南山城の古代の特徴のひとつに、人々の出自の多様性がある。
地名に残る痕跡からもそのことがうかがえよう。例えば、相楽郡の精華町の北部や山城町の南部には「狛」と名のつく土地がある。これは、音からして「高麗」、つまり朝鮮半島からの渡来人たちが住んでいた里と言われている。
同志社大学・田辺校地の南側に広がる普賢寺谷は、一説に日本における養蚕発祥の地とされ、また筒木を訪れた仁徳天皇の后・磐之姫は渡来系人の家に身を寄せた際、養蚕を目の当たりにしていると思われる。このことは、大陸系の渡来人たちが山城・精華以北、田辺方面へと分布していた事実をさし示すものと言うことができよう。
田辺の渡来人ということとなると、大陸系以外で、もうひとつ忘れられない人たちがいる。それは、九州の南端、現在の鹿児島県からの移住者である。
JR学研都市線で同志社前から北へ約5分ほど行ったところに、「大住」という駅がある。この駅の周辺は大住の里と呼ばれるが、「おおすみ」の名から想像がつくように、九州・大隅半島からの移住者たちの末裔の里である。近年、古代の計帳などの記載により、この事実が確認された。
奈良時代に移住し、薩摩の阿多隼人とともに宮城警固にあたったとされる。そんな彼らの集落の南にあって産土神として鎮座しているのが月読神社である。
月読神を主神とし、伊邪那岐(いざなぎ)・伊邪那美(いざなみ)の二神を配祀するこの神社は、延喜の制においては大社に列せられたところからみて、少なくとも平安時代前期にまではその歴史を遡ることができると思われる。
この神社の例祭は、毎年十月十五日に催される。その折に奉納される舞は「隼人舞」という。残念ながら、私は実際にその様子を見たことがないのだが、大隅隼人が大嘗祭の時に奉仕した隼人舞の遺風を伝えるものだと言われ、現在は田辺町の無形文化財に指定されている。
ここで注意したいのは、「月」読神社で隼人舞が奉納される点である。言うなれば、自分たちの祈りを、隼人としての統合の象徴・隼人舞によって、「月」を象徴するもの対象に捧げるという構図が見えてくる。
隼人と呼ばれる人たちの文化は、「月」と「竹」に象徴されると言われる。彼らにとっての月と竹。これは彼らなりの世界観を象徴しているのかもしれない。
月というのは、周期性を伴いながら満ちてそして欠けてゆく。そんな月明かりは、人々が夜を暮らすうえで、まさに恵みの光と言うことができる。
また、隼人の人々は朝廷の諸行事に参加し吠声によって邪霊を鎮め祓う役を勤めていたという記録、また『後日本紀』記事中、首長クラスに比売・久売・波豆などという名前がみえるところ、きびしく屈葬された女性の遺体が鹿児島県で発掘されたことなどから、彼ら隼人を「巫女集団によって統合された呪力を持つ人々」と考えるならば、ますますもって月への信仰が深まる。つまり、「生み出す力」を持つ女性への信仰と満ち欠けを繰り返す月への信仰がオーバーラップしてくるわけである。筒城の里に移住した大住の人たちの産土神として「月」読神が祀られていることは、このことと無関係ではあるまい。
また、もうひとつ彼らの文化を象徴するのが「竹」である。
竹の性質を考えてみると、まず折れにくいことが挙げられる。雪の重みで曲がることがあっても、滅多に折れない。
それ以上に特筆すべきは、天へ向かって真っ直ぐのびてゆくことである。
ここにおいて、月と竹の間に関係が生まれる。つまり、信仰すべき対象である「月」を目指して、少しでも近づこうとして空を目指すのが「竹」なのである。
このように考えると、先に述べた月読神社における隼人舞奉納の構造が一層鮮明になってくる。竹に囲まれたあたりで、月の下僕として、祈りを捧げるわけである。
余談になるが、このあたりが「竹取物語」の舞台として、一説に筒木の里が挙げられているゆえんであろう。あくまでこれは私の推測の域を越せないのだが、「この世から去る者は、すべて母なる月へ還ってゆく」という考え方が彼らの人生観のうちにあったのではなかろうか。
月を信仰の対象とし、そして同時に彼岸として捉えていたであろう彼らの人生観。それは、「竹」という[垂直軸]を介して、[生み出す力]を象徴した「月」を指向した心象風景であった。
もちろん、それが彼らの自然観の裏返しであることは言うまでもない。
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