入所なさっているかたが火災報知器のボタンを押したためとすぐ判明してやれやれでしたが、問題はそのあと。非常口を示すストロボライトと「非常口はここです」という大声のアナウンスが止まりません。
みんなが集まっていろいろやってみるのですが、十分以上たってもリセットの方法が不明。今日のデイケアの送り運転担当者が非常装置の係でもあったので、代わりに私がリフトカーを運転して送りに回り、30分ほどして帰ってきたら止まっていました。
みんなが集まっていた操作盤のすぐ横に停止させるボタンがあったのだそうで、オープン前のレクチャーでは「非常時にすること」はしっかり叩き込まれていたものの、「非常だと思ったら間違いやった」ときの後始末については覚えが悪かったらしい。それにしても半分パニクってたのでしょうなあ、みんな。
大阪万博 万博についてはこれからも何度か書こうかと思っています。
千里で万国博覧会が開かれた1970年、私は大学生でした。つまり私のいままでの人生の中でいちばん時間が自由になっていたとき。にもかかわらず、私は2回くらいしか行きませんでした。行列するのが嫌いなことと、あまりおもしろいと思わなかったのでした。
しかし、今、跡地の万博記念公園にはよく行きます。30年近くたつとさすがに樹々も成長していい公園になっています。とくに自然文化園のゾーンはいっぱしの森になりました。四季それぞれに楽しめます。
この一帯、もし万博がなかったら全面的に宅地になっているのか(万博記念公園以外のところはびっしりと開発されてしまってますから)、それとも、いわゆる千里の竹林として残っていたのか。
地下鉄御堂筋線と接続する北大阪急行は当初千里中央ではなく万博中央口へ開通しました。万博終了後に千里中央へ線路がつけかえられ、いま千里中央駅の少し手前の地下線部分になごりのトンネルがちらりと見えます。そして線路の跡地は中国自動車道になっています。
1995年1月の、震災のころは、その影響もあってけっこう寒い思いをしていたような気がするのですが、暖冬といわれている今年なのに震災の年よりもずっと寒さがこたえています。
早出の朝など、まだ真っ暗なうちに家を出るとはいえ、コートにマフラーに手袋という完全装備でもまだ震えながらバス停に向かっています。寒さには強いんだという自信はすっかりなくなっています。
それとも、まだやはり相対的に薄着なんでしょうか。
地下鉄の垣根 なんのこっちゃろ、と思われることでしょう。
かつて、大阪市の地下鉄の車両には「垣根」が装備されていたのです。連結された車両と車両の間は当然すき間がありますが、車内間はその部分に幌でカバーされた通路ができています。しかし、ホーム側はすっぽりと幅1メートルくらいの奈落になっています。ここに落ちると当然レールの横に落ちることになるわけです。
そこで、各車両の前後端左右に、バネ状になった柵を作ってホームから連結面に人が落ちないように、垣根のようなものを設置していたのです。
地下鉄の電源は、架線からではなく第三軌条という線路の横にあるレールからとっていますので、線路に転落すると 600ボルトの電圧のある電気に感電する恐れがあったのでこういう処置をされたのではないかと、私は思っています。
もちろん先頭車ではその柵状構造を正面左右につけているのが見えますから、当時のたいへん重厚な全鋼製電車の迫力をさらに勢いづけるような姿になっていました。100 型など、戦前からの生き残り車両がまだまだ活躍し、御堂筋線が梅田から西田辺まで、四ツ橋線が大国町から玉出までだったころの話です。
てなことをジトジトと感じつつ、それでも職場の老人保健施設はオープンから四ヶ月をなんとか無事過ごし、毎日のリズムもようやく落ち着いてきました。それでも一日が終わるとほんとにほっとします。
オープンして間もなくは、いつ帰るか分からないくらいの不規則な毎日でしたが、最近はとくに何もなければ19時台のバスに乗ることができます。で、私は医者になって以来、帰宅したらどんなに空腹でも、どんなに眠くても、必ずまず入浴します。外科医として、やはり自分はきれいではない場で仕事をしているという自覚があり、それと同時に仕事とプライベートの区別の意味でも、入浴は重要でしたし、その習慣が続いているわけです。 19時すぎに風呂に入って、今のマンションに引っ越してまもなく買った安物の風呂用ラジオのスイッチを入れますと、地元のコミュニティFMがいジャズを流しています。ぬるい目に設定した風呂に浸かりつつ、スゥインギィなマリンバの音色に聞き入る至福。これで窓の外に静かな林でも見えれば言うことはない…。湯が温泉ならさらによし。ああ、夢。
回数券は、たとえば10回分の料金で11回分乗れるようになっています。つまり1回分がタダになっています。プリペイドカードにもそういうのがありまして、ハイウェイカードもちょっとお得になっているようですが、私が毎日使っている阪急のラガールカードはきっちりの料金なのが悔しいぞ。
ところで、1960年の大阪万博まで、大阪の地下鉄の駅の前に回数券を切り売りするおばちゃんがおおぜいいました。一冊売り切れば一回分の儲けが出る、それがおばちゃんたちの稼ぎでした。前掛けに運賃ごとの回数券をぶら下げて、「梅田」といえばちゃんと該当する切符を手渡してくれました。大阪のおばちゃんですから愛想がよくて、しかも仕事が早い。私は当時は出札口で切符を買ったことはほとんどありませんでした。私がもっとこどものころは地下鉄は均一運賃でしたから、ともかくひたすら1種類の切符を渡していればよかったので、おばちゃんの存在は地下鉄にとっても便利だったはずです。
万博を前にして、美観とかなんとかいっておばちゃんらは排除されました。ずっと下った花博のときには大阪名物壁新聞が規制されました。美観とはなんぞやという議論が一時は出ましたが、けっきょくすべて歴史のかなたに忘れ去られようとしています。
切符自動販売機の前で操作に難渋したり、行き先の駅までの運賃表を必死に探したり、割り込みに怒りつつ自販機の前に行列したりすることなく、階段を降りて改札口に向かう道なりで駅名をいえば切符がスッと出てきた、あれはあれで便利なシステムでありましたよ。
電車に乗るのに整列乗車を守らないのは、東京にくらべて大阪で多いというのはしばしば指摘されていまして、大阪のそういう意味でのお行儀の悪さは生っ粋の大阪人間である私も認めます。
しかし、整列どころか、もっとひどいことがありまして、電車通勤をしていて整列乗車どころではないお行儀の悪さが目につきます。ま、たいしたことではないといえばないんですが…。
降りる人を無視して乗ってくるんですな。
かつてこどものころ、降りる人が降りてから乗りましょう、というのは小学 校の教えだったように思います。 こういうお行儀の悪さでまず思い浮かべるのは「おばはん」パワーなんですが(ごめんね)、私のみるところ、それはおばはんに限りません。おっさんもねえちゃんもにいちゃんも、なーんだかみーんながそういう感じです。
お行儀については、いいのと悪いのと、両極端に分化してしまったのかと思えます。こんなこと、情けないんですがね。
日曜日に宝塚市にある清荒神(きよしこうじん)さんに三宝荒神(さんぽうこうじん)さん(*1)のお札をいただきにいってきました。昨年のお札を納め、新しく授かってきたのです。
あいにくの冷たい雨(首都圏ではまた大雪になったのだったか)、参詣者は休日にしてはかなり少なく、参道の店や露天は気の毒なくらいにヒマそうでした。そしてその冷たい雨に打たれながら、傷痍軍人さんが参道にたたずんでおられました。ひじょうにひさしぶりに傷痍軍人を拝見しました。
傷痍(しょうい)というのは「ケガ、キズ」、ですから傷痍軍人という言葉はほんらい戦闘でキズを負った(元)軍人というのが本来の意味でしょうが、私の認識は「生活のため街頭で障害を受けたために業につけないことを訴えつつ喜捨を求める戦争でケガをした元軍人さん」というものです。
私がこどものころ、おそらく昭和30年代の前半ころまで、繁華街の街頭で白装束に軍帽をかぶりアコーディオンなどをひく男性、その前には小銭を受けるための箱や容器、彼は手や足を切断していたり歩けないので粗末な台車に乗ったりして、要するに戦争で大きな障害を受け、仕事につけないのでお助けくださいという人たちがおおぜいいたのでした。
話によれば、ニセ傷痍軍人などというのも少なくなかったらしいのですが、いつのまにか姿を消してしまいました。それが平成の宝塚に忽然と…。
でもまあ年のころなら私よりひとまわりほど上か、つまり太平洋戦争敗戦のころは10才くらいかという傷痍軍人さんであります。それでも、通り過ぎるお年寄りの何人かは濡れないようにビニールで器用にカバーした(!)箱に小銭を投げ入れていかれます。
なんだかなあ。
(*1)仏・法・僧の三宝を守護するという神の名。最も不浄を忌むとい われるが、火は元来清浄であって不浄をはらうとされているところか ら、人家にあってはかまどをこの神の居処とし、かまどの神として台 所に祭るならわしとなっている。サンポハンとも。 阪急電鉄宝塚線、清澄寺にまつる清三宝荒神は最も知られており、毎 月二十八日の縁日には参詣者でにぎわっている。 (「大阪ことば事典」牧村史陽編、講談社、昭和五十四年)
夜、娘(高校生)と話をしていますと、成人式の女声のヘアスタイルがみんな同じようなもので個性のカケラもないあんなんイヤやわあ、とのこと。いやあ若い世代は若い世代で世代間ギャップってのがあるようで。ついでに、ではみんながみんな振袖を着ているのも没個性なんじゃないか、と水を向けてみましたが、それには明確な回答はありませんでした。やはり着物は着たいのかもしれません ^^;
しかしまあ考えてみたら自分の成人式ははるか昔、もっとも、当時はちょっと左を向いて突っ張っていた私、日の丸がはためくお仕着せの式典に参加するなど思いもよらなかったのでした。でも昨今の突っ張りにいちゃんたち、式に出るのは出てそこで人の言うことを聞かない行動をするのですな。どこかの市で市長が挨拶のさいちゅうに「うるさい」と怒鳴ったというニュースもありました。反発にも時代の流れが感じられます。
大阪にいながら大阪ドームには行っていませんでした。もともと野球に興味のない私ですし、ドームでコンサートが行われるような集客力のあるアーティストはちょっと無縁、行くきっかけがありません。
ところで、今週の始めからドームで「テーブル・コーディネート・フェア」というのをやっていまして、あのアリーナをいっぱいに使ってテーブル・コーディネート関連のブースや展示をしています。昨年たまたま出会った有田焼の陶芸家もブースを出すということで、招待券を送っていただいた機会にドーム探検に出向きました。
私がここでドームの紹介をしてもはじまりませんから割愛しますが、いやまあ最新の巨大建造物はほんとにすごいと驚いて帰ったことだけ報告しておきます。
ドームのあたりはもともと「岩崎橋」と呼ばれていまして、大阪の西のほう、大阪東部や河内がテリトリーだった私にはちょっと縁の薄いところです。それでもドームのすぐそばを走る大阪環状線が開通したとき、ドームからも見える迫力充分の木津川鉄橋を渡る電車の写真を撮りにいきました。そのころの岩崎橋にはガスタンクが林立していました。
木津川と尻無川(しりなしがわ)と安治川(あじがわ)と旧境川運河(すでに埋め立て)に挟まれた島状のいわゆる九条島の南端あたりの古い大阪築港の雰囲気の残っていたロケーションですが、ドームのオープンと地下鉄の開通でガラッと町の様子が変りました。
すると、某スポーツ新聞の名前を名乗られます。なんぼなんでも医療関係の電話取材をスポーツ紙から受けることはないだろうと、ちょっと警戒モードに入りましたら、なんだか私の出身高校の特集記事がでるので、ついては私の名前と勤務先を掲載させていただけまいかという話。ま、名前や勤務先を勝手に新聞に載せられてはいかんから、その承諾を求めているのだろうかと思いつつ、ふと気がついてしたやりとりが以下。
私「えーと、それお金がなんぼかいりまんのか」 某「あー、ま、新聞とゆーのもいろいろお金がかかりますから」 私「あ、なんや、要するに『名刺広告』っちゅうやつでんな」 某「はあ、まあ新聞もいろいろと…」 私「なんぼでんねん」 某「あのえと、いちおう3万円とゆーことでお願いしています」 私「げーーーーー高ぁ、私ゃ新聞に原稿書いたりしてまっけど、3万円の原稿 料もらおと思たらたいへんやで。3センチ四方くらいで3まんえんでっかぁ。 出すのは渋るけどもらうほうは気前ええんでんなぁ。さんぜんえんぐらいやっ たら考えてもええけど」 某「…」 私「ま、ちょっと考えさせておくんなはれ」
会話のなかには同窓生の名前や恩師のことがちりばめられていて、なんとなく断りづらい雰囲気がぷんぷんしていました(すくなくとも普通の人には…)が、某氏は相手を間違ったようです。最終的には私はきっぱりとお断り申し上げました。それにしてもまあいろいろありまんなぁ。
おそらく阪急梅田駅は日本の民鉄のターミナルとしては最大規模でありましょう。神戸/宝塚/京都の各線が複線で入ってきて、堂々の9線10ホーム。
ところで阪急の線の呼びかたは昔から「〜番線」ではなく「〜号線」といいます。その独特の呼びかたと昔の梅田駅の特徴ある女声の案内放送は、かつてキングレコードの鉄道の音シリーズレコードでも収載されていました。
その録音のころの梅田駅は、いまの梅田駅から梅田地下街へ向かう天井の高い通路の部分、つまりJR東海道線の南側の部分にありました。いまそこでは、なつかしい案内放送の代わりに、曽根崎警察署の「キャッチセールスにご注意」放送がかかっています。かつて神戸線ホームがあったあたりは阪急百貨店の売場になり、お金がかかっていそうなショーウインドウが並んでいます。
私はしばしば、いまの梅田駅からもともと電車が走っていたJRの高架下をムービングウォークで南下し、この旧駅あとを縦断して地下街に入り、旭屋書店本店やT-zone梅田店やCOML事務所に向かうのであります。
ついでながら言いますと、梅田駅はこんなに変ったのに、私の家の最寄りの石橋駅は、私が高校のころから基本的にはほとんど変っていないのが嬉しいやら心配やら。
そして、いつぞやも書きましたが、無神経なドライバー。水たまりがあろうが人が歩いていようが、避けるすべのない狭い道でも速度を落としもしないものだから、新年そうそうたっぷりと撥ねをかけられてしまいました。アホづらしたおやじが運転するバブリィな車。
「十日戎(とおかえびす)」のこと、または戎神社のことを、当地では「えべっさん」といいます。ちなみに、大阪では「〜さん」のことを「〜はん」というからといっても「えべっはん」とはいいません。「さん」の前が促音だと「はん」にしないのです。「だんさん」は「だんはん」になりますが、「おやっさん」は「おやっはん」とはいいません。「おばはん」はありますが「おっはん」はありません :-)
戎神社は京阪神にいくつもありまして、私の住んでいる市の呉服(くれは)神社が池田戎といわれていて、今夜はここも宵戎。阪神淡路大震災で被害を受けた西宮戎は大きな境内をもつ神社です。でも大阪の人間にとって、えべっさんといえばやはり今宮戎が第一。
今宮戎神社は、東京の秋葉原と並ぶ大きな電気街である日本橋の南の端にあります。テレビの映像では分かりにくいのですが、じっさいに神社に行ってみますと、えっこんなに狭いの、と驚きます。まさに住宅街の一角という感じ。その小さな神社に一日で四、五十万人も人が押し寄せるのですからすごいもんです。
大阪では初詣に引き続いてえべっさんがあって、お正月はなかなか忙しいのでありました。
お正月も6日になりますと、いわゆるお屠蘇気分もぼつぼつ抜けてきまして、商店や会社もほぼ出揃ってきたようです。暮れからストックしてあった日本酒が切れたので、当直明けの昨夜、ゆったり気分で飲むためにいつもの酒を買って帰ろうとしたところ、駅前の酒屋さんも自宅近くの酒屋さんも6日から営業との貼り紙。うーむ。池田市酒屋さん組合で申し合わせでもあって私に酒を飲ませないのか… :-) こんなことだったら川西で買って帰ればよかった、と。
冗談はともかく、今日は街を見ていてもほぼ平常の景色になっていました。バスや電車の混み具合、道路の渋滞具合もだいたい元どおり。
明日は七草粥。ああ、1998年ももう一週間も過ぎてしまったぞ。
大阪に「四ツ橋」という場所があります。心斎橋から西に行った交差点で、四ツ橋筋や地下鉄四ツ橋線にも使われている地名です(地下鉄の四ツ橋駅もかつてはあったのですが、地下鉄長堀鶴見緑地線の開通で心斎橋駅に統合されてしまいました)。
大阪以外のかたや大阪人でも若いかたは「四ツ橋」という名の橋がある(あった)ように思われるかもしれませんが、ここはじつは「四つの橋があった場所」なのです。かつて大阪の中心部には江戸時代に開削された堀川が縦横に走っていました。しかし、いまではそのうちの東横堀川と道頓堀川くらいしか残っていません。
阪神高速環状線の北行き部分の真下には西横堀川が1971年までありました。現在の長堀通は南半分が長堀川を埋め立てた道で、そこに架かっていた橋のひとつが心斎橋でした。いま長堀通と阪神高速が交叉するところは、ですから昔は長堀川と西横堀川が直交する「川の交差点」だったわけです。その川の交差点の、ちょうど横断歩道のような配置で橋が四つ。上繋橋・下繋橋・炭屋橋・吉野屋橋。だから四ツ橋です。
上繋橋には長堀通の市電、吉野屋橋には四ツ橋筋の市電が走っていて、川の交差点の北西側には市電の交差点もありました。そしてその交差点の北東角には大阪市立電気科学館があり、その最上階には日本最初のプラネタリム、階下に地下鉄の運転シミュレータなどの展示があって、科学少年はしばしば父にねだって休日の一日を過ごしたのでした。
電気科学館はいま中之島の阪大医学部跡に大阪市立科学館として移転、四ツ橋一帯はアメリカ村の流れの若者たちが優勢の街に変貌してしまいました。長堀通にできた新しい地下街「クリスタ長堀」が、ガラス天井に水を流して「水の地下街」を強調しているのは、長堀の生い立ちを継承しようという心なのだと聞きました。
しかしまあある程度予想していたことでしたが、在宅療養中のかたの往診に午後6時すぎに行くことになりまして、うん、やはり今年も仕事で始まったなあとなぜか安心した一日でありました。
ことしの公開日記は、すんません、日誌では負担が大きくなりまして、週誌としたい、なるべく毎週金曜日に登録しようかと思っています。内容は、前半をその週に感じたりしたことなど、後半には私が生れ育った大阪とその周辺の思い出話などを書こうかというつもりです。ま、どういうことになりますか、やっていくうちに変るかもしれませんが、ひとつおつきあいをお願いします。
で、最初は大阪造兵工廠跡の話。太平洋戦争中、大阪城の東側の広大な地域に兵器工場があったのだそうです。私は戦後の生れですから、工場そのものは知りません。兵器工場ですから、空襲では真っ先に狙われて、戦後はその工場が焼けた跡がずっと残っていることは知っています。
私の生れ育ちは大阪の八尾市というところで、父の生家つまり本家は大阪のいまの鶴見区にあります。毎年お正月になりますと、父に連れられて本家へ年賀に行くのですが、近鉄大阪線から鶴橋で国鉄城東線(現JR大阪環状線)の73系ゲタ電に乗り換え、京橋でこんどは国鉄片町線(現JR学研都市線)に乗り換えます。その京橋に着く少し手前、森之宮を出てからの左側に、ねじれて錆びて壊れた鉄骨が雑草に埋まっている荒涼としたところがありまして、これが造兵工廠跡だったのです。戦争の傷痕が長く残っていて、小松左京さんのSF「日本アパッチ族」の舞台となったところです。
いま、私は自宅から父の家に行くときにやはり大阪環状線に乗ってここを通ります。大阪ビジネスパークと大阪城公園になって美しくなっている場所ですが、ピース大阪という戦争の記録を集めた博物館以外、戦争の記憶を残す景色はなくなっています。でも、私の記憶には造兵工廠跡の激しい映像がいつまでも残っていまして、二度とこんなんしたらあかんで、と、数十年たっても思うのでした。