'98 週刊湾処屋/3月



3月31日(火)

 年度末になってしまいました。

 1997年度は勤務先がかわったこともあって目まぐるしい年度でありましたが、いつのまにか早くも終わってしまったというのが実感です。明日には新人が入ってきます。

 なんとなく職場で飲みにいこうという話になって、近所のチェーン居酒屋でもりあがってしまいました。ま、明日から新年度だからという気持ちはあまりなくて、日常が繰り返すだけという覇気のなさなのですが、これが平和でいいのかもしれません。

 五月山がいよいよ白くなってきました。

地下街

 大阪市は昔から地下街が多いことで有名らしいのですが、つぎつぎに新しい地下街ができてきて、昔からのそれがすたれてくる問題が指摘されています。

 パソコン関係の買い出しには当然日本橋へ通っていまして、最近は日本橋の店が北西へ広がってきたこともあり、地下鉄では堺筋線の恵美須町で降りるのではなく、御堂筋線のなんばで下車することが多くなりました。なんばから「なんなんタウン」という古い地下街を通って道具屋筋方面へ出ます。

 この「なんなんタウン」にオープン以来ずっと店を出していたシュークリーム屋さんが閉店したというニュースが今年になってあったように、この地下街は人通りがあまり多くなくて、ちょっと寂しい状態です。すぐ近くに「虹のまち」や「なんばCITY」という大規模で交通機関に直結した地下街があるのが影響しているのでしょう。

 店が減ればさらに人通りが減り、さらにさびれて…という悪循環になってしまうのでしょうが、子どものころから馴染んだ街の元気がなくなるのは悲しいものです。

3月27日(金)

 二日間にわたって鹿児島で温泉三昧してきましたら、休みあけに出勤して地獄でした。たった二日間なのに、なんでこんなに仕事がたまってるのぉっと、つい言ってしまいました。まさに天国と地獄。

 ある意味では、リズムを乱すような休暇は、けっきょくかえってストレスを強くしてしまうだけかもしれないと思ったりもします。慣れない温泉三昧などしてはあかんのだろうか、などと考えてしまったりする。

 なんだかかえって疲れた一週間でありました。

通り抜け

 桜の季節になりますと、大阪の人間は「造幣局の通り抜け」を思い出します。その行事じたいは、ソメイヨシノの開花がとっくに終わった4月中旬にあるのですが、私も子どものころから馴染んでいて、でもものすごい混雑なので、あまりなんども行きたくはないイベントです。

 そう思ってふと気がついたのは、震災のあとから年末に神戸の定例イベントになっている「ルミナリエ」。これも通り抜けなんですね。光のトンネルの下の通り抜け。

 私の自宅のある町内にある桜並木もそうですが、トンネル状に頭上をおおったものの下を通り抜けるという行為は、なぜか「ハレ」の気分をさらに高揚させるような気がします。

3月23日(月)〜25日(水)特集/駆け抜け薩摩紀行

23日…寝台特急「なは」

 さすがにいろいろとストレス貯ってきまして、ちと発散しなければと思う今日このごろ。娘が新年度に高校3年ということで、ゆったり気分で旅行なども最後かなという気持ちもあって、ひさしぶりの有給休暇などをとりまして、いぇい乗ったで寝台特急。

 そういうわけで現在 ← 特急「なは」車内、ただいま福山に運転停車いたしました。アクセスはリブレットにデジタル携帯電話 → をつないだモバイル通信です。

 明日の朝遅くに西鹿児島着、レンタカーを借りてえびの霧島、宿は妙見温泉に予約してありまして、明後日は指宿方面まで出向こうかという予定です。

 家族3名、「なは」のコンパートメント寝台「デュエット」に女性たち二人、私は「ソロ」でこれから休みます。ひさしぶりの夜汽車。なんだかうきうきして眠れないかもしれません。鉄分の多い者(*1)はこれだから困る :-)

    (*1)鉄道が好きな人のことを「鉄分が多い」と最近はいうらしい。

24日…忘れの里・雅叙苑

 午前10時半前に西鹿児島着。個室寝台というぜいたくな移動手段の一夜は明けてしまいました。ソロはちょっと天井が狭くて、寝ているときはいいのですが、起きてからはつらいものがあります。デュエットのほうは、寝台の幅がやや狭いのが欠点ですが、通路部分の高さが確保されているぶん、快適さにすぐれていました。

 西鹿児島の駅は何年か前にきたときの雑然とした建物は跡形もなくなっていて、橋上駅舎が特急「つばめ」のイメージで新築されているのにびっくり。ダークグレーメタリックとレッドのテーマカラーが斬新です。

 レール&レンタカーの予約をとっていたので、駅レンタカーの事務所にいってデミオを借り出し、高速道路を経て霧島、えびの高原で遊んできました。目的のひとつであった「えびの市営露天風呂」は工事中でがっかり。天候も曇りときどき雨という残念なもの。それでもまあそれなりに活火山地帯の観光をして、今夜の宿の妙見温泉「忘れの里・雅叙苑」には早いめの午後4時半に到着しました。

 しかし、この到着はもうすこし早くすればよかったということが、この旅館に着いてからすぐに後悔したことでした。雅叙苑についてはまた別の機会に。

25日…天然砂むし温泉

 夜半から本格的な雨になってしまいました。

 午前4時ごろから、雅叙苑の主役のような放し飼いの鶏が鬨の声を上げているのを、夢うつつに聞きながら、なぜか寝心地のいい布団でゆっくりと朝寝しました。朝風呂に入ってから、素朴ながらよく見るとぜいたくな朝食を満喫し、この宿を離れがたくてチェックオフ時刻11時ぎりぎりまで滞在。しかし、こののんびりさがあとあとに影響してきたわけです。

 九州高速道から指宿スカイラインへ入って目指すは「砂むし風呂」 :-) このスカイラインは失敗でした。高速道路から直接つながっているのと、おおざっぱな地図しか見ていなかったので、稜線に沿ってくねくね曲がりくねっているとは思わなかったのでした。おかげで時間をロス。

 それでもまあ、今回の旅行のもう一つの目的である砂風呂、指宿温泉のそれなどは有名すぎておもしろくない、目指すは山川町の「伏目天然砂むし温泉」。ここに着いたのは昼を回っていました。

 砂むしは想像以上に気持ちのよいもの、かれこれ一時間ほど費やして満足しつつ、それでも時間がないので鹿児島へと急ぐ。途中から雨が強くなり、鹿児島の市内に入ってからはひどい渋滞。しかしこの日本、どこへ行っても道路の事情は悪いんですねえ。西鹿児島駅前から空港までバスに乗らなくてはならないし、予定より遅れているし、飛行機に乗れるだろうかとヤキモキイライラ。胃が痛くなりましたね、ほんま。

 家族3人バタバタと走ったりしつつ、ほんとにギリギリでなんとか鹿児島空港に着。みやげものショッピングが女性たちの楽しみであったのに、そんな余裕もなくなってしまいました。旅の最後にけっきょくいつものように時間に追われてしまったのでした。ふ〜。

 そうして、飛行機のチェックインがほとんど最後だったために、禁煙席はなく、B767-300のいちばん後ろに近い喫煙席、いっきに服がタバコ臭くなってしもうたことでした。たった一時間くらいの路線、いいかげんに全面禁煙にしましょーね>全日空さん。

3月20日(金)

 雨ですよ、朝から。

 こういう日は、また朝からキれそうになりながら出勤しなければなりませぬ。いやなに、無神経な車がハネを上げながら、歩く私スレスレに裏道を走ってくんでね。パチンコ玉でも持って、投げつけてやろうかと思うほどでんねん。

 日本人っていつからこんなになったんでしょうなあ。知的精神的レベルが低いくせに車くらいは持てるようになったので、世の中に馬鹿を撒き散らし、ついでに道に水しぶきも跳ね上げながら嬉々として運転しちゃうんでしょうね。ま、そういう民度の低い人たちが選んだ政治、そりゃあニッポンもたいしたことはないわいな。情けないのぉ。

防空壕

 いま私の両親が住んでいる家は、母の両親つまり私の祖父夫婦がすぐ近所のべつの敷地に鉄筋の家を建てて移るまで住んでいました。

 その家は戦前に建てられたもので、ちょっと大正モダンの香りのある感じのいい建物でした。祖父が新進気鋭の建築設計屋さんだったので、それなりの家だったのだと思います。私が小学校の低学年までのころですから、いまから40年も前のことになります。

 その家の庭、門から玄関までの通路の右側に、ちょっと小高い土盛があり、ちょうど築山のような風情、たくさんの萩が植わっていました。私がいまだに萩の花に特別の思い入れがある原風景です。

 で、規模の大きなこの築山ふう、北斜面に扉があり、ここを開けると狭い階段が地下に向かっていて、降りたところにコンクリで囲まれた部屋がふたつ。要するにこれは本格的な防空壕です。さいわいにも戦時中にこれを使う機会はなかったということですが、わんぱく盛りの私やその仲間にとってはかっこうの冒険場所、夏にはときどき青大将がとぐろを巻いていたりして、なかなか刺激的なところでした。

 いまその場所は半分がめったに使われることのない車置き場、残りは単なる前栽になっています。

3月17日(火)

 先月から続いた口演が今日すべて終わりました。じつはずっとこれらが重荷になっていまして、何をするにも気になって難儀なことでありました。

 慣れというのは恐ろしいもので、ちょっと前だと人様の前でしゃべるだけでマイクを持つ手が震えていたものの、回数を重ねるうちにそういうことはなくなりました。しかし、余裕ができてきたころから、せっかく私のつたない話を聞いてくださるかたがおられるのだから、退屈でないように、などとおこがましく思うようになりました。

 乱暴な言い方をすれば、なんとか受けを狙いたいというようなことかも知れません。そういうことを考え出しますと、原稿にいろいろ手を入れたくなってしまったりして、要するに「策に溺れる」状態になってしまうようです。そんな高等なことができるような者ではないのに、困ったもんです。

 しばらくはお座敷がかかっていないので、ちょっと本が読めそうです。

弁天町

 私が子どものころ、大阪環状線はまだありませんでした。東半分は城東線、大阪駅から西へは西成線と称していましたし、天王寺駅から西は関西本線と、大阪港方面への貨物線でありました。

 環状線が開通して、はじめは「『の』の字運転」、旧西成線の桜島から西九条を経て大阪、旧城東線を通って天王寺、新たにできた線路を走って西九条が終点という運転がしばらく続きました。そのときに「弁天町」駅ができたわけです。ほぼ時期を同じくして、弁天町駅前に、交通科学館ができ、子どものころから鉄分が多かった私には嬉しい駅でありました。

 その後、駅前に大きな複合施設ができたことは知っていたものの、なんとなく縁が薄くなっていました。今日、口演を依頼された場所が弁天町駅前の「オーク 200」なるその複合施設。いやはや弁天町も変りました。

 そういえば、私にとっての聖域である交通科学館にも長くでかけていません。ヒマができたら行かねば…。

3月13日(金)

 夕刻から用件のため大阪へ出ました。覚悟はしていたものの、梅田の駅のものすごい混雑。ハナキンだしホワイトデイ前夜だし。

 でも13日の金曜日の仏滅だったのですね、今日は。こういうことをほとんど気にすることのない私にはどうということはないのですが、けっこう世間では受けていたようでした。

消えた鉄軌道2

 そうだ、淡路交通という鉄道があったのだと、いよいよ開通が近づいてきた明石大橋のニュースを見ていて思い出しました。洲本から福良まで。会社そのものはバス会社として存続していて、存続どころか関西では元気のいいバスとして一部では有名です。とうぜんそのバスは明石大橋経由の路線も確保しています。

 あっそういえば出石(いずし)鉄道というのもあったぞ。いまや出石といえば蕎麦で観光客を集めていますね。をを別府(べふ)鉄道は高校のときの文化祭のテーマにしたことがあったなぁ。

 というようなことを、今日は往診先のお宅の前の道を見ながら思い出したのでありました。この道は、能勢電気鉄道の川西能勢口〜川西池田駅前間の路線跡なのでありました。

3月10日(火)

 山が、ひとまわり太ってきました。

 通勤に一駅間だけ電車に乗りますが、高架線を走るこの電車からはずっと池田市の象徴のような「五月山(さつきやま)」が見えます。その五月山がここ数日で太ってきたのです。五月山はほぼ全山に桜の木が植わっていて、あと一ヶ月たらずしますと山全体が桜に包まれ、一年で一番誇らしいシーズンを迎えることになります。

 3月に入ってから、桜の木のツボミが膨らんできて、冬の間には枝だけしかなくて見えていた山の地肌が隠されてきました。それで、山のボリウムがひとまわり大きくなったように見えるわけです。ほのかに紫色にも見えます。

 あともうすこし、もうすこしでまた桜が見られます。

百貨店

 私の記憶の始まりの百貨店は、近鉄百貨店上本町店です。八尾市で生れ育ったので、幼年期の私の世界では上本町が「上がり」だったわけです。

 小学校のときに喉の手術を大阪逓信病院で受け、その手術でおとなしく我慢したご褒美を近鉄百貨店で買ってもらいました。冨山閣の「日本地図帳」当時としてはまことに珍しいA4版の高校生用のものと、レーベルと演奏者は忘れましたが、「オペラ・ウイリアム=テル 序曲」のLPレコード。

 この近鉄百貨店の建物が、遠く「大軌(*1)百貨店」のものだということを、のちの鉄ちゃん時代に読んだ「50年の歩み」という近鉄の社史で知りました。

 同じ近鉄百貨店でも、大鉄(*2)百貨店がルーツの阿倍野店は、私の記憶のある時点ではすでに改築されていました(いまは再度改築されています)。大阪市内では、浪速区にあった松坂屋百貨店と東区の三越、それに阪急百貨店が戦前の建物のままであったと思います。松坂屋は天満橋に移転していまは高島屋別館として残っていますが、三越は阪神淡路大震災で被害を受けて解体、新築されてしまいました。

 けっきょく今や梅田の一番目立つところにある阪急百貨店だけが残っています。その建物の最上階を占めて開局した「新日本放送」が毎日放送朝日放送の始まりであるということを、どれだけのかたが記憶しておられるでしょうか。

    (*1)大阪電気軌道。大阪上本町と奈良の間から始まって現在の近畿日
    本鉄道(近鉄)の基礎となった私鉄。
    (*2)河陽鉄道→河南鉄道→大阪鉄道。大阪阿部野橋から河内長野、久
    米寺(現橿原神宮前)などの鉄道を営業していた。現在の近鉄南大阪
    線・長野線。

3月6日(金)

 今日は啓蟄(けいちつ)だったそうです。

 今年は、二十四節気のとおりのような季節の移り変わりで、私は3月になってコートを一度も着ていません。今日などはまさに冬眠の虫が地面から顔を出しても当然のような陽気で、午後の事務所では女性の事務職員が眠くてたまらんといってました。

 けっきょく幸いにも今年はパートナーの車にタイヤチェーンを巻く機会もなく、スタッドレスタイヤを用意していなかったのも問題ありませんでした(そういえば前の車――旧型のサニー――のスタッドレスがベランダに死蔵してあります。ほしいかたにはさしあげますが)。

 寒さには強い私ですが、そりゃあ寒いより暖かい春のほうがいいに決まっています。ベランダのハーブ類も元気になってきたので楽しみです。

玉手山遊園地

 大阪府近辺にはいくつかの遊園地があります。ちかごろはテーマパークとかアミューズメントプレイスなどというようですが、私たちはやはり遊園地という言葉に馴染んでいます。

 みさき公園や近鉄あやめ池遊園地、宝塚ファミリーランド、枚方パークそれに阪神パークなどと並んで、こどものころにはしばしば玉手山遊園地に連れていってもらったものです。で、おそらくまだこの遊園地は続いているはずです。

大阪制作の人気テレビ番組「探偵ナイトスクープ」の人気企画に「パラダイスもの」がありますが、いまの玉手山はおそらくこのパラダイスものに近い状態かもしれません。

 大阪近辺にお住まいでもご存じないかたが少なくないかもしれないこの遊園地。最寄りの駅は近鉄大阪線の国分か近鉄南大阪線道明寺。駅からしてマイナーなんですが、どちらの駅で降りても町のなかの狭い道をくねくねと歩いていって小さなゲートに行き着きます。住宅の裏に唐突に現われます。この一帯に無数にある古墳群がある山一帯に比較的規模の小さな遊具が散在しているこじんまりしたところです。

 私がよく遊びに連れていってもらったころは、周囲は一面の河内ブドウの畑でしたが、いまやびっしりと家の立ち並んだベッドタウンの一角になってしまいました。

3月3日(火)

 デイケアの送迎車に乗っていますと、道でご同業の車によく会います。デイケアやデイサービスの送迎の時間帯はたいてい同じころになりますから、当然といえば当然なのですが、おもしろいことに、側面のロゴを見なくても、むこうからくる車がその種のものではないかというのがなんとなく雰囲気で分かるようになりました。

 ま、じつはある意味では競争相手であるのですが、しかしじつになんとなく親しみがあって、お互いにあいさつのジェスチャーをしてしまったりします。

 私が在宅支援の医療を始めた10年すこし前には、こういう車はほとんど走っていなかったなあと思い出して、それなりに感無量にふけっていたりしますが、これからはもっともっと増えるはずです。そして、増えてもらわなければ困ります。

消えた鉄軌道

 昨日は私の誕生日でした。ぬぁんと49才。つまり半世紀近く生きてきたことになってしまいました。で、その半世紀の間には、自動車の発達でつぎつぎと鉄道や軌道が廃止された時期がありました。大阪近郊、大阪市内も例外ではありません。

 小学校中学校のとき住んでいた家のすぐ裏を走っていて、わが家の日常の足になっていた南海電鉄の平野線は、阪神高速と地下鉄谷町線に追われてしまいました。高校のときに馴染んだ阪神電鉄国道線と甲子園線もなくなりました。最近では南海の天王寺線が地下鉄堺筋線の延長を機会に廃止されました。いわゆる釜ケ崎を横断し飛田の遊郭跡のどまんなかを走っていた線です。

 大阪市電はいうまでもありませんが、阪神の北大阪線という路面電車もありました。

 近畿全体に目を広げますとまだいろいろたくさんの消えた鉄軌道があります。小学校からの鉄ちゃんとしては、寂しい半世紀でありました。





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