あゆ子の生い立ち
◎ 1975年9月30日に生まれたあゆ子
あゆ子が生まれた21年前の9月は、その夏の暑さも記録的だったし、残暑も大変なものだった。すいかばかり食べていた母の私はすいかのようなお腹を抱えて、立川相互病院に入院し、翌日生まれたのが3800gもあったデブのあゆ子。
この病院の前を通る事が今もあり、もし人生というものがやり直せるものなら、この病院の玄関を入る時からやり直したい...そう思う
女の子なら名前は「鮎子」二人で決めていた。ところが「鮎」は人名漢字になっていなかったのであゆ子。小学校入学まで親は勝手に鮎子と書いていた。鮎は清流にしか住めない。そんな美しい魚のようになって欲しかった。
ペン置きて涙をぬぐってまた綴る
娘の『生い立ち』まだ生まれた日
生まれた当時大学生だった父が卒業し、就職して1ヶ月で山形市に転勤となったので親子3人東京を出て夏は東京より暑く、冬は東京より寒いという地に住むことになった。この頃すでに私は長男竜太がお腹にいた為、一人目のあゆ子にかける手間は半分となり、彼女は自立の道を急かされ、この事も良きにつけ悪しきにつけ、あゆ子の運命を決める要因になったように思う。
山形に約一年間いた。引っ越して最初のアパートは2階建ての1軒屋を中央で間仕切りしたという形だったので、あゆ子は階段を面白がってすぐハイハイして上がっていく。そして降りられなくて泣いていた。
トイレは汲み取りだし、おむつは2人分毎日60枚も雪空に広げてもカチンカチンに凍るだけ。山形言葉も良く分からず、私にとっては辛い思い出だけだったが、幼いあゆ子には何か一つでも心に残ったものがあったのだろうか?
◎ 鹿島白十字保育園に入園
父の仕事で茨城県しかも海の近くの神栖町に転居した時は、気候の温暖さに親子全員ほっとした。
ここで母の私は就職し経済的にも落ち着き、あゆ子は鹿島白十字保育園に入園し、初めての集団生活を経験。2才児の『すみれ組』に入り三浦先生という保母さんが担当になった。
虫や犬を怖がり園の帰り道犬に出会うと、ワーと泣いて走って家へ帰った事もあった。園と家庭で毎日、日記を書いていた、『すみれ』というノートをこの夏物置から見つけ、何回も何回も涙をぬぐいながら読んだ。
『すみれ』より
9月14日(木) 2才 母より
昨日予防注射をした。全く泣かない。お医者さんや薬が大好きなせいか「注射も好き」と言って喜んでいる。帰り道スーパーマーケットに寄り、パジャマ等を買ったが、あゆ子が次から次と選んできて、結局2着はあゆ子の好きな物を買った。夜、体温計の下の方を噛んで食べてしまったらしい。
10月13日 (金) 保母さんより
朝体操、マラソンに参加。今日は当番をしてくれる。大きな声で「おやつの歌を歌います!」と皆の前で言う。だいぶ活発になる。今日はちぎり絵をする。折り紙をちぎってはのりをつけ画用紙にはりつける作業をする。その後戸外にて遊ぶ。
この頃はちょっと内気で、歌が大好きで、外遊びをよくする普通の女の子だった。そして年子の弟竜太とも毎日けんかをして、いじめたりもしていた。病院の一画にある保育園は園庭が広くてどこからか太平洋の潮の香りが漂ってくる。園児の大半は病院職員の子供達なので、母親どうしも顔見知りだった。
母子3人で歌いながら、保育園から職員住宅までの短い道を歩いて帰った。私が夜勤の時は夫が迎えに行ったり、同僚の看護婦さんが迎えに行ったりした。今アメリカに在住している西岡徳江さん一家とも知り合い、柚香ちゃん、北斗君とは園で一緒、私と徳江さんは付属看護学校で同僚となりお互いに子供のお迎えをした。
茨城なまりの「だっぺ」言葉はすぐ身について「いんない(いらない)」「しんない(しらない)」は家族中に染み込み、現在も我が家で使ってしまう事がある。
この神栖町で家族がもう一人増えた。末っ子の竜馬をあゆ子もとても可愛がり、5才になったあゆ子は赤ちゃんを抱っこしたり、ミルクをやったりお姉さんぶりを発揮してくれた。
◎ 昭島市つつじヶ丘南小学校入学
父の仕事の都合で4年間の茨城住まいにお別れをし、東京に戻った。昭島市の高層住宅に入居し、つつじヶ丘南小学校に入学した。
入学式の、チェックのスカート姿と丸顔おかっぱ髪のあゆ子が、体育館に入場してきた姿は良く憶えている。体型は大き目で目はくるっと丸く、笑うと右側だけえくぼができた。
自分のことを「私」と言わずに「あゆ子」と言っていたが、これはずっと21才まで続いた。
担任はこれまた新卒の熊谷先生で初々しく、その後すぐ結婚され正森先生と改姓された。新しい者どうしの出会いは双方とも熱心で、あゆ子は授業をまじめに聞く生徒だったし、正森先生は絵や作文もこまめにとじて返して下さった。
あゆ子の死んだあと弔問に来られた正森先生は、思い出をいくつか話された。
「小学校2年の時でしたか。家庭訪問した時、お母さんは保健学科に進学されていたので、あゆちゃんが弟たちの面倒を良く見てて、家の手伝いをよくしているのを見ました。工作をしていても何か一つ他の子とは違う物を作る子なんですよ」
ああそうだった。私はあゆ子にこんなに助けられていたんだと、急に申し訳ない思いがつき上げてきて、先生の前でポロポロ涙が出た。
昭和学童クラブに小学1年から3年まで通った。学童クラブは両親共働きの低学年児童を夕方まで預かってくれるところだが、ここで中島美穂子ちゃん、福井智子ちゃん、出田由紀ちゃん等と友達になり、福井さんとは立川高校で再び出会う。
学童クラブへは子供の足で30分近くかかった。今のように昭島駅はにぎわっていないし、大きなショッピングモール"エスパ"も無い。草っぱらが左右にあるだけの田舎町だった。そこを小さい女の子たちが4〜5人、ランドセルを背負って歌なんか歌いながら歩いて往復した。
母が働いていると保育園、学童クラブという別の世界を持つこともできる。学童クラブは専任の保母さんがいて実に様々な遊びを教えてくれるし、行事も多かった。
母の私はあゆ子が小学生の間に、保健婦と養護教諭の資格を取り、夜勤のない幸福な職業養護教諭となった。立川二中に勤務していた。その後荒れ出して、深夜まで職員会議が続いたり、保健室にいるのも恐いくらいの日々があったりで、この時もあゆ子は良く家の手伝いをしてくれた。
あゆ子と竜太は、一日おきに風呂掃除当番をし、夕食後の食器洗いはあゆ子、朝食後の食器洗いは竜太等、家事はみんなで分担し合っていた。こんないい子だったあゆ子が、一度何かをサボった時、私はたたいてしまった。めったにあゆ子に体罰をしなかったので、この時のことは痛恨の思いで私自身を責めてきた。死んだあともこの時のことが、何回も思い浮かび「ごめんねあゆ子」と言ってしまう。
学習面でもあゆ子は、パーフェクトに近く良くできた。塾も行かず、家では宿題を忘れずにやるといった程度の勉強だったが、授業は集中した。字も丁寧だった。でも性格はやはり少し内気なほうで、何でもリーダーをやるという子ではなく、一歩下がって『副』リーダーすることが多かった。
つつじヶ丘は住民の転出入が激しかった。ほとんど毎年クラス替えがあった。2クラスになったり3クラスになったり、それにつれて担任も浜田先生、野田先生、小宮先生と変わった。いつでもあゆ子は地道に勉強していた。外遊びも良くするし、水泳も得意だった。なぜか親に似ず足が長くて、日本人的体型ではなかった。だから大きくなってなりたい職業は、『スチュワーデス』だった。
家族はつつじヶ丘ハイツの中で賃貸住宅から分譲住宅へと転居していた。ここで世はバブルの前夜となっていた、幸運な時期に立川に一戸建てを建てたので転居した。これが最後の引越しとなった。この時まであゆ子は、生まれた日から8回の転居を経験した。きっと茨城時代の友人や先生はあゆ子の死を知らないでしょう。昭島の友人や先生も知らない人がいることでしょう。
◎ 立川市松中小学校転入
小学6年の時に転居を嫌がっていたあゆ子を説得し、松中小学校に転入した。この頃からお茶目で、明るく、軽っぽく、積極的な子になったようだ。
転入してすぐの遠足で、禁じられている飴を食べたらしく、担任の井上先生からきつく叱られた。すぐに出来た女子の友人、清水有砂ちゃん、木村さん、伊藤恭子さん等みんな大柄で元気な子だったので、一緒にちょっとしたワルサもやったり、「見つかって運が悪かったんだ」なんて親がびっくりする言葉を言ったりもした。
卒業式では長い髪に白いリボンをつけ、素敵なブラウスに黒のスカートを着た。花束を持ったその写真は、本当に年頃になってきれいになってきたようだ。歯の矯正をやりだし、身長もどんどん伸びて相変わらず足は長くグラマーになってきた。
◎ 立川七中に入学
急に転入者が増えたバブル絶頂期の頃、松中小学校は約千人の児童数だったし、立川七中も生徒数多かった。古い住人と都営団地、巨大な公団住宅、こんな条件がある所で転出入が激しいと中学校はすぐ荒れだす。
入学の日からいろいろなトラブルがあった学年だった。幸い内気な少女から外向的な中学生となっていたあゆ子には、むしろ多少騒がしいくらいがぴったしだったかもしれない。
最初の保護者会で教室に入ると、定期テストの結果が成績順で張り出してあった。あゆ子がトップだった。驚いてしまった。それほど勉強家ではなかった。でも確かに集中力はあった。短期間でやり遂げてしまうところがあった。そして早寝早起きで、中学一年の時は9時に寝てしまっていた。テスト勉強は朝早く起きてやるようだった。
家の手伝いは多少厳しすぎた位いっぱいやらせていた。トイレ掃除、階段掃除などもやり、他の家の子が何もしないことを、私自身驚くほどだった。
◎ テニス部で真っ黒
とにかく黒く日焼けしていた。この子がアメリカでどんどん白くなり、しまいには病気かと思うほどになったが、中学時代は眉毛が何処にあるかわからなかった。
中学の部活動で初めて先輩後輩の嫌な関係に悩んだ。今の部活動は、むしろ私たち団塊の世代より封建的な上下関係がある。廊下で先生に会っても知らん顔だが、部の先輩に会うと大変。うっかり挨拶なしに通ると、あとの制裁は恐いくらいだ。いつの間に中学校は、こんな戦前の軍隊のようになってしまっていたのか。
軟式テニス部は途中顧問の先生が転出。キャプテンだったあゆ子を中心に江間先生に頼み込んで顧問になってもらい、3年間楽しく部活動をやれた。
担任は高橋先生、木下先生、山口先生と全部男の先生だったが、学級委員のあゆ子は時に女房役みたいに楽しく過ごしていた。
中学で得た親友のほとんどは軟式テニス部であった。小田桐優子さん、萩島弥生さんなどいっぱいいた。伊関さんとは高校受験勉強を一緒にやったのでずっと感謝していた。彼女は偶然にも今あゆ子と同じ道へ進んでいる(芸大)。小田桐さんとは「オダ」の呼び名でずっと死ぬまで仲良しだった。
◎ 鉄の女“てっちゃん”
2年の時木下先生が保護者会で、私にこんなことを言われた。「理科の時間ずっと私を見ていて、一度うっかりしたことを言ったら、てっちゃん(あだな)が『先生は先週こんなことを言いましたよ』と指摘したのでびっくりしました。一言も聞き漏らさないんだね」
何故てっちゃんと言われるのか聞いたら2つ説があった。まず“鉄のような女”という意味からきた。しかし鉄のようなと言われるわけは、第一の説;意志が強いから。第二の説;火の点いたマッチを口に入れたと言う説。どちらからきたのか今となっては良く分からないが、あゆ子はこんな変わったところのある、それでいて意志の強いところもある子だ。
中学3年の頃やはり学年は落ちつかず、いつも何か事件が小耳に挟まった。不登校の生徒もいた。あゆ子はクラスの不登校の生徒にプリント類を届けたり、夜中学校の体育館で、その子と、バドミントンをしたりもしていた。その生徒を交え、クラスだけの感動的な卒業式をした。他人の為に何かをやる、それは結局自分の喜びにもなるという、貴重な体験の第一歩だった。
事件続きの中学2年の時の合唱コンクールでは、合唱の声はほとんど聞こえず、むなしくピアノの音だけが響いていたが、その学年が3年になった時、見事な歌だった。誰もが泣いた。そして生徒の訴えで、この年昭島市民会館での合唱コンクールとなったので、運動の中心となった学級委員のあゆ子にとっても感動的だったに違いない。
◎ 舞台の上でのあゆ子
卒業式の日はクラス代表に選ばれ、舞台の上で思い出を読んだ。私はこんな晴れがましい思いをさせてくれた娘に、感謝しなければならない。この子のおかげで母親として何度も誇らしげな思いを味わってきた。式の日の舞台から聞こえたあゆ子の少し震えたやや高目のトーンの声は、今も耳にある。七中の体育館へは今も時々行く。そして私はあゆ子の立っていた舞台の左袖を見ると必ず、熱きものが目を圧してくる。「あゆ子良くやったね。七中では大活躍してくれてありがとう」
そうあゆ子は短い間に、一生分の親孝行をしてくれた。もし死という最大の親不孝が無かったら、私はあまりにも親孝行され過ぎた母親だったかもしれない。
人生まさに、プラスとマイナスの寄せ集め。ならせばまっ平らなんだ。すごいプラスだった人はどこかで人並み外れたマイナスをしでかす...。
死は無かそれとも幾千の種をまき
意味ある生を終えたかあゆ子
◎ 立川高校合格。やったね
なんとなく本人も親の私たちも、立川高校へ行くと思っていた。トップ校だけどあゆ子の力では自然に行くように感じていた。私立高校は日大三校を併願でとってあったので、安心して受験できた。雨の日母子で合格発表を見に行って思わずVサインのあゆ子を写真に撮った。
ここで私立高校へ行っていたら、どんな人生を歩んだろうか。日本大学へ進んでいればアメリカへはおそらく行かなかった。こういうやり直しのきかない馬鹿なゲーム「もしも」のゲームを私は何百回繰り返しているだろうか。
ふりだしに戻れるものならこの母の
子宮よりはじめん亡き娘の誕生
◎ 真の自立得た高校時代
立川高校ほど自由な高校はない。校則なんて本人は知らなかった。制服はなし、朝礼や担任学活なし、みんな自分で時計を見て行動する。先生が休みの時は自習じゃなく“ブランク”と言ってユザワヤへ糸を買いに行ったりしている。
入学式でも運動会でも先生の姿は見かけない。だいたいが生徒の自主運営だし、先頭で怒鳴っている先生なんて一度も見なかった。式でも合唱コンクールでもうるさくなれば、“シーコール”と制する声が起きてきて静かになっていく。戦後の民主主義はこういう旧制男子中学に根強く息づいている、との感じである。
この自主自立の立川高校こそ、あゆ子にますますぴったりで、いっそう自立心の強い女性となっていった。だからもうすでに母親の介入も一切聞かない人となり、どんどん自分で決めていく。それでも相変わらず家の手伝いは良くやっていた。高校3年間は自分の弁当と弟の弁当を毎朝作ってくれた。器用なので母の作れないしゃれた肉詰めなんか、朝からちょこちょこと調理した。立校は定時制があるから、夕方5時半以降は校内活動を禁止された。そのぶん朝の始業時間は早い。あゆ子は3年間自転車で通い、どんな嵐の日も雪の日も一度も車での送り迎えはしなかった。今多くの家庭では学校の送り迎えや塾の送り迎えをしていると思うが、あゆ子の意志の強さはすごかった。
◎ 応援団メンバーとなる
伝統ある立校には男子応援団、女子応援団が脈々と続いている。クラブではなく自主入団である。近所の関田さんという父親の親友の娘さんも立校応援団員だったので、勧められてあゆ子も入った。
ちょうど軟式テニス部は応援団員と兼ねることが許されていた。テニスと援団をずっと一緒にやった田村祐子さんは今偶然アメリカ留学中だ。
援団ほど過酷なクラブはない。炎暑の練習で毎年救急車騒ぎがある為、先生の方から廃止の声さえ出る。入団してから半年で部員は半減する。男子は特に黒の詰め襟学生服なので生死の境目さえある。
今あゆ子のお骨の箱には、手作りの援団コスチュームが掛けられている。このコスチュームを作るのもすごい作業だ。手の込んだネームをアップリケしてある。デザインも工夫がすごい。短いスコートにもデザインする。同じカラーの長いはちまきも作る。1年の時、立高は改築中だったので、昭和公園で運動会があった。この運動会がまたすごい。縦割りチームごとに巨大な立て看板を作ってコンクールとなる。
9月は1ヶ月間、ずっとお祭りが続く。生徒は6月から9月はみんな深夜に帰宅するので、親たちは当初は怒ったり叱ったりするが、しまいにはあきれて無言となる。応援団も毎夜近くの公園で練習し、夏休みは多摩川河川敷で練習。あゆ子は一層真っ黒となるが、本当に生き生きしていた。

援団のコスチュームは日に焼けたる娘を包みし
今は白き箱おおう
彼女の遺品の中に『援団ノート』があった。小さい丸字で所々にかわいいカットも入っている。チームリーダーとなったあゆ子が先生たちと話し合ったり、チームをまとめたりしていた。ここでもあゆ子は先輩の押しつけに悩み、自分たちが先輩になった時、後輩に対して民主的に接することに心を砕いていた。
◎ 立高軟庭部のみんな
ここで沢山の友達を得たと思う。おそらく立高時代のことを、今彼女が天国で話をしているとすれば、半分は軟庭(ずっとこう呼んでいた)のことだろう。
残念ながらあゆ子はそれほど強い選手ではなかったようだが、とにかく2年間毎日と言っていい程軟庭に出ていた。
そしてあゆ子が21才になった正月、日本に戻ってきて写した最期の写真が軟庭のみんなと立川『庄屋』で写したものとなった。その時のみんなはあの頃の日焼けが嘘のようだ。あゆ子ときたらこの頃は体重47Kgになってモデルのように細い。アメリカで10Kg以上やせたと思う。本当に小学時代中学時代のあゆ子とは別人のようになっていた。単にアメリカの食事より和食好きなだけでなく、彼女の燃えるようなハードなアメリカでの留学生活は親の想像を絶する。
軟庭の友人はあゆ子のアメリカ生活での支えにもなってくれていたし。帰国する度にバーベキューに誘ってもらったり、飲みに連れて行ってもらったり、あゆ子の死後も訪問して下さったり、お手紙を書いて下さり、この母にとってそれらは本当に宝物となっている。エッセーの訳もありがとう。
きっとあゆ子はいずれ天国へ来てくれるみんなの為に、居心地のいい部屋を準備していると思う。こんなに早く行きすぎて、あまりに長く待っていて退屈するかもしれないけど、そこはあゆ子のこと、いっぱいすることが有るので、結構忙しがっているのではないだろうか。
天国を歩く君は今も背を伸ばして
母の三歩を二歩で行く
◎ 沖縄大好き
あゆ子のおじいちゃんは沖縄久米島に住んでいる。その血を受け継いだせいか、あゆ子は寒いのが嫌いで暑いのが好き。花はひまわりが大好き。冬より夏が好きで、海が大好き。高校2年の時、家族旅行をした。この世のものとは思えないほどの空と海の青さ、そして白い砂の無人島はての浜、潜水して見た珊瑚と熱帯魚、太陽のようなあゆ子にはぴったりの沖縄。
そして翌年の夏休み、大学受験することに悩んでいた時、何もかも捨てるかのように沖縄竹富島へ行ってしまった。「お母さんあゆ子だけど。今船の中にいるの。しばらく竹富島にいるからね。」こんな電話がかかってきた。その直前進学のことで母子げんかをして「目的も無いのにただ大学へ行くのは無意味だよね。」と言って、急に受験勉強を始めた友人達を嫌がっていた。1ヶ月半竹富島の民宿でアルバイトをしていた。高校生とは言わないで。
帰る途中久米島のおじいちゃんの家に突然立ち寄り、泊まってきた。明るいのですぐおじいちゃんに気に入られ、その後も「あゆちゃん。いい子だねえ」と何回も義父は言う。
身代わりにこの爺の命何故とらぬ
受話器持ちて泣く沖縄の祖父
◎ 留学を決めた秋
こんな迷いの日々の中自宅に届いた1枚のパンフレット。『NCN米国大学機構』のパンフ。アメリカの数十の大学への留学を斡旋する機関だった。
私とあゆ子はすぐに心が動いた。さっそく説明会に参加し、その時の堀代表の誠実さを信用した。
アメリカの大学は、入学前に決めた専攻を変える事が可能なので、このことに最も魅かれたらしい。物を作ることが大好きなあゆ子は、母のやるレザークラフトを一緒にやったり、編み物をしたり、ブラウスを縫ったりがとても上手だった。今も家中にエプロン、枕カバー、ポシェット、クッションなどあゆ子の作ったものがいっぱい有る。だから学部は芸術学部。日本の芸術系大学のように入学前にデッサンなど習う必要は全くない。
第一希望はテキサス大学だったが内申点不足で第二希望のマサチューセッツ州立大学ダートマス校と決まり、この日から目標を持った彼女のダッシュはすごかった。TOEFLの点数が英語力の基準となるので毎日毎日TOEFL通信添削をやっていった。
立高卒業の日の為に振り袖を作った。その色は沖縄の珊瑚のある海の色、ブルーグリーンだった。振り袖に袴姿であゆ子はクラス代表となり卒業証書を受け取った。すらりと背が高く、髪の毛は自分で器用にアップスタイルにしていて我が子ながら「きれい」と叫んだ。
あゆ子のボストンのアパートには、留学が決まったあとの日々の予定をメモしていたノートが残っていた。TOEFLテストや高校の卒業試験の合間に、予防注射に行く、パスポート申請、眼鏡できる、みどりに会う、生け花、みいこの家、パンダにプレゼント、ありさとごめセバスチャンと会う、テニスそして3月にはフランス旅行をするのでその準備がいっぱい書いてある。忙しくてたまんないと笑っている顔が思い浮かぶ。
◎ 渡米
1994年5月21日に出発した。庭で写真を撮る。ワゴン車で駅へ行く。母子で箱崎シティターミナルへ行った。ここで別れた。あゆ子は泣かなかったが、私は初めて泣いた。抱き合ったその柔らかな体の感触は今も残っている。あゆ子は遠くへ行ってしまった。でもこの日の旅立ちは栄光への旅立ち。未来ある別れだった。
家族写真を撮ったこの庭を3年後の5月11日、白い棺に入り通った。花の好きな私はこの庭にいっぱい花を咲かせている。3年前に咲き誇っていた同じ花が、棺の回りでさぞかし悲しんだ事でしょう。そしてこの庭にはあゆ子が可愛がっていた文鳥のピッピも埋められている。「ピッピが死んでも知らせないで。」と何回も言っていたそのピッピはあゆ子の死ぬ1年3ヶ月前に天国に行き、まるであゆ子を待っていたかのようだ。
5月から8月までブラッドフォード大学で語学研修とオリエンテーションを受けた。その間は死ぬほど忙しかったのだろう。ノートはほとんど空白。ここでトニーと知り合った。9月からはノートは逆に空白が無い。連日トニー他数人と会ったり、ダートマス校でクラスを取ったり、教授に会ったりしている。10月にトライと知り合う。彼はベトナム人だ。
◎ アメリカで輝いたあゆ子
渡米して1年3ヶ月日本に帰らなかった。理由は「英語を忘れるから」だった。1回目の帰国の時、いとこの南里貴史が成田へ迎えに行ってくれた。夕方立川駅へ車で迎えに行った私はすぐにはあゆ子がわからなかった。細い! それに頭はチリチリのカールで空に向かって爆発状態になっている。本当に「アメリカ娘」だった。ファッションセンスは抜群だった。あゆ子が着ていたような服が半年後の日本で流行しだすのが不思議に思ったことがあった。だいたい高価な洋服は買わない方だった。安い物や男性用の物、ちょっとアンティークな物など彼女が着ると生き生きとしていた。帽子が好きでいくつも買っていた。靴は夏は草履みたいなサンダルだけ、冬はほとんどブーツだけ。バッグも凝らない方だ。
トライから電話が良くかかった。ずーと英語で話している。「フフン」と相づちを打つのも英語調。彼女の頭は英語が渦巻いていたので、日本語を話すのやましてや書くのはだんだん苦手となっていった。筆まめなのでいっぱい手紙や絵葉書を自宅に送ってきたがどんどん字が下手になってきて、小学校程度の漢字も出にくくなって来て、ほとんどひらがなの手紙になってきた。
お母さん小さいねと笑った娘の
遺されしジーパンの長さよ
◎ そして成人式
2回目の帰国をしたのは成人式のためだった。あの大好きな振り袖を着よう!娘はもちろん私もこの晴れ姿をぜひ見たかった。写真撮影の予約をしたり、美容院へ一緒に行ったりして、母親の私の方が夢中だった。この日の為にカーリーヘアーはゆるいパーマヘアーになっていたし、髪も長くなっていた。
細さは一段と増し、丸顔はいつしか卵形顔になり、身長もあるので着物姿はモデルみたいだった。父母そろって本当に親ばかとなって嬉しくて仕方がなかた。この子の花嫁姿は奇麗だろうな、そんなことまでパレスホテルの写真室で想像した。立川七中時代の山口先生や友人にもいっぱい会って、成人式の翌日アメリカへ戻った。
この頃からあゆ子の英語力はぐんぐん伸びた。英語力がつけば当然他教科も伸びるし、教授や友人とのコミュニケーションも良くなった。この本のエッセイの大半を成人式を終えたあと2月から4月頃に書き上げている。そして大学2年を終えて成績優秀者として学部長表彰を受けた。
この2年間で自分の好きな分野も決まってきた。留学を決めた頃は『ファッションデザイナー』になりたいと思っていた。入学の頃は『フラワーアーティスト』、そしてそのうち『生け花とその器のアーティスト』になろうと思っていた。そしてその後器を作るほうに更に興味が出てきて、セラミック(陶芸)を一生の仕事にしたいと思ったようだ。
振り袖のはたちの輝きつらすぎる
今年の虫干しできない私
◎ 人生最後の年、21才
家族旅行は良くやる方だった。生まれてから死ぬまで、日帰り旅行、近くの海や山、北海道から沖縄まで旅行をした。スキーは小学校からずっと毎年苗場や蔵王へ連れて行った。21才、大学3年の冬はヨーロッパ旅行までした。アメリカから日本へ来て、その4日後は日本からイタリアへ行ったのだから、ほとんど地球一周してしまった。イタリアでもフランスでも、細かい交渉は英語であゆ子に任せ、私達はぼんやりしているだけで済んだ。
あゆ子は芸術を目指す者はすべてフランスに憧れるその一人として、アメリカ留学が一段落したら、フランスへ行く事を計画していた。立高時代フランスからの留学生セバスチャンと親しくなり、有砂ちゃんと黒米君の3人でセバスチャンを訪ねている。そして特に南方のカルカソンヌはあゆ子の好きな海と太陽と魚介類が豊富で、とても気に入った。そこでアレックス君とも知り合った。アレックス君はあゆ子の死んだ事を知らないで、その5月に日本に来ていて「早くあゆ子に会いたい」と手紙がボストンのアパートに届いていた。
最後のこのイタリア、フランス旅行中、あゆ子は新しい恋に悩んだり、自分の人生を問い直したり、といった大人の世界に入っていった。しかし残されている写真の笑顔は穏やかで美しい。この頃の日記が英語で書かれている。詩も英文である。あゆ子の遺体と共に帰国する飛行機の中で私は日記を読んでみた。残念ながら私の英語力不足で充分に読めなかった。
ポシェットに英文のドナーカード残されて
丸字のサインに娘の意思読めり
◎ あゆ子の木はしだれ桜
あゆ子が死んだ3日後、私達両親はU・M・D(マサチューセッツ州立大学ダートマス校)を訪れた。その前日、あゆ子は3年生前期の成績優秀者として学部長表彰を受ける事になっていた。天国で受け取ったあゆ子はきっと喜んだでしょう。しかしこんな表彰を変に隠す方で、1回目の時も「たいしたことないけど」と前置きして、しかもずいぶん時が経ってから話をした。
芸術学部の学部長、大学の学長それぞれに会った。あゆ子のことを惜しんで「木を植えましょう」と約束して下さり、その木は1997年11月に植えられた。それは日本種のしだれ桜。きっとあゆ子の様に美しくたおやかに花が咲いてくれると思う。
また事故現場には、ジュリアン、トライ、アンソニー等が楓を植えてくれた。私たちには、こんなことが本当に嬉しくて仕方がない。生きた証拠を残せる、ということが本人にとってもまた私達両親にとっても大事なことだと痛感した。
ボストンの大学に植えられる娘の木には
日本の水与えんと小さき目標できる。
( 母 和子 記 )