巨椋池の船運環境の考察序論

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はじめに

咋秋以来、「人と水の関わり」を最大の課題として、約50年前まで京都の南に存在した「巨椋池」にまつわる人文風景の考察を進めるべく調査研究を行っているが、今回はそのごく一部の課題につき、述べてみたいと思う。ただ、年明け以降の体調等の問題でひとつの課題としてひとまとめ完結しているものではない。締め切りの関係上もあり、現状までということで御諒解いただきたい。

研究の現状

咋年末より、研究の一手として、臨川書店刊行の「新修京都叢書」所収の史料から、巨椋池やその沿岸部の地誌、巨椋池を含みつつ広く水上交通に関わる記載を探し、目下整理中である。
「新修京都叢書」に収められている地誌類は、「京都坊目誌」を除き、江戸時代の史料である。記載に関しては錯誤なども多くあり、問題点のない史料とは言えないが、同時にそれは単なる「史料」ではなく、江戸時代における「先行研究」と捉えることもできる。そういった意味においても、これら地誌類の存在は非常に有難い。今後扱いに注意する必要はあるが、「巨椋池干拓誌」「宇治市史」「久御山町史」など比較的近年刊行の先行研究類と共に、決して無視することはできないものと思われる。よって、まず手始めに、手近な刊行史料を利用しようとするに至った。

問題の所在

目下、私にとって一番興味深く、また今後巨椋池に限らず水上交通を考える上でも重要になってくるであろう問題は、河川湖沼の船運環境について、である。つまり、巨椋池はどの程度船運に利用し得たのか、また対象が河川ならば、どこまで上流に遡り得たかという問題である。
この課題については、世代的な問題が大きくのしかかっている可能性はある。内陸船運が存在した時代においては、考察するまでもなく問題のなかった事実であるかもしれない。
しかし、現在「内陸水運」がほぼ見られない以上、既にそれも歴史の一ページなのである。
従ってそれも歴史の課題であり、私なりに納得するまで考察してゆくこととなろう(まだ納得する段階にはない)。
さて、遡行限界の問題は、船の運行をさまたげ得るものがあるかないかにかかってくる。端的には水深の問題が想像できる。ほかにも、流速や沿岸地形もそのファクターであろうし、他にも実にいろいろな問題が輻輳するであろう。それらについてまだ定まった知見は得られていないが、少なくとも「水深」の問題がその要素として挙げられるのは間違いないことと思う。
よって、まずはこの「水深」を中心とした巨椋池の環境と船の運行の問題について考えることとしたい。

さて、水深と船の運行の関係は、1)乗り入れる船は吃水下どれだけの深みがあるのか、2)河川湖沼等がどれぐらいの深さか、によって決まると言える。
巨椋池を巡る水運も同様であって、この二点を解決することが必要となってくる。
それぞれ、現在までに読み得た史料や取材経験を元に、述べてみたい。

乗り入れる船の問題について

巨椋池を中心とした水運で用いられていた船が果たしてどのようなものであったのか、実はあまり判然としていないように思われる。
少なくとも私の知る限り、その形や大きさについての見解には出会っていない。近世以降の淀川水運については豊富な史料に積み荷の重さでその規模を伝えるものがあり、それを援用すれば良いのかもしれないが、直接巨椋池の水運と結び付き得るかどうかは多少問題がある。
巨椋池で用いられたものを偲ばせる船はなくもない。近年まで、いやもしかしたら現在でも旧巨椋池地域の家屋にあった「上げ船」、そして琵琶湖の湖上交通で活躍したという丸子船を挙げられるであろう。参考としては前述の淀川水運の船も挙げられるであろうか。
前者は、水害時の避難用として家屋の脇に吊されていた船である。実際にまだ目にしていないのではっきりしたことは言えないが、写真(久御山町史所収)で見る限りは小振りな船である。避難用としては十分であるが、物流を含めた交通を考える史料としてはいささか物足りない感を否めない。「拾遺都名所図会」(天明七刊行)巻四所収「薮の渡し」(南山城)項に描かれた渡船よりも小さいようにすら見える。
その一方、後者は琵琶湖の湖上交通の立役者として知られる大形の船である。「琵琶湖博物館展示ガイド」によれば、近世から戦前にかけて主に米の輸送に活躍し、100石積のものが一番多く活躍したという。現在同館には、船大工の手によって近年造船された丸子船が展示してあり、その大きさを実感することができる。先ほど挙げた上げ船とは全く比較にならない、実に大きな船である。積み高としても、「淀川就航船は初は二十石以上二百五十石に至る船であった」(吉田敬市「山城盆地に於ける河川交通の変遷」、「歴史と地理」29号、昭和7年。なお以降水量減少により小型化、と言う)こと、また百石以上の船が決して多くはなかったこと(泉雄照正「伏見船考」所収の表。「地方史研究」89号、昭和41年。元禄13年の過書船の数を示し、250から110石積みが総計94、100石積みが41、100石未満が雑多込みで486)を考えると、琵琶湖博物館展示の100石積み丸子船規模の船が巨椋池でも活躍できたと仮定するならば、そこではかなりの船舶の航行が可能であったと推測しても良いように思われる。
ところで、例えばこの丸子船の吃水下の深みはどれぐらいあるのだろうか?
博物館の解説によると、展示されている丸子船は実際に琵琶湖に浮かべたことがあるそうで、その写真は図録等に収められている。その様子を見るに、いかにも吃水下は浅そうな印象である。写真から展示品と対照しておよその深さをはかりうるが、展示品に触れられない以上、今のところ正確なところは把握し得ない。
しかし、この冬、三重県志摩郡大王町及び和歌山県西牟婁郡白浜町にて取材する機会を得、船の吃水下の一般的な浅さを知ることができた。
大王町では、漁船の船頭さんとお酒をともにお話する機会を得た。彼の操る漁船の一番低いところはスクリューで、だいたいは1m程度の水深であるとのこと。目測ではあるが、彼の漁船は琵琶湖博物館の丸子船より多少なりとも大きいようであった。彼は、海水と淡水では浮力が違うが、思いの外浅いところでも船は進み得るであろうと付け加えた。浮力の差は十分考慮する必要があるが、現に船を操る人の言葉だけに信頼性はあるように思う。
白浜町では観光用のグラスボートに乗ったあと、下船の折に操舵室にて船員さんに手短に尋ねた。約18トンの船(かなり大きい。50以上の観賞用座席があった)とのことであるが、それでも吃水下は「せいぜい1mぐらい」とのこと。グラスボートであり、船底は平らであることも多少関係しようが、しかし同様の工夫は容易に発想・実装し得るものであり、例外と掲げることもなく、やはり吃水下は1m程度なのであろう。
こうして見ると、水深1m以上あれば100石積み程度の丸子船も航行可能であり、それは即ち同程度の大きさの船も航行できるということが推測できる。水深1m。あくまでも船の大きさによるが、遡行限界を考える一つのキーワードと言えるかもしれない。今後巨椋池をとりまく水上交通を考える上で参考となるであろう。

巨椋池周辺の水深

現在、確実な巨椋池の史料の資料として挙げられるのは、「巨椋池干拓誌」第二編第一章第一節の二「水深および水位」である。それによると、「実測の結果、池内の水位は(筆者注、標高)最高13.6米、最低10.71米の間において変化し、平水位は大阪湾中等水位上11.42米」という。
また「池底高とその面積」という表によれば、池底高(標高)10.0mが16.8%、10.5mが61.0%、11.0mが22.2%、とする。ただしこの面積区分の詳細は端数処理等を含め不明である点は注意しておく必要がある。
これがどの時点での数字かは明記されていないが、「巨椋池干拓誌」の作成意図からすれば、巨椋池終末期のものと考えるのが妥当である。
さて、この数字から、ふたつのことが指摘される。
ひとつには、水位変動の大きさである。単純に引き算をすれば、最低水位と最高水位では2.89mもの格差がある。もちろんこれは最大格差であり、平生の変動幅はこれより遥かに穏やかなものであろう。それがどれぐらいか、目下参考とするべき資料すら持ち合わせていないが、他の湖沼の資料と比較すれば、おおよその様子を想像することはできると思われる。
もう一点、仮に先の面積区分を用いるならば、先の平水位標高11.42mの状態において、水深0.92m以上の面積比率が実に77.8%に及ぶことである。
水深0.92mを示す比率がこのうちの61.0%を占めることには注意せねばならないが、仮にこの61.0%のうち半分がようやく同レヴェルもしくはそれ以上だと仮定しても、その比率は30.5+16.8で46.8%になる。本稿前段における遡行限界の推定からすれば、巨椋池の約半分近くは平水位において航行可能であったことになる。あくまで平水位であり減水時はこの限りでないことは言うまでもない。また現存しない湖沼が対象であり、まさに机上の空論であることは否まない。ただ、知る限り唯一の数値的史料であり、やはり全く分析しないというわけにはいかない。同時に、私のイメージのなかで、少しずつではあるが、巨椋池に船が浮かび出した。

巨椋池の生物環境考〜「雍州府志」土産門を題材に〜

では、古よりこの水深であったのであろうか?
二つのポイントを掲げておきたい。
まず第一に、巨椋池そのものが時と共に埋まり行く存在だったことが想像される。それは河川の堆積作用という自然の摂理がこの巨椋池においても当然はたらいていたと考えられるからである。堆積の速度は一般に極めて緩やかであり、目に見える変化があるとはあまり考えられないが、付近の粘土層が1000年で1mの堆積速度という指摘(宇治市史)もあり、全く無視するわけにはいくまい。巨椋池にとって堆積1mは十分大きい。
第二に、秀吉の土木工事による巨椋池の流水変化を挙げておきたい。なかでも、小倉堤の築造・宇治川河道の変更は、無視すべからざる、大きな出来事である。即ち、それまでむしろ宇治川の一部としての巨椋池であったものが、宇治川から切り放されたのだ。それにより、周辺部からの自然涵養以外に受水の途を絶たれた。そのため淀川より水位が低くなる自体すら生じ、本来排水側である淀方面からの受水さえ生じることがあったと言われている(「巨椋池干拓誌」等の言う「逆流デルタ」はこれに起因する)。
こう見ると、特に秀吉以降の時代においては、巨椋池の水深は基本的に低下の途をたどったと推測するのが妥当である。
しかし、史料的な裏付けを現段階ではまだ行えない。それを直接指し示す史料の有無すらまだ知り得ていない。ただ、そんななかでも、全く別のアプローチによって、補強できはしないかとも考えている。
それは、「生物環境としての巨椋池」に対する考察である。
少し大仰な言い方だが、そこに住む生物から、朧気ながらであってもその土地の様子を復元できるのではないか、というアプローチである。そして、その中から、水深に関するヒントも見つかるのではないだろうか。
試みに、黒川道祐「雍州府志」(貞享三年刊)の「土産門」に記載されている動植物のうち、巨椋池周辺にその捕獲もしくは生息場所を求めるものを見てみたいと思う。

[魚類]

*「鯉魚」…
「所々に之れ有り。其の中淀橋下の産する所勝れりと。是れを淀鯉と称す。(下略)
鯉は非常に馴染みの深い魚であり、淡水中ならばどこにでも生息していそうな感すらある。
ただ「原色日本淡水魚図鑑」(保育社, 全改訂1983、以後「淡水魚図鑑」)によると、産卵場所は「水の停滞した川岸など」とし、子稚魚の生活様式としては「水草の多く生えた止水を好み」、成魚の生活様式としては「中流域川ではの大形の淵にだけ生息し、下流域や池沼では全面に、湖では沿岸部に生息」するという。基本的にはあまり流れのないところを好むようである。
史料中淀橋の下というのはどのような「下」なのか不明である。淀といえば、明治初期まで宇治・木津・桂三川の合流点として水流は複雑であったように想像できるのだが、実情がどうであったのか、頭から決めてかかるのは危険かもしれない。
*「饅まん魚」…
「近江国勢多の産勝れりと為す。其の下流宇治川之取る所亦た義なり。其の形肥大なるを以て宇治丸と称す。(下略)」
宇治川において鰻が得られるというのは、正直意外な感じもする。ここで言う宇治川が正確にどの部分を指すのか不明である。ただ、「勢多の下流」として認識される「宇治川」であることだけは間違いない。鰻は海から川へと遡上する。「淡水魚図鑑」によると、関西以西では2月から3月、水温8〜10度で遡上するという。淡水で5〜12年過ごすとされ、本史料で鰻はまさにその時期のものであろう。生育条件には、「水の暖かい場所」が必要で、また水質変化にかなり弱いようである。今は全く往時の面影をたどることの出来ない宇治川の様子を偲ぶ一手にはなるまいか。また巨椋池を考察する上において宇治川は深い関係を持つものであり、他の時代の記録に宇治川の鰻が登場するか、興味のあるところである。
*「鱸魚」…
「河海共に之れ有り。宇治川の産する所、河[魚戸]と称す。特に珍味と為す。今按ずるに延喜式山城国の贄に鱸魚と有り然らば則ち古より之を賞するものか」
一見して魚が思い付かないが、漢和辞典によれば「スズキ」に該当する。スズキというと海の魚というイメージが強いが、史料にもある通り、淡水海水共に生育する。夏場に遡上するものがあり、冬期は一部を除き海へ戻るという(「淡水魚図鑑」)。それ以上の詳細は分からず巨椋池の復元にあまり役立ちそうもないが、延喜式に関する記載は時代を遡るため興味深い。注意しておくことが必要であろう。
*「鰕魚」…
「(前略)湯にて煮、丁沸すれば則ち其の色朱の如し。(中略)凡そ淀川伏見の沢厳冬に至りて柴薪を水中に積む。魚寒を避けて其の内に入る。簿(?)を以て之を囲み、又網を下し之を執る。是を下木魚と謂ふ。立春の後水漸く温む故に魚聚らず茲に於て止む(下略)」
鰕は蝦であり、則ちエビである。漢和辞典によれば、鰕は大山椒魚をも意味するようだが、煮ると赤くなるというからには、やはり素直にエビと見るべきであろうとも思われる。
ただし、「鰕魚」というのが判然としない。
深く考えなくても良いのかもしれないが、エビを指す普通名詞なのか、それとも特定のエビの種類を示すものか、目下不明である。
なお史料中に捕獲方法の記述がある。これがエビとどう関係あるのか。もしかしたら根本的に鰕=エビではない可能性もあるが、やはり「鰕魚」が判然としない以上、明らかにはできない。ただ、そういった「魚」の捕獲方法があったことだけは知ることができるであろう。

[植物]

*「蓴菜」…
「伏見の沢広沢大沢の池、所々に生ず。採り来て京師に売る。然るも伏見の産滑きて(?)之を煮ば則ち自粘汁浮かぶ。俗に銀と謂ふ言は、白色銀に似る之謂也」
「野草大図鑑」(北隆館、1990)によると、「水深1〜2mの池に生える水草」という。若芽を食用にする。また「水質汚染に弱いため、近年は山地や東北地方の池沼でしかみられなくなった」ともいう。水深そして水質共に、ある程度の基準を指し示す植物と言えよう。
ちなみに、「巨椋池干拓誌」ではジュンサイは生育しなかったとする。しかしこれはむしろ巨椋池終末期には見られなかったととるべきであり、同時に水質汚染等によって蓴菜が生育できなくなったことを示すと考えるのが適当であろう。
*「芹菜」…
「芹所々の河辺に生す。(中略)宇治よりのもの根長く白し。多くは其の葉茎を去りて其の白根を用ゆ。(下略)」
「芹菜」そのもので植物図鑑類には見えなかったが、素直にセリと見るべきだろう。春の七草の一。ただ、「葉を食用」とする解説(「改訂増補・牧野新日本植物図鑑」(北隆館、1989))、「若い茎と葉を食用」とする解説(「図説・花と樹の大事典」(柏書房、1996))に反し、史料では「白根を用」いるとする。全く別の植物である可能性は否定できない。
*「菅藻」…
「古へ宇治川に出づ。載りて万葉集に在り。今有るを聞かず。(下略)」
スガモと読める。しかし図鑑類によれば、海辺の植物に分類される。「古へ宇治川に出づ」というのが何を根拠にするのか、興味深い。
ただ、少なくともスガモが宇治川に存在したとは考えられない。別の何者かを誤解したか、全く誤った伝承があったか、もしくは菅藻=スガモではないかのいずれかであろう。
*「菖蒲」…
「伏見美豆に菖蒲多し。洛下端午用る所悉く斯の所より出づ」
図鑑類によれば、池等の岸辺や溝に群生するという。あまり深いところには育たないというニュアンスである。「端午用る」というのは、端午の節句に風呂に入れるという意味に疑う余地はない。京都の菖蒲湯を一手に引き受けたとなると相当の群生が想像できるが、風呂の数自体当時は今とは比べ物にならないほど少ないであろうゆえ、さほどのものではなかったかもしれない。
*「蓮藕」…
「近年所々洪水氾濫し伏見の南巨椋の塘下亦た沼沚と為る。故に土人専ら蓮を植ゆ。京師七月中元に用る所の蓮葉并に蓮華悉く斯の所より出づ。藕根も亦た之を採り四方に売る。其の花の開く日、近江の国支那に劣らず、遊人小?に棹さし其の間に遊ぶ」
冒頭、近年の洪水で巨椋池が再び沼地になった、という表現である。裏を返せば、近年の洪水以前には干上がっていたのだろうか? もし洪水によるものなら何故水がひいていかないのか疑問であり、少し突飛な気もするが、ただかなり水嵩が下がっていた記憶が作者にあった可能性は捨てきれない。全く無視することはできない記載であろう。
蓮藕は則ちハスである。近代においても巨椋池のハスは有名であり、史料中に見られるような蓮見の舟遊びの写真も残っている(「目で見る南山城の100年」郷土出版社、1995、等)。
草津市立水生植物公園みずの森へ訪れた際、職員の方に伺ったところ、ハスの生育環境と水深との関わりは、深限界を2〜3mとするとのことである。
実際同館の隣にある烏丸半島ハス群生地では、湖岸から沖のほうへ生えるハスの限界ラインが水深2〜3mで、ちょうどハスが途切れるところから水深が増すとのことであった。一方の浅限界は「水気があれば田んぼほどの水深でも十分育つ」とのことである。同館敷地内に試験的に浅水深(見たところ10cm内外)で育てているところもあり、ハスの存在からは深限界のみが推測できることを知り得た。このことが直ちに巨椋池の環境をはかるうえで役立つとは言えないが、もしハスの分布範囲を示すことができるとすれば、深水深部においてはその限界ラインから水深を推し量ることができるかも知れない。しかし非常に困難であることは間違いなかろう。

以上、「雍州府志」土産門に見える、巨椋池と関わりのありそうな各動植物についていささかの考察をしてみた。
ハス以外に関しては図鑑類受け売りの、付け刃的考察であることは否定できない。また、一史料のみに依拠する不完全なものであることも否めない。
ただ、こうした学際的考察の積み重ねも決して無意味ではないと考える。
以上の動植物の考察をまとめてみると、次のようになる。

  1. 水質は良好であったこと
  2. 水深1m〜2m程度の場所があったこと
  3. 水深をはかるのには植物(ジュンサイ等)の生息範囲を使用し得ること
  4. 巨椋池が京都へ恩恵をもたらすことがあったこと

紙面の割には得るものが少なかったが、第一の水質の問題は「巨椋池干拓誌」がその著述時点で振り返って「死滅湖」と称していたのとは好対象である。
水深については、残念ながら今回の考察から分かることは少なかった。「巨椋池干拓詩」時点との水位の違いも明らかに出来たとは言えない。ただ、植物等の生える場所によって推測し得る可能性は否定できないであろうし、今後の課題の一つになってくることだろう。

終わりに

「船」と「水深」、そして「動植物の生息環境」を柱に述べてきた。取り留めのない記述にもなってしまったようにも思うが、現段階において、近世・近代において巨椋池での船運が不可能ではなかったであろうこと、「雍州府志」当時と巨椋池終末期ではその水環境が異なる可能性が大きいことは言えるように思う。
現状における考察はここに留まるが、こと水深を含めた巨椋池の自然環境については、他の史料からも考えることができるであろう。時代を越えて史料の探求と考察を行っていくなかで、次第にその様子が明らかになっていく可能性もあり、今後ともこうした動植物等に関わる史料には注意していきたいものである。
その中から、船運や漁業等の史料を考察する際のヒントが見つかるかも知れないと考えている。

末辞ながら、本稿執筆には図鑑類など他分野の成果を多く利用させていただいた。また、草津市立水生植物博物館の職員さん、大王町・○い大敷さん、白浜町グラスボート船員さんの言に得るところが大きかったのは言うまでもない。改めて、お礼申し上げる次第である。



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