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『晴れた日には空を見上げて』




 ぼくは会社員だ。
 会社では特に可もなく不可もない立場だ。
「彼が夜激しくってさあ」
「え〜やだあ」
 女子社員が給湯室で笑っている。
 あーいいねえ。
 部長に怒られている新人がいる。
 新人はすぐにその仕事にとりかかる。
「せいがでるね」
「ええ、いまががんばり時ですから」
 いいねえ。
「がんばってくれ」
「ええ」
 それでいいのだ。
 私には妻もいる。
 仕事をこなして給料をもらう。
 妻ともケンカはするが、特に仲が悪いわけでもない。
 なにも不満のない日々。
「これでいいんだ。これで」
 今日も電車に乗って会社に行く。
 上りの電車が来る。
 この電車が会社へとつながり、変わらぬ一日に続いている。
 これでいつもの一日が始まる。
 なにも変わることのない一日。
 そのはずだった。
 私はなにを考えたのだろう。
 下りの電車に乗った。
 会社とは逆方向だ。
 都心から離れていく電車の窓の景色。
 どんどん緑が増えていく景色。
 私はとある駅で降りる。
 知らない街、知らない道が広がっていた。
 そこは自然がまだ残っているところだった。
 土手の上を歩く。
 子供たちが河川敷で遊んでいる。
 私は草の土手の上に座る。
 ただただ子供たちの遊びを見ていた。
 陽が暖かい。
 ぽかぽかしている。
 気づくと昼寝をしていた。
 夢を見ていた。
 私はまだあどけない少年で母親は私をよくしつけていた。
 スイカを冷やしている水道水を延々と見ていた。
 なにが楽しかったのか。
 ただただ土とたわむれ、空を眺めた。
 そう、それはついこのあいだのことのようにいまは思えるどうしてだろう。
 夢からは覚めていた。
 少女が駆けて来る。
「おじちゃんなにしてるの」
「なにもしていないよ」
「どこから来たの」
「川の向こうから来たんだ」
「どこへ行くの」
「この川の果てまで行くんだ」
「おしごとたのしい?」
「楽しいよ」
「どうしてつまらなさそうなの」
「考えていたんだ。なにか忘れてしまっていないか。なにか置いて来てないかと思ってね」
「なにか家に忘れて来たの?」
「そうかも知れない。最近とっても忘れっぽくてね」
「忘れないおまじないしてあげる。ちちんぷいぷいえーいっ!」
「ありがとう。これでぼくはだいじょうぶだ」
「カラスが鳴いているよ」
「もう巣に帰る時間なんだよ」
「ねえ、なんで時間はうさぎさんが運んでくるの?」
「うさぎは忘れ物をしないからなんだ」
「亀はなんで流れ星なの?」
「長生きだから願い事を叶えることができるんだ」
「いつ人は生まれるの」
「鳥が飛びだつ時に」
「いつ人は死ぬの」
「白い花が散る時に」
「おじさんの夢はなに?」
「誰よりも幸福になることだよ」
「いつ愛を知ったの」
「愛してるといわれた時に」
「いまはひまなの?」
「あー眠いね」
「自分は好き?」
「たぶんこの星と同じくらい」
「他の人は好き?」
「自分と同じくらい好きだよ」
「いつ旅に出るの」
「この陽が落ちた時に」
「愛はいつ眠りにつくの」
「夜が暮れるまで」
 少女は駆け出す。
「おじちゃん、またね」
「ああ、またね」
 ぼくは空を見ている。
「なにが見えますかな」
 老人がそう聞く。
「生きていく意味が空にある色彩となって色を変えていくのが見えます」
「人生を楽しんでいますかな」
「日々が消失していくようで、自分のだめさ加減が楽しいというならば、そうなのかも知れません」
「時計はお持ちかな」
「時間と競争しても勝つことはありません。どうしたら長生きできるものやら、とんと解りません」
「お金は必要かな」
「よく忘れることはあります。でも貯金箱があります。貯金だけならなにも心配はしないのですけれど」
「愛はどこにありますかな」
「愛は台風となって地震となって流星となって私の心にあります。いつか芽が出ていくのか。鳥となって愛を運ぶのか。それはいつか人と人の心を結ぶと信じているんです」
「次はなにをしますかな」
「考えてないのですが、たぶん変わらぬ日々の仕事につくでしょう」
「本は好きですか」
「前よりは価値を置き、読むのには安くなりました。本に人生を感じるようになりました」
「歌いますか」
「いつか親が口ずさんでいたように歌います。歌の葉に心は込められていたのです」
「映画は好きですかな」
「不透明な時代を見せてくれるので、良く見ます」
「老人は家にいるものだと言う人がいますがね、老人こそ旅に出るべきだと思うんですよ」
「そうですね」
「老人はいつかこの大地に帰ります。あなたは老人になりたいかな」
「たぶん、そうありたいですね」
「老人だから知らなくてはならないことがあってね」
「そうですか」
「老人だから歩ける道があるんでね」
「それはいいですね」
「老人が帰る家はここにはない」
「はい」
「きみにはある。もう家に帰りなさい」
「解りました」
 ぼくは電車に乗ると土手を後にした。
 家に帰ると妻が待っていた。
「会社から電話がありましたよ」
「そうか」
「今日は楽しかったですか?」
「うん、楽しかったよ」
 ぼくは会社をくびになるでもなく、それからまた同じ電車に乗って仕事に行く。
 でもふと思うのだ。
 この電車の逆には、知らない世界が広がっているのではないか、と……。






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