最終更新日 Aug/6/99
いいことば
私はあなたではない。そして、あなたは私ではない。
そりゃあ、あたりまえだ。だから私が今僕の立っている場所に君はたてない。
だから、私はあなたに近づくことはできても、あなた自身になることはできない。
近づくことはできても決して一致することのない、もどかしい距離・・・
私はあなたではない。だから私はあなたになることはできない。だから私はあなたを変えることはできない。他人を変えることはできない。だって、育ってきた環境、友人、教え込まれた価値観でさえ異なるから。
でも、あなたを変えようとしている「私」は変わることができる。意識を解き放って、自由になれる。
その先に何があるのか・・・、私には分からない。
世紀末の詩
君がどんなに遠くにいたって、君がどんなに人混みの中にいたって、僕は必ず探し出す。
君と僕、そして世界があるから、それでいい。
「心」と「心」の交わる場所は、決して近くとは限らないのだから・・・
その「扉」を開けるのは
その「コタエ」は
正しいこととは・・・
もし僕が、みんなを敵に回しても、君は僕のそばにいる。もし僕がみんなにつぶされそうになっても、君はただ、側にいればいい。別に助けてくれなくてもいい。同情してくれなくてもいい。ただ、側にいればいい。
僕はみんなと違う方向に行く。それは時間がかかるかもしれないし、遠回りなのかもしれない。でも、それが行くべき道ならば、君と歩いていこう。だから側にいてほしい。(Jun/15/99)
問題の解決の仕方
問題は過去にしがみつくことではなく、未来に向けてどう考えるかということだ。でも、これまでの直面した、あるいは直面している問題にふたをして、正当な評価をしないというのは、もっと問題だと思う。(May/17/99)
「議論」と「ケンカ」
議論とは、客観的な事実を並べて、意見をぶつけあって問題の糸口を探す。
ケンカは、何でもありで、無意味に感情をぶつけ合う。
僕は多分、「議論」してる。でも君は「ケンカ」がしてるみたいだ。
「議論」するのは結構難しい・・・(May/17/99)
「あの言葉」
あの言葉が胸を打つ
ウソモホントモキミガイナケレバオナジ
ユメモゲンジツモキミガイナケレバオナジ
私にはあなたがいる(May/14/99)
「理由」
人は何でも理由を付けたがる。理由がない得体の知れないものには恐れおののく。先生が悪いから、私の勉強がはかどらないんだ。とか、このリーダーが悪いから、運営はうまくいかないんだ。とか、今回、とっても点数がよかったのは、きちんと勉強したからだ。とか、彼のアシストがよかったから、ゴールできた。とか、友達の協力があったから、彼とつきあうことができた。とか・・・。とにかく、何かにすがり、何か大きなものを後ろ盾にしようとする。あなたがいるから、私がいる。主のお導きに従って、汝隣人を愛しなさい。言葉の響きが心地よいのではなくて、きっと、理由を付けれて安心しているにすぎないんだろう。でも僕は、この「偶然がもたらしたの理由のない世界」に生きている。(Mar/31/99)
「伝える」ことの難しさ
言葉は、物事の一面しか伝えない。行動は、物事の全体を見えなくする。君の言葉は、僕の胸に突き刺さる。どんなに熱のこもった言葉だって、なんにも感じない。聞こえてくるのは、ただ、空虚な言葉。見えてくる君の無意味な行動。僕の心をただ通り過ぎていく。
あなたは「共通の言葉」がないと笑う。でもきっと、あなたはその「共通の言葉」を作り出そうとする努力すらしない。自分の世界の中だけで行きようとしている。批判されることが怖いんだ。だから自分の世界に閉じこもろうとするんだ。
僕は、批判されることを恐れない。きっと、そこから「共通の言葉」を作り上げていくものだと思うから。「共通の言葉」は存在するものではなく、作り上げていくものだから。こうやって作り上げていく方法を知らない人が多すぎて、「共通の言葉」が少なくなっていく。そして、「伝える」ことがますます難しくなっていく。(Mar/31/99)
「事実」の批判
事実を並べ批判されて、怒りだしたり、黙ったりする人は、自分の行動に責任を持っていないか、自分の世界に閉じこもった人です。
自分の世界のことはどうでもいいが、そして自分の世界が楽しくなるようにじゃまなものを排除しようと平気で人を裏切れる。
でもそういう行為は結局その場しのぎで、いつか自分に返ってくるって気がついていない。そうなって初めて愚かさに気づくものなのだと思う。(Feb/01/99)
「理論」と「現実」の乖離
僕は「思う」。いろいろなことを「考える」。でも、そこに「実体」はない。テレビで見る災害や大自然のすばらしさや、そこで演じられるそれが報道だって、僕の脳に伝わってくる「信号」にすぎない。そこに流れる「空気」や「臭い」は伝わってはこないんだから。そして、氾濫した情報は僕の心を惑わせる。理論は理論を産み続け形而上学の世界へと誘う。でも、形而上学の「めがね」は僕に現実を見せてくれない。「現実」をみる「めがね」は鼻の上についているこの二つと、耳、それから、皮膚だ。僕は近づきたい。それが真実というものにほど遠いであっても、僕は、「僕の現実」を「実感」したい。('98/07/13)
「動く」こととその場に「とどまる」こと
僕は「走る」、どこまでも「走る」。周りの景色は、あっという間に変わって、その前の景色がどうだったかなんて、そんなことすぐに忘れてしまう。でも来た道は、遠く長く、そして、目の前にも長い長い道が広がっている。走りながら考える。だって、その方が効率がいい。目の前にあるこの道をどう進むのか、この障害物をどうやったら回避できるのか。瞬時に判断して、前へ、前へ。より速く、より遠くへ、そして、誰よりも速く。きっと、後ろを走っているやつから抜かれるのが怖いんだ。だから、死にものぐるいで自分の前に追いつき追い越そうとする。でもたまに立ち止まる。何にも考えずに立ち止まる。そこで「静か」になってみる。気がつくと雲が流れて、風の音が聞こえる。そこに「ふっ」と新しい道が開けている。あれほど探し求めていたのに。でもこの道はきっと、ずっと前からあったんだ。ただ僕はこの道に「気がついた」だけだ。そして僕は、また走り出す。('98/07/13)
「演じること」と「あるがままの自分」でいること
僕はあるがままの自分でいたい。自分を表現したい。でも、僕が僕であり続けるためには「演じる」ことも必要だ。「子供」としての自分、「学生」としての自分、「教師」としての自分、「恋人」としての自分、「親」としての自分、「男」としての自分、「存在」としての自分、「現象」としての自分・・・
演じ続けることで、あるがままの自分を忘れても、自分であり続けるために今日もまた「演じ」続ける........('98/05/25)
「小さな一歩」と「大きな一歩」
僕は歩く。生きているから。でも、どこに向かっていくのだろう?足を進めた方向で「前進」なんだろうか。「小さな一歩」と「大きな一歩」の違いはなんだろうか。「小さい一歩」では見えなくなる。「大きな一歩」ではつまづいてしまう。「大きな一歩」ははやく「先」に進めるのだろうか。人生の道しるべは、どこにあるんだろうか。それでも、僕は「一歩」を踏み出す........
('98/05/18)
「読む」こと
僕は日頃たくさんのものを読む。学生だから。でも、「読む」ってことは難しい。たとえば、「風邪」って言葉が、書いてあったって、それは見る人の理解の仕方出そうにでも変化する。うつろいやすく、変化しやすい、不確実な「あやうさ」を持っている。医者を目指す僕は風邪はあくまでも「病態」の一種として正確な症状を求めて前後の文脈から情報を得ようとするかもしれない。僕の友人は、風邪は仕事に行くことを拒む「忌み嫌うもの」と考えるかもしれない。小学生は軽い風邪ぐらいだったら、いやな学校を欠席できるいい「口実」になるかもしれない。言葉とは、かくも「曖昧な」現象なのだろう。こんなモデルなのかな??言葉という「現象」海を僕は今日も泳いでいる....... ('98/04/26)
|前のページへ|
Copyright(C) 1998 INSTITUTE OF INDUSTRIAL ECOLOGICAL SCIENCES