「塩竃」補論

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はじめに

 現在、京都市下京区の一角に「本塩釜町」という町がある。言うまでもなく京都は内陸部にあり、それには似つかわしくない地名なのだが、実はこのあたりに左大臣源融ゆかりの「塩窯」があったと言われている。

 今回は、98年度日本中世文化史特講の折の発表を補いつつ、この「塩窯」について1.2の考察を加えてみたいと思う。

1. 塩竃伝説の系譜考

 江戸時代の地誌類を中心として、融が塩竃を築き、実際に塩が焼かれたという旨の記載が散見される。製塩に用いる塩水をどこから汲んだのかということにまで触れ、その詳細な記載は一見した限り真実のように聞こえる。

 しかし、実際にはどうなのだろうか?

 結論的に言うと、製塩の事実は疑わしいと言わざるを得ない。

 別添史料2.「紀貫之歌」は、つい製塩の記載の初見と見てしまいがちである。

 ごく簡単に内容をとれば、「あなたがいらっしゃらないので煙が絶えてしまった塩竃が、寂しく見え亙っている」といったところであろう。和歌中「煙絶えにし」とあるからには、それ以前つまり融の生前には煙が立ち上っていたということになる。

 しかし和歌を文字通り受け取るのは問題がある。つまり、和歌の修辞として、「煙絶えにし」と詠んだ可能性が考えられるのである。実際に「絶え」たのは「融」であって、それを塩竃の「煙」に仮託しているとも考えられる。

 よって、この史料をもって直ちに製塩の事実を考えることはできない。

 融と同時代的史料(史料1,2はほぼ同時代と言えるであろう)には、単に「塩がまといふ所の様をつくれりける」「しほがまといふところのさまをつくれりける」と言い、つまりその「様子」を模したことは記していても、製塩が行われていたとの記載はない。情緒を楽しむだけならば窯を築くだけでも良いであろう。

 これら二つの要素を併せると、製塩の事実には疑問符を付けざるを得ない。

 そうなると、後の史料がむしろ詳細な記載をするのはなぜかという問題が生じる。

 これは、むしろこの「紀貫之歌」を典拠としての記載ではないかと思われる。後々までこの歌は語り継がれているようであるし、「塩竃」と「紀貫之歌」はひと括りで捉えられていた節がある。

 つまり、事実はともかくとして、この「紀貫之歌」を端緒として、塩竃伝説のようなものが発生していたと考えることができるであろう。その様子を追ってみたい。  

 まず見られるようになるのが、塩水を汲み入れた旨の記載である。

 目下、塩水を汲んだとの旨の記載の初見は、史料3.の「今昔物語集」である。ただし、史料4.の「顕昭古今註」中「隆国卿注」にも記載がある。「尊卑分脈」所載の「隆国」はただ一人のみであり、「卿」付けであることを考えれば、隆国=源隆国である可能性は高い。そうなると、彼の生存年代が1004-77であるため、隆国の注記が一番古いということになる。なお、原典注記も探したが見つかっていない。源隆国といえば「宇治大納言物語」であり、それが「宇治拾遺物語」に影響を与えていると言われていること、「宇治拾遺物語」も同じく塩水の汲み入れの記載があることから、彼がなんらかの形(もしかしたら「宇治大納言物語」にて)その旨の記載をしていたことも考えられる。よって、「古今集」所収の「紀貫之歌」に寄せて何らかの注記をした可能性は否定できない。

 前回発表の折は、初見を「今昔物語集」としたので、融の没後200年以上しての初見としたが、今回新たに見いだした「顕昭古今註」の記載を信じれば、没後100年程度の時代を生きた人が塩水を汲み入れたとするため、信憑性はわずかなりと増すといえる。しかしそれでも100年の隔たりは大きく、そのまま信じることは危険であると言えよう。

 次いで注目したいのは、同じく「顕昭古今註」中「清輔注」である。この清輔は、藤原清輔と見て問題なかろう。彼の実際の注記も読めていないが、引用されるところによると、「池に毎月30斛入れ」「海底の魚蟲を住ましむ」とある。海水汲み入れの頻度・容量という詳細な記述の初見である。気をつけなければならないのは、この塩水が製塩ではなく海棲生物の飼育に用いられているという点である。事実関係はともかく、そういった伝承がこの時点までに発生していたことが伺える。

 手元の史料で窯で塩を焼いた旨の記載がはっきりと見えるのは、「宇治拾遺物語」以降である。

 前述のように例えば「宇治大納言物語」においての記載も推定できるが、目下確認のしようがない。これが確認できるならば、製塩伝説と海棲生物飼育伝説の発生の順序を確かに推し量ることができるが、非常に残念なところである。

 15C後半に成る「伊勢物語愚見抄」に至ると、上記製塩伝説と海棲生物飼育伝説が併記されるに至る。塩水の汲み入れも、「毎月」「30石」と「顕昭古今註」中「清輔注」の影響を推測できる。「伊勢物語愚見抄」の性格も考慮する必要があるが、この段階に至り、伝説もひとつの形に収束した感がある。

 しかし、江戸時代の地誌類が描くこれらの伝承は、各要素において少しづつ異なってくる。

 まず、海棲生物飼育の記載は、「京師巡覧集」のほか、「伊勢物語愚見抄」を引用する「山州名跡志」に見られるのみである。海棲生物飼育伝説は下火になっていったと見るべきであろう。

 その一方で、製塩伝説はさかんに記載されている。従来語られることのなかった塩水の汲み場所の記載がみられるようになる。少なくとも「伊勢物語愚見抄」当時にはなかったか、あったとしても触れられることのなかった記載であり、むしろそれ以降に伝説化したものと推測することができる。

 塩水を汲んだとする場所は、記載のあるものは一様に「摂津難波の三津の浜」を指している。

 その根拠については詳らかではないが、三津の浜が「海」とのイメージに密接に結び付く地盤であったためかもしれない。イメージと直結していればいるほど、伝説の生じる要因になりやすいであろう。

 塩水の汲み入れ頻度について記載も見られる(史料10,16,17,19,20)が、以前とは違って「毎日」のニュアンスになっている。これは、これはいずれかの段階で「月」と「日」を読み間違えたのであろう。「山州名跡志」が「伊勢物語愚見抄」を引用しつつもそれが「毎日」とあるのは、なによりの証拠と言える。江戸時代に入る時点までのどこかの段階で、伝承の誤りがあったと考えるべきである。

 なお、時代がはっきりしない記述として、「顕昭古今註」頭書の中で「良宗案」の文字の見えるものが挙げられる。この頭書に関しては誰によるものか判然としないとある(「続々群書類従」15冒頭)。見るところ、一部の頭書には「良宗案」とあって「良宗」なる人物が注記したと思われるものと無記名のものの二通りある。時代をはかるため「良宗案」の文字のある頭書から年号・人物・書名を探ったところ、最も時代が下るのは「元亨釈書」成立の元亨2年(1322)であり、それ以降の注記ということになる。良宗なる人物そのものの特定は難しく、それ以上の知見は得られていない。ただ、塩竃伝承の流れのみから見た場合、「伊勢物語愚見抄」以降、江戸時代までの間と推定するのが自然である。

 その根拠は二つある。

 ひとつは塩水の汲み入れ頻度である。「伊勢物語愚見抄」までは「毎月」だったものが、江戸時代には「毎日」となっている。前述のように「月」と「日」の読み違えによるものと推測できるが、「良宗案」では既に「毎日」となっている。

 もうひとつ、塩水の汲み場所がある。「伊勢物語愚見抄」までは一切記載がなかったのに対し、江戸時代は前述のように「難波三津の浜」とする。しかし「良宗案」は全く異なって「尼前浦」とする。これを江戸時代の記載ととるのは多少突飛である。

 以上二点を勘案すれば、やはり「伊勢物語愚見抄」以降、江戸時代までの間と推定するのが妥当であろう。  

 以上、整理すれば、塩竃に纏わる伝説は

  1. 「紀貫之歌」の和歌的修辞に端を発して「塩竃」のイメージが残され、
  2. 「塩竃」のイメージから「塩水が汲み運ばれた」とされ
  3. 「塩水」のイメージが「製塩」と「海棲生物」に分化する。
  4. 「海棲生物」に纏わる伝承は薄れていくものの、
  5. 「塩水を汲む」ことに関してイメージが膨らんでいき、
  6. 製塩の伝説が補強されていった

と言うことが出来るのではないだろうか。

2. 塩竃の場所について

 もう一点、塩竃の所在について考えておきたい。

 同時代史料と言える史料1,2に見えるように、塩竃は左大臣・源融の屋敷内にあったと考えることができ、後々の史料も融の屋敷「河原院」にかけて塩窯の様子を記載している。

 河原院の詳細な所在については、目下「顕昭古今註」本文が初見となる。この史料は「今ノ河原院」と記述することにまず注意しておくべきである。史料に見るように、その時代なりの解釈が入っていること。昔の河原院が別の場所にあったのかどうかはさておき、融の没後200年当時の判断である。それによると、六条坊門より南・六条より北・万里小路より東・川原より西、方四町、とする。方四町ならば東至は東京極であるがここでは「川原」としており、このあたりにおいて東京極は川原辺にあたると言えるのであろう。現在の流路を推し当てても大凡のところは異ならない。

 時代的にこの次の史料にあたる「拾芥抄」は、異なる記載をしている。曰く、六条坊門の南・万里小路の東。ここまでは「顕昭古今註」と同じだが、「八町」という。そしてその上で「本四町、京極西」とする。八町をもと四町とし、「本四町」にかけて「京極西」とするならば、減った四町分は京極の東であったということになる。もちろんこれでは鴨川を挟んで対岸にまで及んでしまい、不自然である。なぜ「拾芥抄」が「八町」という数字を掲げたのか全くもって不思議である。ただ、実際の川原までも河原院の敷地であったのを匂わせなくもない。しかしそれでもなぜ「八町」なのか、疑問は消えない。

 「拾芥抄」と並ぶ類聚辞典「二中歴」に見える河原院は、なんと「六条北・京極東」としている。そのまま平安京の地図に落とすと、完全に鴨川の場所にあたる。さすがに書き誤りの恐れを指摘せざるをえないが、ただそれでも川原方向へのベクトルがみられることは「拾芥抄」と同様である。

 江戸時代の地誌類は、概ね「拾芥抄」に沿った記載をする。

 しかしその一方で、別の表現を用いて塩窯の場所を挙げるものもある。

・六条河原
 =「洛陽名所集」、「雍州府志」塩竃跡
・五条下寺町
 =「京羽二重」鹽竃明神
・上徳寺付近
 =「雍州府志」塩竃明神、「都名所鳥」鹽竃明神、「京町鑑」鹽竃町

 加えて、大正4年の「京都坊目誌」では、河原院の所在を「拾芥抄」に従いつつ、「本覚寺に鹽竃ノ址と云ふもの存し」とする(本覚寺は「拾芥抄」の河原院の範囲内であり矛盾はしない)。

 六条河原という記載は、それ以前の「伊勢物語愚見抄」等の史料によるものであろう。もっとも、六条河原という場所は、それとして指し示し得る場所であり、その可能性も否定しきれない。

 また、「五条下寺町」「上徳寺」といった記載も気にかかる。なぜ敢えてこれら別の地名が挙げられるのであろうか。特に、上徳寺という極めて具体的な場所が挙げられているのは見逃せない。これは、史料中項目として挙げられている「塩竃明神」との関連を考える必要があると思われる。

 ただ、上記のいずれの場合でも、こと塩竃の所在を考えるにあたっては、六条河原や上徳寺が上記「本四町」の範囲内ではないと言っても大きくそれるわけでもなく、また「塩竃」そのものが後世まで残っていたわけではないであろうゆえ、「おおよそこのあたりにあった」程度の伝承に過ぎないと考えるべきであろう。

 大凡において、「拾芥抄」なお正確には「顕昭古今註」に記された範囲が河原院の範囲であり、そのあたりのいずこかが塩竃があった場所と言えるように思われる。

おわりに

 以上、塩竃について二点で考察を加えてみた。前回の発表の史料に加えて「顕昭古今註」を見いだしたことにより、わずかながらも子細に検討できたのではないかと思われる。

 まだまだ至らない点は多いであろうが、まずは発表以来のまとめとしておきたい。


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