2001中国(辛苦火車旅遊)
2001年8月12日
歩道では老人たちが集まって、今川焼のような駒で、将棋のような囲碁のようなものをやっている。観戦していると老人が話し掛けてくる。日本人だと言うと「私は大連の小学校で日本語を習いました。」と自己紹介した。貴方の日本語は上手だと言うと、老人は懐かしそうな眼で笑った。「ここの八人の老人は退職して仕事がない。日がな一日、道端で棋盤(このゲームの事らしい)をしている。」と筆談帖に書いた。老人と堅い握手をして別れる。
とりあえず、火車の切符を確保しなければならない。これを確保できないとまた素晴らしきバスの旅が約束されてしまう。公共汽車710路で北京站東街へ。重たいものを食べる気がしないので、粥のある店に入る。しかし粥はなかった。椎茸と野菜の炒め物と隣のおいちゃんが食べていたカラモノを頼む。結局重たいものを食べている。熱いお茶がうまい。
少し歩くと北京站が現れる。時刻表を入手し、人民のひしめく窓口へアタック。しかし必殺「没有(無い)!」攻撃にあえなく轟沈。行き先を変えたり軟臥にしたりして、再びアタックをかけるも、「没有!」の前に歯が立たない。仕方なく我々は外国人の特権を生かし、外国人窓口へ。2候補×4回のアタックの末、漸く大連行普通列車の硬臥上段をゲット。1時間後の火車である。駅前に出ると生ビールの飲めるビアガーデンがあった。非常に惹かれるが、ビールをゆっくり飲む余裕が無かった。買出しを済ませ、燕京ビールを買って火車に乗り込む。硬臥上段は初めてである。なんて快適な乗り物だろう。下段の坊主のあんちゃんは「大連は日本人が多いよ」と言っていた。
トウモロコシ畑の向こうにポプラが並ぶ中を、2529次列車はのんびりと走ってゆく。穏やかな気持ちになる。やはり火車旅は良い。車内販売で盒飯(弁当)が来たので買う。20元と結構高級品である。魚と鶏肉と二種類あり、鳥の肉じゃがが恐ろしくうまい。こんなうまい弁当は食べた記憶が無い。魚はカレイのようなものが入っていた。そして、この弁当についてきた割り箸に、なぜかセブンイレブンマークがついている。セブンイレブンが割り箸を中国で生産して、検査を通らなかったものが流出しているのではないかと推測できる。二人分はありそうな弁当だが、あまりのうまさに一気に平らげる。白酒を飲みながら、日は暮れてゆく。
2001年8月13日
その未明の事である。強い胃の痛みを覚え、厠所へ行くと激しい拉肚子(下痢ピー)に襲われる。こんな激しい下痢は経験した事が無い。大和の下痢とは質が違う、滝のような下痢。脂汗が滲む。厠所から帰れない。やっとの思いで寝台まで戻ると、またすぐにお呼びがかかる。余りに長く篭っているので不審に思ったのか、車掌が激しくノックしてくる。「それどころじゃねぇ」と激しくノックを返す。同じ物を食べながら、同行のA氏は何とも無いらしい。前回の旅では正露丸を携行していたが、出番が無かったので今回は持ってきていない。A氏に薬をもらって飲む。それにしても、火車で良かった。もしこれが寝台バスだったらと考えると末恐ろしい。
ただひたすら苦しみ悶えながら、6:00大連到着。そのままフェリーに乗る予定を取りやめ、安宿に倒れ込む。ベッドと厠所のピストン輸送。
昼頃、とにかく何か食べなければと外に出る。しかし、水分と養分がすべて流出しているので、ちょっと歩いただけでへたってしまう。食欲もまるで無い。りんごと牛乳を買って戻る。電梯(エレベーター)が停まっていて、5階までの階段がキツイ。りんごをかじり、茶を飲む。相変わらず流れは淀むことが無い。毛布を被っても震えが止まらなかったり、逆に汗だくになるほど熱くなったりを繰り返す。自律神経がやられているらしい。夕方、A氏が戻ってきてパンをくれたが、半分も食べられず、りんごを1個食べてそのまま眠りに落ちる。飲んだお茶がそのまま流れ出ているようで、飲んでも飲んでも渇きが癒されない。夜中に蚊の猛攻がある。虫除けは大陸の蚊には効いていないらしい。
2001年8月14日
とにかく下痢が収まらない。昨日からろくなものを食べていない。何か食べなければ。外に出て、緑豆粥を食べる。しみるようにうまい。A氏と薬局へ行ってみる。A氏が腹を円を描くようになでると、店のおとっつあんは全てを理解したように頷き、幾つかの小箱と紙コップを出した。中国の薬局は蒸留水が用意してあり、その場で薬が飲める。安宿に戻り、横になると薬のせいか一瞬で眠りに落ちた。
昼頃起きてテレビをつける。大連でマイクロバスが断崖から落ちた映像が映る。乗客のインタビューが映るが、あの事故でこの人はよく無事でいられるものだ。確かに屈強そうな男だったが。小泉総理が靖国を参拝している映像と、それに反対する人々の映像が流れる。
明日はもう帰国である。このままで旅が終わるのではあまりにも悲惨なので、駅前の巨大地下商城へ行ってみることにした。ここなら、快適な厠所があるので安心である。まず宿の前の市場に入る。量り売りの白酒がある。究極の安酒である。500mlで2元(30円)。靴屋を見ると、靴に足が入った状態で売られているのがグロテスクで面白い。
下町を歩いてゆくと、電化製品を売る商城があり、熊猫(パンダ)の形をしたいかがわしい電話を売っていた。しかも、電話がかかってくると目が光るという妖しい機能まで付いている。「多少銭?(おいくら)」きれいな小姐は「45元(675円)」と言った。思ったより安い。「ちょっと高いね。安くしてよ。35元(525円)でいい?」「40元(600円)なら」別に45元でも構わないが、一応値切っておかないと。
駅前地下商城は地下4階建てのラビリンス。一番下の階は全て食堂になっていて、食い倒れの街が形成されている。どの店も食材に溢れ、私の現状ではちょっとくどそうだ。適当な店に入る。串刺しの食材が沢山並んでいて、それを選べという。3串選んで渡す。更にご飯を頼む。串焼きが出てくるとばかり思っていたら、なんと鍋になって出てきた。さっき選んだ以外にも沢山食材が入って、3人前くらいある。米飯は当然まんが日本昔ばなし級の山盛りである。結局半分も食べれずにギブアップ。飽食の日本から来て大量に残すのが後ろめたくて、そそくさとその店を立ち去る。
CD屋で知り合いから頼まれた蘇永康のCDを探す。彼はサザンのヒット曲TSUNAMIをカバーしているらしい。人気があるらしく、彼のCDはすぐ見つかったが、TSUNAMIが入っているのは見つからなかった。
そのまま中山広場へ歩く。繁華街を徘徊する。人民広場まで歩いて、今度は市電から街を眺める。バスを乗り継ぎ空港から見えた住宅地を見に行く事に。実は我々は少しこの街を疑っている。空港から見えた住宅地はものすごく巨大で美しく、空虚で無機質だった。なんとなく舞台の背景のように見えてならなかった。実は看板なのではとさえ思えた。そこで、この街の実態があるのか確かめに行きたくなった。公共汽車3路で着いた街は残念ながら本物であった。緑地公園をきれいな高層住宅が囲む新しい街だった。それでも、歩道には青空理髪店や街角按摩屋が出ていて、「ああ、やはりここも中国なのだ」と少し安心するのだった。
公共汽車405路で百盛(パークソン)商城へ。しかし、閉店寸前だったので、すぐに出る。今回の旅のもう一つのミッションは火鍋(中国式しゃぶしゃぶ)を食べる事だった。しかし、残念ながら火鍋を食べられるほど体調は回復しなかった。よって、火鍋の隣の食堂に入る。あっさりしたものをと思いつつ、醤茄子というのがうまそうで頼んでしまう。どう考えてもくどそうである。その他に蟹餃子も頼む。小姐はジェスチャーを交えて何か言っている。どうやら量が多すぎるので、少なくして持ってくるかと言っているようだ。良心的な店である。そして心惑わす事に生ビールがある。結局誘惑には勝てず。
醤茄子が当たりだった。当然くどいが、油とタレの甘みが茄子に絡み合い絶妙である。それを時々さくさくとした食感が引き立てる。日本の気の効いた居酒屋でもなかなか出ないようなうまさだ。よく冷えた凱龍ビールが疲れ果てた胃に浸み渡る。この為だけに来たのかなと思う。それで納得できる晩餐だった。減らしてもらった料理はやはり食べきれなかった。二人分合わせて24元(360円)。帰るとき小姐は「サヨナラ」と言った。
安宿へ戻る。我々は出るとき日本と同じようにフロントに鍵を預けたが、中国ではどうもそういう習慣は無いらしい。その関係でちょっとてこずったが、フロントのドリカムの吉田美和のような小姐は何度かお世話になっていて顔パスになっている。変な外国人が帰ってきたと笑顔で迎えてくれる。
アルコールも入って、5階までが更にきつい。部屋に戻ると当然下痢である。こんな不摂生をしていて治るほど現実は甘くないらしい。買ってきたりんごジュースを飲んで早々に就寝する。
2001年8月15日
帰国の日。6:00起きのはずが、日本時間で目覚ましを仕掛けてしまい、5:00起きに。催して厠所へ行くと、3日振りに美しい三日月のような雲古が出た(ちょっと美化し過ぎか)。体力も回復してきた。いよいよこれからといきたいところだが、非情にも今日の9:30に飛行機は出る。
チェックアウトをすると、吉田美和ちゃんはデポジットとして40元を出した。140元のはずである。その旨を申し上げると「ごめんなさい。私が間違えました。」と泣きそうな顔で自分のハンドバッグから100元札を差し出した。100元、日本円にすると1,500円だが、購買力に直すと1万円札くらいの価値を持っている。それをこの娘は自前で埋めようとしている。我々はこの100元札を受け取れなかった。「問題無い、問題無い、再見!」と言い、宿を後にした。
昔ながらの下町を抜けて、701路に乗って空港へ。チェックインを済ませてから、「コーヒーでも飲みたいね」と言うことになり珈琲庁へ。貴婦人珈琲なるものを飲む。薄いコーヒーにブランデーを少し入れた感じ。25元(375円)。空港建設費90元(1,350円)という謎の税金を納め搭乗。各座席にはこの旅でだいぶお世話になったワハハ鉱泉水が備え付けられている。
少しうとうとするとすぐに高度が下がり始める。富山は30℃とアナウンスが告げている。能登半島を越えて、平和堂が見えてくる。我々は、目を逸らすことのできない現実へと着陸していった。