それは古い古い記憶だった。 この二百年の間、思い出さなかった日など無い、滅びの記憶。
石造りの家々と、鋼の山脈。家々の奥には石造りの神殿があった。
だがその場所は、重く歪んだ空気に支配されていた。
いや、その都市全体が重い<魔>の空気に支配されていたのだ。
「私達はもう助かりません。でも、悲しい顔をなさらないで下さい。私達は貴方様にお仕
えすることが出来て、本当に幸せだったのです」
都市の主である彼の目の前で震えているのは、皮膚を腐らせ、なす術もなく横たわった
人間だった。
「貴方様は私達民が居なくなっても、きっとここを護り続ける筈です。彼の人との約束、
どうか、果たして……」
人間は苦しんでいた筈だった。
だが、笑顔だった。
まるでとても嬉しい事があった後のような笑みを浮かべて、人間は息を引き取ったのだ
った。
無力だった。
どんな魔物と戦えるだけの力があっても、病にはどうする事もできなかったのだ。
病を振り撒いた憎い<魔>の生物。
強大な力を持ったそれは、門を強引にこじ開け、都と門そのものを壊すべくこの都市に
に降り立った。都市の主である彼は持てる力の全てで<魔>の生き物に立ち向かった。だ
が、その<魔>の生物はいつも追い払うそれとは桁違いの力を持っていた。結果、壮絶な
戦いが繰り広げられ、双方無事ではすまなかった。彼は深く傷つき、<魔>の生物は門の
向こう側へと追い返された。
彼は自分の持てる力の限界を持って、自分の都市を守り抜いたのだ。
だが、<魔>の生物はただ引き下がった訳ではなかった。
<魔>の生物が去り際に撒いて行った忌むべき厄災。
それは、もう一つの護るべきもの、民の命を容赦なく奪っていったのだった。
それはたった二日の間の惨事だった。
民は次々に倒れ、大人子供の区別無く死んでいった。
深く傷ついた彼には都市に広がる病をどうにかする力もなく、またそれを防ぐ手段も持
ってはいなかった。
彼が幾つか知っている魔法も、敵に打ち勝つための魔法であって、民を救う力とはなら
なかった。
なにも、出来る事がなかったのだ。出来なかったのだ。
「我の力は、一体何の為にあるのか。門を守り、民を護る為ではなかったのか? 誰一人
民を救えなんだ我を、何故皆、……幸せそうに、……笑って死んでいくのだ!」
鋭い叫び声が住人の居なくなった都市に大きく響いた。
それは悲しみだった。
それは怒りだった。
それは寂しさだった。
だが、慟哭をかき消すように、新たな<魔>の生き物が強引に形の無い門の隙間から滑
り込み、この世界を目指し現れる。
門がある限り、そこからは幾度も魔物が沸いてくるだろう。
強力な<魔>の生き物はよほどでない限り門を抜ける事はできない。その為に作られた
門なのだ。だが、力の弱い魔物はその小ささ故に隙間を通り抜けてしまうのだ。
門は決して開く事はない。異世界へと繋がる穴は硬く閉ざされているのだ。しかし、ど
れほど強固に鍵をかけたとしても、どうしても塞ぎきれない隙間が出来てしまう。そんな
わずかな隙間から奴らはやってくるのだ。
魔界という異世界が存在し、<魔>が地上を狙う限り。
この世界が、存在する限り。
彼は再び立ち上がった。
奴らを地上にのさばらせるわけにはいかない。この都市をこれ以上穢されてはならない。
自らが果たすべき約束は、守るべきものはまだこの手にある。
ならば。
「……ならば我は生きよう。残されたもう一つの約束を護る為に。この都市を、……いや、
この『死都』を護り続ける為に!」
黒き体を震わせ、たった一人になってしまった竜は闇夜に吼えた。
それから、彼はずっと一人でこの死都を護り続けた。
日々繰り返される戦いの中、寂しさも忘れ、悲しみも忘れ、長い孤独な時間だけが彼に
残った。
もうあれから何年たっただろうか。
ふと思い出し、彼は思いを巡らせる。ざっと計算してもう二百年になるか。
「……」
ただただ繰り返される<魔>の生き物との孤独な戦い。
誰の手も借りる気はなく、死都の主であるというその誇りだけが彼を動かしていた。
長い夜が開け、暁光が死都に降る。
廃墟と化した町を見下ろし、彼は血塗れた姿で後ろを振り返った。
彼が立つのは死都の最も最奥にある聖域、冥哭(めいこく)の神殿。高台になっている
そこからは、死都の全景が見渡せた。
手前に見えるのは石造りの家々だった墓標のごとき白い石の列。その奥にあるのは、か
つては空中庭園と謳われた広大な枯れ草の絨毯。
その草の色が綺麗な若草色に変わっている事に気付き、彼はわずかに表情を緩めた。
「春が……きたのか」
日差しを反射する鮮やかなその色に、心が僅かに揺れる。
そして古い古い記憶が、忘れていた感情が、深い場所からじわりと蘇がえろうとする。
「……」
忘れていた感情を思い出そうとしたその時、背後から滲む<魔>の気配を感じて彼は鋭
い金色の半眼を神殿へと向けた。
「……またか。このところやけに多いな。一体あいつらは何をしているのだ? ……ふん、
どうでもいいか。我に出来るのは、するべき事はここを護る事だ。絶対に神殿の外には出
さぬ。この死都に…………――触れさせてなるものか!」
竜は怒りをあらわにし、神殿の奥へと向かう。
ここは死都、アランカンクルス。
歴史に忘れられた、竜の都。
濃い<魔>の魔力に覆われた、孤独な竜の住む都。
遅い春を告げる風が死都をよぎる。
誇り高い孤独な主を想う様に、芽吹いた芝が風に揺れていた。
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