作家・画工等解説

   

 
錦光山宗兵衛(きんこうざんそうべえ・七代) 1868〜1927
  錦光山家は江戸時代中期以来の京都粟田口を代表する陶家。その七代目として、明治17年(1884)に家督を継ぎ宗兵衛を名乗った。父である六代宗兵衛は、慶応年間に京都で初めて海外貿易に着手したり、明治5年(1872)頃には薩摩焼の作風を取り入れた京薩摩を考案するなど、七代目宗兵衛に与えた影響は大きい。その父より陶技を学んだ七代目宗兵衛の初期の作品は京薩摩独特の彩画法を用いた装飾性豊かなものであった。しかし、同26年(1893)のシカゴ・コロンブス世界博覧会における薩摩及び京薩摩意匠への評価は厳しいものであった。このためこの後は積極的に意匠の改革を推進し、同36年(1903)、第5回内国勧業博覧会ではアール・ヌーヴォー調の花瓶を出品している。また松風嘉定らと協力し、陶磁器試験場や陶磁器伝習所の設立に尽くした。[万国博覧会と近代陶芸の黎明]

 
帯山与兵衛(たいざんよへい・九代) 1856〜1922
  錦光山とならぶ京都・粟田口を代表する陶家。明治11年(1878)、八代与兵衛が没すると、三代清水六兵衛の次男が帯山家の養子として迎えられ、九代与兵衛を襲名。京焼伝統の色絵技術に加え、京薩摩の色絵金襴手や陶胎七宝などが輸出用として大量に生産されている。本焼窯2基、素焼窯2基、彩色窯5基、陶工11名、徒弟5名を擁する、明治期の粟田口における輸出生産の中心的存在であった。[万国博覧会と近代陶芸の黎明]
田代紋左衛門 〜1900
  本幸平の生まれで幼名愛吉。中ノ原の豪商久富与次兵衛に次いで貿易商の鑑札を与えられ、万延元年(1860)から有田焼輸出の利権を専有した。長崎での仕事は弟の慶右衛門や長男の助作に当たらせたが、三川内でつくらせた生地に有田で絵付けをした磁器を輸出し、地元窯焼きと対立したりした。明治2年(1868)に有田郷が飢饉に見舞われたときには東北から米を買い入れ、陶山神社下の広場で原価で売って感謝されている。明治33年2月、84歳で死去した。[おんなの皿山さんぽ史 http://www.yakimono.net/onna-sarayama/19.htm]

 
西浦圓治(にしうらえんじ・五代) 1856〜1914
  岐阜県多治見の窯屋。西浦家は陶器商を営んでいたが、明治18年(1885)から製陶を始めた。初期には細密画による染付磁器を中心にしていたが、その後、上絵による製作をおこない海外へ輸出している。しかし西浦が最も得意としたものは、この後つくられるようになった釉下彩による吹絵技法であった。植物や鳥をモチーフに、線描を用いないソフトな色調の絵の具を使った作品を制作した。同28年(1895)、多治見貿易合資会社を設立し、同32年(1899)にはアメリカ・ボストンに支店を出すほどであった。[万国博覧会と近代陶芸の黎明]

 
久富与平 〜1870
  有田中ノ原の富商。蔵春亭久富家が二代目与次兵衛昌常のころに家名を上げ、長男与次兵衛昌保、末子で昌保の跡を継いだ与平昌起(字子藻、号西畝)がさらに高めた。中でも昌起は「白眉の傑物」であったとあり、昌起の顕彰碑が稗古場の曹洞宗報恩寺の境内に建っている。昌常については「有田郷ノ豪族タリ。橘斎ト号シ、文人墨客集ウ」とある。昌常は大火に被災したあと昌保と共に再興を図り、焼き物の生産と販売を始めたとみられる。それも平戸藩松浦家の御用窯であった三川内山の薄手の製品を仕入れたり、泉山の磁石に天草石を混ぜたり、釉薬の原料に網代石を使ったりと、新しい試みに挑んでいる。天保12年(1841)ごろ佐賀藩が久富家にオランダとの貿易を許し、十代藩主鍋島直正が蔵春亭という屋号を与えたのも、こうした積極的な商略と文雅な家風を評価してのことと思われる。佐賀藩がイギリス商人グラバーとの共同で長崎・高島炭鉱の開発を始めると、昌起は小城藩所有の洋式帆走船大木丸(200トン)を借り受け、石炭や焼き物を上海に運んで売りさばいたとされる。[おんなの皿山さんぽ史 http://www.yakimono.net/onna-sarayama/07.htm]

 
松村九助(まつむらきゅうすけ) 1845〜1912
  佐賀県に生まれる。幼い頃から製陶に興味を持っていたため、西洋顔料が長崎に輸入されると、外国商人から西洋コバルトを大量に買い集め、古くから呉須を用いて染付をおこなっていた愛知県に導入することを考案する。明治7年(1874)に長崎を発ち、同9年(1876)名古屋で、主にコバルトの販売をおこなった。その後、陶磁器の販売にも取り組み、瀬戸・多治見の陶器にこの西洋コバルトを使用させた製品を、横浜の支店から海外に輸出した。陶磁器問屋数人とともに、同11年(1878)には輸出販売を目的とする開洋社を名古屋に設立、海外にも支店を出したが、同18年(1885)に会社は解散した。その後を単独で引き継ぎ松村商店として事業を拡大させ、磁器製造工場や神戸支店支店を設立した。その後、自らは横浜支店の田代屋商店で磁器改良に没頭した。[万国博覧会と近代陶芸の黎明]

 
ゴットフリート・ワグネル 1831〜1892
  ドイツ・ハノーバに生まれる。ドイツで科学を専攻し学位をとる。明治元年(1867)に長崎で石鹸工場をつくるために来日した。同3年(1870)、鍋島藩に招聘され、有田磁器製造所で磁器窯の改良に力を尽くした後、東京で大学の理科の担当教授となる。その後大学を一時解雇されるが文部卿より東京職工学校を設立する任務を委嘱され、そこで教鞭をとった。同8年(1875)、築地のアーレンス紹介に入り、七宝の釉薬の改良に力を発揮し、さらに同11年(1878)、京都府の招聘に応じて、京都府勧業場舎密局で、陶器・玻璃・染色などの工業に関する事業を起こし、京都における美術工芸を一新。その後も、農商務省や民間の顧問となり、各地でその科学知識を伝えた。同14年(1881)、舎密局が廃止されると、再び東京に戻り、東京大学で教授するかたわら自ら江戸川陶器製造所を借り、自費で陶器の製造に従事し、吾妻焼(後に旭焼に改名)を完成させた。この旭焼はそれまでの釉薬の上に彩色を施す、上絵付という方法から、彩色を施した上に釉薬を掛ける、釉下彩という新しい方法でつくられたものであり、その後、この方法は多くの陶芸家に用いられるようになった。国内だけでなく海外でもその業績がたたえられ、多くの勲章を受ける。その半生を日本の美術工芸の発展に尽くした。[万国博覧会と近代陶芸の黎明]

綿野吉二(わたのきちじ) 1860〜1934
  石川県金沢に生まれる。父・源右衛門の代から綿野商店として九谷焼の輸出を始めた。明治10年(1877)に父の後を継ぎ、神戸に支店を出し、同12年(1879)にはパリに直輸出をおこなった。同13年(1880)には横浜に支店を移し、九谷焼の海外輸出に力を注ぐとともに、同20年(1887)には金沢の本邸に錦窯(上絵窯)を築き、天籟堂と称して九谷の粗悪品乱造の防止につとめた。同26年(1893)のシカゴ・コロンブス世界博覧会には、官民一体となって推進することを目指し、石川県出品協会の理事として参加した。[万国博覧会と近代陶芸の黎明]