'98 週刊湾処屋/5月



5月29日(金)

 この年になりますとドキドキの健康診断。わが職場のそれは毎年この季節にありまして、今日が今年のそれでした。

 いま私の気にするところは、血圧と肝機能とコレステロール値。コレステロール値は高くないのですが、それをいかに維持しているかというヲタクな気分なのですが、残念ながら今年は上昇していました。原因はある程度は推定できています(念のため書いておきますが、高くなったとはいえ数字そのものは正常値ですからね)。

 肝機能は酒のみだから当然のこと。そして血圧。数年前から高いので軽い降圧剤を服用していまして、暖かくなってきて下がりすぎぎみなので2週間ほど前からやめているから気にしています。

 なんだかだんだん年寄りっぽくなってくるなあ。

新今宮

 不思議な駅です。

 西側の連絡通路を上がりますと、関西空港への特急ラピートも走る大幹線の南海電鉄本線/高野線のホームに出ます。終点の難波と並んで、通勤時間帯には環状線への乗り換え客で混雑します。

 いっぽう東側の通路を下りますと、そこでは阪堺電軌の路面電車の派手なボディが行き交います。そして駅から出たところはいわゆる「あいりん地区」。日雇いの人たちの町です。しかし、すぐ北側に、天王寺駅の項で触れた「フェスティバル・ゲート」ができて、東側ではさらに北と南で違った雰囲気になりました。

 このあたりに限らず、昔の町は分かりやすかったもんだと、つくづく感じるのでありました。

5月27日(火)

 早出というノルマを自分で課して仕事に行くようになって半年以上になりました。始めたころは冬に向かっていて暗いうちに出かけていたのですが、いまやもうしっかり日が昇った状態で出勤しています。

 当初ショートカット路線の初発バス6時20分というのを利用していました。そのうち遠まわり路線ならもっと早いのがあるのに気付き、しばらく6時3分発というのに乗っていました。夏至が近づくにつれてさらに目ざめが早くなってしまい、とうとう5時48分という初発に乗ることになっています。それでも天気がよければ車内照明がなくても本が読めます。

 年をとって早く目が醒めるようになって実感する日本の四季 :-)

天王寺(3)

 駅前から阿倍野筋をちょっとだけ南に行ったところに西へ入る商店街があります。入口のあたりには銀行などが並んでいて、ずっと以前から、銀行が閉店するとホームレスの人たちがその玄関にダンボールを並べて寝ていました。

 この商店街は、旭町といいますが、西に伸びて上町台地を下り、飛田方面に続いていました。いまどうなっているか、長らく訪ねていないので分からないのですが、昔はしばしば立呑み屋で安い酒を呑んだものでした。前に書いた京橋の立呑み屋よりも若い時の行きつけです。

 飛田のほうへ下っていきますと阿倍野区から西成区山王町に入ります。そのあたりが「てんのじむら」といわれた、大阪芸人の住んだ町です。

 いまはこのあたり、大阪市立大学医学部の巨大病院や、阪神高速、阿倍野筋に沿った市街地再開発ビル群によってひどく景色が変ってしまったはずです。

5月22日(金)

 いやはや、ほんとに暑かった一日。

 本来は木曜日にしている早出を今秋は都合で今日しました。午前5時半の北摂は、からりと晴れてきわめて快適で、財布を忘れて出かけそうになってあわてた以外はいい始まりでしたが、昼前に往診の必要があってでかけ、午後から予定の訪問診察、帰ってすぐ車椅子軽四を運転してデイケアのゲストを3ヶ所ピストンでお送り、暑かった ^^;

 帰宅してビビビビールの旨かったこと。いよいよビールの季節であります(いつでもそうやろ>自分)。

天王寺(2)

 駅前から大阪では唯一になった路面電車が出ています。阪堺電気軌道といいます。この路線はまた、大阪で最も古い鉄道のひとつでもあります。私の少年時代、天王寺駅前から平野行きの電車をよく利用しました。苗代田停留所が家の最寄りでしたが、この平野線は阪神高速松原線に敷地を譲って廃止されてしまっています。

 天王寺駅のいちばん南側からは南海電鉄の天下茶屋(てんがちゃや)支線が出ていました。西に向かってしばらく関西線と並行したあと、南へ折れて、飛田新地(かつての大きな遊郭)を縦断し、いわゆる釜ケ崎を横断して南海本線に接続していました。この線は貨物のためが主でしたから、南海で貨物が廃止されてからは存在の意味がなくなって、それに地下鉄の堺筋線が開通したこともあってやはり廃止されました。

 もうすこし前の話になりますと、駅の北側には市電と市営のトロリーバスがきていました。市電は北から西に曲がって天王寺公園の南側の道で上町台地を下り、霞町という停留所で再び北上していました。この霞町には車庫があり、その跡地につい最近できたのが都市型テーマパーク「フェスティバルゲート」です(このあたりは次の新今宮駅のほうが近いのですが)。

 昭和30年代の地図を見ますと、天王寺界隈は鉄路の集中する、ほんとに大きなターミナルだったことが分かります。

5月19日(火)

 兵庫県の老人保健施設協会の総会があったので、午後から神戸まで行きました。JR宝塚線(福知山線)川西池田駅から快速で尼崎駅、うまい接続で姫路行新快速で三宮駅、遅い昼食におろしそばを食べてポートライナーに乗って市民広場駅下車すぐポートピアホテル。

 会場はそのホテルの地下にあり、携帯電話も PHSも通じません。そこに午後2時から懇親会を入れると5時間ほどの日程。施設長や事務長や相談指導員さんたちが総勢 200名以上参加なさっていましたが、やはり老人保健施設というのはヒマなんでしょうか。そんな通信途絶でもなんともないらしい。私は気が気ではなく、おもわず途中で留守番チェック、ついでに職場に電話して状況を伝えておきました。

 懇親会ではたまたま立食パーティのテーブルのむこうに、医者としても老人保健施設の管理者としてもかなりの先輩であるらしき白髪のかた数名。その会話の内容が聞こえてきて苦笑したりキレかけたり…。詳しいことはとてもここでは書けませんが、うーむ、あかんでぇほんま :-)

天王寺(1)

 小学校4年から大学(医学部なので6年間)を卒業するまで14年間を過ごした家の最寄り駅です。したがって、蒸気機関車9600型が関西本線で入れ換え作業をしたり電気機関車EF52の牽く紀勢線準急「くろしお」がしずしずと発車していたころから馴染み続けています。

 私はこの駅の南に住んでましたが、北側は大阪の歴史を凝縮したような町。上町台地に点在するポイントは数えあげればキリがありません。なかでも私が好きだったところは、建物こそ新しいものの、それでも重みのある四天王寺さんの境内です。いや、けっしてラッパ・日佐丸の「てんのーりのかめのいけ」が印象に強いからではありません。四天王寺さんの存在感は、大阪人には特別のものがあります、って私だけかなあ。

5月15日(金)

 今日は予定が込んでいていややなあと思いつつ仕事につきました。

 午後から医師会の集まりがあるのがちょっと負担になっていたのですが、まあ仕方ないかということで、決められた時刻に医師会館に出向きました。で、医師会の職員さんにあいさつしたものの、なにか空気がおかしい。で、会合のある会議室に行ったら電気もついていない。あれれ、と思って事務室にとってかえし、老人・在宅医療委員会じゃありませんでしたかぁ、と聞きますと、みなさん、きょとんとなさっています。

 ぜんぜん予定されていなかったのですな、これが…。

 ほんとに恥かいて疑問符を上げながら職場に戻りましたが、うむ、そーかと気がつきました。先月の第三金曜日にその委員会があったので、おそらくパソコンのスケジューラで「毎月第三金曜日が委員会」と設定してしまったのです。電脳時代の落とし穴、などというと大袈裟か :-)

寺田町

 いよいよ私が少年時代を過ごした町に近づいてきました。

 でもこの駅、玉造と同じように地味な駅です。家が近くなければ、玉造と同じように縁の薄い駅だったと思います。

 寺田町界隈で用事があっても、たいてい天王寺で降りれば間に合います。駅間はその程度に短かい。阪和線の美章園駅も遠くない。近鉄南大阪線の河堀口(こぼれぐち)駅もすぐ近くです。

 あらためて考えてみれば、駅の密集しているあたりで私はおとなになったのですね。

5月12日(火)

 毎週火曜と金曜に書いていますと、火曜と金曜のできごと関係ばかりになりかねませんので、前回の日記以降のことを書いてもいきます。

 この日曜日、天気予報は曇りときどき雨で蒸し暑いというもの、さてどうしようかと朝早く目ざめて布団のなかでまどろみながらしばし思案していました。で、ふと思いついたのが、初夏→タケノコ→長岡あたり→タケノコ料理専門の料亭「K」→隣の山崎町にある美術館、というわけで、京都府乙訓郡(おとくにぐん)大山崎町の『アサヒビール大山崎山荘美術館』を第一目的、そして昼食を『K』でとるというもくろみ。美術館は前から行ってみたいと思っていたところでした。

 大山崎山荘美術館は、もともと大正の実業家の別荘であったもので、所有者が転々とするうち、開発してマンションを建てるという計画が持ち上がりました。文化財の破壊に危機感を持った京都府の肝いりでビール会社が買い取り、安藤忠雄氏の監修で修復し、さらに氏の設計の新館「地中の宝石箱」を増築して美術館にして公開しているものです。「天下分け目の」天王山の中腹にあります。

 展示はいわゆる民芸運動の作家である河井寛次郎、濱田庄司、バーナード・リーチなどの作品と、クロード・モネの睡蓮の連作数点で、決して多くはありませんが、しかしここは建物や庭じたいが展示物のようなもので、大正期の英国風洋館のみごとさと、あちこちに感じられる趣味のよさ、二階の広い石造りのテラスからの淀川三川合流地帯の俯瞰のすばらしさに、期待をはるかに超えた時間を持てたことでした。

 午後になってタケノコタケノコとばかりに『K』に着いた私たちを待っていたのは、案内のお姐さんの「シーズンなので 12000円のコース料理しかありません」という言葉。なんぼ旨いタケノコとはいえ、これはちょっと腰が引けてしまいました。しかたなく昼食は国道沿いのうどん屋さんで「辛子味噌風味冷や麦」 950円也。

桃谷

 環状線の沿線はおおむね大阪市の下町地区なのですが、なかでも鶴橋から桃谷やつぎの寺田町あたりは、私の少年期の生活圏でもあるので親しみの深い下町です。

 駅からすぐのところにある大阪逓信病院は、私が小学生低学年のときに扁桃腺の手術をさせられたところ。かしこく手術を受けたご褒美に近鉄百貨店で冨山房の日本地図帖を買ってもらったのを鮮明に覚えています。もうそのころから地図ヲタクの芽があったのですね。

 東側には「プール学院」という女学校があります。昔から妙な名前やなと不思議だった学校。

 駅から東へ延びる商店街は、典型的な大阪のそれです。雑然混沌とした町はなぜか落ち着くのです。路地を一歩入ると長屋風の住宅の前にわが物顔に並べられた盆栽や植木鉢、つぎはぎだらけの狭い舗装道、そんなところを疾走する自転車という風景。そういえば、いま私が住んでいるところの最寄り駅の阪急石橋駅前の商店街もそういう雰囲気のところですねえ。

5月8日(金)

 20年ほど前に勤務していた職場の同窓会のようなものに出てきました。

 当時、新卒で入職してきた看護婦さんたちが、いまや立派なおばさん(失礼)になっていて、それでもその大半は現役で頑張っていることには感激しました。それにしても、すぐに誰だか分かるほど、みなさん若々しいまま。旧姓で呼び合う彼女たちを見ていますと、酔うほどにほとんどタイムスリップしてしまったことでした。

 遠方から来ていて宿泊するという人もいて、その部屋での二次会、夜の更けるのも忘れて時間を過ごし、帰宅したのは午前2時。

 だからこの文章は一日遅れとなりました :-)

鶴橋

 私の大学は奈良県にありまして、下宿する前は大阪阿倍野にある家から通っていましたから、毎日この駅で環状線と近鉄電車を乗り換えていました。

 夕刻、空腹をかかえて近鉄急行から降りますと、ホームには猛烈に旨そうな焼肉の香りが…。ただよう、などという生やさしいものではなく、吹きつける、という感じで直撃してくるのでした。これはいまでも同じです。近鉄線の高架ホームの両側には鶴橋市場があって、その中にあるたくさんの店からの排気がホームに香りを吐き出しているのです。

 ここは在日韓国朝鮮の人たちの店が大半の市場でして、半島の食材や衣類、雑貨の豊富なことと、値段の安さが嬉しくて、私はいまだにしばしば通うのです。行けばすくなくともキムチとゴマは必ず買って帰ります。スーパーで売っているビン入りのキムチとはぜんぜん違いますし、店によって微妙に味が違うのです。帰りの電車内で匂いを気にしながらでも必ず買う理由はそこにあるのです。うー、よだれが…。

5月5日(火)

 あらら、というまに連休が終わってしまいました。

 黄金週間の後半はカレンダー通りの休みがあったのですが、やはりなにもないのに3日間続けて休むというのもあとが怖い。で、昨日は午前中から午後早くまで出勤していました。

 ともかくパートナーがこの連休ずっと仕事だったので、私は自分勝手にすることを決められるという、非常に魅力的な時間だったのですが、けっきょく何をするでもなく過ごしてしまったのは残念でした。

 でもまあ、父のごきげん伺いもしましたし、普段できない事務処理もできましたし(そのためにかなり長い時間、自宅の端末に向かっていて肩こりがひどい――自宅の端末は畳に座ってキーボードを叩かなくてはなりませんので)、珍しく朝寝などというものもいたしました。

 考えてみれば、こういう怠惰な休日を過ごしたのは社会人になってから初めてかもしれません。たまにはいいでしょう。でも、なぜか疲れました ^^;

玉造

 昔からよく知ってる駅であって、しばしばその駅は通過しているのに、でも駅やその周囲にほとんど縁のない駅ってあるもんです。玉造がまさにそれ。

 あ、そもそも玉造は「たまつくり」と大阪以外のかたに読めるのでしょうか。いや、島根県に同名の有名な温泉があるので、それなりに知られた読み方なのかもしれませんね。

 ともかく、私はいままでの50年弱の間、この駅で乗降した記憶がありませんし、この駅の周辺に用があったことがありません。もうすこし西に行けば、昔ときどき通った料理屋さんがあることはあります。でもそこに行くのにこの駅は最寄りではないんです。

 あらためて地図を見ますと、真田山公園がすぐ近くにあります。この公園には大阪城への抜け穴の入口があるとかないとか言われています。そのくらいでしょうかねえ、玉造。

 旧国鉄の城東線のころこの駅には貨物駅があったのではなかったかというのが、いま環状線に乗ってこの駅を通過するときに見える駅の西南にある空き地を見て思い浮かぶ唯一のことであります。

5月1日(金)

 一昨日のみどりの日は、私が1973年に医学部を出て医者になってからずっと続けてきた「当直勤務」の、とりあえずの最後の日でした。

 変らず救急病院の当直勤務をしてきましたが、さすがに「五十路(いそじ)」ともなると体力気力が続かなくなってきました。勤務中はまだだいじょうぶなのですが、あとがあきまへん。医者の当直には「明け」がありませんから、いつもの勤務をしなければならず、これがまことにつらくなってきたのでした。

 慢性期対象の病院の当直ならまだまだできますので、しばらく休んでまたそういう勤務をするかもしれませんが、一次二次救急をみるところからは卒業です。考えてみればCTスキャンなんてアイデアのカケラすらなかったころからやっていて、いまや普通のレントゲン感覚でそれがとれる時代。医療費もかさむはずです。

 それにしてもちょっとは寂しい思いをするかいなと思っていましたが、いつものように淡々とした明けの朝。

森之宮

 この駅の周辺にはパブリックな施設が集まっています。大阪府庁が近いからなのか、もともと官庁系の施設を建てることのできる土地が多かったのか、古くからの施設も少なくなくて、独特の雰囲気の町です。

 府立成人病センターや赤十字血液センター、がん予防検診センターなどの医療系の施設があり、府立青少年センター、大阪中央労働総合庁舎、COMLの患者塾がいつも使うアピオ大阪、そして、大阪城公園の一角にある大阪国際平和センター(ピースおおさか)はぜひ一度見ておきたい戦争に関する資料館。

 かつて近鉄球団の本拠地だった日生球場は、すでに解体が進んでいるそうです。土を盛って基礎にした観覧席が現われて、昔の正統な野球場の構造がみごとだと先日の新聞に載っていました。

 西のほうに歩いていきますと、上町台地の北の端、いわゆる難波宮(なにわのみや)跡があって、台地を南下する歴史の散歩道の起点になっています。このあたりは都市の中にぽっかりとあいた空間という感じがします。

 私は長らく歩いていませんが、気候のよいときにまたブラブラと行ってみたい。





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