昭和二八年京都南部水害に寄せて

「東海近代史研究」22号(2000年)所収拙稿をxhtmlに書き直したものです。
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 二〇〇〇年九月一一日。高速バスで帰省の途上にあった私は、折からの水不足ゆえ、滋賀県あたりまでは「恵みの雨だ」などと呑気に考えながら車窓を楽しんでいた。しかし名古屋市内に入り、高速バスが水上バスと化すに及んで、ただごとならぬものを感じた。親の迎えを仰いで、帰宅したのは朝の二時であった。
 名古屋近辺で、深刻な浸水被害が発生した。言い古された言葉ではあるが、自然の力を前にして、人間はどうしようもなく無力であることを改めて感じさせられた一日であった。

 私がいま水運史の研究対象としている巨椋池は、京都の南に存在した沼である。昭和一六年に干拓が終わり、この世から姿を消した。今年で五九年になる。
 そんな巨椋池が、水害で再び姿を見せたことがある。

 昭和二八年九月二五日夕〜夜、紀伊半島をかすめ東北南部へと通過した台風一三号は、近畿・東海地方に大きな被害をもたらした。風もさることながら、多雨による浸水被害が目立ったようである。二六日付の「毎日新聞」によれば、名古屋では一/三が浸水したという。
 そんななか、近江・丹波・南山城の水が、それぞれ宇治川・桂川・木津川として集まってくる旧巨椋池一帯も無傷ではいられなかった。
 「宇治市史」によると、

この豪雨によって、大峰ダムの宇治川の 放水量は毎秒一七〇〇トンに達したと推測され(中略)加えて木津川、桂川の増水による逆流水のため、宇治川の水位は益々上昇し、ついに伏見区向島の観月橋下流三キロの地点において左岸堤防約四、五〇メートルが決壊。濁流はたちまち方向を変えて巨椋池跡に流れこみ、宇治市西部、佐山・御牧両村を中心とする巨椋池干拓田七〇〇ヘクタールは元の湖水に帰してしまった。そのほか、さらに周辺部の田畑にも拡大して二千四〇〇ヘクタールを水没せしめ、その浸水期間は約一ヶ月に及び、収穫は殆ど絶望的であった。

という。二六日付の「毎日新聞」に掲載された建設省発表によれば、さらに淀大橋付近でも決壊したようである。
 この災害に際し災害救助法が適用され、また天ヶ瀬ダムなど治水事業が進められることとなる。
 実体験としてのリアリティはないものの、写真で見る限りにおいても、自然の力に対し畏怖の念を禁じ得ない水害であった。

 しかし、実はこの災害は「人災」という側面を否定できないのである。巨椋池と人との関わりを簡単に振り返りながら、考えてみたい。

 そも巨椋池とは、東西・南北の構造線が交わる地点にあり、京都盆地の最も低いところに水が溜まったものである。東からは宇治川、南からは木津川、北からは桂川が集まり、西の淀川として流れ出す。直接巨椋池に流れ込んだのは宇治川ばかりだが、巨椋池の出口と、木津川・桂川の合流点であった淀とは近接していたため、増水時には逆流した水を受け入れ、遊水池としての性格を持ち備えていた。

 巨椋池に転機が訪れたのは、文禄三年、豊臣秀吉による伏見城築城の折である。
 伏見城は、巨椋池の北側、伏見の町の東にある丘陵に築造されたのであるが、築城に付随して、宇治川の流路変更と大和街道の移設という大きな土木事業を行っている。
 宇治川の流路変更は、それまで宇治橋のすぐ下流から北西方向へ直接巨椋池へ流れ込んでいた宇治川を、堤(槇島堤)を築いて、桃山丘陵へと北上したうえで伏見城の南を経由して淀へと流れるようにした大工事である。大和街道の移設を行う上で必須であったばかりでなく、宇治川を伏見城の堀として使おうとしたとされている。
 大和街道の移設は、宇治や岡屋の勢力を削ぐのが理由だと言われている。もともと大和街道は巨椋池を迂回する経路であったものを、巨椋池を南北に貫く堤(太閤堤)を築き街道を通すことで、巨椋池の上を行く東西の水上交通路を遮断するばかりではなく、宇治・岡屋を街道外の地へと追いやったのである(さらに、防衛上、伏見城の背後から横を抜けてゆく旧街道の存在を嫌ったのではないかとも私は想像している)。この街道移設は、現在の交通で言えば、伏見から小倉へ出るのに、JR奈良線のルートから近鉄京都線の経路をとるようにした、というとわかりやすいであろうか。
 この二つの土木工事が、政治経済上大きな変革をもたらしたのは想像に難くないが、同時に巨椋池が仮死状態に陥ったことを忘れるわけにはいかない。流路変更により水の導入がほぼ消滅してしまったのだ。
 そして、これが巨椋池水害のはじまりであったとも言えよう。

 「巨椋池干拓志」所収の決壊地図を見ると、もはや遊水池ではなくなった巨椋池においても、大水が、遊水機能を求めた結果としてもたらした決壊や、流路を復そうとした決壊を生じていたのが分かる。

 導水がほぼ消滅したことにより、巨椋池の水位が低下し、木津川・桂川からの逆流が発生しやすくなった。特に、正徳二年の洪水では、遡って太閤堤をも決壊させるほどだったという。
 また、宇治橋下流での流路変更そのものが、傾斜変換点であるという場所柄、無理を伴うものであり、旧流路へ復そうとする自然の営みが見られた。慶応四年の「御釜切れ」と呼ばれる決壊においても、水はまさに旧流路を辿ったのである。
 人の意志とは関係なく、自然はそこに水を注ごうとする。…巨椋池は、概ねそんな場所であった感がある。秀吉の土木工事によりそれが顕在化したとも言えようか。

 明治四三年の淀川改修工事以降は、下流側においてもついに淀川本流と切り離され、暫く逆流による洪水被害から解放された。しかし一方で、巨椋池の遊水池としての機能は否定されたことになる。即ち排水路を断たれたのであり、悪水が停滞するばかりの、死滅湖とも言える状況を呈するようになった。巨椋池はマラリアの温床となり、また折からの食糧増産という時代的要求を伴って、干拓されることとなる。

 そして、昭和二八年水害、である。
 いま、こうして歴史を振り返るとき、この水害も、本来「自然がそこに水を注ごうとする」場所を干拓して人が利用しようとしたために被害が生じた人災と言えるのではあるまいか? さらに言えば、その昔、太閤秀吉が無理に自然に手を加えたがために生じた人災ではあるまいか?、そんな気がしてならない。

 昭和三九年、宇治川に天ヶ瀬ダムが出来たことなどにより、水害からは縁遠くなったという。ふたたび自然に手を加え、勝利を得たかのように見える。
 しかし、たとえばダムの寿命はいかほどなのであろうか…。本当に、自然を征服できたのであろうか…。

 宇治市街から約三キロにある天ヶ瀬ダム。
 その上に立って、不安は尽きない。


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