原稿【普賢寺谷を巡る歴史考察 序】

初出:史跡同好会95年機関誌, 1995。

新入生のみなさん、ご入学おめでとうございます。また在校生のみなさん、春休みはいかが過ごされましたでしょうか。

不遜にも、私こと野村剛漢(ごうかんと呼んでやって下さい)は、今号から連載を開始させていただきます。まず、このコーナー「やましろのくに」は、千年の都たり得た京、そしてその周辺の歴史を地域学的・学際的な視点から散歩してみようというものです。なかでも、京都に近いがゆえに独特の歩みを見せた南山城地域を中心に述べてみようと思っています。

なおこの連載は、同大の学際科目として設置されている「南山城の古代」の影響をかなり受けることを予めお断りしておきます。この科目を登録したみなさん、講師方には内緒にして下さいね。

同女・生活科学部の方を除いて、みなさんは田辺キャンパスに2年ないし4年通うことになりますね。
新入生のみなさん、田辺は…どうですか? 期待に胸をふくらませて来たのに…と思っている方もいらっしゃるでしょう。その気持ちは良く分かります。正直なところ、ちょっとさびしいよね。
でも実は田辺町、そしてその周辺の地域というのは、有史以来、とても重要な役割を果たしてきた土地なのです。こんな南山城地域を見直していただけるような連載になれば、と思っています。

何も堅苦しく書き綴ろうとは思いません。歴史好きな人も、歴史なんてぜんぜん詳しくない人もご高覧いただけきますよう、よろしくお願いいたします。

前書きはこのあたりまでとして、そろそろ本題へと参りましょうか…。

〔普賢寺谷を巡る歴史考察 序〕

とは言っても、今回は本論に入る前に、当面の対象である普賢寺谷について記してみましょう。

ここで言う『谷』というのは「渓谷」のイメージではなく、ひとつの川が削りとった谷間のことを指します。言ってみれば、両側の山筋が迫ってさえいれば、川によって形成された平野部はこの意味での『谷』となるわけです。
地図は次頁を見ていただきたいのですが、この谷の大きな特徴は「懐が深い」ことです。田辺周辺は、いずれ書きますが「古瀬田川」の下流域にあたっていたため砂層が中心となっており、このためもあって谷は緩やかに長くなる傾向があるようです。普賢寺谷もこの例外ではありません。谷の奥行きは、同大田辺から西へ約5キロが穏やかな谷、そこからは扇状地を介して急峻な谷筋になるといったところ。普賢寺谷をかたちづくっている普賢寺川は、同大田辺から東へ3キロほどの地点で木津川と合流しますから、いわゆる水稲耕作に効率的に対応し得る谷(この基準には大きな問題があるでしょうが)の総延長は約8キロほどということになります。これは、木津川の支流の谷の中でも長い部類に属し、谷の幅も考慮に入れると最大級のものと言えます。雄大な谷筋です。

また気候に少々特徴があります。これは木津川の西の谷にほぼ共通する気がしますが、夏の風がなんとも涼しい。つまり谷風がけっこう吹くんですね。余談になりますが、昨夏「今日は暑いから三山木からバスで大学行こ」という私の決心はこの涼しい谷風によって何度打ち砕かれたことか知れません。三山木、特に平野部に下宿しているみなさんのなかには、クーラーなしでも過ごせる日もあるのでは? ただし反面で冬場も比較的風が強い。寒いです。このことは、のちに述べるいわゆる「渡来人」の問題と関わってくると思われますが、今は深く言及しません。
上の地図がこの普賢寺谷です。観音寺とあるのが、いにしえの普賢寺です。普賢寺自体も次週以降の記述の対象となりますが、今では国宝・十一面観音以外見るべきもののないこの寺。しかしその歴史的な意義は決して小さくありません。

初回ということもあって少々希薄ながら、普賢寺谷の紹介にとどめます。次週は、筒城宮の立地と普賢寺谷について述べる予定です。

それでは。


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