機械に張り付いて案内していた。そんなことをするなら、局員さんが直接操作したほうがずっと早いと思ったのだったが、このおそらく高価な機械は、郵便局にとっていったいどういうメリットがあるのか、かなり疑問を感じたのであった。
もともと淀川と大和川(いまの大和川とは流路が異なる)が形作る三角州にできた町であるうえに、江戸時代に流通のため堀割が縦横に開削され、旧市街地はまた「八百八橋」ともいわれたわけである。
高度成長期(いまとなってはなんと白々しい言葉か)に、道路にしたり駐車場にしたり、高速道路の敷地になったりして、多くの堀が埋められてしまい、しかも残った水面も汚染が進んで「汚水の都」という惨状になった。ちょうど私が生きてきた半世紀の間の変化である。
さすがに汚濁に関してはいろいろに施策がとられて、一時期に比べれば水はきれいになっている。しかし、それは相対的な話で、やはり昼間に水面を見るとけっして「きれい」だとはいえないのである。
なぜ唐突にこういう話題を出したかというと、昨日の用件先が平野川(以前の大和川の名残のひとつ)に面していて、大阪城公園の緑と大阪城の近景にこの平野川が入るものの、その川の汚さが興をそぐことになっているのに失望したからである。
私の家の本家がこの川のすこし上流に近いところにあって、小さいころに本家に行くバスから見える平野川は、堤防にレンゲの花が咲き、桜の木の下に小さな墓地がポツンとあるというような、のどかな川筋だった記憶がある。「貧乏だけど幸せ―われら日本人/昭和25年〜35年の実写記録」(平凡社コロナブックス)を読んでいてそのことを思い出し、何が幸せなのかとふと思った。
これも年のせいか。
梅田で時間調整兼朝食のあと、環状線で待ち合わせ駅に行く。そのままあるプロジェクトの話し合いを夕刻まで続けた。非常に密度の濃い会議で、7時間も続けていたのに時間を感じず、きわめて快い疲れである。
その後、難波で別の待ち合わせ。アメリカ村のまっただなかの見せで夕食をとる。この街を歩いてどっと疲れと暑さが出たようである。22時ごろに帰宅したときには、ともかく身体のギドギトが気持ち悪くて、すぐに浴びたシャワーのなんと快適だったことか。ついでに、浴びたあとに裸で飲むビールの甘露甘露 :-)
ところが、今年になったくらいから、この3車線の広大な道路にびっしり車が並んで渋滞することが多くなった。2年あまり前にこの県道が全通するまでは、何本かの昔のままの道路しかなかったので、県道ができたときにはなんと快適と思ったものでである。
それがたった2年ほどでこのありさま。とくに土曜日の午後から宵にかけては、1キロ走るのに20分ほどもかかる。なんで土曜日の午後にとんでもなく混むのか謎。どなたか推測していただきたいものだ。
彼女には、多くの関西以外のかたがおっしゃるのと同様、大阪では普通に会話しているのを聞いてもオモロイと見えるそうである。ま、少なくない関西人は、普通の会話ででも、いかにウケるかということを、どこか心の片隅に持っているようである。すくなくとも、私はそうだ。それで、関西弁の会話がなんとなく優しく聞こえるのかもしれないし、私は仕事の場でもそういう特性を利用しているのかもしれない。
もっとも、いったん関西弁が牙をむくと、とてつもなく品のない汚い言葉にもなるわけで、そのへん、便利といえば便利な言葉ではある。
なのに、今日のこの不快な暑さはなんなんだ。
外来診察にみえたいつもの患者さんがたの挨拶も、いつまでも暑いでんなあ、というもの。私も昼すぎには身体がべったりとして気持ちが悪い。夕刻からまだ用件があって大阪に出かけたので、遅くに帰宅する道すがらはもうおそらく自分はとても汗臭いんだろうなと、人の目も気になる。なんでも、あるエコロジスト氏は、めったに風呂に入らず、着替えもあまりしないので洗濯の必要も少ないので、自分は環境に優しい暮らしをしているのだと講演でおっしゃってるらしいが、私にはにわかに信じられない。もし本当なら、環境には優しいかもしれんが近所には迷惑やろなあ、などと思うのである。
ああ、いつになったらさわやかな秋になるのだろうか。
名刺交換をしたらメールアドレスが記載されていたというのはもはや珍しくもなんともない。
そして、私が感じているインターネットの一般化と並行するように、新聞でネットのことが取り上げられる機会もたいへん増えている。昨年のいまごろには予想もしなかった状況である。これからどうなるのか、ちょっと恐ろしい気もする。
火曜日は午前中に訪問診療に出る日。情けなくも「雨降りに関するマーフィの法則」にあるように(あるんかいな)、雨は出かけているときに降って外出を終えると上がる、このことをまともに体験したのである。
ともかく車の乗り降りだけで全身ずぶ濡れ、お屋敷の庭が浸水して飛び石のように置かれた板の上を歩く。側溝はあふれ、頭の上でビシャッというような雷が鳴る。パソコンはだいじょうぶだろうかと心配しつつ、半分はヤケクソで回ったのだった。
それにしてもこのごろの天気予報はよく当たる。
私は、肉はしょうしょう苦手なので、キムチやナムルや焼き野菜を中心に食べていたのだが、やはり若い人たちはすごい。どんどんお肉を食って、いやはやほんとに負けるのである。
で、満腹満腹、お開きねぇという段になって、誰いうともなく、あまったものをひとつの皿にまとめる、食器を集めて運びやすくする、お膳を拭く、あっというまにテーブルの上がかたづいてしまった。
帰りがちょうど夕食ごろになった。道中に見えるファミリーレストランや回転寿司、大規模なメシ屋さん、焼肉チェーンなどの店では、駐車場を先頭に車の渋滞、店の前にはおおぜいの家族連れが「たむろ」し、店の中の待ち合い場所ももちろんぎっしりである。
ものを食うのに行列なんてとんでもないという考えの私には思いもつかぬことではあるが、多人数の家族で外食しようとすれば、安くて美味いところに集中してもしかたがないのだろう。
パートナーが夜勤なので、私も自分の食事を外食しようと思っていたのだが、なんだか人に酔ってしまった。自宅近くのスーパーで刺身や豆腐を買って、秋の涼しい風が吹き抜けるようになったわが家でテレビを見ながらチビチビと。
小さい子どもたちがいるご家庭はたいへんだなあ。
大阪の地下鉄は、市の中心部では、東京と違ってかなり整然とした格子状になっていて、市内乗り入れの民鉄を加えると、ほぼすべての駅で直角に乗り換え線があるような格好になっている。
梅田→本町→堺筋本町→南森町と乗っているうちに、ずうっと昔、大阪市電(路面電車)が堺筋や四ツ橋筋、長堀通、本町通などを格子状に走っていて、交差点の停留所で乗り換えていたことを思い出した。地下鉄も大阪市電ではあるが、30年たって、かつての市電をトレースするような路線配置になっているのに、ふと感激したことであった。
自分で取材せず、新聞の報道に思いつきのようなコメントをして時間を稼ぐ。かつて、こういうことは「パクリ」などといわれた方法なのではないだろうか。もちろん、新聞を買わずに各紙の比較ができる便法だともいえるが、まあ、こういう手法が、野球や芸能ネタにしか使われていないのが悲しい。
朝日毎日読売サンケイ日経を並べて、政治や経済のネタを比較評論するような番組があれば、私はその気で見るかもしれない。ニフティのニュースクリップで各紙の報道内容の違いを興味を持って読んでいると、そういうのをテレビメディアでやってくれればオモロイのになあと思うのである。
あっ。今日は変にマジメなことを書いてしまった。
私はこう見えても皮膚が弱くて、夏の間などはとくに肌が荒れてかゆくなり、とくに風呂に入って皮膚の脂を落としたあとなど、むやみに全身が痒くなったりするのだ。石鹸も自然素材のものを使ったりしているのだが、いわゆる膨疹がたくさんできたりする。
ところが、浴槽の湯にこの木酢液を猪口に一杯ていど加えて入浴すると、風呂上りの皮膚の状態がきわめて快適なのである。「お肌がスベスベ」などというような直接的な効果はないのだが、ともかく気持ちがいい。まもなくなくなりそうなので、また送ってもらわねばならない。
ただ、これをいれた風呂、かなり「コゲ臭く」なるのが欠点。もちろん体も炭の匂いになる。もっとも、私はこの匂いが嫌いではないので、自分では苦にならない。どころか、ひょっとしたら匂いが寝つきに関係しているかもしれない。…って、なんだか「健康食品」のコマーシャルみたいだ。
どこかへ行ったり何かに参加したりするときに、知り合いや同じ職場の人といっしょに行動するというのが苦手なのである。ともかく仕事など以外で人としゃべるのがかなり苦痛であることは間違いない。冷静に考えて、これはちょっと「ウツ」の傾向なのかもしれない。そうかもしれないが、しかしいいオッサンがいっしょうけんめい仲間を探して見つけると安心して隣に座るというような行動をとっているのを見ると、いやはや、なんとも。
昔、昼ご飯を必ず誘い合わせて食べに行くひとたちを間近に見ていて、ま、オゾオゾしたこともあった。もっとも、その人たちには、いっしょに昼ご飯を食べに行くのは単なる確認であって、要するに派閥的な結びつきがあったようなのではあるが…。
でも、私のような変な人嫌いも困ったもんである。