'98 週刊湾処屋/2月



2月27日(金)

 今日の北摂はもう春でした。

 ちょうど月一度の北部山間方面の訪問診察に午後から出向くことになっていまして、ちょっと早い目に出発。川西市の北端にあるキャンプ場を見下ろすところで車を停めてコンビニで買ったパンとトマトジュースで昼食にしました。

 このキャンプ場は一庫ダムの貯水池である知明湖(ちみょうこ)に面していて、眼下の水際では釣りを楽しむヒトがあちこちに見えます。半分がエサ釣り、半分がルアーのようです。今年は冬の間に雨が多かったので湖は満水です。魚はいっこうに釣れていないようでしたが、ウラウラとした静かな波が広がるのんびりとした風景でありました。

 山はまだくろぐろとしていますが、来月の訪問のときにはもっと春らしくなっていることでしょう。

八尾空港

 大阪には空港が三ヶ所あります。関西国際空港と、大阪国際空港は半分は兵庫県ですが、もう一ヶ所、八尾市にも昔から空港があります。

 八尾生れの私がこどものころにここを阪神空港と称していたことがあります。阪神から離れているのに妙なもんだと不思議だったのを覚えています。この空港を横断する道路は一部が滑走路の下を地下道でくぐっており、八尾から藤井寺市へのバスがその地下道を走るので、このバスに乗るのが楽しみだったものです。大阪空港にも滑走路下の地下道がありますが、ま、あれほど規模の大きなものではありませんでした。もっとも、聞くところではいまは八尾の地下道はなくなってしまったようです。

 昔から八尾空港は軽飛行機やヘリコプターま基地として使われていまして、東京でいえば調布空港のようなものではないかと思います。自衛隊の航空機も見られるのでこどものころはよく自転車で通いました。

 短いとはいえ、横風用滑走路がある空港は、ちょっと他にはないものでしょう。

2月24日(火)

 午後から所用があって車で両親の家へ向かいました。じつは、いつものように電車で行くかどうか、ギリギリまで迷ったのでしたが、けっこう激しく雨が降っていたり荷物があったりしたために、つい車で出てしまいました。

 出て10分ほどで後悔しました。ラジオの交通情報で経路の高速道路の渋滞を聞き、目の前にズラッと並んだ渋滞の列、しかしもう場所的には後戻りの決断もできなくなってしまい、けっきょくそのまま走ったのですが、けっきょく高速を出てからもノロノロとした動きで、電車の乗りつぎだと1時間少しで着くところを2時間かかってようやくたどり着いたのでした。

 いつものことながら、車を使っておられるかたがたの辛抱のよさには敬意を表してしまいます。

続・プレハブ校舎

 3年前の震災のあと、職場のある川西市にも3ヶ所にできた仮設住宅を見て、私は中学のときのプレハブ校舎を思い出してしまいました。で、おそらく仮設住宅の夏や冬はたいへんだろうなと、直感的に思ったのです。それは、プレハブ校舎の居心地のひどさが身にしみていたからだと思います。

 仮設住宅にはエアコンが設置されていましたが、しかし何軒か訪問診察に出向いていて、チャチなエアコンでは文字どおり焼け石に水だということを知りました。そして、そういう状態の建物に、エアコンもなしに(冬はストーブがあった)よくもまあ夏に勉強していたもんです。

 ところで、いま中学生のナイフが問題にされていますが、プレハブ校舎の私たちのころにはたいてい肥後守(ひごのかみ)という折りたたみナイフを持っていました。これは鉛筆を削り、工作に使っていまして、ときにはそれで自分の指を切ってしまったりもしたものです。不良は(「不良」という言葉がレトロですな)、肥後守ではなく、飛び出しナイフや小刀と称するもっと刃渡りの大きなものを携帯していたと思います。もっとも、それらを人に向けることは、中学生では、なかったように思います。

 あとは、マッチのように擦って火をつける「2B弾」といわれる爆竹。こどものころから巻いたテープ状の玉を使うピストルで火薬の臭いに慣れた私たちは、この2B弾をいろいろと悪戯に使って喜んでいたのでしたが、さすがにこれは学校に禁止されました。そうして大きくなった同世代が「腹腹時計」などという爆弾闘争にのめり込んだのかどうかは、私は違うので分かりませんが。

2月20日(金)

 今週はシビアでした。

 依頼された講演がふたつ。その間に勤務先の老人保健施設の監督官庁からのはじめての実地指導。

 それらがようやく今日すべて終わりました。今日いちばん気をつけたことは、これらのストレスが終わったときの、緊張のあとの緩和でふと緩む気、インフルエンザや風邪にかからないように、ということです。

 じっさい、気が緩んだときに風邪がうつるというのはよくあることです。で、いまのところ、娘が数日前から高熱を出しているものの、私自身はしごく健康、この調子で乗り切ろうと思う週末。

プレハブ校舎

 私たちは団塊の世代と呼ばれていて、けっこう他の世代からは嫌われているようです。なんせ人口が多いので、それなりに目立ったりヘンコだったりいろいろな人間がいますし、世代パワーも大きいのでしかたがないようです。そういえば、疑惑に包まれたまま昨日自殺してしまった代議士も同世代でした。

 で、この世代が若かったころ、それはそれは今からみれば笑い話のようなことがいろいろありました。

 越境入学というのがありましたな。公立の小中学校は、住んでいる地域でどの学校かは決まっているわけですが、いわゆる進学校に入りたいために編み出されたのが越境入学です。寄留、なんて言葉もありまして、要するにある学校の校区にある知り合いの家に住民票を移すんです。すると、そこの住所に、書類上はなるわけですから、その地域の学校に通えるわけ。でもじっさいには電車に乗って何十分もかかって通学してくるのです。

 で、私が通っていた学校にもそういう子がおおぜいいました。念のために書いておきますが、私は越境ではなく、ほんとにそこにみんなで住んでいたのですよ。

 で、もともと人口が多いうえに、そうやってたくさんのこどもが集まってくるので、小学校は1クラス60名で14クラスありましたし、中学校はなんと25クラスでした。で、私の学年だけがそういう状況ではありませんから、当時の中学校の生徒数はなんと4000名近くになっていたのでした。わははは。

 だからもちろんそれまでの校舎で間に合うわけがありません。運動場にプレハブで校舎が急造され、暑さ寒さをしっかり感じられる教室ができあがったわけでありましたが、その話はまた次回にします。

2月17日(火)

 昨夜のことです。

 いつものように駅前から出るバスに乗って、「古代史紀行」(宮脇俊三、講談社文庫)を読みふけりつつ出発する揺れに身を任せていました。駅前を出てバスはグルグルと交差点をいくつも曲がりますので、車に弱い人は読書していると酔うかもしれませんが、私はまったく平気なので、そのまま熱中していると「すんまへーん、間違いました」という大きな声。

 なんと運転士さんが道を間違えて、ひとつ手前の角を曲がってしまっていたのでした。この道は、別の循環経路の通り道なのですが、それほど広い道ではなく、ありゃりゃどう始末をつけるんだろ、私ならどうやって元に戻るかなあ、いやこのルートだと難しいなあ、なんせバスだし、などと、本よりおもしろい展開に興味津々となりました。

 朝と違って急ぐこともなく、ほぼ満席の乗客も騒ぐでもなく固唾をのんでる様子。けっきょくすぐ後ろを本来のこの経路のバスが走っていたのが幸い、そのバスの運転手さんの誘導で、狭い交差点で方向転換、もういちど駅前に戻ったのでした。遅れが約5分。

 ううーむ。毎日のうちにはいろいろあるなあ :-)

大阪球場

 いまでこそプロ野球には興味のカケラもありませんが、こうみえても昔は男の子、いっときは熱をあげた時期がありました。

 私の記憶にある選手といえば、たとえば阪神でいえば村山とか小山、吉田(現監督かな)、遠井など。あるいは国鉄スワローズの金田とか、東映フライヤーズの水原などなど。そして、パ・リーグでは南海ホークスの杉浦投手に野村捕手(いやはや、さすがに私の場合は野球用語の漢字変換に時間がかかる)。

 そのホークスの本拠地だったのが、南海電鉄難波駅の南にある大阪球場です。しかしその南海は…、えーっといまはどこになってるんでしたっけ。

 で、いまのところまだ大阪球場は残っていますが、グランドには住宅会社のモデル住宅が立ち並んで、家の展示場となっています。難波という大阪でも有数の盛り場にある異次元空間です。

 私自身もかつてはサザン・オールスターズのコンサートに通って熱狂したこの場所も、いまは年に一度の陶器市にでかける程度になってしまいました。

2月13日(金)

 コートを着て出勤したのは間違いでした。

 今日の大阪の最高気温は19.8度だったのだそうです。午後からの訪問診察、ジャケットさえ邪魔で、車ではクーラーを入れていました。患家では「はずみ」といいますか、ストーブがついているお宅がありまして、暑くてたいへんでしたが、あるお宅ではレモン汁に氷を加えて炭酸水で割った飲み物を出してくださったりしました。もうなんだか分かりません :-)

 ま、明日は雨で明後日にはまた平年なみの気温になるとのことですが、こんな気候は体調異変の原因になりますね。

心斎橋

 昨年オープンした「クリスタ長堀」に四代目の心斎橋ができています。初代は鉄橋だったそうで、私はそれは知るよしもありません。二代目の石橋は、その重厚な姿がなんとなく記憶の隅にあります。長堀川が埋め立てられたときに、この橋はなくなりました。

 で、三代目は埋め立てられた跡にできた広い長堀通にかかる歩道橋に復元されました。しかし、歩道橋の下には横断歩道がありましたので、この三代目橋を渡る人は少なかったようです。

 四代目はクリスタ長堀の上に寸足らずに復元されています。横断歩道の一部になっているので、利用者は三代目よりずっと多くなっているはず。

 しかし、まあ、そんなんでいいのかなあ、橋。

2月10日(火)

 昼食をとるのがすこし遅くなりましたら職場の定食は品切れになっていました。午後からの入退所判定会議に間に合うように近場の訪問診察を回らなくてはなりませんので時間がない。でも食事抜きでは判定会議でテンションが続きそうにない。

 しかたなく、向かいの市場でおこわを買ってきて、ストックのインスタント味噌汁でかきこみました。ふと見ると事務長はレトルトのおじやにカップ麺を食べていました。

 お互い情けないのぉといいつつもなぜか感じるひとときの満腹。

大和川

 奈良盆地の水は、漏斗のような地形のせいで、生駒山脈と金剛山脈の間を大和川となって流れ出てきます。そして江戸のころまでは、そこから河内平野を幾筋にも分流しつつ流れて、大阪城の北で淀川に合流していたのだそうです。私の生家のすぐ横を流れている玉串川もその分流跡のひとつです。

 それはともかく、一時よりはましになったとはいえ、大和川はまるで奈良盆地の排水溝のような汚れかたをしています。いや、奈良県の名誉のために付け加えれば、大和川が大阪に入ってすぐ合流する石川は南河内の排水を集めていますから、汚染の原因は大阪にもあります。私の職場の近くを流れている猪名川ともども、典型的な都市河川の汚れかた。

 で、私が小学校くらいまでは、この大和川に水練学校、いまでいうスイミングスクールがあったというと驚かれるでしょうか。大和川が大阪に入ったところに国分という駅がありまして、そのあたりは水泳場でした。その上流側に、川を堰きとめてプール状にしたところで水練学校が開かれていたのです。海では浜寺にも水練学校がありました。こちらはいまでも「はますい」といわれる有名なスクールに続いています(もちろん海ではなくプールですが)。

 夏休みの炎天下、青臭い草の茂った堤防を川原に降りて、長い白髭、赤褌の師範に罵倒されつつ泳いだときに飲んでしまった川の水の味を、いまだになんとなく思い出してしまうのです。

2月6日(金)

 表計算ソフトを勉強しています。

 そもそも、私のような仕事内容で、表「計算」ソフトなんて無縁のもんやと思い続けていました。あるいは、DOS のごく初期、さらにはCP/Mなどという時代の表計算ソフトを知っていて、そのころの機能や操作の繁雑さをそのまま思っていたのでしょう。長らく遠ざけていたものです。

 それが、ふとしたきっかけでまじめに動かしてみますと、これは自分の印象にある表計算ソフトとはぜんぜん別物、なんと応用範囲が広そうではありませんか。ちょっとはまっている今日このごろ。

 とはいえ、日々の業務はそれどころではないのですが…(もっと早くてハードディスクの大きなパソコンが欲しいよぉ)。

大阪駅前

 JRの大阪駅を南に向かって出ますと、正面には阪神系のビル、ドケチ教の吉本さんのビルである「マルビル」、その西に威容のヒルトンホテル、それらの背後には第一から第四までの駅前ビルが高さを競っています。

 ここはかつて闇市の名残をとどめたゴタゴタした一角でした。

 大手の書店の草分けである旭屋書店、本店はいま曽根崎警察署の南側のビルですが、もともとはここにありました。仮設のようなニ階建の建物が狭い道を挟んで二棟。私は阿倍野から甲子園にある高校まで通っていましたから、別館のきしむ階段を二階に登って高校の参考書をあさり、本館で2時間も3時間もうろついていたものです。

 考えてみれば、たかだか30年ほど前のことなんですね。

2月3日(火)

 節分にその年の方位を向いて無言で巻き寿司を丸かぶりする、という風習はいつのころからのことでありましょうか。関西以外ではないという話も聞きますし(いかがですか ?)、私がこどものころの節分は、軒先に「柊に鰯の頭」を刺すことと、豆まきだったと思うのです。

 この「柊に鰯の頭」はすっかり廃れてしまって、巻き寿司の丸かぶりが台頭してきたようです。ま、鰯の頭より巻寿司のほうが商売になりますわな。

 我が家では朝に打合せしまして、夕食は手巻き寿司、その最初の手巻きを南南東(今年の恵方)向いて食べるという段取りになりました。しかし、職場の会議が長引いて、食事は21時半を過ぎてから。おまけに節分豆を用意しわすれて、落花生を播いて代用。なんと信仰心の乏しい罰当たり ^^;

千早赤阪村

 大阪府に唯一残る村です。

 「嗚呼忠臣大楠公」楠木正成さんの本拠地だった村。大阪市南部から河内で育った私にとって、ちょうどいまごろの季節は「耐寒登山」としてこの村の奥にある金剛山が毎年の行事になっていました。

 千早城への登りのの険しさはふと南北朝時代の合戦を思いおこさせたものです。しかし、いまは車道が千早口まで何ルートも整備され、金剛山頂へはロープウェーも通じています。

 もうひとつ、河内音頭の読み手のひとり、鉄砲光三郎さんの代表作「河内十人斬り」の舞台もこの村。河内音頭も最近は新聞(しんもん)読みの河内家菊水丸さんの活躍が目覚ましいのですが、私の時代は鉄砲節が全盛でありました。





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