原稿【神功伝説のさと−興戸−】

初出:史跡同好会96年機関誌「さちかぜ」,1996。

今年は花冷えのおかげで、長いこと桜が楽しめますね。風に舞う花を眺めるというのも、それはそれでいいものです。

さて今回は、小シリーズ「南山城のまち」の第2回として『興戸』をとりあげます。(1回目は昨年三山木をとりあげました。「やましろのくに」第10回)

《神功伝説のさと》

〔興戸ってどこ?〕

「興戸」ときいて、まずみなさんの頭に浮かぶのは興戸駅でしょうね。通学生の方、そして遠隔下宿の方は大概この駅を使われるようです(私は三山木派でしたが)。
興戸駅は比較的新しい駅。不覚にも調べてはいないのですが、多分ここ一世代ぐらいの歴史しか持ってません。しかも、興戸地区の端に位置しています。興戸駅利用者の構成は、トップに同志社関係者が来るのは当然として、次位は興戸の東・草内の人々でしょう。
ここで何が言いたいかというと、「興戸駅のあるあたり=興戸地区ではない」ということ。実際にはもっと北西部に広がる集落が興戸なのです。
集落の構成は、北は警察署のあたり、南はJR同志社前駅付近まで。東は興戸駅の東側で草内と交わり、西は山手へと伸びています。興戸地区を二分するかのように防賀川が流れ、東方には近鉄とJR学研都市線が南北に貫いています。

〔地名の由来〕

「興戸」という字面からは、由来となりそうなことを想像できません。戸が興るというのも変ですし、興る戸というのもしっくりきません。
こうした場合の地名由来を探るには「音」という要素を考えることになります。…となると、「こうど」ですね。
『綴喜郡誌』をひも解くと、そこんなことが書いてあります。(『京都府の地名』から引用)

「──古史に、応神天皇の御世に、百済の酒人・須々許理等帰化して、大陸醸酒の法を伝ふ、(中略)是酒部の連の祖なりと云ふ、其後歴朝子孫世々此地に住居して其業を墜さざりしは明なり、此に由て之を観れば、酒人は「サカウド」と呼び、後「サ」音の省れて「カウド」となり、之に漢字を用いて興戸となせしには非ざる乎云々」

つまり、興戸には酒人(杜氏のこと)が昔から住んでいて、「酒人」『さこうど』の里と呼ばれていたものが、いつの頃からか『さこうど』の『さ』が脱落して『こうど』になったのだろう、というのです。
あまりに出来過ぎた話のため、俄かには信じられないような気もしますが、少なくとも興戸で酒作りが行われていたことを推測するに根拠がないわけではありません。
厳密に論述しますと、多分2回ぐらいかかってしまうのでヤメておきますが、木津川中部流域は水に恵まれた土地柄なのです。
これは、地質に由来します。いずれ述べることもあるかもしれませんが、実は城陽や宇治田原、井手町・田辺にかけては、古瀬田川の中下流域にあたり、良質の砂質で構成されています。
山に蓄えられた水は、良質の砂を滲みて、やがて涌き出てきます。
時代を経るごとに、南山城の森は伐採され(両都からの木材需要のため)たので、今では水脈は細くなり、天井川が目立つばかりになってしまったのですが、酒作りには欠かせない良質な水が興戸にも涌き出ていたわけです。
興戸ではありませんが、三山木山本にはわき水が飲めるところがありますし、木津川の対岸・山城町には涌出宮跡があります。
閑話休題。興戸での酒作りを象徴するかのごとく西の山手に鎮座するのが「酒屋神社」です。名前からしても、少なくともお酒となんらかの関わりのある神社であろうことが推測できます。
祭神は津速魂命(つはやむすびのみこと)。代々酒作りを生業とする中臣酒屋連(なかとみのさかやのむらじ)が祖神であるこの神を勧進したものだろうと言われています。また、『酒屋神社縁起絵巻』によると、神功皇后が朝鮮出兵のとき、3個の酒壺を神社の背後にある山の上に安置して諸神を祀り、凱旋の後に社殿を建てて酒屋神社としたという伝説もあるそうです。

〔神功皇后と興戸〕

この神功皇后という人、仲哀天皇の后にあたる人で、息長宿禰王(おきなかのすくねのおう)の娘です。日本武尊(やまとたけるのみこと)ばりの活躍をした、との神話上の伝説を持つひと。 息長宿禰王の娘と書きましたが、この「息長」氏は、実は田辺と縁のある家なのです。
現在、おおかたの歴史学者が共通して認めうる最古の天皇は継体天皇といいます。彼は越前国から出てきて大和に入る以前、今の同大田辺のところで宮を構えたことがあります。(継体天皇の即位と筒木宮に関しては、昨年「やましろのくに」第3回『普賢寺谷をめぐる歴史考察〜継体天皇筒木宮〜』で詳述しましたので、そちらも参照してみて下さい)
この折に、継体の父方在所である近江から伴われてきた人たちのうち、普賢寺谷(同大田辺の南に横たわる穏やかな谷筋)に住みついたのが「息長」氏だったのです。直接関係があるかどうか断言できませんが、なんらかの縁があったと想像しても無理はありません。
神功皇后の伝説をひく故跡は、酒屋神社だけではく、興戸地区には ほかに「鉾立杉」「不違池」もあります。

まず、「鉾立杉」(ほこだてのすぎ)は、いわゆる「興戸の坂」の麓、ローソン前の交差点の近くにあります。石碑や解説版が立っているので、既にご存じの方もおられるでしょう。…ここは、神功皇后が朝鮮出兵の道すがら休憩した折に鉾を立てかけたという伝説のある杉です。似たようなもので、田辺地区には「鉾立松」があります。
また、「不違池」(たがわずのいけ)は、府道沿い、中央信金の近くにあります。池、というよりドブ沼と言ったほうが「ああ、あれか」と分かっていただけるかもしれません。田辺町にしてはぞんざいな扱いをうけているこの池、神功皇后が朝鮮出兵の折「必ずや凱旋して、この池の横を通ろう」と誓いを立て、事実そうなったという伝説を持っています。
鉾立杉にしても不違池にしても、旧山陰道に沿った立地である(長岡京遷都まで)ため、「なんらかのカタチで神功皇后がこの地を通った」と考えてもいいでしょう。
このように、酒づくりと伝説の里。それが興戸なのです。

〔興戸の推移〕

地方の悲しさで、既見史料が少なく詳しく述べるには無理がありますが、私が現在把握できている範囲で古代以降の興戸の様子について綴ってみたいと思います。

前出の酒屋神社にある石鳥居にこんな彫字があります。

「──山城国綴喜郡祖穀荘興戸村
正一位酒屋大明神御宝前」

これによると、興戸村が「祖穀荘」に属していたらしいのです。
でもただそれだけです。祖穀荘が一体なにものか記すだけの知識がありません。

戦国時代の事件としては、徳川家康の通過があげられます。詳しく述べるだけの史料が手許にないわけですが、かいつまむとこんな話です。
1582年。かの織田信長は本能寺で暗殺されます。ちょうどその頃、徳川家康は信長との謁見を終え、堺に遊んでいました。余裕かまして風流にひたっていたわけですが、そんな中、突如訃報が届いたのです。しかし「信長さまぁ、くくく」と泣いてはいられません。信長の臣下・家康は、いわば敗軍の将。敗軍の将というのは狙われるのが常。下剋上のならいです。
というわけで、家康の逃避行がはじまります。地元の岡崎まで帰るわけですが、その道すがら過程で興戸の谷を通っているのです。詳しいことは、いずれ一回使って述べてみようと思っています。
さて、史料として、近世の様子を知ることができるのが『山城国高八郡村名町』。250年ほど前の享保14年(1729)の史料です。
それによると、興戸は北興戸と南興戸に分かれていたことが見えます。

                          ┌  淀藩  178石余
                北興戸(656石余)┤
                         └ 高木氏領 478石

                         ┌  淀藩   97石余
               南興戸(121石余)┤
                         └ 幕府天領  23石

これを見ると、興戸がいかに細分化されて統治されていたかが分かります。たかだか600石ばかりの土地が三分されているのです。しかも、わずか23石とは言え、幕府直轄の土地が存在しています。
これは何を意味するのでしょうか?

「もともと小さな集落の集合体が興戸村を形作った」という答えも考えられます。

ただ、それでは天領の存在が説明できません。在地勢力である高木氏の領土となってもいいはずですが、敢えてそうなっていない。
──この天領問題を考えるには、まず「天領」そのものについて考える必要があります。ただ、詳しく述べる暇がないので、特徴的なエピソードをひとつ。

江戸時代、日本最大の外様大名といえば、加賀の前田氏です。加賀100万石というぐらい。加賀から能登にかけて、強大な勢力を誇っていたわけですが、実は海岸部や要所要所は天領だったんですね。
これを考えるに、天領のある側面として「危険分子に対して睨みを効かせ、反抗できないようにする」という意義があるようです。
綴喜という土地は「山城国一揆」に象徴されるように、「自主独立の精神」とでもいうようなものが高まった土地柄なのです。自主の精神が涵養され、そして生産力の豊かな場所、綴喜。そのなかで一拠点だった興戸も幕府にとって「要注意」なポイントだったことが想像されます。
もうひとつ、興戸の淀藩藩領期間が、藩主・稲葉丹後守正知の在任期間と一致することが特筆されます。そこからなんらかの意図を見いだせそうなものですし、きなくさいものが感じられるのですが、これ以上話を難しくしてもなんですから、ヤメときます。
その後の興戸は、明治7年に北興戸・南興戸が合併されます。田辺町制になって以降は、その一大字として現在に至るわけです。

というわけで、今回はあまりまとまりのないまま、田辺町大字興戸について外観してみました。読み返して見てちょっと難しくなってしまったことを反省しています。


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