人間というものは、悲しいかな、実に弱い存在である。何かに頼ってでしか行きてゆけない。実態的依存もあれば、精神的な依存もある。後者は、いわゆる「信仰」とよばれるものである。
今回、戦国時代という激動の世の中を生きたある地方武士に的をしぼり、その信仰の様子を総合して、彼の信仰がどのようなものであったかに迫ってみることにした。歴史上のほんの一瞬の、一個人の信仰に過ぎないのだが、同時代の信仰を探るうえで一つの布石になれば幸いである。
今回的をしぼるのは、上井覚兼という武士である。
覚兼については、『上井覚兼日記』に関する解題(『上井覚兼日記』下解題、「大日本古記録」所収、昭和29年/斎木一馬「『上井覚兼日記』について」、『日本歴史』81号、昭和30年)に概略述べられているが、便宜上、最低限にとどめて紹介しておく。
先学によると、覚兼は、天文14年(1545)2月10日に大隅の上井村に生まれた。
永禄2年(1559)頃、元服して島津貴久に仕え、永禄四年、17歳の夏に初陣して以降、功績を重ねた。父から永吉郷(天文22年以降上井氏領)の地頭職を譲け、天正元年(1573)、29歳にして当時すでに守護職をひき嗣いでいた島津義久の奏者となり、鹿児島へ移った。よく義久に仕え、天正4年には老中に抜擢され、さらに同8年には大友氏から攻めとった宮崎の地頭に任命されて、佐土原に居した島津家久(義久弟)を助けて日向経営に参画するまでになる。嫡男誕生にめぐまれたのもこの頃である。
宮崎にあって、一領主でありながら同時にあくまでも義久の家臣であって、年に数回鹿児島の談合に参加し、また戦においても功を重ねた。天正13・14年と相次いで出陣遅延し義久に咎められたのだが、それとて理由あってのことであり、概ね奉公熱心な一家臣であったといえよう。
しかし、折しも豊臣秀吉の全国統一の目前であり、その波は南九州にも及んだ。そして天正十五年初夏、義久が秀吉に屈すると、鹿児島そして伊集院へと移って、隠栖生活に入る。義久より労いの書を賜ったのが慰めであるが、失意のまま天正17年6月12日、伊集院において他界した。年、45であった。
この覚兼が書き連ねたのが、『上井覚兼日記』(以下『日記』)である。
詳しい解題は参考文献(『上井覚兼日記』下解題、「大日本古記録」所収、昭和29年/斎木一馬「『上井覚兼日記』について」、『日本歴史』81号、昭和30年)の通りであるが、『日記』を用いる上において、最低限触れておかないわけにはいかない。
現在伝えられている『日記』は、実は完全なものではない。天正2年8月1日にはじまり天正14年10月15日まで、約12年に亙る日記であるが、実際に現存するのは、(1)天正2年八月1日から天正3年4月24日まで・(2)天正3年11月1日から同月28日まで・(3)天正3年12月8日から同月27日まで・(4)天正4年8月16日から同年9月5日まで・(5)天正10年11月4日から天正11年11月30日まで・(6)天正12年1月1日から天正14年10月15日までの、各期間の日記である。なお、上記のなかに、更に2日ほど記載のない日(天正2年閏11月12日および天正12年8月14日)が存在する。
(1)と(2)の間には約六ヶ月、(3)と(4)の間には八ヶ月、(5)と(6)の間には約一ヶ月の空白がある。(4)と(5)の間に至っては、5年二ヶ月もの長きに亙る空白期間がある。(2)と(3)の間は約十日間程度と、多忙等の事情により実際に書かれなかったと想像できるものであるが、それ以外の空白はむしろ日記そのものの散逸によるものと考えるのが妥当である。
これほどまでに散逸が多いと、日記の起筆と断筆の時期も勘案する必要がある。
起筆された時期については、先学では現存するものより若干遡るであろうという(『上井覚兼日記』下解題、「大日本古記録」所収、昭和29年)。即ち、天正元年頃、即ち覚兼が奏者になったころであろうとする。
一方断筆の時期であるが、これも先学の通り、現存最後の天正14年10月15日以降も引き続き書かれたと推測するのが妥当と思われる。それまで、出陣中を含めどんな状況であってもほとんど筆を置かなかった覚兼である。天正14年10月15日、つまり出陣中といった重要な時期に突如として筆を置いたと考えるのには無理がある。起筆が事実上の出仕始であるとするなら、断筆するほどの転機は天正15年の隠栖であろうと推測することができるが、あくまでも推測の域を脱しない。
『日記』の性格は、大きな空白、即ち上記(4)と(5)の間で大きく異なる。これは、この間に転機があったからで、それは即ち「義久の奏者」から「宮崎城主」への転身である。
奏者の頃(以後「鹿児島時代」)、即ち上記(1)(2)(3)(4)の日記は、概ね出仕に関する記載であり、半ば勤務日誌といった様相を呈している。出仕と付き合いの記述に終始し、きわめて個人的な出来事に対する記載は少ない。
一方、宮崎城主に就いて以降(以後「宮崎時代」)の覚兼が記した『日記』は、まず第一に、仕えられる身としての記述が多くみられるようになる。もちろん、城主としての仕事ぶりや付き合いに関わる記述も大半を占めるが、鹿児島時代の「出仕如常」の言葉に顕される、まさに「仕える」といった態度からは大変な変容であると言える。また、生活に余裕ができたというべきか、個人的な記載も多々見られるようになる。
以上、『日記』には今までに述べたようなような性格を包含することを把握した上で、彼の信仰について見ていくことにしたい。
なお、覚兼の自発的信仰の日々に着目して独自に作成した別添の各表を参考にしつつ、書き進めていくことを予めお断りしておく。
まず記しておかねばならないのは、本稿では、『日記』に表れた覚兼の生活の中における主体的な信仰を見ていくものであるということである。すなわち、現存部分の『日記』にすら書かれなかった覚兼の信仰については、知る由もなく、また仮に傍証史料によって補い得たとしても、それは『日記』中に書き残された信仰とは性格を異にする可能性がある。
なお、長い間信仰の日がなかった事実を覚兼自身の言葉で表している記述がある。肥後出陣中の天正14年8月13日の記事である。
「彼岸入にて候間、看経共申候、手負候て已後、始而数珠を取候也」
ここで言う「手負」とは、その前月末に筑前岩屋城を攻撃した際に傷を受けたことを指しており、少なくとも十四日間数珠を持たず信仰生活を送らなかったことについて、別段このように書き記しているのである。これは、覚兼にとって十四日間信仰を捧げないことが異常なことであるということを暗に示すものである。よって、平生において、十四日間程度信仰記事が見えなくても、実はその間にも信仰生活を送っている可能性はある。
現存する記事だけで彼の信仰すべてと考えるのは危険である。それを承知の上で、やむ
を得ず、『上井覚兼日記』として活字本にて出版された、現存する『日記』を参照の基盤とする。
なお覚兼個人の自発的な信仰について考察するため、以下のように覚兼がその身分的・社会的な「立場上」見せた信仰については、その性格が大きく異なるゆえ、その扱いは個人的なものとは全く別なものととし、積極的に検証の舞台に立たせることは避ける。
・天正2年10月29日条
「高橋薬師へ御堂参被成候、御伴申候」
(義久等に伺候して寺社詣でをした場合)
・天正12年5月13日条
「従早朝衆中・寺社家之衆被来候、満願寺入御候、御酒持たせ候、参会候申候」
(覚兼が寺社関係者に挨拶を受けた場合)
以上の二点を表明して、まずは覚兼の信仰を概観してみることとする。
現存する『日記』は、全部で1780日に及ぶ。このうち、鹿児島時代は358日であり、宮崎時代は1422日になる。
このうち覚兼が一個人として信仰生活を過ごしたことを記す日は、総計308日である。
ここで注目すべきは、そのうち鹿児島時代の信仰日(以下、覚兼が主体的に信仰生活を送ったことが『日記』にみえる日に対して便宜上「信仰日」という言葉を用いる)は、天正2年・3年に4日ずつ、あわせてわずか8日を数えるに過ぎないという点である。
即ち、鹿児島時代の信仰に関わる記述は皆無と言ってよいほど少なく、大方宮崎時代に信仰面の記事が見られるということである。
これは、『日記』の書きざまそのものが、鹿児島時代と宮崎時代で大きく異なることが大きな要因とも考えられるが、詳しくは後に検証することとする。
また、全信仰日は、大きく以下のように分類することができる。
さらにそれぞれのうちでも、
に分けられる。信仰の対象名を記しつつも、
にも分けることができる。
『日記』中、明らかにされた信仰対象は、地蔵菩薩・観世音菩薩・毘沙門天・薬師如来・虚空蔵菩薩・釈迦如来・天満天神・荒神・権現・及び一部の社寺(順不同)等である。
以降、信仰に関するキーワードを横糸に、それぞれの神仏に対する信仰の様子を縦糸として、覚兼の信仰に迫っていきたい。
まずは、『日記』中しばしば見られた「別而」信仰した日々を整理しておきたい。
『日記』中、宮崎時代の信仰日300日中、162日にこの「別而」の二文字を見いだすことができる。この日には、(a)彼がある特定の神仏に対して、(b)もしくは何かしらの節目に触れて、信仰を捧げたことを意味している。
もっとも、特定の対象を具体的に明記しているものもあれば、何も書かれておらず(a)(b)どちらに対する「別而」かすら判然としないもの(c)まで存在する。
些か例を挙げれば、
・天正11年4月12日条(a)
「薬師如来に別而看経共申候」
・天正11年4月23日条 (b)
「今夜月待之間、読経等別而仕候」
・天正11年4月28日条(c)
「看経・読経等別而勤候」
の如くである。
(a)の信仰対象に対する「別而」については、それぞれの信仰対象について触れる折に考察することとして、(b)のような場合に書かれた「別而」について、若干触れておく、
現在残る『日記』のなかでは、覚兼にとって「結夏」「月待」「彼岸入」「誕生日」が「別而」信仰すべき節目であったと考えることができる。決して多くは見られないものであるが、これらの日々が信仰を促すものであったことは言うまでもない事実である。
次に、もうひとつ信仰記事でしばしば見られる「読経」「看経」する日々を整理しておきたい。
『日記』中、宮崎時代のみに見え、その信仰日300日のうち、実に210日に「読経」もしくは「看経」の文字が見られる。残る約90日も、大方「祈念」「念仏」で占められ、「参」もしくは「参詣」などのせいぜい36日に過ぎない。
なお、「読経」と「看経」は、微妙に意味が異なる。詰まるはところは声を出すか出さないかである。
『日記』中には、例えば「読経」「看経」という言葉の初出になる天正11年閏正月1日の記事には、「看経・読経」の両者が並立して記載されている。このように並立は以後もしばしば見られるが、これは即ち「読経」と「看経」を意識的に使いわけていたためと考えられる。
「読経」「看経」については、一概にどちらのほうがより一層深い信仰態度なのか判断するのには大きな危険を伴うので、ここでは敢えて見当しないこととする。
なお、具体的に何を「読経」「看経」したのかについては、後に考察することにする。
それでは、実際に信仰対象の名前が明記されている場合の信仰の様子はどうであったのだろうか?
先学では片鱗のみ触れられているが、それを補完すべく、『日記』の信仰記事に実際に名前を見いだせる神仏について個別に考察し、その他雑多な信仰記事について補った上で、それらを総合することとしたい。
『日記』からは、観世音菩薩に次いで多く見いだすことができるのがこの地蔵に対する信仰の日々である。鹿児島時代に一日、宮崎時代には天正11年2月以降32日を数えることができる。
そのうち、地蔵菩薩に対して「別而」信仰を捧げた日々は、26日に及ぶ。
その信仰日の一覧は別表の通りである。
「地蔵菩薩」に対する表記は、以下の通り。
である。覚兼個人の信仰ではなく単なる記事としては、「勝軍地蔵」の文字がもう一日見られるほか、「六地蔵」も見つけることができる。
ここで注目すべきは「勝軍地蔵」「勝軍」「愛宕」といった表記である。
勝軍地蔵については、森末義彰氏の「勝軍地蔵考」に詳しいが、祈れば戦場での危機から救われるとされる。氏は『日記』のうち、肥後出陣中の天正13年閏8月24日、肝付兼寛より、中央に毘沙門・上に勝軍地蔵・左に飯縄明神・右に十一面観音・四隅に四天配した念持仏の画幅が覚兼に送られたことに触れ、覚兼の勝軍地蔵への信仰を述べておられるが、実際にはもっと主体的に、自ら「勝軍地蔵」「勝軍」「愛宕」に対して祈る日々が少なくとも3日あったということであり、実は「勝軍」の二文字が書かれなかっただけで勝軍地蔵へ信仰をささげた日々が残る30日のなかにもあったかもしれない。むしろ、戦国時代という背景、また「勝軍地蔵」「勝軍」「愛宕」への信仰が必ずしも出陣中であったとは言えない(出陣中の記載は、天正14年8月24日、八代在陣中の「勝軍之祈念、別而申候」のみ)ことを考えれば、実は勝軍地蔵への信仰が専らであって、覚兼にとっては特筆すべきことではなかった可能性すら考えられる。
さて、覚兼がどこのどんな地蔵に対し祈りを捧げたかという疑問が湧くのであるが、残念ながら『日記』からはほとんど読み取られない。前述の、肝付兼寛より贈られた絵仏は画幅であって持ち運びに便利であるため、贈られて以降はこの画幅、そのなかでも勝軍地蔵に対して祈ったということも推測できる。
ただし、そうなると、同画幅に描かれた他の仏たちへの信仰との絡みを無視するわけにはいかない。中央に描かれた「毘沙門」については、あとで触れるように名前をあげて祈る日々が天正十三年閏八月以降も見られるので無理はないが、他の飯縄明神・十一面観音・四天については、その名前が見えない。また、「毘沙門」だけを可能性として留保しても、「勝軍」に祈念した出陣中の天正14年8月には覚兼は毘沙門へ祈りを捧げていないのである。勝軍地蔵と毘沙門の両信仰の間に関連は見いだせず、これらがひと組になった画幅をもって、平生から祈りを捧げていた実態的な対象と考えることはできない。
他に注目すべきは、天正14年9月24日条において、地蔵に対し何を願っているのか明記していることである。引用すると、
「払暁より地蔵菩薩へ、現世安穏・後生善処祈念申候也」
の如くである。「現世安穏」から「後生善処」まで、三世において願いを捧げうる対象両者に亙り祈っているわけであって、地蔵に対しては、その救済に全幅の信頼をおいていたと考えることができる。
さて、地蔵菩薩へ信仰した日は33日であるが、実は全てに共通する点があるのであって、それは月ごと、24日である点である。
24日と言えば、地蔵菩薩の縁日とされる日であって、今でも京郊内外では8月24日を意識して地蔵盆が執り行われている。この縁日に限って信仰する、少なくとも信仰記事を書くということは、実は他の信仰対象にも見られることであって、以降、それぞれの対象について述べる際にも触れつつ、のちに考察を加えることとしたい。
『日記』のなかでは、もっとも多く見いだすことができるのがこの観音に対する信仰の日々である。鹿児島時代に3日、宮崎時代には天正11年閏正月以降39日を数えることができる。
その信仰日の一覧は別表の通りである。
観音に対する信仰で特徴的なのは、どこかへ赴いて観音に「参る」もしくは「詣でる」という態度が散見されることである。
鹿児島時代には、谷山の慈眼堂観音の通夜に赴いている。
宮崎時代になると、「御崎」の観音に「参る」という記事が見られる。この「御崎」は、天正13年正月22日の記事(「早旦日之御崎観世音へ参候」)に見えるように、正確には「日之御崎」と言ったようである。現在は「戸崎鼻」といい、宮崎市内折生迫にあって、日向灘に突出した小さな岬である。
宮崎市街からは直線距離にして15キロ程度。宮崎城主としては、そうそう気軽に行くことができないまでも、折に触れて参詣するには無理のない距離である。また、前述の通り、父母の居城・紫波洲崎城の近くであるという立地は、覚兼の「御崎」参りにとって全く無関係だったわけではなかろう。
というのも、『日記』によれば覚兼が「御崎」の観音へ「参る」時、例外なくその前後に紫波洲崎に立ち寄り、少なくとも父(既に天正元年頃薙髪し『日記』中には「恭安」として見られる)と面会していることが明らかであるからである。しかも、天正14年2月11日を除き、いずれも出陣前後か鹿児島帰りである。折生迫の地へ赴いた理由として、御崎観音参詣と父への折々の挨拶の両方の側面があったことがこれより推測できるのだが、父母への挨拶の折に機会を得た参詣が多かったのであろう。
観音へ「参る」記事としては、御崎以外に鹿児島の「上之山観音」へ詣でたという記事が天正12年6月17日に見える。
もう一日、天正11年閏正月18日は「看経等如常、観世音へ堂参候」とするが、この日には他に何処へも出かけたという記事はなく、また前後に紫波洲崎へ立ち寄った形跡もないため御崎観音とも考えられず、判然としない。当日は来客の記事があるため、宮崎城から大きく離れない範囲内の観音堂であろうとは推測できる。
これら「参る」日は、後に触れる社寺詣でと併せ非常に重要なものであるが、それ以外にも覚兼は観音に祈りを捧げている。
「読経」「看経」等の言葉を用いて、その日々をつづっている。
なお、肥後出陣中の天正14年7月18日には「観音に祈誓等如常」とある。この「祈誓」の二文字は他では見られないものであるが、これは覚兼がその時置かれた立場を如実に表していると考えられる。この直前にあたる同月7日には出陣遅延により義久の勘気を被り、16・17日に亙って義久の使者に詰問されている。覚兼にとっては、日向のことを思えばこそ出陣を留まり、豊後に対して警戒したわけであるから、自分の中に一点の曇りもない。自分には決して二心なきことをこの日観音に祈ったことが「祈誓」の二文字で表現されているように思われる。その対象がなぜ観音であったのかという疑問が湧くが、それは今から述べる「観音に参る日」である18日が至近だったという単純な理由だったことも考えられる。
さて、ここで観音へ信仰が捧げられた日にちを見ておきたい。
観音に対する全信仰日42日のうち、18日に31日、17日に3日、あとは2・7・8・11・22・24・28・30日にそれぞれ1日ずつである。18日が縁日と比定されるためであろう。2・7・8・11・22・24・28日は御崎詣であって、縁日とは関りなく参詣されている。30日は天正14年3月のものであるが、これは寺僧を請じて観音経を読ませたものであり、覚兼の発願ではあるが、ほかの信仰日とは性格を異にする。
残る17日であるが、これは少々興味深い点がある。それは、天正2年11月17日から18日に亙って、観音の「通夜」へ赴いていることである。夜通しの祈りであるわけでが、これが観音の縁日における信仰形態としてしばらく追跡できるように思われる。
まず第一に、17日と18日という、連続した2日間に信仰日があること。
第二には、18日の信仰の記録には、「払暁」「早朝」「早旦」という言葉が散見される点である。実はこれらは観音に限って見られるものではないが、少なくとも観音もしばしば早朝に祈られることが知られるわけであり、またそれが18日早朝である点には注目しておきたい。
特に、天正13年5月13日の記事に「夜中より」という枕が見られる。旧暦の5月であるから日の出は早いのだが、それでもなおかつ「夜中より」祈られていたということは、「通夜」に近い、深夜から執り行われる信仰があったということを示している。
毘沙門に対する信仰も、『日記』から多く見いだすことができる。
鹿児島時代に1日、宮崎時代には天正11年閏正月以降28日を数え、あわせて29日である。うち、「別而」毘沙門へ信仰した記述があるのは19日である。
その信仰日の一覧は別表の通りである。
覚兼が毘沙門に祈りを捧げたのは、これも例外なく「3日」である。3日を毘沙門の縁日とするといった話は聞かないが、今後とも注目するに値する。
毘沙門に対する信仰で特筆すべきは、毘沙門堂の存在である。斎木一馬氏も「上井覚兼日記に就いて」で触れておられる通り、その造営は天正11年夏である。詳しくは、天正11年4月19日に起工し、翌5月3日に竣工、木花寺(海江田、現宮崎市加江田)より寺僧を請じて翌日に亙り修法させている。その毘沙門堂が建てられた場所については『日記』頭注及び斎木氏も述べられているように、宮崎城内と考えるのが妥当であろう。
毘沙門堂が建立されて以降、出陣中の場合(天正11年9月・10月、天正12年5月・10月、天正13年9月・10月、天正14年9月)を除いて、この毘沙門堂において祈っていたものと推測できる。
この毘沙門に関しても、記事の見えない月であっても、持仏堂等において、折に触れて信仰を捧げていた可能性はあるであろう。
地蔵とならび、薬師如来の名も『日記』のなかで多く見られる。
鹿児島時代には「御共」として高橋薬師へ参詣している記事のみであり自発的信仰を扱おうとする本稿にはなじまない。一方、宮崎時代には天正11年閏正月以降34日を数え、その信仰日の一覧は別表の通りである。
なお薬師に対して「別而」信仰を捧げた日々は、全34日中27日である。8割近い割合であり、名前を挙げる全信仰のうちでも最も高い頻度で出現している。
薬師に対しては、ほぼ「読経」または「看経」もしくは「祈念」するといった信仰態度である。ただし、若干の例外はある。
まず天正11年6月8日の条には、
「薬師如来へ看経・堂参等如常」
と見える。「堂参」とされている点に注目したい。もっともその御堂が具体的にどこのものなのかは判然としない。
よって、それ以外の日の読経・看経・祈念も、特定の御堂における信仰なのかどうか判然とせず、出陣中は堂参など不可能ゆえ例外にするとしても、いずれでもある可能性を包含しているということになる。
天正14年3月15日の条にも、
「早朝薬師へ堂参仕候」
とあり、「堂参」の文字を見いだせるが、前日の条には
「此晩浄瑠璃寺へ留候」
とあり、この折の「堂参」は、浄瑠璃寺(海江田、前出)泊まった折薬師堂へ参詣したものであると考えることができる。
なお、覚兼が薬師に対して祈りを捧げた日にちは、8日・12日・15日であり、それぞれ10日・23日・1日を数える。
このうち、15日とは前述の浄瑠璃寺におけるものであって、他の日々とは些か性質を異にする。
よって、薬師に対する信仰日は8日・12日であると一般化することができるが、そのいわれについては思い当たるところがない。
それにしても、本来薬師如来に対する信仰は、治病の現世利益を願うものであったはずである。もちろん、覚兼も折に触れ祈りを捧げるが、彼の健康状態を考えると、もっと藁をもつかむほどの信仰であったとしてもおかしくない。なにしろ、鹿児島出府や出陣を免除して欲しいと願うほどの痔病に悩まされていたのだ。対象を明記しないながらも薬師に祈りを捧げる日は他にもあったかもしれない。
その徳があまりにも大きいというところから「虚空蔵」という名である虚空蔵菩薩であるが、その信仰は、別表の通り『日記』からはわずか3日を数えるに過ぎない。
なお、信仰を捧げた日付は全て「13日」である。これは、近年まで東寺観智院においても「十三参り」が行われていたように、虚空蔵の縁日である。
天正12年から14年にかけて、月は違うものの各年一日ずつ読経もしくは看経を捧げていることが分かる。うち二日は「別而」虚空蔵へ読経看経している。
釈迦如来に対する信仰は、宮崎時代の天正14年4月8日のみに見出すことができる。
4月8日といえば、釈尊誕生日、いわゆる花まつりの日であり、この折も覚兼が釈尊に対してその生誕を祝ったものであるということができる。
上に述べたとおり、『日記』の中に見られる釈迦に信仰を捧げた記事があるのはこの日のみであるが、この花祭りは、毎年4月8日に執り行われるものであり、この天正14年以外にも覚兼が花祭りに際して祈りを捧げていたという可能性がないとは言えない。しかし、現存する4月8日の『日記』全5日中、信仰日にあたるものは、この日だけである。
これから、仏ではなく神として崇められた対象への覚兼の信仰を見てみたい。
鹿児島時代には、天神への信仰への記事は全くなく、宮崎時代には天正11年閏正月以降22日を数えることができる。
その信仰日の一覧は別表の通りである。
なお天神に対して「別而」信仰を捧げた日々は、全22日中16日である。
天神に対しては、「読経」又は「看経」もしくは「祈念」するといった信仰態度であって、「参」「詣」といった例外は全くない。
天神に関しても、その信仰する時間帯を記している場合がある。4日に亘って見られる。ここでも、いずれも早朝であったようである。
覚兼が天神に対して信仰を捧げた日々は、全て「25日」である。京都の天神さんでも見られるように、この日は天神の縁日である。天神に対してもやはり縁日に信仰を捧げていることがわかる。
なお、覚兼個人の信仰ではないが、一つ特筆しておきたい記事が見受けられる。天正11年6月1日、折生迫(前出)の漁民が豊漁を願って天神社を建立している。ほかにも、天満天神と縁の深かった狩猟集落として、若狭多烏が挙げられるが、天神の利益として豊漁などといったものがあるとは思えず、どのような経緯で敢えて天神に祈ることにしたのか興味深いところである。
火の神として信仰されている荒神への信仰は、『日記』中、鹿児島時代に1日、宮崎時代には天正12年8月以降11日を数える。あわせて12日に亙る信仰である。
その信仰日の一覧は別表の通りである。
なお荒神に対して「別而」信仰を捧げた日々は、全12日中10日である。
具体的に信仰を捧げた荒神をあらわすことはできないが、鹿児島時代の天正2年11月28日の記事は「荒神へ参候」となっており、その日鹿児島にはいなかったのだが、いずこかへ赴いて祈ったであろうことが分かる。
覚兼が荒神に対し信仰を捧げた日々は、全て「28日」である。これは荒神の祭日としされているが、一般には不動明王の縁日として認知されている。不動明王と荒神の関わりについては、今後の研究を待たなければならない。
なお荒神に関しても、その信仰する時間帯を記している日々があるが、それらは「鶏鳴ニ」「早朝より」と、いずれも早朝である。
「権現」という名前を挙げて信仰を捧げている記事は、天正12年11月29日にのみ見いだすことができる。引用すると、
「当嶋権現ニ別而読経等仕候」
である。
ここでは、信仰対象が「当嶋権現」と記されていることに注目すべきである。
「当嶋権現」というある特定の権現の存在がまず考えられるのだが、この場合、じっさいには「当」・「嶋」権現、つまりその日覚兼が鹿児島に出府・到着するという事実と照合すると、鹿児島にある権現に読経したと解することができる。
実は以上に挙げたもの以外にも、対象を暗示、もしくは書き示している場合もある。
「読経」「看経」という表現が『日記』には非常に多く見られるが、「念仏」という表現の見られる日も存在する。具体的には、別表の通りである。
念仏というからには、阿弥陀如来に対して信仰を捧げたと考えるのが妥当であろう。しかし阿弥陀如来の名前を挙げた信仰記事は見られない。なお、斎木氏は前出論文のなかで、毎月15日阿弥陀如来へ信仰を捧げているとの旨を記しているが、その根拠は阿弥陀如来の縁日である毎月15日に多く「読経」「看経」しているという事実だけであり、実際には『日記』中に阿弥陀如来の名が挙げられておらず、また阿弥陀如来に対して信仰を捧げていると思われる記事がむしろ他の日付から見いだせるところから、間違いであるとまでは言えないまでも、氏の勇み足であった点は否めないであろう。
覚兼には、月待の折に祈りを捧げる日々があった。いよいよ月が欠けてゆく二十三夜待ちがいくつかある月待の形態の中で最も普及したとされるが、覚兼の場合も、二十三夜待だったようである。別表は、月待の記事を挙げたものだが、先に述べたように月待を「別而」読経している日がある。出陣中でも月待の折に読経・看経している日があることにも注目される。
月ごとに、それぞれ同じ日付に見られる信仰であるが、なかにはこのように対象が「神仏」ではない場合もあったのである。
「霊符」そのものについて、今までに知るところではないが、『日記』には以下のような記事がみえる。
・天正十一年九月九日
「霊符之祈念別而仕候」
・天正十四年五月五日
「霊符へ祈念別而申候」
この「霊符」については、『日記』索引には「北斗尊星王」であるとみえる。索引の注記という性質上その根拠が示されていない。その根拠を知りたいところである。
12月8日に仏名会に際して三世諸仏に祈念している記事が天正13年の同日に見える。もともと宮中行事であった仏名会をこのように名を挙げている点は興味深い。
ある特定の名前を挙げて、社寺に参拝する記事こともあったようである。別表の如くである。
なお、表中、五社とは、永吉領内のものを指し、また妙通寺もその近辺であろうと『日記』から推測できる。
宮崎時代に見られる木花寺・諏訪社・海江田社は、いずれも海江田の地のものが挙げられており、奈古八幡は海江田と宮崎の間にある南方の地にあった。紫波洲崎や日之御崎などへ向かう折の道中にあたり、その往復に立ち寄ることが多かったようである。
鵜戸は日之御崎よりも約18キロ南方にある日南市の鵜戸崎、現在も鵜戸神宮として残る社を指しているのであろう。帰路、伊比井(現日南市)を経て紫波洲崎へ向かっていることから間違いないと思われる。
白鬚社は、『日記』前日の記事により「野嶋」の地と推測できるが、それが現在のどこにあたるのか確定できない。ただ現在の巾着島(宮崎市南部)を「野島」と呼ぶそうで、また覚兼の前後の行動位置からもこの陸繋島である可能性が高い。
さて、表から推察するに社寺参拝はある時期まとめて行われているようである。後年は単独での参拝も見られるが、近接する日付の組み合わせが散見できる。これは、観音の項で挙げた御崎詣で同様、概ね鹿児島帰りか出陣帰りの時期であり、多少間があくことがあったにせよ、無事帰着したことを感謝してまわったのであろう。しかも海江田の社寺がほとんどであるのは、父のいる紫波洲崎へ赴き挨拶することも参詣旅行の大きな目的であったことが推測できる。
いずれにせよ、ある寺社へ参るという信仰も、覚兼の中では独自かつ確固たる地位を占めていたということができよう。
これまで、各信仰対象を軸に、その様子を見てきたが、ここからは『日記』全般に言える信仰の様子を見ていくことにする。
『日記』天正13年11月14日条において、覚兼及びその父恭安が法華持経者だったということが明らかにされる。その一節を引用すると、
「…恭安も御出也、種々会尺共也、其座ニ高本坊とて法花宗被居合候て、色々雑談也。恭安も拙者も法花持経申由物語申て候へハ、中へ悦喜候、…」
とある。
この「法華持経者」であるが、その名が示すように、法華経を専ら唱えることにしているという者である。
法華経は、その悪人成仏の肯定が歓迎され、室町時代以降武士をはじめ一般大衆に広まったとされる(岩波)が、覚兼も例外ではなかったのであろう。在家成仏の理念は広範に受け入れられる条件を満たすものといえ、また祈祷を容認している(岩波)ところなど、修験者が多くいた日向(修験信仰)には説くに受け入れられやすい状況にあったといえる。
法華信仰の特色の一つに、他の経典を排除し、法華経を唯一の正法として信仰する(岩波)ということが挙げられる。考えて見れば、「法華持経」という言葉自体、暗に「他経典ではなく」法華経を信じるということを示していると言えよう。覚兼も、自らそんな「持経者」であるとここで告白しているのである。
そこで、法華経に対する信仰の様子を見てみると、宮崎時代に入って五回ほど「法花読誦」という記事を見いだすことができる。
ほかに、天正11年2月、「法花嶽」への参籠記事が見いだせる。ここでは『日記』をもとに、彼の参籠を概観しておこう。
まず、その前月にあたる天正11年閏正月19日、参籠の立願をする。これは、当時健康状態が悪かった島津義久の平癒を願ってのものであったことが記事からうかがえる。
参籠の立願が叶えられたのが、同月25日のことである。補書にて
「此日、法花嶽従持御酒持せ入御候、拙者参籠企、目出由也、」
と書かれている。
そして、いよいよ二月四日、法花嶽へと向かう。道中は篭だったようで、その中で法花経を読経していたことが記事に見える。酉刻つまり日暮れ頃法花嶽に参着し、早速堂参りしている。
翌5日からは10日まで、連日堂参りの記事が見えるが、堂参のあと毎日のように酒宴を開いているのが少々気になる。一有力地頭としての彼の立場上、ある程度は仕方なかったであろうとはいえ、そのような参籠態度であったことは問題とするべきである。もっとも残念ながらもその当時の参籠の実態はこのようなものであたのかもしれない。
11日に至り、ようやく山をおりる。その間、同じく参籠した福昌寺守仲から庵主号を賜るなど、覚兼にとっては実りの多かった参籠であったようである。
ところで、ほぼ時を同じくして見かけられはじめる信仰態度が『日記』からうかがえる。
それは、「看経」「読経」である。
また、特定の神仏への信仰記事も同月、つまり天正11年閏正月から急に見られるようになる。地蔵の初出は2月であるが、観音・毘沙門・薬師・天神の宮崎時代初見はこの月であるし、「念仏」の文字もこの頃から見える。御崎寺例講がはじまるのも、同月28日であることも見逃せない。
この法花嶽参籠は翌2月であるが、その発願は閏正月19日の記事に見える。
つまり、これら信仰記事は同時発生的に閏正月より見られるのである。
なお『日記』は、以前三ヶ月を残して、天正10年9月以前長期に亙って散逸している。言い替えれば直近の記事はわずか三ヶ月しかないのであって、ここでようやく見られるようになった事柄を初見というには危険が存すると言える。
このことは勿論考慮に入れなければならないが、その三ヶ月の間、信仰記事が見られないという事実を見逃してはならない。もっとも前月まで出陣中ではあるが、以後出陣中であっても信仰記事は見ることが出来るし、これ以降、それほどの長きに亙って信仰記事が見られないことはないのである。
このことを考えれば、天正11年閏1月かから2月にかけて、つまりこの法花嶽参籠の前後に位置する時期が、覚兼の信仰生活の大きな転換点であったと言うことができる。
まずお断りしておくが、『日記』中天正2年10月に見られる法華千部会は、覚兼の主体的信仰ではないと判断するので、ここでは考察しない。とはいえ、のちの覚兼の信仰と多少なりとも関係があったという可能性までをも否定するものではない。
さて、実際に法華経を読誦する日々は、前述のようにわずか5回に過ぎない。しかし、それだけしか唱えられなかったとは考えにくい。ただ、その想像を裏付けるに足る記載は『日記』からは見いだせなかった。
ここで、もう一度「読経」「看経」する日々がいつから始まったかということを確認しておきたい。それは、天正11年閏正月1日である。そしてその頃、覚兼の信仰生活にとって、一大画期であったのは、法花嶽参籠である。もちろん、可能性の一つに過ぎないが、「法華持経」という信仰姿勢をも考慮に入れると、「読経」「看経」する対象はすべからく「法華経」だったのかもしれない。
「読経」「看経」という言葉が見られるのは全部で210日。そのうちどこまで法華経を唱えていたかどうかは想像するしかない。しかし、覚兼が特に「念仏」という語を用いた場合や、具体的に経典名を挙げている数少ない場合以外は、法華経を唱えていた可能性は高い。
なお、非常に重要な天正11年閏正月1日の記事であるが、引用すると、
「看経・読経等如常」
とある。この時点で、看経・読経等について「如常」と書いている点が些か気になるところである。
この時点で、看経・読経等について「如常」としている点が、いささかながら気にならないでもない。
三つの可能性が考えられる。
ひとつめは、実はこの時点で「看経」「読経」が習慣化していた可能性である。しかし前述のように、これではその前三ヶ月に亙りほとんど信仰記事が見えない事実が説明つかない。
ふたつめは、この「如常」は「いつものように」ではなく「ふつうの方法で」であるという可能性である。父・恭安も法華持経者であったことから、その見まねで「看経・読経」したことを「如常」と書いたかもしれないのである。
三つ目は、この記事をのちの加筆・修正等と考えると、この「如常」は時系列において全く意味をなさなくなる。それどころか、その加筆・修正等が覚兼の手になるものであるにせよ、もしくは後の者の手になるものにせよ、また意識的であるにせよ無意識であるにせよ、前節における考察は全く無意味となる。もちろんそれを畏れて事実に目を閉ざすことはできないので、敢えてその可能性を書き示しておく。この可能性が事実であるかについては『日記』そのものをもっと細密に検討する必要がある。
いずれにせよ、ひとつ目の可能性は考えにくく、また三つ目の可能性も確立としては高くないであろうから、まずはこの時期をもって、覚兼の信仰の転換点であったことは間違いなく、それを導いたのが「法華経」であったという推測をしてもよいであろう。
以上見てきたように、覚兼の信仰は大きくわけて、特定の神仏に対し縁日等を期して捧げる信仰と、折に触れて「参る」信仰、さらに法華持経者としての信仰があることが明らかである。
それは、言わば一途に法華経を唱えながらも、折に触れて社寺参詣をしつつ、同時にさまざまな神仏に対して習慣的に祈りを捧げる、といったものであったと言えよう。
結局のところ、それらの信仰は、法華信仰と、毎月同じ日付・特定対象への信仰を軸として、参詣という営みを包含しつつ、彼の中で優劣付けがたく一体化したものであったといえよう。
ところで、こうした信仰態度は彼の信仰に対する「意識」と介してどう結ばれうるのであろうか? 現存する『日記』を通読した感想と併せ、最後にこの問題について考えておきたい。
『日記』を通読しての後感としては、まず「寺」というものを必ずしも信仰対象として崇めていなかった、つまり覚兼は実はさほど信仰熱心な人物ではなかったかもしれない、とも思えた。
当時の風潮であったのか、もしくはそれが当然だったのか、「寺」が単なる集会場的役割にまで陥れられている局面すらあった。仮に酒に聖性があったとしても、寺で酒宴をしてしまう(少なくとも参加してしまう)のには驚いた。
加えて、寺社詣に多少の物見遊山的要素が見られるのは否めない。
しかし、その一方で、信仰に関する記事そのものからは、「別而」という言葉に象徴されるような直向きさと切実さが感じられる。病気のこと(天正14年5月12日等)や、息子のこと(同12年3月3日等)などを挙げて神仏に祈っている折など、特にその切実さが伝わって来る。もちろん、全信仰記事がそうだとは言わないが、それでも信仰に対して熱心であったことは否定できまい。
ただ、信仰対象や日付などについて一定の規則性はあっても、その出現には必ずしも一定の法則性は見いだせない。もちろん記載漏れの可能性を忘れるわけにはいかないが、信仰という行為に対してあくまで誠実ながらも、その「質」「量」ともムラがみられるという事実は否めないであろう。
やはり彼も一人の人間である。その時々の心によって信仰のさまも時間軸に沿って一定ではなかったということができよう。逆に言えば、信仰の様子に多少の揺れがみられるのは彼の折々の精神状態によるものであろう。
そのうえで、彼の信仰は、基本的には余裕のある心理状態りありながらも、戦国の世という時代が特にそうさせたのであろう、心のどこかで常に支えを求めていたものと結論つけることができる。
戦国武士の個人的主体的な信仰について明らかにしてゆくためには、同時代における中央や他地方の信仰の様子と比較研究する必要があり、各々の地方内においても、時間軸に沿って一層の対照してゆかねばならないであろう。
また「ひと」の、やむにやまれぬ「信仰」について知るためには、あらゆる研究が統合されなければなるまい。
しかし、その大本には個別の対象に対する研究が必要なのであって、本稿も、先学のわずかな穴を補いつつ、少なくとも戦国時代末期を生きた地方武士・上井覚兼その人個人の信仰は、本論において些かながらも考察を加えることができたと思われる。
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