昼前に着いた勝尾寺さんはうっすらと雪化粧していて、さらに雪がちらつき、たいへん寒い。町から近いとはいえさすがに真言宗の行場が開かれたところである。しかし、しばらくこなかった間にすっかり観光寺院化してしまっているのに少しく驚いてしまったのだった。
アップグレードはどちらもごく平穏にできたし、その後も快適に動いていて、数日前には解説書を購入して隠し技裏技のセットもしつつある。
ほとんどが仕事と通信で使っているので、安定性を考えてアップグレードは1年は待ってからと考えていたのに、けっきょく半年後に追随してしまった。
すべてを98に換えてからほぼ3週間、いまのところは安定しているので、つぎはハードディスク資源の余裕が少なくなってきた職場のPCの FAT32化に挑戦しようかと考えているのだった。
職場の玄関ロビーにも白梅の鉢植えがある。こちらはずっと室内の暖かいところに置いているので、すでに満開を過ぎてほとんど散ってしまっている。新聞に淡路島のスイセンの写真が載り、まもなく梅林の開花情報も掲載されるだろう。
夏の早出は気持ちがいいが、いまごろの、まだ星がまたたいている時刻の出勤はかなりつらい。寒い。バスの走り具合によっては、電車の接続が悪くなり、駅で10分ほど待たなくてはならない。ほとんど待つことなしに電車が走っているという便利さに慣れていると、たかが10分といえども、寒さのなかではたいへん待ち遠しくなってしまうのである。人間、すぐに贅沢になる。
こういう目に会うと、つい「車通勤をしたいなあ」と軟弱化してしまうのであった。
昼食はあれこれ考えなくてすむので(しかもタダだから)ありがたいのだが、夕食についてはアルコールを友とする私にとってはいささかつらいものがある。職場で食べて帰ると、帰宅したあとのビールのありがたみが弱まってしまうのだ。週一度とはいえ、私にはけっこうストレスだったりする。
今夜がその日。なお、食事自体はなかなかおいしいので念のため。
式典が終わってバスで帰るときも、交通渋滞でひどく時間がかかった。お参りしてきた人はササを持っているのですぐ分かるのだが、小さなササは作り物。もちろん本物の笹を使うのは資源の問題もあるわけだが、しかし見るからに造花というのもなにやらありがたみが…。
うしろすがたのしぐれてゆくか 種田山頭火
この句は昔から好きなもののひとつではあるが、私のうしろすがたは、まだまだしぐれてはいないつもりだ。
昼間も晴天ながら気温が上がらず、風が強い。昨日まで比較的暖かい日が続いていただけに、体感的にはさらに寒い。日本海側は大雪だそうで、そういう話を聞くとすぐに雪の海岸を見ながらカニを食べる景色を思い出してしまうのである。今年は娘の受験があって、毎年でかけているカニ民宿行きは自粛せねばならぬので、よけいにカニへの思いはつのるのだった。
冬の日本海でマツバガニをおいしくいただくために、それ以外のときにはほとんどカニは食べないという禁欲的な食生活をしているだけに、今年はちょっと寂しいのである。
正月の飲み食いで弱った胃をいたわるために質素な粥を食するのだという言い伝えも聞いたことがあるが、こんにちでは「食べること」自体が行事となっているもののようだ。例によってCOOPで七草のパッケージを売っていたので、わが家では今年も朝食は七草粥にした。そして、茶わん一杯の七草粥だけが朝食であった。足らんやろからパンでも食べてね、とパートナーの弁。それでは胃の養生にはならぬであろうに。
なんとか昼まで我慢して、さて施設の昼定食を食べようとすると、こちらもなんと七草粥(もちろんこちらにはオカズはついていた)。さすがにこれはちと遠慮してしまったのだった。
せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ、これぞななくさ。
私の職場のある市では、行政主導だけのモデル事業に飽き足らず、医師会や社会福祉協議会が中心になって、モデル事業に加わった各職種が集まって引き続き勉強会をしている。今日はその今年1回目の会合であった。
いつものことながら、細かい部分での矛盾や疑問が氷解せぬまま時間が過ぎていった。年末に介護保険法施行令がようやく出たけれども、さらに具体的な取り決め部分はまだ発表されていない。
明日はアフターファイブにケアマネージャの実務研修中の有志でケアマネージメントの勉強会を開くことになっていて、みんなの熱心さには頭が下がる。現場がこんななのに、介護保険制度そのものを政治の駆け引きの道具に使うようなマネはしないでもらいたいものだ。
ちょっと寂しいのは、書店関係がまだいつものペースになっていないこと。新刊が出てこないので、新しい本を探す楽しみがいまひとつなのである。週刊誌レベルがぼつぼつ動きだしているだけなのだ。週刊誌系を読まない人である私なのに、つい「アエラ」などを買いそうになる。
ま、松の内といわれる間はおとなしくせざるをえまい。
家族では私だけが早く出勤するので、朝食は石橋駅の「阪急そば」でうどんを食べる。暖まった身体に満足しつつ宝塚行きの電車に乗ると、石橋駅を出てすぐの高架線、今日の大阪の日の出が7時6分で、ちょうど朝日が遠くの六甲山系を照らすタイミングになる。
六甲の東斜面の住宅地が明るく照らされている。4年前のことをふと思い出した。震災のすぐあと、ようやく雲雀丘花屋敷駅まで開通した阪急電車での出勤でやはり今朝と同じような明るい景色を見たのだった。朝日に照らされていても、あの山の下では激しい被害で苦しんでいる人がおおぜいいるのだなあと、不便な生活とはいえほぼ安全な暮らしを取り戻した私が、電車に乗っているだけで激甚被災地を遠望できているという不思議な経験だった。
あのとき、「物を持つこと」の空しさを身に染みて感じたのに、たった4年でなんやもう。
今日は予定もなくずっと家で年賀状の返事や原稿書きなどをしていたので、ほんとにごく普通の日曜日という感じで一日が終わってしまった。おせち料理も少ししか作っていないので、昨夜ですべて食べてしまい、今夜はもういつものご飯になる。夕刻に近所の書店と生協まで散歩がてに出かけたのだが、街ももう正月気分が抜けてしまっているように見えた。
やれやれ、また一年の始まりか。
職場で急な用ができて朝から出勤。大晦日にも出勤したので、この年末年始もほとんど休めないようだ。
昼前から家族で天満の天神さんへお参り。今年は娘の受験があるので、いつもに増して神頼みにもリキが入っているのだ。あいかわらず大阪代表の天神さんの人出はすごい。隣を歩いていた若い男性の「おごそかさとは縁遠い雰囲気やな」というつぶやきにひそかに同意。
買い物と夕刻からの「鬼太鼓座」の公演を見に行くパートナーと娘を梅田で降ろして、最後になってしまったがいまの氏神さん、阿比太神社へ。ここはいつきても神社らしい雰囲気の神社である。ようやくお参りした気分になったなどというと、八幡明神や菅原道真さんのバチが当たるだろうか。
私の実家では、元旦の昼までに服装を整えて氏神さんである山本八幡宮に参詣することになっている。その時間帯に実家にいる家族みんなででかけるのである。今年は朝から実家に行ったので、数年ぶりにいっしょにお参りすることができた。
春になるとちょっとした花見の名所になる桜並木の川沿いの道をぶらぶら歩いて10分ほど、その道すがらの景色はかなり変ってしまっていたし、八幡宮の境内もすっかりリニューアルされてしまっているのにも驚いた。まさに都市神社になってしまっている。
ま、私のお宮参りをしてから半世紀たってしまったし、近鉄電車の駅前にあるんだから、都市化しても無理はない。