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作劇術−−−1.1
















注、ここでの文章は私が小説を書く時に注意していることであり、編集はしていないので、アイディアの羅列としてあります。
更新文章は最初の方にたいていあります。




小説を書く  小説を読む  気持ちの連鎖  希望のもてる言葉を



あらすじを先に書いてそれからセリフと説明文と詩とオリジナルを込める



アイディアの連打。



箸が転がってもおかしい年頃。




ナマケモノになる日

なまけものにはなにもしないで堕落した体たらくと、動物のナマケモノの意味あいをかけています。動物のナマケモノはゆっくりとした動作で動き、どうして天敵から逃れ、生き延びたのか謎である。そんな話を聞いた時、なんともいいものだと思ったのだ。ナマケモノは泳ぎがうまかったりする。また、いまは絶命危惧種でもある。コアラもゆっくりと動く。こういう人生であったらいいなあと思う。







いつでもどこでもいまでも
いい作品はいい。




















キャラクターの成長。
キャラを見せる定番はキャラクターの葛藤を描き、それを乗り越えさせることである。
これによって、キャラクターは成長を見せる。
これをパターンにすると、葛藤のインフレを起こすので、そこはいろいろ試してみよう。




ヒットパターン。
面白いパターンを確立してそれを繰り返すのみ。
長寿番組など同じことの繰り返しだろう。
ドラえもんはボケットから道具を出す。
ゴルゴは殺人をする。
アトムは悪人を倒す。
美味しんぼは料理に感嘆する。
それらがヒットパターンとなる。
もちろんヒットパターンを作るまでは試行錯誤ではある。




















ノリとツッコミが描くリズム。
芸人コンビのコント55号が笑いの旋風を巻き起こし、以降、二人組みが流行ようになります。
この二人が優れていたのはノリとツッコミです。
いまでこそ当たり前ですが、当時としては画期的でした。
ボケとツッコミは普通でずが、ノリが良くなったとこにツッコミを入れること。
これが本質を響かせるんですね。
これは以外とお目にかかれない時があります。
伽羅の台詞立てもおんなじです。
ノリとツッコミが会話のリズムとなります。
一人の考えでもノリツッコミで描きます。
それがリズム良く面白く作品を見せるからです。
もろちん、リズムの無いシーンもあります。
詩的情緒シーンなどがそうです。
リズムを取るのですから、もちろん歌や音楽もノリツッコミで構成されています。
このノリとリズムを制する者が良い作品をものに出来るのです。
本質のリズムを聞くことが出来る人は、とても調子が良く仕事と生活することが出来ます。
本質の旋律を聴ける人になること。
それが作品作りの第一歩でもあります。


















2008−4−29火曜日午後2時30分カキコ。
スタンバとは。


スタンバ。
普遍、共通、一般。

ノリ。
特殊、集合、新生。

伽羅(キャラ)。
個別、蓄積、唯一。




スタンバとは作品の状況などのことです。
どういう世界観と時間軸のふたつで、いつどこなのかという構図です。
ノリはノリがいいよねというもの。
いい作品はノリがいいんですよ。
ナウシカとかトトロなどの宮崎監督のノリがわかるでしょうか。
伽羅(キャラ)はキャラクターです。
私は同人誌を作る人たちを描くゲームとアニメを企画、構成したりしていました。
同人誌を作る仲間という構図がスタンバとなります。
そういうおたくなスタンバを私は好む面があります。
たとえばドラえもんはキャラクターですが、 ドラえもんがホストだったらという状況がスタンバとなります。
えーと。
ミッキーマウスはキャラクターですが、ミッキーが海賊だったらという状況がスタンバとなります。
鉄腕アトムはキャラクターですが、アトムがサーカスをするという状況がスタンバとなります。
ロミオとジュリエットはキャラクターですが、二人の恋が反対されるという状況がスタンバとなります。
これらが作品を作る柱となっています。
さて。これからも作品を作っていきたいと思うので、
気ながにお願いします。
それでは、また。




スタンバ2。
ラピュタの天空の城もスタンバである。
巨大な生き物の上とか、マクロスの戦艦の中とかね。
そういう巨大な建造物もスタンバである。


























2006−10−29日曜日午後10時3分カキコ。
サウンドデュアル。


サウンドデュアル
普遍、共通、一般。世界観、世界基準、世界的な基礎。バランススタンダード。三対から発する全方向性。全対。

ツインサウンドデュアル
特殊、集合、新性。客観、色彩の濃淡。バランスコントラスト。対による双方向性。相対。

ワンサウンドデュアル。
個別、蓄積、唯一。主観、濁点。ハイエンドバランス。一対による直進性。絶対。








起承転結


起。
普遍、共通、一般。サウンドデュアル。

結。
特殊、集合、新性。ツインサウンドデュアル。

承、転。
個別、蓄積、唯一。ワンサウンドデュアル。














●●●2006−12−25 月曜日午後9時9分カキコ。●●●
本質描写。
そのひとつ。
心理描写。
人の気持ちというものは良く分からない。
そのもっともなものです。
逆に言えば、分からないから知りたいと思うのが不思議を追うことを宿命付けられた人の運命(サガ)なのかも知れません。
さて、作品においても人の気持ちを表現するのは高度な技です。
それは承と転によって表現することになります。
作品においてあらゆる表現は基本的に承と転によって表現されます。
まさに表現ということは承と転の両立とそのバランスを取り続けることの本質の確立であるわけです。
これが出来て一人前。
承か転だけでは半人前。
調子のいい作家はこの本質の確立が出来ていると言えます。
では、見えない本質を表現するにはどうすればいいか。
承では、それは風景を情景に変えることによって、気持ちという見えないものを表現します。
転では、行動によって、アクションとかリアクションとかによって表現します。
だめだったから酔っぱらうというのはドラマでは良く見る光景。
プレゼントに花。
いいことあったから笑顔。
お茶とかコーヒーの朝の一杯。
景色がいいからいい顔になる。
猫は苦手だにゃ〜。
ぶっとばされても我慢してしまったり。
嫌なこと言われておどけて見せる。
好きなことに癒される。
ステレオタイプなそのものごと。
それが心理表現の基本となります。
もちろんそこからずれることもあります。
ひるがえり。
それは承の方向性と転の方向性。
その方向性の両立。
それがクロスした時に現れる方向性。
そんな人生。
2006−12−26 火曜日午後6時4分カキコ。
人という存在、いや、これは存在そのものかも知れないけれども、その存在を認識するということは、その本質を感覚するということ。
なので、見えるもの、読めるもの、聞こえることがらということは表面的なものであること。
感覚出来ない本質を感じた時に認識に至ること。
ぶっちゃけ見えるもの聞くこと読むことというのは基本的に結果であること。
その点、本質というものは見えない読めない聞けないが、それだけ先というか、現在進行形の事柄に対応出来るという点がある。
これはどちらがいいということではなく、そういう性質や方向性だという話である。
2006−12−26 水曜日午前12時47分カキコ。
ギャグというものは常識と非常識。
その両立のバランスを取り続けることの本質の確立。
これはまーギャグバランスのひとつです。
これはこうだよなと言うが、その常識からのびみょ〜なずれが笑いを誘います。
コントではボケと言われることです。
ツッコミはこれに対して、そうかなあということ。
2006−12−27 水曜日午後1時2分カキコ。
交通安全の看板見ていたら前の車に追突。
飲み屋で同僚と飲んでいて、どたまの最後の毛が抜けて、同僚が一言「ご臨終です」と言われて涙する。
その人にとっては笑えないこと。
第三者、いえいえ、もっと離れて作品を見ているから笑えること。
これは他人の不幸は密の味系のお笑いで、お笑いの本質のひとつです。
「愉快ツーカイどーなった。隣の垣根に塗炭屋根。それでいいのささらさらさらり。今日もお空の雲がどしゃぶりよお。極悪英雄覚悟の上よ。どこまで来たのか田舎よどこよ。これからどこへ行こうかな。ここで会ったがシーラカンスよ四千年。ちょいと粋すぎたね、今日のおてんとさまがわらってらあ」
とゆーのが口上(こうじょう)系のノリとでも言う感じのもの。
これは活弁士とか、寅さんなどで見られます。
夜眠ろうとすると枕がいまいち合わない。
それで家にあるもので片っ端から合わせてみる。
スイカにビデオデッキにペットボトル。
本に鍋に靴にビニールに水入れてずぶぬれだ。
終いに猫を枕にふぎゃとひっかかれる始末。
さんざん疲れて元の枕でぐっすり眠る。
そんなもんだよ人生は。
と。
これは努力系とでもいいましょうか。
これはチャップリンが得意としてるもののひとつです。
2006−12−28 木曜日午前2時29分カキコ。
コーヒーを飲む二人。
「コーヒーはモカに限るな」
「そんなもんかな。あたしには違いが分からない」
「なにせおれはコーヒーで動いてるからな」
「あっそ。リーズナブルなエネルギーね」
さてー。
これが基本のやりとりとするならば、ここからずれるにはどうするか。
ここからが勝負となります。
どれだけずれることが出来るか。
これはまあ歌でも絵でもそうですが。
いいものであるのは分かります。
そこからどんだけずれることが出来るか。
それがひるがえりとなります。
幾つかのコーヒーで手鞠とかね。
そういうずれがあること。
2006−12−28 木曜日午後12時26分カキコ。
千の言葉よりもひとつのひるがえり。
難しい話を延々とする時もあるだろう。
けれどもまー、ひとつの笑顔がその思い詰めた面持ちをゆるやかにするに違いない。











2006−10−6金曜日午後10時19分カキコ。
千の言葉よりひとつのひるがえり。
1コマごとにひるがえり。一言ごとにひるがえり。1シーンごとにひるがえり。ワンボタンごとにひるがえり。1フレーズごとにひるがえり。一線ごとにひるがえり。一組み合わせごとにひるがえり。少数ごとにひるがえり。安全にひるがえり。危険にひるがえり。怒りにひるがえり。不安にひるがえり。願いに翻り。一小節ごとにひるがえり。一売買ごとにひるがえり。大富豪にひるがえり。貧困にひるがえり。国にひるがえり。会社にひるがえり。個人にひるがえり。一光にひるがえり。一闇にひるがえり。一色にひるがえり。一食にひるがえり。一職にひるがえり。一飾にひるがえり。一閃ごとにひるがえり。一杯ごとにひるがえり。一勝ごとにひるがえり。一敗ごとにひるがえり。一笑ごとにひるがえり。一生ごとにひるがえり。
嫌なことはひるがえらせることが出来ること。
だめなこと、いいこと悪いこと怪しいことネガティブなことのひるがえり。
ひるがえりの世界。
2006−10−8日曜日午後10時2分カキコ。
感性。
ひるがえりを感じる性質。
ひるがえりは積み重ねであり、これが数量となります。
ひるがえりそのものは積み重ねの固定化をひるがえらせますが、それが積み重なればそれはまた積み重ねとなること。
たとえば左と右。
それは個別には分かれている。
それを左右混合するのは特殊。
それを移動するのは共通。
とゆーこと。

2006−10−9月曜日午前3時22分カキコ。
伽羅のノリ。
ひるがえりのリズム。


2006−10−25水曜日午前1時27分カキコ。
歌のひるがえりは歌のじょーしき、日常に聞いてる歌のメロディラインや曲調が思ったのと違うラインを辿ること。
それでいて、奇をてらうのではなく、伝統に根ざした流れを受け継いでいること。
これはまあアニメの動きでもラジオのトークでもゲームの動きでもイラストでも音楽でも番組の流れでもそうです。
ゆえに、みんなが思い描く流れというものをどれだけ感覚しているかによります。
歌において、低いメロディラインから高いラインへの移動。
これだけでもひるがえりとなります。
ひるがえりには個別にたくさんあるので、そのひとつです。
こぶしを回転させることもひるがえりです。
歌の歌詞を発するテンポを長くしたり短くしたりするのもひるがえり。
これはもちろん曲調のほうにも当てはまります。
基本となる事柄からのずれというものをひるがえらせるのは、ひるがえりの共通となります。




翻(ひるがえ)り。


基本基礎からのずれ
普遍 共通 一般。

柔軟性の確立
特殊 集合 新性。

自在固定
個別、蓄積、唯一。




2006年11月5日 日曜日 午前2時カキコ。
ひるがえりのひとつ。
作品でかわいい女の子だとかが、自分で一人ノリツッコミをする。
たとえば、
「いやーん、今日はアイスがおいしい〜ん、だけどさーこの棒はずれちゃっちゃったの」
「だからってやめてよ、……ぼくにあたるの」
「うっさいわね」
みたいな。
いやまーこれってアスカじゃんて話。
たとえば魔法少女が変身するのもひるがえり、合体ロボットが合体変形するのもひるがえり。
だな。
歌のサビに入るのもアルピジイで戦闘シーンにエンカウントするのもひるがえり。
毒を食らわば皿までも。
ぬいぐるみがたくさん踊っていて、声優さん来ないかなーと思っていると、そのくまさんがヘッド取って声優さん。
というのがひるがえり。
たとえば話を聞く時、すぐに結論を言うと否定になってしまうことがある。
もちろんそれはケスバイケス臨機応変とはいえ。
相手がなにを言いたいのか、なにをひるがえらせたいのか聞くことが聞くことのひるがえりとなること。
なにかを言うと言うことは、なにかを聞くということは、本質が凝り固まった現実に響く呼び水となること。
それがひるがえりということ。
本のページを開いていくこと。
本質という言葉はやはり本によってもたらされたことという意味も含んでいると思う。
本をめくる時のちょっとわくわく感。
楽しみな感じ。
それはひるがえりだと思う。
ページがめくられるということはひるがえりの基本だと思う。
カメラワークだとカメラを場面を切り替えるとかね。
逆にカメラの長回しというのもあります。
そのさじ加減。
トークだとテーマを変えて行くこと。
話が脱線して行くこと。
いえいえ、ひとつのテーマをじっくり語ることもある。
コントであればボケてツッコミその繰り返し。
ツッコミ続ける(?)ことやノリツッコミもあります。
エンジェる〜んで「あれはどーすんだよ」「だいじょーぶ、これはアニメだもーん」「そっか」続くのでかい文字。
とかで行ってもいい。
いえまあ一例ですが。
さてさてな。




ひるがえり。
人は似たようなことを繰り返してしまう。
それは大事なこともあるが、なんだか退屈だとかつまんないとかゆーのはやはり悪い意味でのこと。
それは時間が螺旋上昇してるために、同じことを繰り返して見えるということもあると思う。
ひるがえりというものは時間が進んでいることを感じさせてくれること。
それは逆に繰り返すことで生まれることもある。




ひるがえり。
ひるがえり担当の人がホンにいると良いかも。
いやまあメインスタフの打ち合わせで入れればいいのだが。
時間に追われていると、ひるがえりを入れる余裕がなくなってくるもんだ。
それを入れるのが仕事とはいえね。








2006−11−5日曜日午後6時6分カキコ。
アニメとかゲームとか漫画とか等々ひるがえり。


動き(転)のひるがえり。
たとえばふつーの顔で振り返ってまた向き直ると嫌な顔して一言言うとか。
これは笑顔でも可。
女学生がすっころんでパンツ来た〜スカート土はらってなにもなかったようにまた歩き出す。
色男殴られて蚊でも止まったかなとなにもなかったように周囲見てばたっと倒れる。
ドア閉まっているなーさっきあけたのにあっそうだ、自動ドアだよこれ。
出会いがいきなり風呂場でマッパであり、服を着てからきゃーと言う起が直に転になる(ナイン)。
酒飲んでいて、怒っているかと思えば泣いていて、さらに眠ってしまっていること。
等々。

色彩のひるがえり。
ロボットの色を塗り替えてしまうとか(ゼータ)。
おんなじ服でも暗い空と明るい空では色が違うとか。
色彩は空の色が違うだけでそれは青空色だったり夕日色だったりするように。
光りには色があり、反射の角度によって色が変わること。
等々。

カメラワークのひるがえり。
カメラ(機)の移動。
ピントボケ。
カメラ(マン)も走る。
縮小と回転。
誰の視点か。
一人称三人称神視点。
それはビデオカメラかデジカメか。
等々。

風景や情景(承)のひるがえり。
風景がゆっくりとその季節や日時を変えて行くのを見ている視点。
その風景に彩られること。
風が伝えるにおひ。
風の温度。
風の動きを花びらや葉などで表現すること。
季節の移り変わりを紅葉などで見ること。

承転(または転承)のひるがえり。
風景や情景が妖怪であること。
春が少女となって舞い踊ること。
花びらや葉の動きを忍法や魔法の表現に取り入れる。
  弾丸がスローになってそれを避けるとか。
等々。




えーとこれはひるがえりの個別なのかな。
こういったことの組み合わせ、等。




翻(ひるがえ)り。性質の方向性のあり方、否定の否定、進化、などなど。


基本基礎からのずれ。場による変化。これからひるがえるでしょう(予測)。
普遍 共通 一般。

柔軟性の確立。質による時間。ひるがえりました(結果)。
特殊 集合 新性。

自在固定。量による数。ひるがえっています(進行形)。
個別、蓄積、唯一。



鬱というものは、ひるがえりを感じることが極端に出来なくなっていることもひとつあるのではないだろうか。
物事に感動したりすること。
季節の風を感じたり、季節を感じたりする気持ちの運動のようなもの。
風が空気の運動であるように、ひるがえりも気持ちの運動であると考える。
まー宇宙のような無風もいいとは思う。
宇宙というか真空に行ったことあないけどもさ。



行動と静観のコントラストそして。



ゲーム性のひるがえり。
たとえば対戦格闘ゲーム。
小キックやパンチは出る動きのモーションが速く、けれどもガードの初動で簡単に防御されてしまい、ダメージも小さいこと。
中。
大キックやパンチは出る動きのモーションが大きく遅い、けれどもガードが完璧に閉じないとガード出来ない。
たとえばキックをキックではじくことも出来るとか。
けれどもそれは大には大でないとだめとかね。
そういったことのコントラスト。
そして。
●●●2006年11月16日 木曜日 午後1時カキコ。●●●
ひるがえり。
歌や音楽を歌うのではなく、歌や音楽のひるがえりを歌うこと演奏すること。
絵を描くのではなく、絵のひるがえりを描くこと。
作品や番組を作るのではなく、作品や番組のひるがえりを作ること。
文章を作るのではなく、文章のひるがえりを書くこと。
文章を読むのではなく、文章のひるがえりを読むこと。
歌や音楽を聴くのではなく、歌や音楽のひるがえりを聞くこと。
絵を見るのではなく、絵のひるがえりを見ること。
作品や番組を受け取るのではなく、作品や番組をひるがえりを受け取ること。
●●●2006−11−17 金曜日午後12時12分カキコ。
演技ではなく、ひるがえりを演技する。
本質を感じるのではな、本質のひるがえりを感じる。
労働と賃金を交換するのではなく、労働のひるがえりと賃金を交換すること。
プログラミングするのではなく、ひるがえりをプログラミングすること。
踊るのではなく、ひるがえりを踊ること。
●●●2006−11−17 金曜日午後8時33分カキコ。●●●
伽羅を描くのではなく、伽羅のひるがえりを描く。
仕事をするのではなく、自分のひるがえりを仕事に活かす。
安全を守りつつ、安全のひるがえりを守る。
アタクしつつ、アタクのひるがえりをアタクする。
等々。




組み合わせによる質量転化。場による変化。これからひるがえるでしょう(未来形、可能性、将来への展望)。
普遍 共通 一般。

柔軟性の確立。質による時間。ひるがえっています(現在進行形、持続性、続く新しさ)。
特殊 集合 新性。

自在固定。量による数。ひるがえりました(過去形、現実性、課程が見えない結果)。
個別、蓄積、唯一。



一例としては。
話をひるがえらせる(ひるがえりの共通、組み合わせによる質量の転化、場による変化、未来形、将来への展望)。
話のひるがえりを続けている(ひるがえり特殊、柔軟性の確立、質による時間、現在進行形、続く新しさ)。
話をひるがえらせた(ひるがえり個別、自在固定、量による数、過去形、課程が見えない結果)。
かな。
過去形のひるがえりは自在に固定観念、自在固定となるが、それをひるがえりの進行形にすることで柔軟性を得る。
その場がひるがえるでしょうというひるがえりの共通である。
質とか柔軟性を取りたい場合は進行形のひるがえりで行きます。
これは続けて描いているなど。
あまり時間をつめていると柔軟性は低いようですが、続けていることで得る柔軟性と質もあります。
もちろん、一般的にというか大抵は柔軟性とか質のひるがえりを取りたいものであり、あまり時間の無い仕事などは取りたくないものです。
ひるがえりの未来形、過去形、現在進行形。
これがひるがえりの三段活用です。
ちなみにひるがえらない時はすべったと言いますが、受験生の近くでは禁句です。





千の言葉よりひとつのひるがえり。




●●●2006−11−20 月曜日午前2時55分カキコ。●●●
DSWii路線。
ファミコン路線とでも言うものがあれば、それはなんだっただろうか。
当初のゲームソフトの内容は、縦に移動するとか、横に移動するスクロールアクションが大半であった。
大ヒットしたドンキーコングやインベーダーなどは一画面であり、スクロールすらしない。
パソコンゲームではウィザードリィやウルティマが画面の移動に3D移動(元祖はさらに幾つかあるのかな(?))であったりした。
ローグはダンジョンが毎回変化するという斬新さ。
まさにあるぴじいの原点はここに帰依(きえ)すると言っていい。
この亜流をというか、派生した枝先をいま作っていると言っていい。
当初のファミコンはこれらのパソコンゲームやゲーセンにあるアーケードゲームも移植されて来る、すごいものだった。
ファミリーコンピューター
音声入力がツーコンのほうにあって、それに声を出すとゲーム画面に変化があるということにはずいぶんひるがえりを感じたものだ。
ここはスーファミ以降には継承されなかったので、DSにはサウンドデュアルしてあります。








本質を見ること聞くこと表現することは出来ない。
声で本質を表現することは出来ない。筆で表現することは出来ない。言葉でも写真でも映像でも絵でもアニメーションでもデータプログラミングでも音楽、歌、技術等々でも本質を表現することは出来ない。
その技術は本質をその一端に触れることに意味があるが、その表現の幅では本質は表現することは出来ない。
本質を響かせること。
表現出来ないが、本質を響かせることは出来るということ。
2006−9−20水曜日午後11時59分カキコ。 2006−10−3火曜日午後11時21分カキコ。

背中へ歌へ。
見えない背中を書くこと。
背中を感じること。
自分の背中を語る。背中を見る。背中から聞く。背中を触る。背中を叩く。背中を蹴る。届かない場をとらえること。


作っている時、すべての作品をインスパイアする。








迫力
お笑い
艶あでやかさ
















2006−10−3火曜日午後11時21分カキコ。
羅時尾の三大面白要素。
歌、音楽をかける。
軽妙なトーク。
ハガキ、メールを読む。








2006−10−3火曜日午後11時21分カキコ。
ヒット作品とは。
一億稼ぎ出す作品とは。
それをそのチームで叩き出すに等しい。
いわばそれが大企業に匹敵します。
ただ、これはまあひとつの作品ではありますが。




2006−10−3火曜日午後11時21分カキコ。
アニメスタジオやゲームスタジオ、漫画のアシなどに百円ショップのカップメンとか蕎麦とかでいいので一食おごること。
もちろんその有無は聞いてでね。
持って帰ってもいいんで。
会社によって豪華な料理が昼には無料でというとこもあるが、まあこれはくらいはね。
しましょうか。
という話。


だめな時は場がだめなこと。
場を作り直します。
2006−10−4水曜日午前2時17分カキコ。
作品に於いて、伽羅がなにを日々積み重ねているか。
それによる固定化。
それは悲しみであったり、お笑いであること。
そして時間が経つことで見せるひるがえり。
この流れ。
これがひるがえりの場となります。
これは歌でも演技でもカメラワークでも絵でもアニメでもプログラミングでも番組でもドラマでも技術でもとにかくそう。
積み重ねはなにを固定化して、時間が経つことで見せるその固定化された存在や概念がひるがえりを見せること。
この流れが場の変化。
起承転結で言えば、起で伽羅を見せて、承で伽羅の積み重ねを見せて、転で固定化された存在と概念をひるがえらせること。
結は結果。
となります。








起承転結について
起承転結(きしょうてんけつ)とは、なにか。
これはマジックのネタの部分に当たるので、作品を純粋に楽しみたい人はここは読まないでください。

それではまず。

起(き)。
この一文字からはなにか起こると想起するかも知れません。でも、これは前節であり、あいさつのようなものです。これから始まりますと、ゆっくりと言います。作品の内容を占う場面と言えます。たとえば、それは景色だったりします。
ここはどこなのか。
そこにいるのは誰なのか。
そんなことをゆっくりと始まりを感じさせる瞬間。
砂漠を歩くマント姿の男。
これだけで起、であります。
最初のつかみ、は最初の5分、本ならば一ページでこの始まりは始まっているのです。
最初良ければすべて良し。
ちょっと一言。
つまらない作品は起承転結が出来てない場合が多いのですが、まったく新しい作品を目指して、結果、起承転結が出来てない作品を楽しむB級作品好きな人もいます。
さて、どこで、誰がどう登場するのでしょうか。
よく、漫画は起承が無くて、転結だ、という言葉があります。
これはなんでしょうか。
転、とは、いきなりなにかが起こることを意味します。
いきなり巨大怪獣が出て来れば、これはもう転結の始まりとなります。
漫画は4ページでひとつの作品を作ることもあるので、こういうことがあり得ます。
小説や映画など、時間をかける作品ではあまり聞かない言葉です。
これはアクション物などに良く見られるものです。
雰囲気をしっとりと楽しむ作品にはあまり見られません。
ここがどこで、いまがいつなのか、これを風景で見せるのが起であり、一般的にはこういうところを楽しむ人も多いのです。
いきなり銃撃シーンなどという転結ものは、いきなり感覚に迫ると言えます。
さて、主人公やメインキャラクターが誰でどんな人なのか、感じさせることで、始まりのシーンが始まり、作品は承に移ります。

承(しょう)。
さて、二大おもしろ要素のひとつ、承です。
これは風景を主人公など、メインキャラクターの感情を通して描くことで、作品を風景から情景に変える場面であり、とても高度なテクニックです。
承、自体は作品の説明という、なんともつまらなく、地味に思えるところです。
でも、雰囲気でしっとりと感じさせる作品は承で全体を通して描くので、これがどれだけ大きい要素なのかが解かると思います。
美しい自然描写などを楽しむ作品はこれがあって始めて成り立つと言えます。
ちょっと一言。
起承転結はスポーツで言うところの走り込み、歌で言うところの発声練習のような、基礎の基礎であり、これの出来具合が作品を大きく左右します。日々、欠かさず、心がけておきたいものです。
 風はどこから来ているのか、髪は後方をとらえているようだ。
と書けば、風景は情景としてその姿をあらわします。
情景だけで成り立つ作品があります。
これはなにかが起こるでもなく、自然の時間が過ぎて行く。
ゆったりとした風景の時間。
ファミリー向けはなにかが起こるにも、家族という情景を大切にするので成り立つ作品です。
恋愛をしっとりと見せるにも、日常生活を描くにも、この承がとても大切です。
ここはどこなのか。
いつなのか。
これは誰なのか。
なにが起ころうとしているのか。
それを情景で描くことの醍醐味はとても楽しいことなのです。
ちょっと一言。
最初の作品にその作者のすべての要素が詰まっている。
と、言われます。
おいそれと蓄積した作者の情景というものは変わらないので、一作目にすべての情景は見てとれるとも言えます。
初心を忘れたら、ここに戻ることも必要なのではないでしょうか。
作品を雰囲気で楽しみたい、玄人(くろうと)好みの作品は、承、であると言えます。

転(てん)。
さて、二大おもしろ要素のもう一方の雄。
もうなにも言うことはない。
もっとも誰でも解かるおもしろさ。
なにかが起こる。
もっともベテランがその技を駆使する部分であり、もっとも一般的な作品の見せ場と言えます。
もっとも受け手が期待する部分であり、ここがバレてしまっては、作品はその見る価値を半減するいきおい。
そのために、作り手は転をいくつか重ねて進行させて、ネタバレしないように工夫します。
ちょっと一言。
起承転結はピラミッドのあの頃の壁画にはもう見てとれるものであり、あの石紙には、起承転結の原始の姿を見て取ることが出来ます。 というのは冗談ですが、と、これが転、となります。
でも、実は本当です。と、これが転の平行進行となります。
アクション物では、この部分を強調することで、受け手に期待させる宣伝をするものもあります。
派手なアクションシーン。
それを見てどきどきする。
恋愛物であれば、二人の見つめあう姿。
それだけで、見ているほうは楽しめる、とても単純で、ありがちで、でも、なかなかここがしっかりしている作品にはお目にかかれないところ。
入浴シーンなどのサービスシーンもここいら辺にあります。
主人公やメインキャラクターの行動を見せる場面でもあります。
もっとも作り手と受け手が見せ場として見る場面でもあります。
 歩いているぼくは、この道が違っていることに気づいて、また戻り始めた。
と書けば、これはもう転であり、ある意味、転の重なり具合が作品を大きく左右することが解かります。
承で貯めておいた情景が行動によって動く様は、とても爽快なものです。
自然描写にも転はあり、たとえば四季の色彩の移り具合の提示。これだけでも転となり得るのです。
ただ、新人の人は、テクニックに走ってしまう時、転ばかりを重視する傾向があるので、注意が必要です。
奇抜な話は反対には奇をてらいやすい点もあり。

結(けつ)。
起承転結。さて、その最後を飾るのは、有終の美。と、これで結となります。
最後のシーンはしっとりとしたものを望むこともあります。
ハッピーエンドなどがそのもっともたるものです。
ひねってバッドエンド、またはどうでもいいところにもっていくのもあります。
また、なげっぱなしという、あまり良く見ないものもありますが、打ち切り作品などには時たま、見られることがあります。
 私はこの道でいいと決め、歩き始めた。
と書けば、それは結となります。
映画などは、エンドロールを見て、やっと終わったと実感することもあります。
勇者は姫を悪いドラゴンから救出した。
これだけで結でもあります。
それではこれで結語としたいと思います。
と、書けば結。でも、続いているので転か承、かな。
自然描写で閉める作品も多くあります。
遠景で見る自然。
それだけで、なんだかいいものを見たような気がしてくるから不思議です。
おしまい。
の一字でも結。
映画館で見る終の大文字。
劇場でカーテンが閉まる瞬間。
それはとても優越感に似た気持ちになれて、とてもお得感があります。
自分が感じているセンス、感性が変わった気さえするものです。
作品を見終わって、自分が感じる宇宙が大きくなったり、ちっぽけに感じたりするから人の気持ちなど変なものです。
それでは、お時間もよろしいようなので、ひとまず、ここいらで退散したいと思います。それでは。


起承転結  応用編。

さて、起承転結を順番に展開する作品、情景だけで通す承だけの作品、メインキャラクターの行動だけで通す転だけの作品が成立します。
では、承と転の平行展開はどうでしょうか。
これはテクニックではありません。
なぜなら、トップアーティストでさえ、狙って出来るものではないからです。
承と転の平行展開は言葉にならない気持ちや絵に描けないことを表現することが出来ます。
受け手が感動した、という場面もここに集約します。
これはそばと、そう麺のかけあわせ、うどんとパスタを一緒に茹でて食べるようなものです。
コーヒーとお茶を一緒に飲んで、なにが楽しいのでしょうか。
なんとも変なことなのです。
ただ、本質に形がないのに、承と転をどうこう言うことはおかど違いなのかも知れません。
この一瞬を描くことができることほど、クリエイター冥利に尽きることもないのですが。
あなたが何気なく感じたことを、自然に描写してみてください。それはきっと人の心根に響くなにかとなることでしょう。
それでは。


起承転結 その他
バージョン ギャグ

承。
さて、お笑いとはなんでしょうか。
暗い話にちょっと休息を入れるのにコミカルなシーンを入れたりします。
でも、本当は日常生活は楽しいことなのではないか。
それを感じさせてくれる作品もギャグ、あるいは、承のギャグ展開と言えないこともありません。
自然を感じることが笑いにつながる。
そんな作品はとてもいいのではないかと思います。
転。
ギャグは転である。
基本的なものはそうです。
ポケとは、大事なことに気づかないこと。
ツッコミとは否定の肯定。
ギャグ作品というものがあります。
笑わせた者勝ちという単純明快なものです。
作品で泣かせるよりも、笑わせるほうが百倍難しいと言います。
ギャグを並べるだけでも作品となるくらい、ギャグとは貴重で実に単純なものなのかも知れません。
好きなキャラクターが笑ってくれる。それだけでもギャぐなのかも知れません。
指導者の言葉ではなく、ユーモアが世界を変えると言う人もいます。
あなたはどんな笑顔が好きですか。
しっとりした承のギャグ。解かりやすい転のギャグ。
自然の動物は笑わないのではなく、いつも楽しいのかも知れません。
木々の葉のざわめきが雨が自然の笑顔であることの可能性。
それがギャグなのかも知れません。
それでは。








個性(ひるがえり)の起承転結

起承転結
起の共通個性、特殊個性、個別個性。
承の共通個性、特殊個性、個別個性。
転の共通個性、特殊個性、個別個性。
結の共通個性、特殊個性、個別個性。




起の共通特殊個別個性。


いつ時間の個性。
起の共通個性。

どこで場所空間の個性。
起の特殊個性。

誰が伽羅の個性。
起の個別個性。




承の共通特殊個別個性。


季節、気候の伽羅の感性による個性的表現。
承の共通個性。

上下距離の伽羅の感性による個性的表現。
承の特殊個性。

伽羅と伽羅の関係の伽羅の感性による個性的表現。
承の個別個性。




転の共通特殊個別個性。


その季節と気候の伽羅の感性による個性的表現がひるがえる様。
転の共通個性。

その上下距離の伽羅の感性による個性的表現がひるがえる様。
転の特殊個性。

その伽羅と伽羅の関係の伽羅の感性による個性的表現がひるがえる様。




結の共通特殊個別個性。


いつ時間の個性の終わり。
結の共通個性。

どこで場所空間の個性の終わり。
結の特殊個性。

誰が伽羅の個性の終わり。
結の個別個性。




感じた違和感がひるがえって場の変化となる。
感じた違和感がひるがえって時の変化となる。
感じた違和感がひるがえって数の変化となる。


プログラミングがひるがえる。声の体躯の目線の演技がひるがえる。歌がひるがえる。気持ちがひるがえる。踊りがひるがえる。舞いがひるがえる。空がひるがえる。言葉がひるがえる。否定がひるがえる。音楽がひるがえる。演奏がひるがえる。機器がひるがえる。女がひるがえる。男がひるがえる。時がひるがえる。場がひるがえる。数がひるがえる。質がひるがえる。量がひるがえる。場の変化がひるがえる。車輪がひるがえる。愛がひるがえる。性がひるがえる。筆がひるがえる。データがひるがえる。絵がひるがえる。文章がひるがえる。話しがひるがえる。痛みがひるがえる。金銭がひるがえる。光がひるがえる。闇がひるがえる。空間がひるがえる。宇宙がひるがえる。星がひるがえる。


気持ちのひるがえり。悲しみひるがえって笑顔。とまどいひるがえってむすっとする。不思議ひるがえって心響く。喧嘩しているひるがえってじゃれている。
行動のひるがえり。歩いているひるがえってケータイをかける。書いているひるがえって消している。
場のひるがえり。その時ひるがえってこの数。
こういった組み合わせによって進行すること。そこから新性が表れて来ること。
たとえばあらゆるパターン(シチュエーション、伽羅、時間、場所等々の個別)を書き出していって、番号を振り、サイコロ(またはケータイかパソコンの番号キーを適当に押して最後の方の数)を振って(特殊)その作品のお約束(おんなじ伽羅、軍船ものであるとかゆー共通)を入れつつその組み合わせの通りに作る。
こうすると作劇プログラミングの完成です。
もちろん、肝心要は自分で作るのですが。
試験の時にえんぴつ転がすようなものですが、いがいとこんなもんです。
ひるがえるという部分は否定の否定となります。
ツンデレも否定の否定の一種です。
たとえば魔法少女ものでは魔法を使う場面がひるがえる場面であるわけです。
転は作品の話しがひるがえる場面です。
バトルもので必殺技が出る場面がひるがえりとなります。
これがはずれたらおまえの勝ち、あたればこちらの勝ちだー!!!!!みたいな。
服装のひるがえり。
シャツなどのラフなスタイルなのに、ひるがえってスーツとか。
ズボンなのにひるがえってスカート。
ひるがえりの場
ひるがえりの質
ひるがえりの量
これが技のキレいえいえ、仕事の生活の個性の空間と時間と数を決めます。
本質は見えない、聞くことが出来ない。
結果だけが見聞出来るだけです。
けれども、ひるがえった時だけ感じることが出来ます。
桜の花弁はひるがえるたびに表すこと。


萌えとは2006−9−14木曜日午後1時6分カキコ
ひるがえった伽羅にそのカタルシスを感じた時、萌えるとかときめくと言います。
いわゆる萌えは伽羅への愛情、思い入れの意味であり、広義には伽羅が感じた情景を感じた時が広義の萌えとかときめきと言います。 2006−9−16土曜日午後9時58分作品の場合をカキコ。
作品の場合はジャンルが変わる時にひるがえると言う場合もあります。
たとえばお笑いやノリのいい感じを基調としていた作品がシリアスでハードな感じに移行すること。
4コマであったのに、連続するふつーな感じにすること。
ハードバトルで来たのに恋愛ものにすること。
生活はコミカルにバトルはハードにとか。
これは作品としての転、転換期にあたります。
アイドルとして売り出したきゃぴきゃぴの女の子が女優になって年取って、大人しい雰囲気になるようなもんか、な。
作品のひるがえりの場合、伽羅すべてがひるがえるということであり、それだけの準備が必要です。
いやまあ作って行くうちにちょいずつ変えて行くのもありあり、地味にね。
なのでギャグ用とシリアス用に路線を変えてシリーズ展開する作品もあるくらいです。
たとえばテレビアニメではギャグ調軽いノリで劇場版では堅いシリアスなノリ、というようにね。
本でもギャグ調のものとシリアスなものと。
もちろんそれらをサンデュすることもあります。
転の転もあります。
転の転の転の転の転の転も……ええ、まあね。


起承転結の承が萌えとかときめくと言い、広義、一般としては伽羅が感じた風景や雰囲気といったもののことを指します。
狭義には情景を表現する伽羅そのものに感じ入ることを言います。


テレビアニメならば一回21分。一分に一回、21回のひらめきがほしいとこです。
漫画ならば1ページにひとつ。
とは言ってもそんなにでかいひらめきでなくていいのです。
お茶がにがいよこれー。とか。
くしゃみするとか。
そんな小さなことでいいのです。
2006−9−21木曜日午前1時54分カキコ。


文章、ゲームでも選択肢のあるものは、その選択肢に対してどうひるがえるか、その数量が質を決定します。
そのひるがえりにも選択肢を入れてランダムにするとぐっと感じが出て来ます。
2006−9−18月曜日午前3時21分 2006−10−1日曜日午後9時15分文章とゲームのとこに( 、)をカキコ。


2006−9−17日曜日午後4時29分カキコ。
伽羅のノリ。
ノリの個性とはたとえばそれはメロディです。
気持ちのノリ加減。
それはメロディが聞こえるということにあります。
いい作品のいい伽羅にはメロディが聞こえてくるものです。
ハードなバトルアクションしてるのに、ノリノリで遊んでいるような、とか。
いつでも楽しそうに生きているような。
いつでも根暗が服着て歩いている、ような。
誰とも口を聞かないなにも響かないノリとか。
いつも熱血でビートにあふれているようなノリ、とか。
いつも静かで落ち着いた感じ。
もちろん落ち込んだり楽しくなったり千差万別ではありますが、その伽羅が持っているノリというもの。
ステレオタイプなパターンな感じというものがあります。
これはその伽羅が響かせる内にあるメロディそのものです。
いくつものメロディを持っている技術派な伽羅もいれば、これしか出来ない不器用な伽羅。
まあそれは比較かも知れませんが。


作品メイキング
まずは伽羅たちのノリのパターンを決めます。
最初は多少ステレオタイプでも途中で変わって行くのでシンプルでおっけい。
無表情、鬱っ子、熱血、ユニーク、お笑い担当、泣き虫、ひにく屋、おこりんぼ、かっこいい等々。
そんな感じで。
この個別のノリと一緒に共通になる作品のノリを決めます。
ギャグかハードバトルかシリアスかコミカルかなんでもありかファンタジーか剣と魔法のファンタジーか魔法少女か……。
多少ありがちに思えても、作っている途中でどんどん変わっていってしまうものなのでおっけい。
最初の話はどういうことが得意な伽羅なのか、この状況の中ではどれだけの限界を持っているのかを伽羅たちのノリで見せて行きます。
シチュエーションという場は伽羅たちのノリを見せるために構成されます。
宇宙からの大気圏突入。
光りの速さへの挑戦。
バレンタイン、クリスマス、お正月。
風景のメロディ。
背景のノリ。

一人のノリで描くソロの場面なのか、少人数のノリが奏でる小さな組曲なのか、全員のノリで描くフルオーケストラなのか。

二人が奏でる二重奏(デュエット)。
三重奏(トリオ)。
四重奏(カルテット)。

伽羅のノリをどんどん合奏して行ったほうが格段にいい作品になりますが、それは倍々に作る方がたいへんになることも意味しています。
ソロの伽羅の感性にみんなが晴れやかに変わっていくのを描いた作品。
また恋愛ものや刑事ものなどコンビで描かれるものもたくさんあります。
これに対して三角関係を描く恋愛ものや伽羅の多い群像劇を描く場合など、色々あります。

コンビやトリオ以上で描かれる作品にはチームワークを描くことも多くあります。
この伽羅と伽羅のズレの対比がお笑いとなります。

伽羅のノリは感性であること。




伽羅のノリとは。

緩急
普遍、共通、一般。
異同
特殊、集合、新性。
対比
個別、蓄積、唯一。


起、ひるがえりのノリの始まりは違和感。
承、ひるがえりのノリの途中はとまどい。
転、ひるがえりのノリのひらめきはきらめき。
結。ひるがえりのノリの終わりは終わりの始まり。
2006−9−18月曜日午前3時37分カキコ。



伽羅のノリを見せるとはすなわち伽羅の個性を伸ばすのと同じ意味です。




2006−10−2月曜日午後12時37分カキコ。
ひるがえりを感じられない時、受け手はその作品をつまらないとか暗いとかイマイチとか、まあそんなふうに言います。
伽羅の生活の小さなひるがえりを感じられない時、受け手は伽羅を認識することが出来ません。
伽羅の夢のひるがえり。
伽羅の属性のひるがえり。
シチュエーションのひるがえり。
気持ちのひるがえり。




一番言いたいことは言えない。一番描きたいことは描けない。一番見たいものは見れない。一番聞きたいことは聞けない。
それは本質が直には見ることも聞くことも出来ない。
からではなく、言えたらそれですんでしまうじゃないかなという話。
つまりはそういうなんが分からないこと。
そこをテーマとして作品を作ること。
たとえば目標があって行動があるように、これは対比ではなく、なんと言うかまあそうゆう見えないこと言えないことを表現することがあると言えます。


スズタカナイズ クリアナイズオープン。




2006−9−25月曜日午後12時52分カキコ。
ひるがえり、キャラの転、性格または属性(ノリ)の否定の否定。
ツンデレはひるがえりの典型的なひとつ。
またはひるがえりの共通。


たとえば最初の頃はずっと逃げ腰だったしんじくんがここぞという時にひるがえって勇敢。
少しづつ強くなって行くが、今度はひるがえってうずくまってしまう。
キャラの成長によってひるがえりも変わって行きます。
またひるがえらないキャラもまれにいます。
そんな人を超越したような感じのキャラの場合、実は人でなくなになに族でしたとかゆう話だったりもします。
これは話の転に持っていっています。
こういったひるがえらない中性的なキャラは作品世界のひるがえりの比較基準となります。




2006−9−20水曜日午前2時36分カキコ。 微妙なずれ。
私が歌を作る時は作品作りと似たように作ったりします。
作品のテーマをそのままタイトルにしたりします。
たとえばそれはデジタルモンスター、デジモンとかね。
ピンクのバンビはそういうタイトルのアニメ作品があってもそのおぷにんになるような感じです。
これは私がアニソンを作る時にアニソンはその言葉を連呼するというとこから来ています。
ファイファイバードファィバードファイドーバ
とかね。
これは別にらいおんハートでもいいわけです。
こちらはメロディラインが良くできていたのでメジャーのほうに持って行きました。
いやまあ新谷さんもメジャーの一端にいる人じゃないですかという話ですが、私にとっては声優さんというのはアニソンというくくりなのです。
ただ、全盛期の95年あたりはガンダムウイングのオプニンが高山さんとソンガーとのコンビで100万本突破したり、ポケモンのおぷにんが松本梨花さんで200万本突破したりしました。
これは売れるとは思いましたが、ここまで行くとはという感じでした。
エヴァも94年ですね。
すでにアニソンが子供向けという感じはなく、いやまあアニオタというかアニメ好きの若者も多くいました。
95年で私は23歳。
セラムンが92年で20歳の時だったので、余力がまだ余っていて、それでいて技術力も上がって絶好調でした。2006−9−25月曜日午後1時4分年と年度のとこカキコ。
無表情、熱血、内気の三パターンをエヴァで入れて、これはレイアースの三人とか、セラムンの五人をさらにバランス良くしたものでした。
これはハルヒでも使っていますね。
アニソンは白黒アトムのキャラクター商品展開の一貫として、またその歌もテレビで毎週宣伝してくれるような意味あいもあり、コンスタントに固定CDが出ていました。
アトムの歌は結構売れたと思います。
音楽の教科書にも載ってます。
なので歌い手はどんどん変わっていても、アニソンがいがいとCDを出すという状況は伝統のようなものになっていました。
固定CDといえば、歌い手がどんなにか願ってもなかなか出せないものです。
作今は歌のデータ販売とかネットで公開とかインディーズとかありますが、かなり昔からアニソンというものは歌の市場としては手堅いものがありました。
刷られる枚数は多くありませんが、コンスタントに出るとこに数量というものがあります。
ライオンハートなどはふつーの歌のように思いますが、メロディラインがはずれて行くのです。
ふつー歌をうたう時は曲にあわせて歌おうとします。
けれどもその極意は歌がメロディラインからずれて行くことにメロディラインの極意があります。
これはまあ言葉では伝えるのは限界があるのですが。
ふつーに思う曲線のメロディラインよりも変化球のようにずれて行くのがヒット曲の極意ですね。
これがメロディラインのひるがえりと言います。
これはカメラワークでもこういうふうに動くだろうラインから少しずつずれて行くことがひるがえりとなります。
声優さんの声もそうです。
というか演技における声の部分というか。
演技の体の動きのほうにもこのずれによるひるがえりがあります。
動画でも原画でもそう。
原画の場合はイラストとおんなじずれで、この曲線具合のずれということになります。
ただ原画の場合は地味に伽羅デザイン通りを求められることもあり、なかなか難しいとこです。
総作画監督などのある作品、これはいい悪いではなく、そういうスタンスの場合このスタンスの場合という方向性のようなものとなります。
アクションシーンではかなり崩した作画をコンテが求める場合があります。
ホンを演出するように、コンテを原画が解釈でずれた作画の演出をすることも出来ますが、その場合は作画監督などメインスタッフに伝えたほうがいい。
これはメインスタッフが作品の全体のバランスを取る役割であるため。
漫画では編集者がこれに当たります。2006−9−20水曜日午後12時41分アクションシーンではのとこからカキコ。
お笑いが日常から少しずれて行くことが笑えるように、この基本からずれていく微妙さがひるがえりとなります。
話でも、料理の味でも。
これはなんでもそう。
共通の部分になります。
基本が出来てないとこの微妙なズレのバランスはとれませんよー。
たとえばセラムンは地球を救う戦士が美少女?でセーラー服で戦うというとこにまずずれがあるわけです。
ずれの対比のために優等生を出したりしますが、優等生たってなにがいまの常識? 基本、バランススタンダードかということが分かり、それを微妙にずらしていくこと。
これがまさに極意となります。
最初は歌の話だったけれどもこの話ずれてきたでしょう。
これがずれですね。
こういうずれの積み重ね、その柔軟さ等々がひるがえりの質と量となっていきます。


2006−9−26火曜日午後8時58分カキコ。
シチュエーションと伽羅の組み合わせの場の変化。
シチュエーションというのは平たく言えば状況のこと。
突っ走っている二人。
ひとつしかないトイレへ向けて走っている。
これがシチュエーションです。
この走ってトイレを争っている二人は誰と誰か。
これが伽羅の組み合わせになります。
恋愛ものであればそのジャンルが広くは状況となり、愛を巡る二人とか三角関係などが組み合わせとなります。
シチュエーションとはたとえばいま命がけのバトル中なのに伽羅がボケまくる。ということ。
シチュエーション、つまり状況そのものが基準となり、それをずらすことで伽羅がずれを生み出し、伽羅の個性を伸ばすこと。
いい男がヒロインにいい雰囲気なのに女は酒の味ばかり気にしてぼけている。
いい雰囲気なのに〜と、これはシチュエーションという誰もが思い描くいい時間をずらすこと。
ある意味シチュエーションとは理想が実現してる場面なのに伽羅がそれをスルーしている時に生まれると言っていい。
ロックのライブで演歌歌いだす奴とか。
これはまあ極端なというか分かりやすくことですが、もう少し微妙なとこを積み重ねることがシチュエーションの組み合わせとなります。
たばこ吸っているのに小指が立っている。
服の着こなしが微妙にへた。
そういうちょっとみていたらスルーすることの積み重ね。
これがシチュエーションの組み合わせであり、これがどれだけ積み重ねるかが仕事と言っていい。
「あんた煙草逆さまよ」
「うわっとっとっ。ばか、これがいまのはやりなんだよ」
「ばあーか」
とかなんとかね。
シチュエーションの組み合わせは作品に迫力を出したり、作品のお笑いをあげたり、日常を描いたり、壮大なストーリー、伽羅の個性を伸ばしたり、七面六尾に使います。
この組み合わせをどう積みかねていくか、それが職人の求められることです。
2006−9−30土曜日午後12時52分カキコ。
シチュエーションとは、伽羅を組み合わせることが出来る場であり、これが場の変化、ひるがえりへとつながります。
どういった伽羅を個性の伸びをする。
それを組み合わせる場がなければそれはすれちがいのままです。
シチュエーションという場で伽羅が組み合わされた数量によってひるがえりという質は生成されます。


たとえば歌というものは言葉を音符に変換してその幅に納めて行く作業。
これがメロディラインとなります。
この音符の組み合わせの積み重ねがメロディラインであり、歌の基準となります。
ここからずらしていくことの組み合わせの積み重ね。
これがいい歌となります。


2006−9−27水曜日午後7時47分カキコ。
伽羅がひるがえるまで日記を書く。
話が動き出すまでシチュエーションを書く。
よってひるがえりはその結果にすぎない。


2006−9−27水曜日午後7時50分カキコ。
(場の組み合わせによる変化)シチュエーションの連打。
普遍、共通、一般。
(場の組み合わせによる変化)ひるがえりの連打。
特殊、集合、新性。
(場の組み合わせによる変化)伽羅の連打。
個別、蓄積、唯一。


たとえば、料理のひるがえりのひとつに、見た目で想像したのと違う味がするというものがあります。
これはアニメやドラマで言えば、予告とはいい意味で違ったいい話だったという翻りとなります。
経済もひるがえります。
ひるがえりというものはある面共通といえます。
ひるがえりというのはつまりはまあ否定の否定のことです。
否定の否定されないと積み重ねで固定化されてしまい、力を悪い意味で失ってしまうのです。
と言って時を止めるとゆーことはなく。
時は積み重なっていきます。
時間は場の変化となる空間であり、時間は柔軟性となる否定の否定であり、時間は積み重なる固定でもあります。
たとえば地層を見ると固定化された時と空間が見てとれます。
もちろん地層も時間がたてばそれはまた別のなにかへと変わっていきます。


2006−10−2月曜日午前1時21分カキコ。
三大ヒット要素の一面。

アクション。
えろ。
お笑い。

アクションというのはまあ剣劇や車とか飛行機でのチェイス。
銃とかでどんどかという作品。
えろはまあえっちな作品。
性的なものを奮起させる作品。
この二つは長らく犯罪を生むのではないかと論じられて来たジャンルでもあります。
暴力シーンを見るから犯罪に走る。
性的なものが犯罪とかに関係すると論じられて来ました。
そこまでいかなくても子供の豊かな情操教育に影響があると論じられています。
ゲームやアニメとか漫画、若者向け映画やテレビドラマでアクションや性的なものがある作品は子供に見せないという親が結構いたものです。
これに対して音楽はとてもいいとされていて、アニメの音楽などを聴いていると、これはどこのクラッシックかと聞かれたものです。
その低迷的な単調さや過激さが問われること。
まあずっとゲームしっぱなしはどうかと思いますが。
いまはゲームでもどんな内容の作品か、子供に買う時分からないという親の意見のため、対象年齢を書いたり、暴力シーンがある等書かれたりしいます。
アクションというものはレースもスポーツでもそうであり、これを見せ場にする場合もアクションに含まれます。
まあ一般的には銃をばんばん撃っているような作品のことを言いますが。
たとえばアクション映画を見て自分がなにか強くなったように思ったりする。
性的なものは国によっては規制がかけられ、えっちシーンは禁止、場合によってはキスシーンですらだめなとこもあります。
人を興奮させる効能はあると思います。
お笑いはまったくもっていいだろうと思われています。
まあお笑いも下品とか下世話、軽口と言われることがあり、下根多などはそのもっともなことのひとつにあげられます。
この他にも三大ヒットとしては、恋愛もの、動物もの、ジュブナイルなどがあります。
恋愛ものはまあそのまんま。
動物ものはまあ某飛行機に乗るねずみとか、猫がねずみを追っかける。
動物を見て楽しむ作品。
ポケモンのようなものもこれにあたります。
そしてジュブナイル。
これは少年少女もの。
少年とか少女が頑張る姿を追う作品であること。
ですから、人気がない作品にはてこ入れとして、動物が出て来たり、突然アクションものになったりします。
これはそれだけ必要とされているということでもあります。
大の大人が延々と悩んでる姿を見ている作品というものは、それだけ円貯芽としては需要が低いと言えます。
悩みを延々と追ったようなシリアスな作品にもひるがえりはあり、悩みが壮大な風景に癒されたり、人に負った傷が人に癒されるなどがあります。
恋愛もの、動物もの、ジュブナイルは比較的安定性があるとされるものであり、一般的に見ることが出来ます。


上同カキコ。
間断なく、根多を自分のノリで話すことが出来ること。
これがメロディラインに匹敵することが羅時尾である。
これが自分のペースとなり、このペースを心地よいと感じた人がリスナーとなってくれる。


2006−10−2月曜日午後11時7分カキコ。
場のひるがえり。
作品では伽羅と伽羅によっていやまあソロでもひるがえりが起こる場を作り出すこと。
空間を作り出すこと。
そこで自分が自由に組み合わせが出来る場を作り出すこと。
これは理論でも場所でもそう。
これが最初の作業の9割を占めると言っていい。
これさえきっちり地道に作っていれば、どんな作品でも歌でも絵でもアニメーションでもプログラミングでも文章でも伽羅でも演技でもトークでもとにかく良くなっていく。
後はブレイクするのを待つだけである。
ひるがえりの質と量でいまが変わる。
歴史を調べ、現場に足を運ぶこと。
過去にはひるがえりがいくつもあり、それを調べそれだけでなく、ひるがえりの場も見ること。
これはひるがえりに必要なことの下調べになります。
たとえば歌であればメロディライン、ビデオゲームではプログラミング、アニメーションではアニメの動き、映像ではカメラワーク、文章では言葉運び、とゆうように、基礎、基本となる部分がひるがえりの場となります。
たとえばメロディラインは声の高低と伸ばし、言葉の音符化などが言えます。
声の高低   普遍、共通、一般。
声の伸ばし  特殊、集合、新生。
言葉の音符化 個別、蓄積、唯一。
また音楽との組み合わせで、さらにそのひるがえりの場を広げることが出来ます。
たとえばサウンドデュアルはこうやって普遍と特殊と個別にたまにまとめることでひるがえりを見ています。
さらにさらに絵の基本はライトライン、光りの線と面取りであることが言えます。
アニメの総集編や本編に3分か4分のマッドアニメ(歌にあわせた編集もの)を3本程度入れれば、ぐっと内容にひるがえりが入ります。


2006−10−4水曜日午後3時9分カキコ。
じゃんけん効果。
伽羅のひるがえりの関係性には苦手な相手がいるということ。
けれどもその一方で常に圧倒する相手がいるということ。
それが三人連なること。
たとえばエヴァではしんじよりもあすかのほうが強い。
けれどもあすかはれいにペースを崩される。
れいはしんじのやさしさにペースを崩される。
これがじゃんけん効果となります。
三人いることでその日常をひるがえらせることでどの伽羅も万弁なく個性が伸びます。
りつこの計画的なマイペースをみさとはあっけらかんとした行動や突飛なもので崩す。
みさとのアクティブなペースを加持は昔の関係性とかのらりくらりとした態度で崩す。
加持の口説きをりつこは冷たいマイペースで崩す。
じゃんけん効果。
いやいや、碇指令と冬月副指令は二人じゃないかということですが、これは二人にだけゆいが見えているという裏設定がありました。
たとえばセラムンではうさぎのぼけペースをれいちゃんは強気で崩す。
れいちゃんの強気のペースは亜実の頭脳明晰なマイペースに崩される。
亜実はうさぎにやさしくするので、甘え上手なうさぎが勝つ。
これが五人だと、五角形になりますが、基本的にはじゃんけん効果は三人でします。
出来ますけども、収集つかなくてどたばたになりがち。
たとえばレイアースでは陸→海→風→陸。
赤ずきんチャチャではりーやとしいねちゃんがライバル関係にあります。
これは二人の関係性にあたります。
二人ではライバルとか恋愛関係、コンビとか友人とか二人で一人前などがあります。
恋愛の側面の場合、その伽羅にはツンデレ属性が付与されます。
セラムンのはるかはソロとしては一匹狼の属性であるが、みちるがじゃんけん効果で強いためにひっぱりまわされる。
二人の関係性としては百合である。
これはマリア様が見ているの原型、ひな型となる。
ソロでは、しんじは鬱属性であり、それをひるがえらせるために、最後は話そっちのけでしんじのひるがえり話をしている。
綾波は誰とも関係性を持たない無、ゼロの属性であるが、しんじのじゃんけん効果によってひるがえり、笑顔を見せる。
アスカは女王様属性ですが、どんなに高ぴしゃでもレイの無の属性には負けていました。
アスカはレイとシンジをライバルとしますが、レイは無の属性で、シンジはゆずってくれるので、まったくこの関係性は構築されませんでした。
じゃんけん効果がずれた時にもひるがえりは起きます。
フルバやカノンのような一人に対するヒロインズがいる場合は、主人公がおかーさん属性となって各伽羅を助けます。
ツンデレは恋愛属性のことであり、恋に落ちること、それはまあ昔からありますが、私が参加した中ではやはり木野まことのなんでも先輩が最初の頃だと思います。
木野まことは強気伽羅としての登場でしたが、れいちゃんとかぶるので、より行動派で力で押しきるパワーガールに変わっていきました。
れいちゃんはその分おんなじ強気でもちょい嫌味で霊力に特化していきました。
うさぎはボケのドジッ娘属性。
それがひるがえってほんとにくるりと回転して魔法で最後にはっきり決める。
またじゃけん効果を無機質に適用すれば、ハードディスクのような記憶媒体と移動媒体たる円盤やメモリーと光を取り入れる構成にも応用可能であり、これは商用ネット構築とかハイブリッド車にも適用されています。
じゃんけん効果、というか、こういった3、2、1のコントラスト。
これが場の変化の場と言えます。
場の変化の場はサウンドデュアルの適用となります。
2006−10−5木曜日午前3時2分カキコ。
伽羅の関係性を地味に積み重ねて描いて行くこと。
この職人的な積み重ねが作家のお仕事です。






なにに対して歌っているのでしょうか。
その物語は、それはなにを空間構成しているのでしょうか。
受け手にというのはふつーですよね。
それは本質へと向かって歌っているのではないでしょうか。
本質空間構成。
本質時間構成。
本質数量構成。


心に響く歌。心に響く絵。心に響くアニメ。心に響くゲーム。心に響く漫画。心に響く音楽。心に響く声。心に響く言葉。心に響く文章。心に響く物語。心に響く人。




口調、性格。シチュエーション。外見。衣装装備。肩書き。声優。


野球や剣と魔法のファンタジーなどの作品ジャンルも広義にはシチュエーションのひとつになります。




人はまず他人のことを知らない。自分のことを知らないこと。
さてさて、人は基本的に他人のことなんて分からないという前提。
宗教が主義主張がいえいえそんなことではなく、茶碗のひとつも置き場所違うよとか分からないとゆー話し。
これは作品作っていても受け手の趣味趣向なんて分からないのと似ている。
だからまあ手探りでの作りになるわけですが、これは暗闇に石を投げてその波紋から結果の一端を知るようなものです。
基本的に他人のことなど分からないという前提。
いえいえ、自分のことさえ人は分からないことが多い。
蓋を開けるまで分からない。
ちょうど背中が見えないのにこうだろと言うのに似ている。
そんなの相手も見えないでしょということである。
ではまあお手上げなのか。
職人があたりを取ってこうだろうという感覚的なものなのか。
それもあります。
電話のサポートで見えないパソコンの故障を推理する。
闘ったことのない相手の力量を計る。
そもそも自分も見えないもの相手も見えない世界そのものを闇鍋するなどということ。
それでいて、ある程度ちゃんと筋の通った作品であること。
相手と話していて要領を得ない。
そんなもんだよ人生は。
宇宙の果てはどうなってんのか。
ミクロの先にはなにがあるのか。
どうせわかんねーならば適当なことを言ってとりあえずは乗り切ることかな。
見えない世界の当て込みかた。




受け手はオリジナルがどうのと言うわりにはあまりに新しいまったく見たことのない作品など逆に見ないもの。
ここは地味〜にステレオタイプにありがちに始めて、じょじょに新しいものを入れていきます。




最近の作品は……
迫力があるが迫力がない。
ネットでの底上げは作品にも見られ、その内容は高いものになっている。
けれども底辺が底上げされたために、比較してエヴァやセラムンクラスの作品はばんばん作られているが、その迫力は比較的低く見られている。
もっと迫力のある作品を求める傾向もあるが、そこはまあそういったものはインフレを起こすので、バランスでまずは捉えるような作品が求められていると思う。
もちろん、その中でも比較緩急というものはあるが。
これはいつでもそうで、鉄腕アトムを越える作画的クオリティを連発する最近のアニメにおいても、作画は低く見られてしまう。
やはりいまの時代という時間同一軸での作品群がもっとも比較対象されやすいのはおんなじ。
批評家や作り手は時間軸を得て作品の歴史から語ることが多いが、一般的にはそこまで見える人は比較的少ないものだ。
もちろん、ネットの情報で簡易に比較出来るようになったので、ぷち作家が増えてはいる。
2006−9−12火曜日午前2時カキコ 強さのインフレ。
私は地球を破壊出来るその力を上回る宇宙を破壊する力〜とかやっていると力のインフレを起こします。
そもそも物理的に宇宙よりも大きな物質はありません。
そういった力のインフレ指向ではなく、こういう能力を持つ相手をこの能力によって倒す。
こういった戦略を持つ相手をこういった戦略で倒す。
これが強さのバランススタンダードとなります。
相手が持つ能力とこちらの能力の組み合わせ。
相手が持つ戦略とこちらの戦略の組み合わせ。
それによって制す戦い。


普遍、一般、共通。
戦略
特殊、集合、新性。
能力
個別、蓄積、唯一。

共通の力というのは、たとえば魔法少女は魔法によって戦います。
そして相手も魔法のような力で戦う。
いやまあ魔法少女が戦うというのは派生のひとつなのですが。
すっかりこの路線が定着している(笑)
剣であれば剣で魔法剣ならば魔法剣で。
特殊能力ならば特殊能力で。
格闘技ならば格闘技で。
巨体ならば巨体で。
異種格闘技のような場合もあるが、基本的におんなじ土台のルールというのも変だが、その流れで戦う。
これはいかなファンタジーといえどもジャンケンのような強さの属性が無いとなにが勝ってなにが劣っているのか分からないから。
これに対して別個の能力というのは剣や技の流派・派生であったり四大精霊的な炎、水、土、風といった魔法の属性のようなものであったりします。
また伽羅の個性によってその技や剣、魔法等々が個性的に描かれることを個別に描くこともあり、これは個性の伸びに属します。
伽羅の組み合わせにより、能力は変幻自在であり、また一人でも場との組み合わせで変幻自在を表します。
2006−9−13水曜日午後12時カキコ。特殊のとこの唯一を集合に変更。力と能力の項目を追加カキコ。



当たり前のようですが、映画の二時間で人の一生やらねこんな場面やあれやこれや日常など入るはずもありません。
実際には二時間って行ったら車で移動してたら過ぎてしまう時間です。
休憩室で待ってたら、眠っていたら。
それをそのすべてを描くのですから、これはつまりは人生時間の圧縮なのですね。
受け手が見る時が解凍となります。
捨てられない漫画があります。
どんどか捨てる漫画もあります。
この違いはなにか。
それは思い入れがあるかないかです。
2006−9−12火曜日午後9時カキコ。







視聴率とか売り上げヒット等のバランススタンダード
組み合わせの数量が直に販売数につながります。
とは言っても、俳優さん千人いてドラマ作ればヒットするかと言えば、あわただしくてそんなに覚えられません。
これはまあ長く続く番組ならばともかくたとえば映画とかならば限界というか、インフレを起こすことになります。
なので組み合わせのバランスによって質とか量に変えます。
これがバランススタンダードの場面となります。


絵は曲線、歌などは音程の幅で組み合わせを行っています。
なんだか少ないような気もしますが、遺伝子などは四つだけで構成されています。
これは四つの組み合わせの長さで幅を広げています。
コンピュータの情報など0と1で行います。
温度などは4度の違いがどれだけ幅の広さを持っているか分かります。
いまある温度の幅も系統樹の枝の先であると言えます。
それに比べたらば文字の多さはかなり多いと言えます。
楽器や筆の数も多い。
これはそういった物品や文字が人が作り出せる範囲にあることがあります。
色彩もその組み合わせは無数にあります。
色彩そのものは数量の場面ではみっつの色、その組み合わせの濃度から形成されます。
言葉も数量の場面ではみっつの概念その組み合わせの濃度から構成されているのかも知れません。


マッドソングと同人ソング、創作ソングの違い。
マッドソングというのはプロが作った絵や映像や歌や音楽等を元に別に組み合わせて作ったプロモのことです。
同人ソングは絵とか歌を自前で用意するので、一応プロの素材からは距離を取っています。
2006−9−13水曜日午後11時カキコ。







つまらない作品。おもしろい作品。つまらない作品のつまらないとこの提示。ひるがえってそれは逆にすればおもしろくなるのではないだろうか。それでは行ってみよー。
まずは受け手が知りたいことを教えてくれない。伽羅の名前は。どうやって生きて来たのか。作品世界でどういう存在なのか。どうやって現実を乗り越えて来たのか。
いつどこで誰がどうしてどうしたが無い。いまは昼なのか朝なのか。ここはどこの街なのか。誰の家だろうか。どうしてこんなとこにいるのか。どうして出て行かないのか。
そのわりに知りたくないことをだらだらと教えてくれる。いわゆる蘊蓄(うんちく)なのだろうが、その伽羅が最近どうしたかではなく、世のことわりだかなんだかを延々と語っている。ブログとは言わないが、最近どうしたのということが知りたい。
ノリというか緩急が無い。へいよーそれでよーだからさーなにがさー。そゆことさー。
いいシーンが中途半端に終わってしまう。帰って来おいよおー。
伽羅の夢や当面の目標というものが分からない。貧乏脱出だー。とか。この楽器が弾けるようになるぜー。とか。いまどきパソコンの操作だー。検定2級ー。とか。
伽羅のおかれている状況が分からない。どういった方向性を見て挫折して、だからいまはこんなとこでくすぶっている。ああ、貧乏がみんなわるいんじゃーぽっど。ぽっぽーっ。
伽羅がなにを頑張っているのかそれによってなにに失望しているのか分からない。
分からないからと言って受け手に感じさせないで言葉で説明したりする。
出て来る伽羅がみんなせっぱ詰まっていて、余裕のある伽羅がいない。
伽羅がなにに魅力を感じるのか分からない。
伽羅の仕事というか作品世界での役割が分からない。
なんの、伽羅の雰囲気を楽しむ作品なのだーと言ってそれほどあるものでもない。
総じて魅力のある伽羅がいない。
だからどうしたらいいかの分かりません。けれども、ここで一番苦労するのが作り手の仕事のようなこと、かなあ。
つまんない作品ておもろいことだけで作品作ろうとするんだよね。つまんないこととおもろいこと。どちらかではなく、それをサンデュすること。それでもいいと思う。さらに新しいものを作ってくれるならなおいいと思う。ほんま、こんな慣れで作ってたらいかんでえー。だからと言ってどうしたらいいかなんてわからんけどなーははん。
慣れで作ってしまうこと。若い頃はなんでもかんでも初めてでした。その頃の気持ちが残っている時はいいものが作れます。けれども年を取るとそんな頃の初めてなになにという青春の日々は忘れて行き、慣れで仕事するようになる。いやまあそれでも一生懸命やってんですけどね。そうするとパッションというかやる気のようなものも劣ってきます。こんなもんだろと慣れで作り慣れで見てしまう。そしてなんとなく前に進む。感性をとぎすませたあの時代はいずこ。慣性惰性で前に進む日々だよと。たまには演劇見に行ったりね。スタフの中に演劇やってる人っていたりするからそんなとかね。




演出。




新性。オリジナルと言えば独自性と訳される。けれどもここでは新性(しんせい)と訳す場合を論じてみよう。まったく新しい表現、世界初であること。まったく新しい表現、世界初を積み重ねること。これが商売でもなんでも上手くいく。でも奇をてらってはいけない。ガマガエル三匹でお手玉、ジャグジーじゃーとかやってはいけないという話である。いいものは常に新しいチャレンジに味方してくれるものだ。新性というものは人の積み重ねによる固定化、固定観念をほぐしてくれる作用がある。ので、新しいことはいいことだとみんな言うわけだ。うん。いいよね。柔軟性というものは言葉に出来ない。確かにまったく新しいものであれば、いま言葉に出来ないと言える。だって言うことが出来るなら新しくねーじゃんて話しだよね。
新性(しんせい)とは初めて出会った時の気持ちで物事にあたること。初めて歌をうたった時の気持ちで歌をうたい歌を作る。そんなの覚えてねーじゃんとゆー話ですが、この歌を初めて出会った歌だと思って歌うことが、人を感動させる歌をうたえるのだと思います。初めての作品作り、初めて見た作品のように見る。歌をテレビを本をラジオを映画をネットを絵を初めて見たように聞いたようにとらえる。そして初めて作品を作ったような気持ちで作る。初めて笑った時、初めて楽しかった時。等々。初心忘れるべからずということですよねうんうん。
そんなに世界初があるはずないって。それはそう。そういう時は昔の本やデータで経緯について語っているものを読んだりすること。昔のこととか後は外国のことだとみんな知らないことが多いからある程度真似(マネ)ても新しい。昔のことだと、初めてそれに遭遇した時のことが書かれていたりする。その時、その時代には立ち会えなくても、その当時の話しを読むことで、感じはつかめる。ロケットが初めて月に行った時のこととか初めて印刷というものが出来た時のこととかね。




過去の構成要素のひとつに因果があります。これは誰にでもあり、これによって人は行動原理が決まって来ると言えます。たとえば若い日の一冊の本がその後の人生の転換点であったなどなど。一人の因果が他の人の因果とからまることを因縁と言います。総じて人と人に出会うことがあったことを縁があると言います。




親しい人にこそ手紙を書きましょう。毎日のように会う人だからこそ、今日また会ったことが新しい出会いであること。




人の気持ちの転。
アクションの転。
場の転。空間展開。




批評や作品の感想は伽羅について言うこと。一般的にはね。そもそも脚本や漫画を描く部類の人間が他人になにか言われて内容変えるはずあない。いえいえスタフだからということでなく人にはそんなに時間(柔軟性)もないもんだし、その人の因果を増やすだけだあよ。それよりはワンクッション置くことで、伽羅について言ったほうが書く人のプライドも因果もキズつかねーってもんだ。な、うんうん。
でもまー直に公式サイトで感想メール募集してもいいけどね。
私はいつでも募集してますよ。ええもちろんですよ。うん。
技術的に個性を伸ばしてやりたいならば、イメージ字やイメージイラスト、イメージ写真、イメージ音楽がいいのではないだろうか。とかなんとかね。 冷たいように思うかも知れないが、本来人は一人であること、孤独をどう受け入れるかということが生きることに直結するのだ。四六時中つっこみが入る鈴鷹さんならともかく、ふつーは孤独に耐えて生きて行くもんだあよね。うんうん。
もちろん場の確保を助けたり、けすばいけすというはのあるが。





瞬劇。瞬間の劇を描く。たとえばアクションであれば瞬間の動き、もちろん緩い緩急もまぜつつ、瞬間の動きで決着を付ける。伽羅のいがいな一面を瞬間、見せること。瞬間ギャグ。瞬間言葉。瞬間邂逅。瞬間懐古。




たたっ斬るのは剣ではなくこの思い。ぶった斬るのは相手の背負う因果なり。




伽羅が画面に収まらないなにかを見ている。それはなんなのか。




お笑いの楽しさ。
馬鹿にされたら気分の良くないものです。けれどもこれがお笑いだと180度違います。頑張っているとこ。苦労しているとこを笑いに昇華させた時、それはいたわりに変わります。普段の生活では否定されるのはとてもたいへんなことです。もっとこうするのだ、と。でも、これがお笑いだと楽しいから不思議です。ブスがブスっとしてたらいけません。笑うと心の美人だよと。ところであなたは美しい。いえいえ私なんてとブスならば、笑っているほうがいい。と、こんな感じで持って行くことで、相手の気持ち逆に転化させていく。これがお笑いの醍醐味です。苦労してる部分を前向きにするような笑い。それがうまく決まること。これはお笑いの共通なのかも知れません。
シリアス。シリアスな展開とは、ハードなお笑いである。洗練されたお笑いであること。




いたわりの気持ちで作品を作る。いたわりの気持ちで歌う。いたわりの気持ちで書く文章。これはお互いのことであり、自分もいたわります。積み重ねて固定観念になっても唯一有効なのがこのいたわりの気持ちなのです。これはどんなに積み重なってもいい。これはスタンスの問題であり、だからなにをするということはなく、気持ちのあり方のようなものです。これは日常の生活の、ライフスタイルの素地となるものを作るものでもあります。




作画においてメカと伽羅が描けること。これはこれで極めることに一生かかるものではあるが、けれどもこれだけならば作画陣の混戦してる場面でもある。それプラス自分はここが強いんだというものを描く。たとえば小物とかね。そういうプラスの部分が特色を出すことに一役買う。




千年読める漫画。千年見れるアニメ。千年遊べるゲーム。




思い入れの飛空方向性。
人は他とは違うことをなにによって認識するか。
彼女は眼鏡をかけている。彼は勉強が出来る。
この歌とこの歌をどう違うか。
それは対比によってとか言うが、それは純粋に技術的なこと。
おれが悪口言うのはいいが、おまえは言うなよみたいな話し。
まったくもって観念です。
合理的でない。
けれどもそもそも人が好きだ嫌いだと言うのは観念です。
もっと平たく言えば思い、気持ちというものであり、それはその人が感じたそのもの。
科学的な世界とは別にまさに主観の世界というものがあります。
その主観の世界でどれだけの比率を得るか。
それが他とは違うということを反映します。
科学的な数値よりも時としてブランドのほうが強かったりする。
たぶんに厄介なことも多い人の気持ち。
でもそこにこそ生きる意味があったりするのかも知れません。




2006−9−19火曜日午後3時46分カキコ。
作品の極意。
毎日日記を付けましょう。
もちろん伽羅のですよ。
メイン伽羅たちのを毎日付けること。
これは個人視点のものです。
また親友だったりつきあっていたり夫婦、あるいはなにか裏で画策してる場合は交換日記も付けるとよりぐっと個性が伸びます。
これによって伽羅がなにを考え、なにを知っていて、どんな日常や過去があり、また未来さえもが見えて来ます。
もしあなたがこの伽羅の好きなものひとつ言えないのであれば、それはひるがえって伽羅を愛していないことなのです。
普段は喋らない伽羅でも、日記にはつらつらと心を書きます。
たとえば綾波レイが哲学的な日記をそのまま作中に表現したように。
この日記と世界設定は作品という氷山の下の部分で、そのほうが見える作品とこよりも大きいのです。
まあ一伽羅一日一行でもいいので。2006−9−19火曜日午後 時55分
まずは各伽羅に一行ちょい程度書いてからさらに書き足して行きます。
脚本でも漫画版担当でもまあ書いておいて、それを参考にします。
バトルばかりしていてとかそれほど時間て経ってないからこの伽羅は日記書く余裕ないとか言うつっこみは入れないように。2006−9−21木曜日午前12時48分時間て経ってないからのとこカキコ。
これは非常にひと財産になります。
世界設定
普遍、共通、一般。
行動。
特殊、集合、新性。
日記。
個別、蓄積、唯一。


これが伽羅の場の変化、となります。
場の変化とは組み合わせが可能な場面、場所、場合などを示すことであり、これ歌のメロディラインにも演技にもハードディスクとカメラとかデッキとの組み合わせ、技術の組み合わせも場の変化と言えます。
資本主義や社会主義も場の変化としては、経済の組み合わせが出来る場のことを言います。
普遍、特殊、個別も言葉と概念の組み合わせの場であります。
2006−9−22金曜日午後10時25分これが伽羅の場の変化のとこからカキコ。




2006−9−19火曜日午後3時46分カキコ。
番組の極意。
たとえば打ち上げがあったとします。
番組の後でしかめっつらしてまずい顔みて雰囲気まずい料理を食べるよりは、打ち上げは楽しみ、番組の意見は軽くしといて、さらなる感想は感想文を書きます。
その回の感想はなにを思ったかを書く。
これによって客観性というものが後で読むことが出来ます。
かなりディープな内容の場合はパソコンデータではなく、バインダー用紙にボールペンで書いてバインダーに入れて保存します。
これは番組の財産のひとつであり、それも生きた財産となります。


誰でも自分の知らない自分がいる。


2006−9−29金曜日午前12時7分カキコ。
カラオケではヘタに歌う。
カラオケとか歌にあわせて歌う時は思いっきり自分の好きに歌う。
これを私は基本にしています。
歌を作る時は比較的抑えめに声を出しますが、こういった声のいきおいは声を抑えめにしていても出ます。


2006−9−29金曜日午前3時9分カキコ。
トーク
ラジオのトークなどは話す言葉はメロディラインです。
もちろん全部に音符をつけるわけではなく、歌と違って何十分も話すのですから、ある程度の加減はあります。
語り口とも言えるその言葉運びが聞く人を癒すか、刺激するか、やんわりするか。
内容は二の次になります。


2006−9−29金曜日午後2時18分カキコ。
いまの作品て、堅いんだよね。
柔軟性に対しても堅い。
堅くなるな、肩の力を抜けの堅さ。
もっと力をいい意味で抜いたものがない。
それが作品にハードさを出している。
それはひとつひとつの全体的な作りにである。
みんな一様に堅物と化しているよね。
いやまあなにに対して堅物なのかは漠然としてるのだが。
堅い雰囲気。
場の和み。
ソフトさがないというか。
悪い作品じゃないのに、非常に損をしてると思う。
それだけで売り上げ二割、評判四割は内容に対して損してるよね。
これは商売だけでなく、全般に対して言える。
たとえばハードな内容を作るのにも、ソフトさから緩急つけていかないとそれは内容にさえも響いてしまう。
デジタルはアナログに対してあること。
では怒りはなにに対比されるのか。
その伽羅の思いはなにに対比されて行ったのかが緩急ないと、それは一直線になってしまう。
もちろんストレートも変化球があって緩急になるのである。










作品の見せ場。


話の見せ場。
普遍、共通、一般。
動きの見せ場。
特殊、集合、独自。
個別の見せ場。
個別、蓄積、唯一。


バンク。さてさて話の見せ場とはなにか。話の見せ場とはそのものずばり、こうなってこうなってああなりましたという話の筋。話の説明。起承転結。これだけではなんの味気もなにもありませんがこれがないと話しを作る意味のとっかかりがありません。これだけならば無味無臭なお話。でも伽羅がそこで見たこと聞いたことを動きで表現した時、物語が動き出します。
個別の見せ場。伽羅の個性の伸びも音楽も背景も効果音も色彩などもすべて個別に伽羅の見せ場に入ります。個別の見せ場だけではそれぞれが単なる部分の掛け合わせであり、それならば音楽は音楽だけで聴いたほうがなんぼかマシです。
動きの見せ場は個別が動くこと。話しが動くこと。これは伽羅が歩いていれば動きの見せ場ではありません。意志を失い彷徨っていた伽羅が意志を持って歩き始めること。ただ伽羅の背景に咲いている草花の意味。この風はどこから吹いてくるのか。この話しの意味が表現される時。実は歩いていたのはショップを見つけるためだった。楽しいのはだってもうすぐ春だから。とかとか等々です。動きの見せ場を表現出来るかどうかが話の見せ場と個別の見せ場を左右混合します。このみっつの見せ場がバランスされる時に物語りは初めて描かれている色彩と音楽と伽羅の表現と意味を得て始まります。
動かない写真や一枚のイラストにも動きの見せ場はあります。
伽羅の一人一人にバンクを作る。見せ場という意味で。見せ場は繰り返してもお得。
たとえば話の見せ場にはある伽羅が自分の暗い過去を話すという場面があります。これは実に説明的でこれだけでは聞いておしまい。実に味気ないというかたぶんそんな話はすぐに忘れてしまうでしょう。これに伽羅の見せ場を足して、別の伽羅がそれだけではないことを感じさせる。さらにそうだったのかと、こんな自分でもまだ先に行けると感じて歩き出す時、これが動きの見せ場となり話の見せ場と伽羅の見せ場は動きの見せ場に結実することになります。一般的に見せ場と言う時は動きの見せ場のことを言います。
対比と緩急、伽羅の個性の項目は個別の見せ場にすべて分類されます。
話の見せ場。動きの見せ場。個別の見せ場と言うのは時間が形を変えたものです。いえいえ、すべての創作作業というものは時間を固定するという作業です。これが空間作成となります。
がむしゃらに作るのもいいですがくくりでのテーマがあるとさらに良くなります。テレビアニメならば今月のテーマは友情のようにすると、とっかかりが得やすくなります。
一度描いたシーンを素早くしてバンクとして使うことで活かす。何度も何度も。その動きの速さによって緩急に足して行く。
2006−9−3










量を作っていく中で質を高めていく。
見ている人が柔軟性を感じられる積み重ねをする。聞いてる人が柔軟性を感じられる積み重ねをする。


真の制作進行は時間である。


アニメの映画というと単館上映とかが多くあります。全国放映の場合は地方でも一館で東京ではもっとあってもいいかも知れません。これは人気があったら上映館数を増やすという醍醐味があります。いまは情報化社会なので、ある程度のヒットの見通しはあったりします。けれどもやはり蓋を開けてみないと分からないとこもあります。


思い立ったが吉日。橋を叩いて渡れ。だからどーすりゃいーつーねんな。


謎とはなにか。サスペンスというか、探偵ものというか、犯人を追いかけるものの場合、犯人は誰かということが謎になります。恋愛ものだと彼が好きな人は誰なのとかいうことが謎となります。そしてもっとも作品作りで一般的な謎とは……主語が無いことです。主語がない。作品を作る時、状況を説明するということがとても大事になります。誰がどこでどうしてどうした。ということが丁寧に伽羅や背景やナレーションや光りと影で語ること。起承転結も大きくはこれにあたります。けれども謎を提示する場合、誰がどこでどうしたことを説明しないことで話しを進めます。どうしたんだと駆け寄ってもふるえて話せない。これはどうしたことか。その真相とは、というように進めて行きます。一般的に主語が無いことは丁寧さに欠ける、意味が伝わらない、起承転結たかさきはやと、なにがなにやら分からないとだめな作品の代名詞のひとつとして語られますが、こと作品の謎に限っては主語がないことは次になにかが起こるぞという送り手のいえもうこの作品世界のメッセージとして提示されます。もちろん回収されないままの謎もあり、そういった場合は投げっぱなしとか呼ばれます。また謎が多すぎてインフレを起こすこともあり、そういった場合も期待よりも興ざめすることが多々あります。
現実の人と世界、宇宙の99パーセントは謎であると言っても過言ではないほど分からないことだらけです。ですが作品世界の場合、作ってやらなければ伽羅と作品世界の謎というものはありません。作り手がどこまで伽羅や作品世界のことを知っているのか知らないのか。そのことそのものが謎となっています。それを提示することで伽羅の、作品の世界さえも個性の伸びというものが表れます。




原作漫画や小説の内容を越えてアニメやを作るときこの内容はずばり時間稼ぎになります。個性の伸びを強さで表現しにくいので、とても限られた範囲での個性の伸びを表現しなければならず、ちょっと窮地です。逆境です。いや、逆境を楽しんだ者が勝つのだから。それはともかく、ここでの話しの運びは非常に限られてきます。たとえば夢オチのように元の鞘に戻らないと原作の話しに合流できません。はっきり言ってそんなに冒険することは出来ません。原作者に許可取ってスーパーパワーを発揮することもありますが、それもやはり原作に比較していきおいねーなおいと言われてしまいます。これは仕方ない。そもそも漫画とアニメというものはものすごく量が作れるものなのです。これは尋常ではない積み重ねです。ここで鍛えられたスタフはなかなか鍛えられます。あんまり年取ってからも鍛えられるのは勘弁願いたいけどもねえ。この量に対して非常に作品がなかだるみする場合が多々あります。平たく言えば内容が薄くなってしまうのです。これは比較の問題で、別段作っているほうが力不足ということではありません。こういう場合は地味にまた伽羅の個性の伸び、それも地味な部分をじみーに積み重ねます。スランプの時にしろなんにしろ、とにかく伽羅の個性の伸びを描くことにまさるものはありません。たとえ強さでの個性の伸びをあまり見せられなくても、そこはまあいろんな角度からのがあります。これはまあけすばいけすで。鈴鷹さんはメールが来た時にコンセプト追加ということで。








コストの話し。
作品を作るには非常にお金がかかります。なにをいまさらと言いますか。でもこれが真実。歌は作詞と作曲と歌い手で作ってしまいます。これで二曲千円ちょい。アニメとかゲームは何十人、何百人のスタフが作って八千円前後。マンガや小説は作者とアシスタントと編集に印刷で五百円前後。宣伝と運送はそれぞれかかります。この点アニメやゲームは非常に高いものを求められる傾向にあります。なにせ八千円あったらマンガ本が何冊買えることか。アニメはまだ放送される可能性がありますが、ゲームは新作か中古かくらいしか選択肢がありません。ゲームのレンタルもあることにはあります。アニメやゲームには挿入歌があったり音楽があったりボイスにムービー、効果音。とにかく色々そろえています。二千円くらいで少数精鋭で三ヶ月とか、人数多くて日数時間少なくとか考えられなくもありませんが、基本的には高いクオリティを求めれば価格はこんなもんです。
いやもうこの資金でこの人数で作品を作ること。これが楽しいのなんの。もう涙が出るほど嬉しい〜。少数精鋭万歳。まあねえ。あまってる空間はもう電子世界にでもしかないのかも知れないなあとか思います。私も生まれ変わったらネットに巣みたいですな。
テレビアニメのスタフの給金が少ないのは経営陣が手塚先生を批判して現状を変えられないから。ではなくて、テレビアニメの利益率が少ないからです。現状、スタフに月給を渡せる会社はスタジオジブリか大手だと言われています。テレビアニメではサザエさんかちびまる子ちゃんあたりの元受けスタジオ程度でしょうか。これは映画という媒体がとても高利益率を出すということが言えます。だったら年一回は映画を作ればいいじゃないかというとそうにもいかない。映画をコンスタントに一年一作作るというのはテレビや出版社との提携 を意味していて、それだけの提携を実現させる制作スタジオはなかなかありません。テレビアニメではサザエさんやちびまる子ちゃんなどのファミリー向けが比較的高利益なのはやはりみんなが見れる作品であること。これは大きい。誰でも見られるように作るというのは分かっていてもなかなか出来ないものです。これが一点。もうひとつは曜日と時間帯がいいのと、スタッフが少ないということがあります。たとえばアクションものだとこの見せ場のアクションシーンのためにメインスタッフが週に一回は徹夜すんじゃないだろうかくらい描いて描いて描いて描いてやっと出来たりします。これに対してファミリーものというのはそんなに枚数を必要としません。話しの間口の広さからスポンサーは関連商品で利益を上げなくてもいいのです。ある意味鉄腕アトムに始まった30分テレビアニメはファミリーものにこそ最高の到達点を見たと言えるでしょう。もちろんアクションものは歌で言えばロックです。描いて描いて描いての醍醐味、ギターを弾いて弾いて弾いての良さがあります。ただ、やはり利益率から言えば、とても低いものなのです。東映というか当時のアニメ関係者は手塚プロがテレビアニメをすることを無理というふうに思ったかも知れない。無理ではなかったが、非常に利益率は低かった。ジブリは映画で収入を得るというアニメモデルを提示した。これに対してテレビアニメを運営するスタジオは自転車操業のような状態であり、まだスタイルを確立するまでにはいたっていないのが現状だ。関連商品で利益を上げるというスタイルもあるが、あまり高い評価を得ていないスタイルである。アニメ作品そのものが自立したスタイルを持つこと。これがとても大事だと言われている。まあ私は駄菓子のおまけでコンビニに置いてもらってもいいとは思うが、やはりそれ自体が成立するべきという意見は強い。ビデオテープで発売するというおぶえいは自立しているが、おぶえい販売のスタイルで確立しているスタジオはない。おぶえいは利益率はそこそこあるが、なにせ定期的に収入を得るという意味では非常に弱い面がある。おぶえいだけで利益を確保しょうとすると一話一本で八千円くらいにはなってしまう。それでいて値段から一本に映画並のクオリティを求められてしまい、非常に単価負けしてしまう。レンタルもあるが、それならばアニメ専門局でもなんでも先に放送することで放送料金で作ってしまったほうがスタイルとしては余力がありそう。このスタイルは深夜で放送されているアニメのスタイルだが、放送料金は安いですが、一枚のおぶえいに三話とか入れて六千円くらいには出来ます。受け手の一話の単価は二千円。安いか高いかは内容にもよりますが。
アニメの利益率の低さはたとえるならば、車を作るのとおんなじ人数がいるが、そのわりには売れる単価は遙かに低いということでしょうか。
アニメ制作者は基本的には個人事業主であること。会社に所属しているのに個人事業主とはどういうことかというと、まずアニメーターは基本的に出来高制であること。これはどういうことか。たとえば商店、コンビニなどで働くと時給が付く。これが一時間900円とか1000円とかする。必ずこれは保証される。これが一般的に仕事と言われることだ。ちなみに会社員は時給二千円と言われている。これに対してアニメーターは一枚200円とか300円とかで払われる。これはどういうことかと言うと、ちょっと書けない日があると途端に収入が激減するということ。非常に安定性に欠ける仕事と言える。せめて時給にして欲しいとこだが、前述の通り、アニメは非常に利益率が低い。上がちょろまかせてんじゃないの、と思うかも知れないが、これが業界として無いのだ。会社の社長が机ひとつ入れることに困窮する。社長の部屋などない。こういったことからも、別にむちゃくちゃ儲かるもんでもないと言える。キャラクターデザインは高いと言われるがキャラクターデザインなんてそう何度も来る仕事ではない。動画監督や作画監督は実入りはいいが、とてもじゃないほどたいへんな仕事だ。はっきり言って割のいい仕事ではない。最初の鉄腕アトムが放送されたのが1963年1月1日。それからもう40年以上立つというのに、これはまったく改善されてこなかった。いやまあスタジオとしては改善されるとこもあるが、業界としては解決されないままである。虫プロが一回アニメ制作が元で破産してることからも、いかにこれが危うい商売か分かる。はっきり言ってアニメは儲からないのだ。漫画家は作品がヒットしなければ連載も続かない、儲からない、だからスタジオもそのアニメーターもそういうものなんだと言われればそうかも知れない。ただもし世の中に能力主義、成果主義というもっとも洗練されたものがあるならば、それはもしかしたらアニメ業界こそがそのもっともたる業界なのかも知れない。さてなんとなく分かったと思うが、アニメーターの保険や給与を会社は保証はしていない。仕事の出来る人はもう何人かと組んで自分のスタジオを作ってしまう。そういう業界なのだ。大手のスタジオならばブランド名もあり、安定しているかと言うとそうでもない。大手スタジオで大作を手がけたスタッフが別のスタジオで別の作品を作り出すことが日常茶飯事であり、必ずしもスタジオのブランドというよりもどれだけ有力なスタッフが組むかにかかっているのがこの業界だ。いやまあそもそも作品の企画。その内容によってスタッフが組むと言ったほうがいいかも知れない。ゲーム業界や音楽業界に比べてアニメ業界の儲けは十分の一とかもっと下。少なくてもゲーム業界は時給を出してくれる。いやまあクリエイティブな仕事自体がそもそも確実な仕事ではないのかも知れない。テレビアニメの放送権料のみでスタッフを組んだら人数はいまの五分の一もいなくなってしまうだろう。ではデメリットばかりなのか。こんな業界は間違っていて、いつかつぶれるのだろうか。アニメ業界の最大の強味としては、量産、その数の強さがあげられる。自分の量がそのまま作品世界として広がっていくのは、やはり醍醐味があるだろう。自分の力がどこまで通用するか試してみたい気持ちもあるかも知れない。
テレビアニメの過酷な戦いが始まった鉄腕アトム。手塚先生は競争に負けるとの理由から、テレビ関係者が多少は高く出すと言われた金額をふつーの番組とおなじ額で請け負った。記念すべき第一作は当初、大きな苦戦を制作に詳しい人たちにされていたが、それをくつがえすことがいくつかあった。ひとつは関連商品が売れに売れたこと。もうひとつはアトムが世界で放映されたこと。当時の日本は人民元が切り上がる前のように先進国から円を安く設定されていた。敗戦まもない日本のための措置(あるいは実際に低く円が取引されていたか)であったが、安い円はとても強い競争力を世界に発揮した。世界屈指の技術とその工場は圧倒的な競争力をたたき出した。その中のひとつがアニメであった。が、円が段階的にしろ切り上がっていってしまうと制作は資金面で圧迫される。いくら世界に出しても日本の円のほうが高くては、資金を円に換えた途端に儲けが薄くなってしまった。これではやっていけないので、作画を中国に出すことになる。いやもうアニメだけでなく、日本の工場の大半はここからアジア各国へと移動というか流浪の旅に出ることになる。この時既に日本のアニメはジャパニメーションになっており、日本の制作でありながら既に日本製ではなくなっていた。もとめられる作品の規模は世界規模であり、また作る規模(場所)も世界へと移って行く。ヒットすればするほど求められる規模はそのクオリティは高くなる。もしこういう状態を自転車操業に例えるならばタアスケテエーてけすたーとでも表現しょうかといったとこである。ゲームや漫画もおなじく世界規模で通用する規模であり、それはアニメとおなじものである。ではなんでアニメだけがこんなに窮してるかと言えば、いやまあ弱小のゲーム会社や漫画家はもちろん窮しているのだが、漫画は制作スタッフが少ないことがあげられる。ゲームは大作あるぴじいは映画とおなじく高い利益で国内に製作スタジオを維持出来る。小さなゲームならば少人数で作れる。ゲームの場合は小さなゲームという規模がある。ブロック崩しやテトリス規模のゲームを少人数で作ることが出来る。アニメにはこの分野がほとんど無い。アニメ作ると言ったらふつーそれは世界規模のものをすぐに指すのである。
小さなアニメはおぶえいが近い感じがするが、やはりこれで生き延びているスタジオモデルというものはあまり見られない。
対策としてはやはり安い貨幣価値の国から円への還元をなるべく少なくすること。かな。そしたら儲からないじゃんと思うかも知れないが、外国のアニメ会社の利益はその国のその会社で使うこと。その利益によってその会社が制作したアニメを作ればいい。それを儲けの変わりにアニメの動画とか原画を送ってもらえばよい。ようは円に還元しなければいいのだ。なにか物品での還元とか、そこの国の制作にそのお金で作画を発注すればいい。まあけすばいけすだけどね。
日本のスタジオは圧倒的に高い円に泣いているのが現状である。世界でヒットして円に還元すればするほど苦しくなる。というか、円が強すぎるのだ。それを逆手に取ったような形のスタジオの国外への移転であるが、円への還元が日本国内のスタジオを弱くし続けている。かつては安い円を武器に戦った日本のスタジオはいま窮地に貧している。の、かなあ。
ひとつにはなんでもかんでも世界規模のアニメを作らないこと。まずは日本のスタジオで出来る範囲を目指すこと。かなあ。
正当に評価された円はもちろん高い。それだけいい仕事をしてることを世界に認められていると言っていい。
まあいまのスタイルでもなんとかなるけどね。そこそこね。
だからまあいまのスタイルとこのスタイルの左右混合でいい、のかなあ。とかなんとかね。
ゲームも漫画も円よりも安いとこで出してるじゃんて話しではあるが、ひとつには漫画は紙媒体であり、そのメディアの展開の仕方が違う。ゲームのほうもハード機器を作ってるのがおんなじ会社なので、まあテレビ番組作ってるとことテレビ作ってる会社がおんなじと言えばいいだろうか。利益の還元率も違うのである。
ちなみにしんじらんねーが中国ではゲーム機器は販売されておらず、ここにある機器とソフトはすべてコピーである。いやまあそのうち販売されるかも知れないが。だから中国にあるのは別の国からの輸入品か、パソコンゲームということになる。だからというか、中国に日本のゲームスタジオは無い。
アニメでいま利益を出すには、スタッフにおまんま食わすには、関連商品で儲けるスタイル。これだけがアトムの遺産として残っているいまである。
ちなみにフリーターという時給で戦う労働者はこの円の高さによって生まれた職業と言える。それだけいまの日本は利益率は低い業種が多いのだ。とほほ。
円が高いと輸入して来る物品は高くなり、それを人件費で補ってきた経緯があるのだ。自給自足すべきとの主張もあるが、日本にはないものもあるので、これには限界がある。
フリーター程度の収入じゃ子供なんて生めないよ。少子化にもなるってもんだ。
ちなみにいまのアニメの制作費はテレビ番組の中では時代劇と並び高額であると言われている。比較的安いのはバラエティ番組で、笑いがたくさんあり、少人数で作れるというメリットがある。








作品の破天荒さ。昔のマンガやアニメにはかなり変な作品が多かった。料理で世界の命運決めたり、テレビゲームプレイに命をかけたり、ただひたすらパンツを追っかけるたり彼女を水着にするためにとことん突っ走る主人公。運命の人を探すヒロイン。あたしの相手は許嫁。赤い糸の相手は誰などという話。世界を破滅させうるラスボスが世界を砕くドラゴンとなり伝説の勇者が伝説の武器でそれを倒す。一匹狼が世界放浪の末に大事な人を得て変わって行く。なんの捜査網も持たない一般人がやすやすと推理して犯人を捕まえてしまう。とかなんとか良く考えるとあまり合理的ではない内容が多かったような気がする。けれども友情や愛情などを臆面も無く話す姿は恥ずかしいながらも嬉しかった。夢のため愛のために縦横無尽に走る姿にシビれた。年を取って、小難しい作品も読めるようにもなったが、こういったハチャメャ無茶苦茶メローンな内容の作品はいまでも多くの人の心に響くなにかを持っていると思う。ばかばかしいことに一生懸命な姿は、きっと、大人になって小難しいことを言うようになった大人さえも癒してくれるに違いない。
まあこれは極端な話かも知れない。たとえば他人には分かってもらえない自分のこだわりや固定観念。それは他人にとってはばかばかしいことかも知れない。そこにとらわれずに柔軟性を得るにしろ、その積み重ねが認められるにしろ、その話しはいろんな方向を見ることが出来るのではないだろうか。








こんな現実でも楽しんじゃおう。


バンクシステムの活用。何度もおんなじシーンを毎回の話で使う。これはテレビアニメ白黒の鉄腕アトムで枚数軽減のために使われたものだ。でも、これを変身シーンや必殺技などで使う。それ自体は珍しいことではない。毎回そのバンクシーンに絵を足して行くのだ。それによってさらにそこが良くなる。なんだか他のシーンに比べてここだけ良くなってないかという気もするが、そのアンバラスさも緩急、対比になっていい。さらに一般のシーンでも歩くものとか走るシーンや空飛ぶシーンなど、主に動きシーンはバンクにして、どんどんいい絵にしていく。これによって作っただけいいシーンが増えて行く。
枚数が足せないCGなどの場合は動きを足して行く。CGでもテクスチャを書き込んだり、さらには形を変えたりとか出来ますが、基本的には動きと見て間違いないでしょう。CGの場合はプログラミングの話しになってくるので、そこいらへんを理解する必要があります。なんだか覚えることが多くなりますが、まあそこは得意な人が特技監督をすればいいのでね。
伽羅が良く見せる仕草やクセなどもバンクにして枚数を足して行く。
伽羅のクセや仕草を描くのは個性の伸びとしてとても小さくとても大事なとこだ。ここが毎回いい作画になったら伽羅の個性の伸びも伸びるというものである。
光りや影りの表現など効果も足して行く。
使わなくなったいいバンクシーンやいいシーンもコンピュータ管理でどういったものだったのかすぐにチェック出来るようにして、新しい話で使えるかどうかすぐに見れるようにする。さらに単に使うでけでなく、さらに枚数や効果や伽羅とか物品を加えたりする。もちろん単に使うだけでもいい。
メロディラインやプログラミングとか文章とか、バンクというものはなんにでも足していくことが出来ます。メロディラインをさらに良くすることは可能です。それを別の曲のたとえばサビとかに使うなどということが可能です。曲をどんどん足していけばバンクではなく、部分的におんなじ曲だけれどもいま風のアレンジを加えるとかなんとかね。なんだか長いこと作ってるほうが有利なようですが、別段これはテクニックのひとつに過ぎません。やはり新しいことにチャレンジすることには変わりないと思います。
これはやっぱりそのあのねのねバンクの発展系なのかなあ。




コンセプト。白い紙へのアプローチ。とっかかりのひとつ。作品世界というものは無限にも思えます。作り手が白い紙に向かうと締め切りが迫るのに対して無限にも思えてしまうものです。これは実は受け手にもあります。見る前の受け手には作品世界というものは無限に思えるものなのです。実際にはそんなことあないのですが。受け手は作品世界がどんなものであるのか、そのとっかかりを伝えること。作品世界のコンセプト、伽羅のコンセプトというものを受け手に伝えていく積み重ねの作業があります。これは背景描写、伽羅の動きの描写であったり、言葉の説明であったりします。空が砕けていく描写に、この世界は世界樹によって支えられているという説明。これがあって初めて作品世界のとっかかりというものが得られていきます。うつむいている伽羅は人が苦手なのか、なにか考えているのか。そのとっかかりを提示すること。それは謎めいたものでもいい。分かりやすいものでもいい。これによって伽羅と作品世界のとらえ方の選択肢となります。まあこんなにも丁寧なお子さま向けな作品ばかりでは大人というかもちょいひねったものが欲しい人は物足りない場合もありますが、そういうものもあるということでしょうか。もちろんここからひねって複雑にすることも出来ます。こうやって土台から地味に作るとファミリー向け作品とは別に子供も大人も見れる作品になります。そのぶん作るのたいへんだけどね。




シチュエーション。
たとえばヒロインに囲まれてる美少女もの。これもひとつのシチュエーションと言えます。異性に囲まれてその状況での生活。こういった状況での伽羅の奮闘を描くのがシチュエーションとなります。異世界に来てしまって、その中で頑張る主人公。戦うしかない状況。逃げるしかない状況。世界の命運がかかっている時。宇宙空間での攻防。




DAD(でぃーえいでぃー)。デジタルアニメディスク。アニメでぶでいの略。とゆーのはどーだろーか。




マウスで動かした後にCGのパターン効果が出る。
それを録画しておくことが出来る。
それを映画やアニメの効果用に作れないものか。
これをいくつも増やしていって、いつでも使えるようにしておく。
するともうちょい効果が欲しい時、枚数を稼ぐ時に使うとかなんとかね。












おもしろい作品、つまらない作品。


おもしろい作品は、キャラがなにか言った時に、胸に響く。
おもしろい作品は、お金がもうかった時のようなお得感がある。
つまらない作品は、作り手の盛り上げようとする手が見え見え。








見せ場における布石とは


謎(な展開)    普遍、一般、共通。
キャラ        特殊、集合、独自。
ギャグや情景(等)個別、唯一、蓄積。
布石を打つ。布石を打っておいた部分が集結する時、それが見せ場であり、カタルシスとなる。キャラとキャラが対峙する時、それは線となり、キャラの伏線をいくつも張り巡らせ、それが点の謎となって、その点と線が面の空間へと変わる時、それが見せ場となる。布石を打つことの量が見せ場の質となる。これは布石を打つだけでなく、それが結集される時、山場となり、作品の意味を問う場面となる。
たとえば笑いのカタルシスは、いくつもの笑いで伏線を打っておき、それがほっと出来る瞬間にすべての意味がつながること。これはキャラたちそのものの見せ場をギャグで見せていって、作品の見せ場で、そのすべてが結集する。この一瞬のために、作品があると言っても過言ではない。








た(他)、色々色々。


作品は雰囲気である。

艶を生み出す画面作り

そこに流れる空気がキャラの魂である

一旋(いっせん)。ひとつの言葉に収まる、または始まる物語。

千の言葉よりもひとつのシーン(場面)。セリフをだらだらうがつよりも、ひとつの見せ場がすべてを語る。
見ているあいだは現実を忘れさせ、見終わったあとには、現実に対峙出来る力となる作品を。

笑いは心の潤滑油。

イメージトレーニング。メモとホンを忘れたとか。でも、そうゆう時でも、どんな時でも、イメージトレーニングは出来ます。想像で空間を作り出す。そのことの量が、質となります。

絵のカタルシス。

見たことも聞いたこともない作品を。

ネタを出す習慣を付けること。これが作品作りの第一歩と言えます。白い紙と向かう時間、それが仕事ですが、まずは街に出てもいい、そこからなにを見て、なにを聞くか。習慣とは日記のようなものです。テレビを見る習慣て、どう付けるのか。そんなことは解りません。続いているから習慣であるわけで、なにを習慣にするかで、その人の道が決まるとも言えるのです。チョコを食べるのも、りんごを食べるのも、散歩も、毎週見る番組も習慣。子供を作って育てるのさえ習慣と言えるのです。なにを習慣にするのか、それが人生であり、それが生活であると言えます。話していなければ話すことは出来なくて、歌っていなければ、歌えません。けれども、話し始めることは、歌い始めることは、いつでも始めることが出来ることなのです。歌ならば一日五フレーズ、ネタや話の展開なら十コなどと言えます。食べ過ぎや、飲み過ぎ、悪い習慣もありますが、習慣付けることの積み重ねが、本質を打ち鳴らし、幸福へと近づけると言えます。

二転三転四転五転六転七転八転九転
七転八倒の構え。

愚痴るな愚痴を書け
馬鹿にするな馬鹿を書け
皮肉るなニヒルな奴を書け

馬鹿は一生。阿呆は一瞬。

着物のねーちゃん脱がしてなんぼ。

最大の敵は時間であり、最大の味方は時間である。

捨てる神あれば拾う神あり。

塀の中の懲りない面々。

押しても駄目なら引いてみな。

シリアスカタルシス。
ギャグカタルシス。
不思議カタルシス。

布石を打っていて、違和感を感じた時、カタルシスの場面となる。

その物事や人のルーツを辿ることが、アイデンティテイーを探す一端である。

シリアスとギャグと不思議。ギャグやシリアス、それぞれには三点を打って、上昇螺旋、サンデュすることで形成される空間。それは遺伝子のような形。そのそれぞれの三点には、重なる一点があり、それがギャグやシリアスや不思議の個別が普遍的テーマへと特殊確率される瞬間であり、その一点は空間の進化、本質の一端となり得えます。その一点は変化を続けているので、これを捉えるのは、容易ではありません。ギャグやシリアスや不思議がそれぞれ打つ三点は、四つくらいの要素から成っています。それは遺伝子と同じです。これが気持ちであれば、人と人が触れ合う気持ちはこの三点が色合う点と言えます。シリアスとギャグと不思議は作品中でその比率によってブレンドします。シリアス作品でも、ギャグが1対9であったりします。これはシリアスがギャグの影、また、逆もしかりであり、光りと影の役割を担っている点にあります。どんな状況さえも、ユーモアがあり、また、シリアスがある。そんな絶妙な不思議さが、作品の命とも言えます。作品が進化(サンデュ)するためには、この比率を変えてみましょう。砂糖もミルクも入れないブラックのみ、シリアス、またはギャグの一本調子、というものもあります。これにはこれで、さらに深みのある構成があります。落語、コント、漫才……、ギャグはとてもわかりやすい楽しさであり、ギャグが作品にサンデュされていると、最後まで受けてに捉えてもらえる可能性が高くなります。逆にシリアスでは、緊迫感が持続性を発揮します。これとは別に、家族ものはほんわかした雰囲気があり、それが作品の空間を作り出します。また、これをサンデュすることもあります。緊迫感に緩急を付けたり、ちょっと休んだりします。シリアスとギャグをサンデュする時は、不思議をその軸として、話を回転させます。アクションシーンがシリアスで、生活シーンには、笑いがあるというパターンが良くあります。まれに、アクションもすべてにサンデュする作品もあります。このサンデュにも、緩急を付けます。
シリアスな作品はブラックコーヒーのごとく渋い茶のごとく苦いものです。こういった場合はギャグやユーモアを入れてミルク効果シュガー効果水増し効果を狙うことがあります。この他にはいろんな人の視点から物事を描き客観性を見せることもあります。また、熱血キャラの絶対的ないきおいで見せてしまうこともあります。そのほかには風景を入れてちょっとした空間を作ったりします。テンポ良く進めたり、ゆったりした時間で描いたりそのコントラストで描いたり。音楽をかけてノリノリに進む。場面(展開)をどんどん変えて、場の変化で進めていく。この他にも色々あります。もちろん渋い話を淡々としんみりと描く場合にはこういったものは入れたりしません。
ルーツを探る。そのことが、そのことの本質の一端に触れることになる。こうやって書いていると、延々とサンデュしているようですが、基本的に、3かける3で、9サンデュまでが、基本と言えます。それ以上はかなり複雑、というより、構成出来なくなって行きます。投げっぱなしでサンデュしまくるのもあります。シリアスと思わせておいて、ギャグ。ギャグと思わせていて、シリアス(これは難しい、というよりも、あまり好まれない)。シリアスとギャグとのサンデュをとことん回転させて行けば、とにかくハイテンションで、楽しい作品になる公算ですが、それが出来る作品もまた、まれにしか見ることはありません。ファンタジーやエスエフに見られる、分かりやすい謎、たとえばこれは魔法なのか、みたいな。そこまで分かりやすくなくとも、なんでおにぎりで前掛けする。といった、ちょっとしたことでもいいものです。

ステレオタイプ。右から聞いたことを左に言うこと。伝えるという意味よりは、見聞きしたことを確かめないで流布するという、悪い意味で使われる。これがキャラクターの場合は、ありがちな、わかりやすい人物造形ということになる。基本的には、最初はステレオタイプに造形して、それから、徐徐に彫り込んで行く。そんなありがちな、ということの積み重ね。その中から、変化球も混ぜて行く。

構成力。原作者は絵が描けない分、編集者や、作画よりもいい話を提示しなくてはならない。そんな話を聞いたことがあります。アニメやゲームの場合、それはそうですが、より、柔軟な、作品の構成力が問われることになります。

コントファンタジー。

構想ゼロ。直感で書いて行く。

ギャグのサンデュ
コント(掛け合い)普遍
シリアス量    特殊
ダジャレ     個別

どのキャラも同じ顔に見えて、違いが分からない。

いまある資材、時間で最高のものを提供する。

細かいところの配慮、それを積み上げて行くのが、プロの仕事である。

ケースバイケース

疲れたら一眠り、行き詰まったら一眠り、もひとつ一眠り。そしてぐっすり眠ります。

最初にとにかく謎かけ、その雰囲気はいくつも出す。転でそのいくつかに答えを見いだし、結で決着させる。

絵のサンデュ。髪の毛から服まで、輪郭線を三本(以上)から構成させ、それがイデアを感じられるようにする。

自分が楽しいことを結集させる(つまんなさとのブレンド)。

無いものは発注するか、自分で作る。

敷居は低く、わかりやすく。難解さとのサンデュ。

正確さとアバウトさのサンデュ。

若い内は、10代の頃の時間貯蓄(イデアの時間面)があり、20代はもっとも貯金のある時代である。名作を作り出している人の多くがこの時期に基礎を構築しており、これが老年まで続く流れとなっている。熱い鉄は熱いうちに叩く。若い内に苦労は買ってでもしろ。という言葉の通り、若い内に、自分のスタイルを確立する必要があると思います(でも、無理は禁物芋)。

作品における連携。作品における連携はいくつもあります。風景の連携、キャラの連携、セリフの連携、ギャグの連携、アクションの連携、魔法の連携。表現の連携。音楽の連携。崖の上にいる聖女の横を、巨大な飛空挺がゆく。壮大なイメージ。風景の連携ならば、そのまま雲の中へと入って行く。キャラの連携ならば、そこからキャラとキャラの話へと。その世界。こういったイメージを繋(つな)げて、連携して行くこと。これがプロの仕事と言えます。こういったイメージを地道に積み重ねていくこと。当たり前のようですが、これが延々と出来ることが、プロの仕事と言えます。まずはみっつ繋げて行けるようになりましょう。慣れたら連携に緩急を付けつつ、起承転結して行きましょう。複数の風景とキャラと表現の連携を連携してサンデュ出来るようになれば、一人前です。

情景のサウンドデュアル

情景の発展。助かって良かったのは、喜んでくれる仲間がいるから。一緒に旅する仲間がいるから。驚くのは、それは一種のファンタジー。横にいる仲間への情景のバトンタッチによって、その情景はさらに広がりを見せる。さらなる情景の広がりは、仲間や強敵、その自然の動きに発展を見て、ひとつの世界を響かせる。逆に、情景を受け取らない風景や、人は、とてもすましていて、神秘的である。こういったキャラが、情景のバトンタッチを受け取ってくれる時、それはとてつもないカタルシスとなる。これはラジオのトークでもそうであり、キャッチボールの上手い人、下手な人。変化球。消える魔球。暴れ魔球。等々(などなど)。三人目の情景は、これはゲストだったりリスナーだったりします。これによって、サンデュします。テーマをふたつ決めて見て、そことこの見えないテーマをやりとりすると、ぐっと話に深みがまします。一人の場合は一人三役、二役こなします。情景のバトンタッチに緩急を付ける。情景のバトンタッチが三回でもキャッチボールされれば、それはとてもいい光景になります。ゲームでも、操作が三回もつながれば、とてもいい感じです。上手い人になれば、これはもう、延々と繋げて行きますが、これはまあ、基本として押さえておいて下さい。

大変な時ほどシンプルイズベスト。

断続は力なり。メールは打ってると、お金がかかるなり。

ギャグ作品なのにシリアスな展開になってまう。どうするか。コユンメタリー。メタリアン。

名前や名称、愛称を連発して、主語を明確にする。誰が誰をどう呼ぶか、呼び方によって、キャラ同士の相性を明確にする。

いま書いてるこの作劇術って、ノウハウとか技術の書というよりも、研究書に近いかなあ。

コンテについて。キャラがいて、風景があって。これが基本的な一枚。けれども、コンテでは顔のアップがあったり、そこから全景へと変えて行くことが出来ます。これによって、空間の緩急を付けたりします。ファミリーものでは、コンテが俯瞰でそのほとんどを描き、あまりカメラが動いたりしません。とても安定した空間を大切にしたコンテです。これが基本としてもいいと思います。ここから、アクションの動き、心理描写の動きへと繋げて行きましょう。漫画では、コンテをネームと言います。
ネタで口説くな、イデアで口説け。

作品作りの原点は、絵本の読み聞かせであること。

現実は厳しいけれども、毎日の暮らし、日常っていいよね、自分の良さ、他人の良さを再認識させてくれる日常とその日々……。という感じの作品を。

原点に戻って、楽しい、とは何か。原点回帰。

いまある情報、資材、時間でなんとかする。

楽しくないと、仕事は続かない。どんなに厳しくても、その中で、楽しさを探して行くこと。その大切さ。

古い歌を聴いて、いまの歌には無い感性、感覚を感じることがある。古い作品は埋もれてしまって、そこにはもう財宝のごとく、隠れている物がある。けれども、それを掘り起こすには、労力がかかるために、なかなか着手出来ないでいることがある。いまの作品がつまらない時、新しい物を探す時、それは古い作品を探す必要がある。古い物は新しい。十年経つと、作品を見る世代は一巡してしまって、十年前の作品はもう新しくなります。昔ながらの人には二番煎じに思えることでも、新しい世代には新しくなります。まあ、新世代には、なんでも新しいんですけどね。時として、似たような作品を作ったり、リメイクすることも必要だと思います。

この先なにがあるのか。どきどきわくわくする展開を。

一日一善。

見たことも聞いたこともない作品を。

行き当たりばったり。

アイテムやシチュエーション、キャラや風景は出て来るだけでなく、それが動き出す瞬間をとらえて、提示する。

家宝は寝て待て。

その思いは風景に語らせる。

全力投球。出し惜しみ無し。でも、無理も無し。

ひとつひとつ積み重ねていく。一辺に全部やろうとしない。たとえば、人の集中力は50分が限界でそれ以上は散漫になっていくので、適度な休憩も必要です。

どんなにいいことでも、それは高く評価しつつ、反面教師にして、地道に独自性を確立する。

原点回帰。自分がなにに感銘を受けただろうか、と思う空の色。

辛いと人は否定的に物事を捉える傾向があり、また、壊れやすい。

人類60億人。これ以上の市場は無い。青天井に思える世界も、以外に物理的限界はあるものだ。

ばかであること。キャラで言うならば、なにかに熱心なところとか、そのまんまドジであることなど。完璧なキャラがばかな一面を見せる。そんな以外な一面を見た時、そのキャラはとても可愛らしくなります。また、世界観的にばか、展開が、など、これは作劇術の奥義のようなものです。

煮詰まった、時に言うギャグは癒やしかな。

駄目だと言われるとこは隠すことなければ、指摘を得られるかもね。いいと言われるとこはバランス取れば、とても良くなるかもね。

何百と売れて、金字塔? そんなの大したことないね。おれならもっとすごいの作れるよ。時には、大風呂敷も広げないと、チャンスなど来ません。来たら来たで、忙しくなってまうけどね。

まあねえ、伝統を守るような仕事もありますが、それでも、そのためには資材を今の時代に合わせて調達したり、苦労はある。常に新しいことに挑戦してないと、仕事というものは来ないので、そこんとこは、地道に積み重ねで(×習慣)。伝統にもなっている部分を勉強しながら、自分なりの世界を作っていくこと。その習慣(×地道に積み重ね)。

良いとこ取りと言われる物は、総合的なエンタメーションであり、その整合性、バランスがとても大事になります。サウンドデュアルを習慣付けて、地道に積み重ねて行くと、バランススタンダードとなり、それは世界基準となります。混合、融合と呼ばれることもあるサウンドデュアルですが、一定数(3が多い)に分類して行くことや、なにを積み重ねるべきかを見極めるためのとらえ方、というのが一般的な使い方です。万能では無く、けれども、それが花開く時、カタルシスとなる時は、とても大きな力になります。

真面目な話は真面目な人に任せて、いい加減な話を書こう。

あ、この人と出会えて良かったとゆーよーなキャラを。

難しいことは明日考えよう。

受け手が待っているのは、作り手の議論ではなく、作り手が作り手出すいいものである。

ファミリーものはとてもスタンダードで、良く受け入れられやすいが、マンネリやパターンといったものが多く必要な部分があり、新しいものを追求するあまり、まっとうな家族ものを作る人は以外と少ない。ギャグとシリアスが出来ないといけないと言うならば、こういったあたりまえのものも出来ないといけないと思う。

このキャラクターなにを言ったら好きになるだろう。どう行動したら惚れるだろう。

クオリティが高いのは願ったり叶ったりだが、クオリティの高さとおもしろさは別物であり、そこいら辺が分かるかどうかは、そのクリエイターのセンスによる。

調子がいい時、それは作り手の勘が非常に冴えています。これは特殊の確率による結果を当て込むことではなく、幸福ってこういうことだろう、という感覚がびんびん来る時のことを言います。こういった部分、まさに、その人の力量そのものだと言えます。

ただ地道にいいものを積み重ねるのみ。

パンツが見えた時、それは嬉しいだろうか。それは別段白いパンツだ。そこから初めて綴って行く話もあるが、基本的に、それは興味があるからどきどきするのだ。だから、魅力とか、これはいいとか、良さがあるから、そのパンツは単なる記号ではない意味を発揮するのだ。

頭のいい作品ばかり見ていると、頭悪くなります。たまにはつまんない作品を見て、なんでこれはつまんねーのか、考えてみましょう。

99パーセント勘。1パーセントひらめき。それは、地道な積み重ねに裏打ちされたものである。

無理はしない。その中で、多彩な活動をする。

固定観念にとらわれず、けれども、流動的にならず。

ネタ出しだけなら誰でも出来る。それをバランス良く積み重ねることが出来ることに、ホンと演出の極意がある。

部下に言い訳させたら、上司の負け。妻に言い訳させたら、夫の負け。謝る時は、二人で謝ったらええ。でもな、それで現実に勝てるとは限らんのやで。愚痴るな止まるな歩いてろ。最後に勝てばええんやで。
なにかあったら、部下と謝りに行ったり、なんかあったら責任取ったり。それでも、また、チャンスがあれば仕事する。世の中そんなもん。子供は言い訳するのが仕事。大人は聞くのが仕事。そゆこと。

こいつ売れるか分からん、という時は、インディーズから始めたほうがいいかも知れない。声優さんの場合は、キャラソンに戻って、歌の原点に戻ったほうがいいかも知れない。ちょっと不調、ちょっと試してみたいこと、若手ならば、ネットから初めてもいいかも知れない。

ヒット作を作るには、世界初を積み重ねればいい。奇をてらわないで、伝統を発展させる方向性で、である。

悠久の世界。人、人生、出会い。そういったことの悠久なる時を感じさせる時(一瞬)、人は初めて感動する。

肩の力を抜いて、それでもそこそこ入れて、バランスをととのえて行きます。ネタを出すのは誰でも出来ます。バランス良く、積み重ねること、これが出来ることが、プロだと思います。

進化主義。こうだよね。いや、違う。それはそうか、ならばこうでしょ。それはこうで、違うでしょ。……、さてさて、なんでも違うと言ってるようでも、それは話を進化させること。まあ、大抵は呆れられてしまいますが。それでもまあ、行くのだ。いやーおぶざいやー。なんてな。

どこから来て、どこへ行くのか。

肩の力を抜いて実力を出す。

日常生活を丁寧に描くこと。ファンタジーでもエスエフでもその世界の日常を描く。これによってそのキャラがどこの誰なのか、その存在はどういう意味を持つのか受け手に伝わりやすくなります。丁寧に日常生活を見せてくれる世界ではどういったことが便利でどういったことが不便なのか。人々はどの程度の知識を持っているのかわかりやすく、世界の風すら感じることが出来ます。人によって得る情景によってその世界に受け手の時間を置ける気持ちの倉庫のようなものにすらなります。日常が描けていれば直球たる暖かい物語も変化球やアクションもうまく決まります。

知恵と勇気。

キャラの見せ場。絵の見せ場。映像の見せ場。歌の見せ場。話の見せ場。背景の見せ場。音楽の見せ場。日常生活の見せ場。ちょっとした仕草の見せ場。

キャラの見せ場。たいてい、多くは作品にある受け手の不満というものはこのキャラが出ていなくて見せ場がないというものです。ではどんどんキャラを出して見せ場を作ればいいかというとそうです。これは長い作品に良く見られる黄金のパターンのひとつでこの話はこのキャラの見せ場の話としてどんどん作っていく。見せ場は話の共通であり、キャラは個別となり特殊となるヒット要素となります。非常にマンネリ気味の作品にてこ入れとしても使うことが出来ます。キャラクターがその世界の柱であり、どれだけ魅力的なキャラをその見せ場を出せるかに作品の人気はかかっています。柱が強力であればそれだけ重厚な世界を展開することが出来ます。ここはテストに出ますよ。

ばんばんどかどかするやかましいアクションもの。人がばったばったと倒される。いけないとはいわないが、そういう激しいものばかりってどうだろ。一本や二本ないとそれはそれでと思うが。そういう作品のとことんな描写。それには意味があるはずで、それを丁寧に描くのが作品には必要ではないか。 たとえば美少女もので主人公に無条件に女神的な愛情を示すのはどうだろ。都合のいい女だけにしか見えないのではないだろうか。好きになった理由がそこにはあるのではないか。もちろん映像の見せ場があるのはわかるが、それだけだとなんとも物足りないのだ。なんのために戦うのか、なんのための恋愛なのか、その日常生活を丁寧に描く作品が見たい。

楽しい作品を作ろう。作品を楽しんでもらうこと。

楽しいことは正義。苦しいことは悪。ステレオタイプにはそういうこと。

夢が広がるものを。

活路を探す。

閑古鳥が鳴くのはとてもいいことだと思う。この機会にこの仕事の本質はなんなのか考える時間としたい。

世界を変える出会い。人と人が出会うことで人生が変わる。そんなことは良く聞く話です。けれども作品世界では世界まで変わっていくことが良くあります。壮大な世界が変わったりする。これをもってセカイ系と言います。これはドラマチックな反面都合がいいことが多々あり、あまりセカイ系を好かない人はここいら辺がいまいちだと言います。セカイ系の一端を引く作品は大なり小なりドラマチックな展開のために都合が良くなります。数人が世界の大勢を決める英雄主義的な展開が多く見受けられます。もっと狭くはヒーロー物やスーパー路線もセカイ系と言えます。変わったところでは、ギャグのために世界が変わるものもあります。毎日月をぶっとばして月に怒られる。破天荒な話しも奇妙な話しもある意味セカイ系と言えるかも知れません。

その進んだ道は新しい道につながっていること。進化は新化。場(空間)における進化する量(数)によって新化(質、時間)する。

もっとも高いものはただ。その次が愛情。その次がダイヤと金塊。

だめと言っても人は聞くはずもない。これはあいてを思う質、いわゆる時間の量(数)によってサポートするいがいにない。

時間をかけただけ柔軟性が上がります。数をこなしただけ量は達成されます。これがそのまま空間構成、場となります。これはいいものだと言う時、それはどれだけ時間がかけられているかによります。これはすごいという時、それは数によっています。

テーマ
ふたつの世界の融合。
触れたものが世界を変え、変わった世界が自分を変えていく。
謎は次へと引き継がれるが、話しは一話完結。
忘れていた気持ちが思い出される季節。
主人公が触れる女の子たちの世界が広がっていく。 行き当たりばったり適当どたばた勧善懲悪、今日からきみもヒーローだよアットマークマークツー連邦のモビルスーツは化け物か父さんにだって殴られたことないのにいやんばかんなんなんなんらんらららんらんらんらんらんらららんちゃっちゃっちゃー。
ノーマルで行こうアブノーマルで行こう自分らしく行こう。
世界を滅ぼす闇と影。

いいものであるかどうかは時代が証明する。 普遍、共通、一般
いいものは売り上げが証明する。
特殊、集合、独自
いいものは人が証明する。
個別、蓄積、唯一

先のことは分からない。いまベストを尽くすのみ。

こんなアニメが見たかったという作品を。

アニメではまずにキャラありきな作り方をすることが多い。これは実に正しい。受け手はキャラがどういうものなのか知ること、またキャラの感性から世界を知ることが出来る。キャラなくして作品なし。けれども、アニメはアニメーションとしての動きとストーリー。この二本柱が存在する。このふたつが連携してアニメというものを構成してると言っても過言ではない。そして最後の一本の柱は受け手なのである。受け手の居場所があるアニメは、この三本柱を良く練って作ってあると言える。ゲームはゲームシステムと操作性がこれにあたる。

最近のアニメの表現は非常に高度だ。いやテレビゲームのゲームシステムもすごいものがある。漫画もこの描き込みったらない。でも受け手として見た場合こちらはなにか進化したわけではない。すごい表現にすごいと思う。でも人のほうが感動する部分や笑う部分はその本質はそうそう変わっていないのでないかと思う。たとえ宇宙の端っこへ行く日が来ようとも、人が求めるものの本質にそう変化はないのではないだろうか。科学技術はどんどん先に行っても人の思うことはそんなに変わらないと思う。

常に新しいことに挑戦する意欲を。

すべての人に見てもらう聞いてもらう。

金字塔一本。100万本。

楽しいことの連打。楽しく仕事して楽しく作る。楽しく生活して楽しく自然と接する。

突き抜けるような歌を歌いたい。いまどきの歌はメロディラインになんか特徴のある歌い方でセールを伸ばすようなのが主流だ。そういう歌も好きだが、けれどもアニソンはなんだか雲のその先のさらに空の先の地平線まで突き抜けるような歌を聴かせてくれることがある。100万本売れるような歌も好きだが、そんな素朴な歌も好きである。

手塚先生がプロをやめるアニメーターにそれじゃ創作アニメでも描きませんかと言うシーンが手塚先生を描いた漫画にはある。それでもうアニメーターやめようとしてる人がそれならば描きましょうという。それだけのシーンなのだが、そんなきつい仕事に舞い戻るその決心をさせるのはなんとなくいいものだからなのかなと思う。セリフがこうだから、こういう話しだからとかとか。それはいいものには違いない。けれどもほんとに参加したいと思わせる作品であるのかどうか。一人のその描き手がこれなら参加したいと思える内容をいまのアニメはどれだけ持っているだろう。

ヒットパターン。だいたい身も蓋も無いですが、ギャグの連打、アクションの連打、情景シーンの連打。これらのコンボ。これでだいたいがヒットまたはブレイクします。つまんねーと思うかも知れませんがそもそも時間の進み方、時代の捉え方、個人個人の趣味趣向の螺旋上昇を横から見たら波線に合わせて作品を作る時、緩急をとにかくこねることが一番ヒットパターンに合うと言えるのです。ずるいかも知れません。いい加減かも知れません。ステレオタイプかも知れなせんが、だいたいはこれでなんとかなってしまう大人の事情、とは違うのかなあ。

最近のアニメは説明をするアニメが多いと思う。
それはそれで丁寧でいいのだが、感じさせてくれるアニメも見たいところだ。
まあ説明のとこで枚数を稼ぐことも出来るのかな。
ここいらへんはアクションものは戦いながら説明してくれるという大技がある。
戦っているのに口数多くいまのはこうでこうだったという話し。
なにを思ってなにと戦っているのかまで語ってくれる。
うーん丁寧な作りのジャパニメーションならではだなあ。
もうちょい見たことの無い世界を見せてくれたらなあと思うこともあるが、まあ、これは高望みはいけないかな。
空を見上げたのはどうしてか。それが説明ではなく、ああこういう感じなんじゃないかと感じさせてくれようなアニメが見たいなあ。

キャラにおける個性。人と人の違いを人はなにで認識するでしょうか。対比で認識するのはもちろんですが、それは入り口に過ぎません。その人がその人たる存在であること。それを認識するのはやはりその人にしか無い本質なのでしょう。個別、個人、個性。実はその人にもその人の個性はなんなのか一生を通して探すテーマであるとも言えます。一慨にこうだと言えないこと。だから時間という闇と光の風は人の気持ちを冷たく暖かく流れて行くのかも知れません。キャラの個性と個性の邂逅が見せ場となること。相手の個性を感じた発言は理解となり、その逆は個性の否定となります。個性と個性が世界を開く、そんな作品を。その伽羅はなにを夢見ているのか。なにを探しているのか。どこに居たいのか。どこから来てどこへ行くのか。

人の不満や批判を改善することを形、スタイルとして取り入れる。

前半のパートは情景シーンなどで見せて、後半パートはアクションなどでスピーディに見せる。最速のテンポとリズムでとにかくたたみかける。別段最速とは言え、それは前半との対比によるもので、ほんとに最速ではないですにょ。これは後半のほうが受け手がダレてくるので。作品の見せ場というものは最初と後半パートのラス前。ここだに最大の力を入れます。前半は起承転結の承で情景で丁寧な説明をしておき、後半パートは転で怒濤のごとくな展開を見せます。これはありがちでとてもステレオタイプなものです。これは黄金のワンパターンになります。

黄金のワンパターン。黄金のワンパターンとは、時代が変わっても変わらない作品のお約束。ファンが必ず求めていて作り手も求めていて売り上げにも反映するもっとも作品作りで何度も何度でも重複する部分。もちろんこれをあえて外す場合もありますが、基本はこうだということ。

オーブイエースタイル。一話完結でその話しは完結するが、謎やテーマは次の話しへと続いて行く。テレビアニメは話しが続いて行くのが当たり前。これに一話で起承転結、またキャラの見せ場などありとあらゆる要素を一話に必ず入れること。OVAや映画などにあることを週間のテレビアニメの一本ですべての要素を入れること。これは話しが必ずしも一話完結しなくてもいい。起承転結、悠久の時やバトルや情景シーンなどそれだけの膨大なシーンの数々をOAVなどは30分とかでふんだんに入れることが多い。これは一本で結果を出さないと次が無いという特殊な構成による。これをテレビに取り入れたのがオーブイエースタイルである。映画の構成を一話に入れてしまうのだからなんとも贅沢な話しではある。ステレオタイプ、ありがちではあるが非常に有効ではある。必ずしも壮大なものではなくていい。ちゃちな、安っぽくていいのでとにかく要素をありったけ入れること。それをリズムやテンポでどんどん見せること。もちろんオーブイエースタイルを基本のスタイルとした場合は、たまにまったく違うパターンのことをするとさらに緩急がつく。

神は細部に宿る。何気ない細かい部分にこそその人の個性が出る。作業の早さもこの部類ではあるが、早さは特殊集合独自なので結果が見えるのみである。

ファンが求めているもの。たとえばゲームソフトで求められるのは操作性である。これは共通である。機器系でも基本はそう。ドラマでは話しの筋よりは伽羅の細やかな仕草が求められていると言える。これも共通である。ファンが求めるものを越えるものを作らないと負け。でも奇をてらってはいけません。どーしろっちゅーんだ。けれどもそれがお仕事です。漫画ではコマ運び、アニメではアニメーションの動き。歌ではメロディライン。番組ではカメラワーク。ラジオや声の演技や歌では滑舌。小説では文字運びとなります。作家は作品作ること。番組は放送すること。学者は研究して語ること。これがとことん出来てないと、いい話しでも受け手に手にとって貰えないということになってしまいます。映像にはコマ運びとなるコンテもセリフたる文字運びもありますが、基本はその動きにあると言えます。ストーリーとどれだけこれがからまって描かれているかが作品の出来を大きく左右します。ドラマティックな映像はカメラワーク。ステレオタイプとは情報においては伝聞をそのまま伝えるという意味になりますが、映像ではそのままの景色を現すことになります。スポーツではボールが人から人へと移動することがこれにあたります。主に玄人が求めるものもここに帰結します。言われたことを改善したら良くなることもあり、なんとも分かりにくいものです。けれどもここで苦労するのがプロの仕事です。主題たるテーマや人が豪華でも、ここいらへんが出来てないとそれが生きてこないと言えます。アニメの場合はカメラワークで枚数を稼ぐことが可能。そのカメラワークに緩急を付けることも可。ただこれはあくまでも技術論なので、ラジオで言えば素朴な木訥(ぼくとつ)とした語りがいいと言われたりすることがあり、一慨には言えないかも知れませんが、共通としてはこうです。映画はありとあらゆるカメラワークの原型(プロトタイプ)であり、その歴史の長さ、またいまでも一級のカメラワークに挑む人が集まる現場でもあります。話題作の映画などまずは話しの筋を追う必要は無く、そのカメラワークを見るといいでしょう。古い映画もそこを見ると勉強になります。コンテやネームもカメラワークを元にして派生したものなので、これを参考にすることは大いにプラスにななります。その逆に映画のコンテを書くのに漫画のネームやアニメのコンテを参考にすることも可能です。

喜怒哀楽。喜怒哀楽というと感情を表現することに使われます。たとえば表現であれば生きる喜び生きる怒り生きる悲しみ生きる楽しさなどということになります。他には戦いの喜怒哀楽や笑い、日常、だらだらなど、作品の要素だけあります。戦いのなにが嬉しいのか苦しいのか、笑いのなにが楽しいのか大変なのか、日常のなにが繰り返しでなにが発見なのか。静かな時間のだらだらと過ごす時など。いいものはそれを感じる取ることが出来ます。

家宝は寝て待て。

石の上にも三年。この現実とも三年は付き合えば活路が見えるかどうかは分からない。

暗い作品。この作品くれーとか言う時、それはなにを指しているのだろうか。まずはテンポが悪いということが言える。これが無いとかなり作品を見ることは難しい。もちろん敷居を高くするためにすることもある。テンポではなく自然の景色を描くカメラワークで見せてしまうこともあるが、ある意味これもテンポと言えないこともない。暗い話しとはバッドエンドや、地味な情景シーンが続くことを言うこともある。こういったことをカタルシスにして、アクションや魔法、伽羅の成長で見せてしまうこともある。基本的にはイデアひらめかないものは暗いと言われます。そもそもヒーローは厳しい場面でも無口に前に進んだり、ギャグをかましたりします。最近のリアル路線にはそうでない暗い気持ちを愚痴っていく主人公がいて、これはこれでいいのですが、そんな作品ばかりではまいります。

変幻自在。

作品作ればいいんでない。

テクではなくハートで描け自分の本質ぶつけてみようじゃないか。

マイペースに自分の限界に挑戦。もしもの時に時間の貯金はしておこう。

なかなか休みがとれなくても、二週間に一日はまるまる休もう。

アニラジ。歌増やしてくれい。音楽をバックにかけるとかなんとか。

野望を少々。

叩いた橋を渡らない。

ブラックユーモアを言ってもいい。どしょもないこと言ってもいい。それに負けないくらい夢を語ればいい。

サウンドデュアルには左右、方向、技術などの混合の意味合いもあります。要素が多いほどこれは力を発揮します。けれどもこれにはひとつだけでなくその要素だけの知識と技術が必要になります。医者ものと剣と魔法のファンタジーをサウンドデュアルするには、それぞれを描くだけの力が必要となります。これはたとえば色でも一色で表現出来ることをサウンドデュアルすると多彩な色彩を描くことが出来ることに似ています。要素が多いほどこれは力を発揮しますが、そのための知識と技術は膨大なものになります。たとえばツンデレの伽羅来多ーを表現する時にはツンツンした伽羅とデレデレした伽羅が描けないと伽羅の内面への深みが出ません。
たとえば機械であればハードディスクとメモリーとの組み合わせなど、それはその要素だけ進化させることが出来ます。

時間と空間が相対関係であるように夢と不思議も相対関係である。存在を時間と空間が作るならば、この気持ちは夢と不思議が作ること。時間と空間と距離を感じる時に人は感動しますが、これは地平線の風景や自然豊かな景色、街の連なり具合などがひとつ言えます。

作り手は誰よりも先に伽羅たちの個性を理解して、それをこつこつと見せることに徹することが必要となります。

運命変わるぜ。

この気持ちには覚悟がある。この気持ちには志がある。

登場シーンや魔法や必殺技の場面は黄金のワンパターンであり、ここは基本的には入れときます。シーン分割してでも入れとくといいです。

時間は進んで行くのに話しの本筋とは関係ないとこをとことん描く。話しの本筋を追うことは説明になりがちで受け手にはテストに出ない勉強になってしまいます。とにかく伽羅とかサイドストーリーを描くことでこの世界の当たりを取り、この世界でのバランスというものをつかんでからちょいちょい本筋へと行きます。伽羅の個性や魅力もサイドストーリーで描き、エンジンを暖めておきます。これは長い話しでもおんなじです。

思い立ったが吉日。

新しい空間を作り出すこと。その演出。それがブレイクやヒットになります。

十人十色。いろんな人がいていい。すべての人に感謝する。

仲間にまかせりゃいいでしょ。

意気消沈。

イデアひらめく。イデア舞う。イデア開く。イデア踊る。イデア歌う。イデア語る。イデア放つ。イデア問う。イデア性す。イデア空す。イデアの花。イデア咲く。イデア桜。イデアーズ。イデア纏う。イデアしなやかに。イデアやすらかに。イデア揺れる。イデア触れる。イデアゆるやかに。イデア灯る。イデア鳴らす。イデア回転する。イデアにゃ〜ご。

設定をどんどん追加していく。

人の業。

肩の力を抜き、現実から距離を取る。

鶴の一声。

やぶれかぶれ。

予定は未定。

新しいスポーツでも作るようなとても新しい作品というものはそうそう作れるものではなく、既存の組み合わせでもかなりいいものは出来ます。

アニメを作るのにいまアニメや古いアニメを見る。けれどもアニメを見てアニメを作ってはアニメアニメになってしまいます。自然の風景やいろんな別の視点から得たものでアニメを作ります。

メカメカした作品が好きだなあ。巨大ロボットがアクションするものが好きだなあ。もちろん剣技アクションも好きだなあ。伽羅の情景が見えるシーンとかも好き。普段人ってそんなに内面を感じさせないとしたら、そういうのが見えるのがドラマの醍醐味かなあ。まあお気楽ノリの伽羅とかいるねえ。そういうのも好きかなあ。ずーっとシリアスな顔して向かいあってるような作品は苦手。なんで作品でまで暗い話しを見なきゃならんねんと思ってまう。なんか主人公が根性で頑張ってますねんという話しよりもノリで乗りきれというようなんが好き。

設定はどんどん変わって行く。

コンテ、ネームの段階で自分が見たいと思う作品のすべてをたたき込む。その後のことはとりあえずその後で考える。

現実の前に言葉は無力。時間をかけていくだけ。大変なとこは変わんない。ゆったりと時間を作っていくだけ。

一人でも仲間でも新作の企画を考えてみよう。いま自分が抱えている作品が一本でも、それにどうリンクさせるか考えることで、発想の柔軟性が生まれます。

年を取るといきおいはなくなってきますが、年月の経験と勘によっていいものの丁寧さとわかりやすさで勝負します。

百戦錬磨だから生き残るのではなく、生き残ったから百戦錬磨なのだ。な。

分かりやすさと難解さ。私が一時期かなり分かりやすさを求めたことで、しまいにゃ難解なものだとイマイチと言われたことさえあったそうですが、さて、それぞれには特性があり、最初に新しいものは難解に表れてそれから分かりやすく租借されて語られて行くというのが一般的です。学問はですから学べばかなり難解になって行きます。やはり難解だと情報量が高いことがあります。分かりやすくすると情報量は入らないので。ですから入門書や子供向けの作品は分かりやすいという傾向が見られます。これを持ってマニアックな作品は難解な傾向があり、けれども比較的新しいと感じられるものがあると言われます。

気持ちの置き所。

自分の居場所。

たかさきはやとにいかに作品書いてもらうか。量と質とその場。作品待ってますよと呼びかけるとか。ネットでデータの提示。

見たことのない世界を思い描こう。聞いたことの無い歌を歌おう。行ったことのない土地へ行こう。いまだかつてない自分を探そう。語っていない物語を語ろう。触れたことのないものを触れよう。遊んだことのないゲームを遊ぼう。読んだことのない本を読もう。聞いたことのない音楽を聴こう。幸福になろう。読んだことのない本を書こう。聞いたことのない歌を聴こう。遊んだことのないゲームを作ろう。見たことのない世界を描こう。聞いたことのないことを伝えよう。感じたことのない演技をしょう。聞いたことのない音楽を奏でよう。世界を歌おう。世界を語ろう。世界を描こう。世界を書こう。世界を伝えよう。世界を感じよう。世界を奏でよう。数式を始めて解こう。

楽しく行こう。やっぱり楽しく行こう。それでも楽しく行こう。とことん楽しく行こう。

手間を惜しむな時間を惜しめ。

悩んで儲かるなら悩もう。悩んで幸福になるならとことん悩もう。

美少女ものはどれだけえっちしーんがあってなんぼ。アクションものはどれだれアクションでなんぼ。

もうかってまっかあ。ぼちぼちでんなあ。

一芸に秀でよう。

伽羅の成長。伽羅が成長することとはなんだろう。それは出来なかったことが出来るようになること。たとえば技であったり魔法であったり話せない人と話せるようになったり。それはステレオタイプではあるがファンも作り手も望んでいる黄金のワンパターンである。

まー私が現実について行けなくてもだいじょぶだよなあー。

デフォルメ。現実を表現する時でもマンガやアニメなどのドラマではジョークやユーモアやブラックユーモアで現実を緩和して表現することがあります。これにより、突風にも感じる現実をゆっくりと感じることが出来ます。

シリアスなノリの場面では転の部分を隠しますが、コミカルなノリの場面では受け手にはまるわかりなのに、伽羅たちがどたばたしてる姿がとてもユニークさを醸し出します。

新しいものを作ろうとする意欲がみんなを引っ張っていく。

みんなベストで今なのだ。

過去と向かい合う時間。今を頑張り、未来を夢を見る。

緊張するのは仕事する人、真面目な人にまかせよう。

明日は明日の風が吹く。

否定は今現在のみを見て作品にダメ出しすること。批評は時間軸を得て過去未来を見てから今この作品に言及すること。感想は単に思ったことを言うこと。

油断大敵。最大の敵は他人でも国でも現実でもなく、自分であること。

手を口の前にかざして耳に音が反射するように調節すると、カセットテープに録音したような自分の本来の声がある程度聞こえる。

オンナは敏感だよ。オトコがどれだけ自分のために時間を使ってくれるのか見極める能力を持っているから。

沈黙もまた答えなり。

片隅にいる恋もある。

愛はシビれるよね。
恋は歌うよね。
思いは踊るよね。
イデア舞う恋蝶かな。

辛い恋もある。
恋焦がれた気持ちはどこへ封印されるのだろうか。

主語が無い話は誰が主役なのだろうか。

ずっと出会いたかったんだ。ここにいたんだね。

ヒーローがたくさん出て来る。これはゼータガンダムで敵方にサイコガンダムが登場したのを見てびっくり。そしてエイリアン2でエイリアンがでらでら出て来てびっくりしたので、それを入れました。

イメージ。
イメージ?
イメージだー。2006-8-20
漫画原作がテレビアニメで人気が出やすい理由。それは人気のある原作を選んで阿仁目化しているから。身も蓋も無い。その他には漫画がイメージコンテとなっているということがあります。アニメでイメージイラストを描くことがあり、宮崎監督はこれを描くことを得意としています。これが無いとあるとでは作品の空間へのアクセスが段違いになります。これは文字でも映像でも音楽でも効果音でも可。とにかく先にイメージなものをどれだけ提示出来ることが、作品のクオリティをかなり大きく左右します。ホンとは別に地道に注力します。逆にイメージイラストから話が出来ることもあるくらいです。これはクリエイターたちにも制作会社にも非常に確かな財産となります。クリエイターは必ずしも金が儲かるものでもありませんが、これが一番の財産になります。作家でも描き手でもそうです。絵を描く時にイラスト集があると非常に助かるのはこの点があります。イメイラやイメコンやイメジは多いほうがいい。けれどもこれは積み重ねなので、無理に締め切りに間に合わせるのではなく、地道にちょっとずつ描いて行きます。アンソロジーコミックでもそこそこ参考にはなります。絵画展とかもね。
ビデオゲームなどプログラミング分野にはイメージプログラミングというものもあります。こんなプログラミングが走ったらどうかということのイメージプログラミングの量が、ゲームの根幹ともなります。
伽羅や背景のイメージイラストがあるとないとでは作品のコンテを作る時の出来の差は歴然であり、あればあっただけ良く、動画スタジオでもなんでも背景スタジオでも描いて貰えたら数枚お願いしたいところである。それでいて、作画スタッフなどがイメージイラストがあると作画もクオリティが上がるので、ここいらへんは非常に重宝します。まあメールとかファクスで送ってると手間かかっては困るが。原画や動画スタジオでもイメイラは意味を持つが、動画の場合は伽羅表通りを求められることも多い。
イメイラはイメージイラストの略でイメコンはイメージコンテ。イメジはイメージ字。イメフォトはイメージフォト。
イメイラ等が力になる。これは漫画でも映画でもプログラミングでも歌を作る時でも小説を作る時でも演技でも文章でもラジオでも放送でも物品でもそうなので、地味いにここいら辺は書いて行きます。ラジオだと(イメージの)文字というか文章ですが、絵でも可。
文章の場合のイメージ字では、春が芽吹く時に吹く風、というような作詩から、事細かい指定を書く文字コンテのようなものから雑文まであります。一文字、神楽舞う、とか書く場合もあります。
制作スタジオでもでかい仕事を取りたい時はイメイラなどを貯蓄しておきます。置く場所ない時はパソコンに取り込んだり、データ量は少なくていいので。イメイラで仕事が取れるわけではありませんが、仕事が来た時にこういったものが資材よりも大きく力になります。
フリーのアニメーター、クリエーターになる時もイメイラは名刺変わりになります。
企画を書く時にもイメイラがあると作品世界が見やすい。まあ企画の場合はどれだけスタッフがそろうかもありますが。
声の演技や歌のメロディをカセットテープにイメージして入れる。パソコンに入れとくと音声データを管理しやすい。これを聞いてどういう音程が出ているか確認する。するとイメージしやすい。
イメージの段階でどれだけ伽羅の個性を積み上げることが出来るかが勝負を決めます。積み上がった伽羅達の個性は共通対比に転化して、作品世界を表現することになります。
ヌードは百枚で飽きるが、イメージイラストは億枚あっても飽きない。
ネットにある同人イラストや写真などもイデアひらめくものがあります。

イメージとは。構築しょうとする空間を時間によって構成する柱。2006-8-20
イメージは人の本質を開く鍵でもあり、また閉める鍵でもあります。それだけいいというものは開くと言えますが、出入りすることに意味があるならばその緩急もまた総じてイメージと言えます。

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イメージ

赤い光弾ジリオンでJJ(ジェイジェイ)がいなくなってからの復活シーンで、布を纏っていてそれをはらって登場するシーンはエヴァ二号機の登場シーンになっているなあとか。チャンプとノーザのスナイパーが撃ち合うシーンはエヴァの長距離射撃のシーンに影響受けていると思う。アクションで私が作品に求めるものの多くはここから得ているような気がする。ダーティペアとかもかな。軽いノリでバトルじゃんじゃんじゃんと。美少女物ではクリィーミーマミを求めているのかな。とか。
エヴァとかセラムンの後を追っかけても何も無いと思う。また別のアプローチが必要ではないかと思う。

開けてびっくりたまてごろお〜。

瓢箪(ひょうたん)から駒。

笑う門に福来たる。

地獄の沙汰も金次第。

独創性。オリジナリティ。見たことも聞いたこともない話。

給金日は早く来いと思うのに、仕事の納期は来るなと思う。この真逆性はなんだろう。

4コマ連打。4コマはストーリー性の無いものが多かった。これを時間軸を加えてギャグの連打を描く。延々とお笑い話なんてあまりにもありがちだが、4コマにはよっつのコマに起承転結が入っており、つまり起承転結を連打していると言ってもいい。それでいて楽しいものなので、非常に受け入れられやすい。これだけで成立させるドラマもあるくらいである。テンポが欲しい時や話しが暗すぎる時などにも使えるまさにありがたいものである。ストーリー漫画でもアニメでも4コマのコンテである必要はないが、4コマのテンポは描けるにこしたこたあない。特にスランプの時は重宝する。受け手も作り手にも緩急を取り戻すので、こういう作品が多い方がいいとは思う。

試行錯誤。

設定資料。
設定というのは作品に深みを描くためにするもので、これはデザインとはちょっと違う。デザインがそのまま表面に描かれる設計図になるのに対して設定は伽羅の行動原理に深い意味を与えるものであり、映像作品だとそれを語られることが無いことも多い。たとえばこんなものである。
魔法−−−−−−−
魔法というか強力な魔力を使うとさくらは眠くなってしまう。
クロウですらそうであるが、これほどの手練れになると魔力をあまり使わないで魔法を発動させる方法をいくつも知っている。これを魔力のショートカットという。もちろん呪文の詠唱を違う時間系列から引いたり、短縮したりすることもそう。
魔力を持つ者は魔力を感じる感覚を持っている。これはさくらの兄のようなちょっとした感じる程度のものからクロウほどの者までピンキリである。
人の気配を感じる。さくらの場合は魔法使いの魔力の流れや残った魔力をそう呼ぶ。実際にその存在を探す力もあるが、さくらはカードを使わないとそこまでは出来ない。これは魔力とは違う特殊能力であるからだ。シャオランはこの点その能力を持ち、札によって使っている。
札。札はシャオランの力を増幅するブースターであり、中には使い魔を召還するものまで中にはあるが、シャオランはそこまで使えない。メイリンは札を使わない。これはたとえばクリエーターだから誰でもゲームのプログラミングが出来るわけではないのとおなじ。
魔法が魔法使いの魔力を元手に世界を可変させることで力を行使するのに対して、札は使い手の力を増幅、方向性の変化をうながすものである。魔をうがつ破魔札などがある。
魔法が魔法使いのイメージによって世界に干渉するのに対して、札はまさに剣のような道具の延長上にある。自分の腕力が剣や盾によってその方向性を変えるものである。
杖は魔力をあまり使わないで魔法を使うためのものであるのが共通したものである。攻撃に特化した杖もあるが、基本的にはそうである。
クロウカード。札の特性を魔法に組み込んだクロウカード。それはクロウが作ったと言われている。札が術者の方向性を変化させて力をブーストする。それを魔法との併用によって自在に魔法の方向性を使っている瞬間に変化させる。それでいて、クロウカードには精霊と呼ばれる存在が寄与していて、魔法使いがカードを一度立ち上げてしまえば、精霊は独自の方向性を発揮する。魔法使いがカードを発動させただけで簡単に単純に魔法を幾重にも織りなすことが可能となった。これは実に画期的なことであり、クロウの功績と言っていいことである。これだけでもクロウの名声は魔法使いのあいだで確かなものとなった。
魔法陣は世界へとアクセスするための電話線であり、それによってデータのオンオフのような作業のために描く。地味に描くものもあれば、杖を置いただけて描かれるものまで千差万別にある。
基本的には自家発電のような魔力ではあるが、中には魔神や魔王や悪魔(魔)といった存在を越えた存在に力を借りることもある。往々にしてこういった場合は相手に存在を乗っ取られないような積み重ねが必要だが、魔法使いはピンチのために速攻で使うこともある。こういった大技を使う魔法使いにはダーク・シュナイダーやリナ・インバースなどがいる。ちなみにリナはまったくもって魔王に乗っ取られることがあった。これはそれだけのキャパシテイ、許容範囲を魔力に持っていると言える。ダーク・シュナイダーはリナが自分の魔法をどうにかやりくりするいがいと大技使うわりには地味な魔法使いであるのに対して、週刊少年ジャンプの血を引くダーシュはおもいっきりどんどん強くなっており、いまや神を凌駕せんいきおいである。ダーシュは神々と対等に戦う力を持っている。

伽羅来多ー設定。
アスカタイプ
アスカの原型は、道を歩いていると「気持ち悪い」とか言う女の子ややろー。冷たい態度だが、それが好きな相手になるとでれっとするので、これをツンデレタイプと呼ぶ。非常に表現力表出力に優れているのもそう。どこまでも突っ走る、いわゆるそれまでの熱血キャラ。加持さんには典型的なデレを見せる。シンジには積極的な恋のおままごとにつきあわせ、キスしたりする。なんでもこなす万能タイプ。けれども、伸び悩みも感じている。
誰とでも友達になれる奴。ユーモアがあり、楽しい人だが、非常に好き嫌いが分かれるタイプ。
ボケていることが非常に分かりやすく、本人もすぐに気づくため真っ赤になって怒ることが多い。トウジやケンスケが独り言のようにツッコムというかある程度人ごとなのに対してシンジは親身にツッコムので非常にアスカから怒られる。
いきおいのみのキャラ。
好戦的である。
動。
シンジの恋人としての登場であったが、勝手に突っ走って行ったキャラ。
どんどんいけいけという意味ではいわゆるヒーロータイプ。に近いが、自分のために戦う部分もあり、一慨には言えない部分がある。自分の力のためにエヴァを必要とした部分があり、もっともダークヒーローとしての特性を持っている。
積極的なダークヒーローを目指した。

レイタイプ
ありとあらゆる人に対して無表情で、情景のリレーをしないタイプ。だが、碇指令やシンジには普段は見せない一面を見せるため、やはりツンデレの一種ととらえることは出来る。戦いの時に、武人のように悟っているのかと思うと、儚げでもある。
ボケるシーンも多いが、あまりに冷たくクールなその表情と言葉からはボケていると思われていない。シンジはそこを気づくことがある。
一匹狼。孤高に見えて、まだ幼い面もある。
静かなキャラ。
レイは最初はありがちな神秘的なキャラから始まって、劇場版ではこの世界の神ということにまでなる一番ファンタジックな設定が付いて行ったキャラ。
背水の陣というよりはなにも感じてないような雰囲気を持っている。
静。
シンジの妹としての登場であったが、そんな話はどこかへ行ってしまった。
静観的ダークヒーローを目指した。

シンジタイプ
いまどきの子。おどおどして自分を表現出来ない。だめなやつ。逃げたりもするが、その葛藤が出るタイプ。成長して行く余地があり、そういった意味では、アスカやレイよりはシンジはキャパはあると言える。内気になって固まっている気持ち。それがツンであり、かおるなどに見せる気持ちを開くとこをデレと言うことも出来る。あすかとれいから好意を寄せられるいわゆるもてるだめ主人公。それでいてかおるにだけでれとした奴。
ふつーにボケてふつーにボケに気づく。ボケるとちょっと照れ隠しに笑ったり落ち込んだりする。
人付き合いが苦手。口下手。
普通なキャラ。
アムロ・レイがもっと若い場合はこんなだろうという感じで始めた。
平和的で戦うことは苦手である。
深。
始めた頃は世界を救う……そんな話だったような気もする。
ヒーローが正義のためにみんなのために戦うのに対してダーク・シュナイダーなどのダークヒーローは自分のために戦ったりする。シンジも自分からは戦わない。これは少年が世界を背負うことになったら、結構逃げるのではないかという観点による。
消極的なダークヒーローを目指した。
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歌で空間を作り出す。絵で空間を作り出す。文章で空間を作り出す。映像で空間を作り出す。演技で空間を作り出す。踊りで空間を作り出す。立体物で空間を作り出す。建物で空間を作り出す。車で空間を作り出す。色彩で空間を作り出す。プログラミングで空間を作り出す。自由とは空間の量に比例する。

アピール。制作者が作中で語らないことを受け手は知ることが出来ません。これは作中で語ることになるのですが、説明口調というものをどこにどういれるのか、わざとらしくないようにそこそこ入れていきます。これは作品を理解してもらうためにとても必要の高いものです。ここをめんどくさがってしまうとどんなにいい作品でも魅力半減してしまいます。まれに絵で説明してしまう技を使う場合もありますが、これはかなり高度な技で、滅多に見ることは出来ません。

書きながらイメージを練る。描きながらイメージ練る。踊りながらイメージ練る。歌いながらイメージ練る。歩いてイメージを練る。番組見ながらイメージ練る。作りながらイメージ練る。

ヤマトやガンダムなどのリアル系の作品はアニメーションの動きとしての楽しさを伽羅で見せるという従来の作品とは違い、より文学に近い内容だ。はっきり言って絵なんか止まっていてもいい。伽羅がその内面を語っているだけで作品が成立してしまう。これはアトムがそうであった。テレビアニメーションは枚数が使えない。そこを文学にも匹敵する重厚な内容、音楽で見せてしまうことで、枚数を稼いだ。これは成功した反面、アニメーション本来の動きで見せるというものを軽視した内容であった。もちろんスタフは最高の努力で動かしてはいた。リアル系は難しい話をすればするほど枚数が稼げてしまうので、暗い画面で話してすんでしまうしまいにゃ暗い暗い話に陥った。これを持ってリアル系というか主にアトム系、えすえふ系などの作品はおたくの代名詞にまでなる。これはリアル系が大人も見れる内容であった点がある。けれども、文学性で見せる作品はとても扱いが難しく、それをテレビの枠で続けて行くのは至難の業でもあった。猫がネズミを追っかけるような、ネズミが飛行機に乗るだけのような。絵を伽羅をアニメーションの動きで個性を伸ばすのが本来のアニメの姿であったが、それは長編になるにつれその姿をよりストーリー中心に変えて行った。これはいい悪いではなくそういう進化の流れを辿ったと言うべきだろう。アニメは細分化され、本来のアニメーションの動きで見せる作品はコメディー調のものに幾つかその姿を見ることが出来る。ストーリーで見せる作品は話の流れによって魅せるアニメであり、その作家性に大きく左右される。また長く続く作品はこの両者の系譜を得ていて、サウンドデュアル(左右混合、進化)されていて別段どっちだというようなことあない。

電子はどんな物質にもあり、その電子が流れることで電気となる。これは作品ではアイディアがあってそれを動かす流れが作品となります。

特撮ってなんだ。倒れないことさ。最初にCGをテレビ特撮番組に導入する時、目指すはスターウォーズのような番組をテレビで作るという目標であった。CG室の制作能力を全部使っていいと言った最初の頃のテレビ特撮は実にしょぼいものだった。ちょこっと剣の流れに使われる程度で、いま見ているようなものでは到底なかった。いやまあ古いほうのスターウォーズはフィギュアの宇宙船をどうCGでその存在する空間を作り出すかというものであって、いまのようにまったくもってアニメーションのようなCGの使われ方は実にぜいたくであると言える。ずいぶん使える環境も低くなったものだ。これは一定成功していて、見たことのない世界を毎週テレビ番組で見ることが出来るということは画期的であった。たとえ作品の内容がちょいいまいちでもその空間構成にまいったものだ。最近でこそそういったものは慣れてきてしまったが、その開かれた世界は広く、まだまだ映像の可能性を感じたものだった。結局それはひとつの道具でしかなかったに違いはない。人が作る職人技。それは普遍なのかも知れない。これはもうスタフの苦労の賜物であると思う。どうもありがとう。

ラジオでは空間構成というものにいま話しているテーマはなにを話しているかを何回でも言ってくれる、というものがあります。いえいえこれは作品でもそうですが、いまなにについて話してるか。映像の無いラジオでは唯一これが灯台の役割を得ます。これがないとどこに誰がいて、なにをしているのかまったく分からないことになってしまいます。いま話してるのはエイズについてです。たとえばいまはこの話がおもしろいんだ占いがねー。とかなんとか。こんなことがあってさーとか。そういうことを説明してくれる。いや正確には教えてくれる。これが無いときゃはははと笑っていてもなにを盛り上がっているか意味が分からない。いきおいだけて引っ張っていく番組もありますが、一般的には意味が分かりません。ねえねえみんな盛り上がってるけどなに話してるの、と聞いてくるヤツ。うざいですが、これに丁寧に答えるのがラジオのパーソナリティの仕事です。いかした曲をかけて行ってそのノリで作る番組もあります。これは歌のいきおいで番組構成しているわけです。またまれにそういったなんだか分からないことを売りにする番組もあります。パソがゆっくりと説明する場合もあります。なにかのやりとりで教えてくれることもあります。アクシデントがあればちょっとたいへんなことがあってねと教えてくれる。これがないと聞いてる受け手を迷わすことになります。映像があれば一瞬で分かることもラジオでは説明しないと分からない。これはもう小説と同じです。ですから、小説とラジオは似たような対比と緩急を感じることがあります。ですから識者の中にはメディアの受動的な危険性を言いながら、ラジオと文章の本にはいいものがあると言います。これは歌であればメロディライン、アニメーションであれば動き、映画のカメラワークに匹敵する根幹を成すとこで、これで個性の伸びを表現出来ればパーソナリティとしては一人前です。これからも応援しています。ではでは。
若者向けの番組はライトノベルのように説明をしないでノリで作って行く部分が強いので分かりにくく、説明しないでいきなりだよねーという変換された状況に行くので非常に聞く人を選ぶ作りをしています。これは若いということはそれだけで空間を作り出すパワーを特性として持ち得ていて、いる存在こそが空間を構成する力の方向性である点があります。なによりも新しいことにチャレンジしていて、新しい表現は分かりやすくするには時間がかかるものだからです。これを持ってして若者の文化はわけが分からないと言う人もいます。実際年を取らないと分からない経験や知識というものはあります。なにより手練れという人はほんとにそれだけでその空間であること。まるで若者はそのいきおいで年齢差という距離を縮めようとしているかのようです。

空間と時間。空間構成とはこの作品をずっと見ていてもいいと思わせるだけのものであること。もちろんそんなものはありませんがその努力をすること。この歌をずうーっと聞いていてもいいと思わせるだけのものであること。これが空間構成となります。

伏線。一人一人の気持ちは主観というものは人の数だけあって、平行移動する時間軸のそのすべての人の気持ちを作品で描くことは不可能です。なので、みっつの時間軸が螺旋するものがひとつになる瞬間を描くこと。それまで作品世界で隠れていた時間軸がちらちらと見える時それは伏線となりその時間軸が交差する瞬間にそれは見せ場となり、なによりも世界がひらめく瞬間へと変わります。これは作品世界そのもののカタルシスと言えます。作品を作るとはその世界の時間を作り出すこと。ある意味作品を作るとは伏線を作り続ける作業とも言えます。それは時間軸の竜が交わる時間であり、それは何度も交差してはまた離れて行く時間の舞い踊る空間の創出であるのです。
三本、三柱、三流の時間軸が交差してまた放たれ、それがまたクロスすることの繰り返し。表面しか見えない世界のすべて見える見えたと思われる瞬間が見せ場となり時間軸の交差する時間である。これは歌でも絵でも演技でもあらゆる表現にあるものです。これは高度な技でありながら地味ーに積み重ねて行くものである。
時間が空間を作って行きます。それは作品世界では伽羅たちが世界を作っているということです。どういった伽羅がどういった空間を作っていたのか。メイン伽羅たちは見ることになります。

作品がおもしろい理由。つまらない理由。

いいものは独特の違和感がする。

量でバランスを取り質を高めていく。

みんな頑張ってるからみんなにご褒美くれ。

話しで空間を作り出す。歌で空間を作り出す。絵で空間を作り出す。映像で空間を作り出す。カメラワークで空間を作り出す。メロディラインで空間を作り出す。文章で空間を作り出す。踊りで空間を作り出す。建物で空間を作り出す。花が空間を作り出す。木が空間を作り出す。緑が空間を作り出す。石が空間を作り出す。アスファルトが空間を作り出す。コンクリートが空間を作り出す。プラスチックが空間を作り出す。電気が空間を作り出す。化石燃料が空間を作り出す。リフォームで空間を作り出す。音楽で空間を作り出す。光りで空間を作り出す。闇で空間を作り出す。熱が空間を作り出す。冷たさが空間を作り出す。空気が空間を作り出す。真空が空間を作り出す。平面で空間を作り出す。立体で空間を作り出す。平行線から空間を作り出す。雲が空間を作り出す。山が空間を作り出す。海が空間を作り出す。波が空間を作り出す。時間が空間を作り出す。空間が空間を作り出す。数が空間を作り出す。道が空間を作り出す。穴が空間を作り出す。ボタンが空間を作り出す。フィギュアで空間を作り出す。写真で空間を作り出す。ハードで空間を作り出す。ソフトで空間を作り出す。楽器で空間を作り出す。機器で空間を作り出す。家具で空間を作り出す。デザインで空間を作り出す。色彩で空間を作り出す。布で空間を作り出す。服で空間を作り出す。本で空間を作り出す。車で空間を作り出す。ネットで空間を作り出す。パソコンで空間を作り出す。破壊で空間を作り出す。再建で空間を作り出す。旅で空間を作り出す。歩いて空間を作り出す。ジェット飛行で空間を作り出す。宇宙に空間を作り出す。楽しい空間を作り出す。

















共通個性。特殊個性。個別個性。
人における個性。人と人の違いを人はなにで認識するでしょうか。対比で認識するのはもちろんですが、それは入り口に過ぎません。その人がその人たる存在であること。それを認識するのはやはりその人にしか無い本質なのでしょう。個別、個人、個性。実はその人にもその人の個性はなんなのか一生を通して探すテーマであるとも言えます。一慨にこうだと言えないこと。だから時間という闇と光の風は人の気持ちを冷たく暖かく流れて行くのかも知れません。人の個性と個性の邂逅が話し合いとなること。相手の個性を感じた発言は理解となり、その逆は個性の否定となります。個性と個性が世界を開く、そんな世界を。その人はなにを夢見ているのか。なにを探しているのか。どこに居たいのか。どこから来てどこへ行くのか。

その人の夢(共通個性)。人の見る夢。もちろんそれは別個に違いますが、つまり未来を見ること。これが共通個性となります。ひとりひとりの個性に共通があるのも変な感じですが、ひとりひとりが未来を見ている視線というものがこれにあたります。

人の成長(特殊個性)。人が成長することとはなんだろう。それは出来なかったことが出来るようになること。たとえば技であったり勉強であったり話せない人と話せるようになったり。それはステレオタイプではあるがファンも作り手も望んでいる黄金のワンパターンである。成長は結果しか見えないことであり、それは課程が見えないものである。特殊個性というものはその個人の今、である。特殊とは今であり、結果とはつまりは今現在であるということ。

人の過去(個別個性)。
共通個性が未来、特殊個性が今現在であるのに対して個別個性はその人の過去となります。これはまさに別個の個性のさらに別個の時間の昔です。未来は時として無数にも思える線であるのに対して過去は一本です。故に人生における過去は時間軸の無数とも思える一本道なのである。


作品がつまらないと言う時、それは伽羅の個性を描いて無いという意味として使われます。たとえばその伽羅がチョコを好きならばどうして好きなのか。そこを転で見せる。転は世界が実は平行世界であった、実はこの伽羅は世界の鏡だったような壮大なものもありますが、伽羅の個性をじっくりと見せるために実に小さなことにこまごまと使います。お茶は苦いのが好き、だって人生はビターじゃん。みたいな。こういったことの積み重ね。これが出来て初めて作家としては一人前です。
時間軸を得た表現があること。壁にぶつかり、それを越える時。出来なかったことが出来るようになる。いまという時間軸の中で成長を見せてくれる伽羅に受け手はシビれます。
人がトラックにぶつかってトラックが大破する。人が月クラスの星を素手でぶっこわす。怒って重いテーブルごとひっくり返すと、もう一人がテーブルとその上の茶碗やご飯やお茶をひょいひょいと戻す。一人で百万の軍勢を倒す。そこまででかい表現でなくても自分や他人の気づかない気持ちに気づく。日々の日常に忘れそうになっていた自然に心洗われる。そういった地味なことの積み重ねが個性を伸ばして行きます。
どんなに厳しい状況でもあっけらかんとしてる伽羅。これだけでもその個性がくっきりと見てとれます。
群雲悠々。
髪型が変わっていてその動きがおもろい。これだけでも個性になります。いつも朝はブラックコーヒーで健康にいいからとミルク入れられて飲めないじゃないかとのたまう。こういったことの積み重ね。
おならするとぶーぶー空をふよふよと。どーすんだーとか。それをなんとかすることでひとつ話が出来てしまいます。個性の伸びがそのまま作品を引っ張っていく。そうなればもう伽羅は自由にその世界で動くことが出来るようになります。そしてそれは翻って見ている受け手もそうなるのです。
実はおれあスライムだったんだ。ぷりん。かわいー。みたいな。
その関係性、お互いの距離を楽しめる関係であること。それが愛ってことだってあるだろう。とかなんとか。
誰にも口を開かない伽羅がこの伽羅とだけは話すなぜなのか。こういった個性の伸びの部分を謎として見ることも出来ます。
巨大ロボットや戦闘機などのメカは部品交換や機体交換がメインで個性の伸びは一般的には無いものですが、まれにそれを伸ばすこともあります。

状況に個性を合わせるよりはその個性を伸ばしたほうがいいものになると思う。リアル系はその状況に耐えて戦って行く姿を描くことが多い。えてして状況のほうが勝つのでリアル系を嫌う人も多い。ハピエンとかほのぼのな世界を好きな人が多いのも分かる。これはもう好みとしか言えないだろう。

すべての伽羅には時間軸があり、その時間軸はいまも動き続けています。

イメージイラストもどれだけ個性が描かれているか。その枚数の勝負。
伽羅の個性を伸ばしたスタフだけがその勝負に勝ちます。
批評はスタフの個性を伸ばした場合だけ評価されます。

作品は伽羅を魅せるプロモーションビデオの一面を持っています。とはいえ別に歌に合わせて踊っているわけではなくそれぞれの個性の伸びを見せる作業になります。
個性を描いているとその伽羅が一人で勝手に動き出し始めます。メイン伽羅がそうやって歩き出す時。ここまでくれば作品の立ち上げの初(しょ)の終わりとなります。作品が作っていていまいち、スランプや人気でねー時はここが疎(おろそ)かになっていることが多くあります。
三ヶ月全13話ワンクール作品や映画、おーぶいえーとかだと伽羅の個性を立ち上げるだけで精一杯になってしまいます。こういった場合は作品が始まる段階で各伽羅の個性を立ち上げておきます。これによって確立した個性ある伽羅から始めます。とは言ってもそれはひとつの伽羅に一作品作るだけの時間を集めて個性を伸ばしておくというもので、伽羅の数だけ作品を作るのに等しく相当時間がかかります。2006-8-27

歌の個性を伸ばす。絵の個性を伸ばす。映像の個性を伸ばす。写真の個性を伸ばす。文章の個性を伸ばす。番組の個性を伸ばす。声の個性を伸ばす。演技の個性を伸ばす。アニメーションの個性を伸ばす。地域の個性を伸ばす。球技の個性を伸ばす。音楽の個性を伸ばす。楽器の個性を伸ばす。機器の個性を伸ばす。車の個性を伸ばす。表現の個性を伸ばす。空間の個性を伸ばす。時間の個性を伸ばす。柔軟性の個性を伸ばす。積み重ねの個性を伸ばす。プログラミングの個性を伸ばす。旅を伸ばす。

ハートで描く。ハートで書く。ハートで歌う。ハートで演技する。ハートで撮る。ハートで見る。ぜえぜえはあはあ……。ハートでイデアひらめく。ハートで個性伸ばす。まーきぐるぐるまーきぐるぐるまいてまいてぐるぐるまきじゃー。

お見合いで最初にご趣味はと聞く。ありがちな話だが相手を知る時に趣味と仕事は何かを聞くのは良くある話だ。ひるがえってこの伽羅の職業はなんだろうか。魔王を倒す勇者だ。けれども良く考えるとそれって職業じゃないよねって話。一種働いていないプータローに見えないこともない。その人はどうやって生きているのか。好きなことはなにか。嫌いなことはなにか。これを丁寧に見せて行くこと。

伏線。一人一人の気持ちは主観というものは人の数だけあって、平行移動する時間軸のそのすべての人の気持ちを作品で描くことは不可能です。なので、みっつの時間軸が螺旋するものがひとつになる瞬間を描くこと。それまで作品世界で隠れていた時間軸がちらちらと見える時それは伏線となりその時間軸が交差する瞬間にそれは見せ場となり、なによりも世界がひらめく瞬間へと変わります。これは作品世界そのもののカタルシスと言えます。作品を作るとはその世界の時間を作り出すこと。ある意味作品を作るとは伏線を作り続ける作業とも言えます。それは時間軸の竜が交わる時間であり、それは何度も交差してはまた離れて行く時間の舞い踊る空間の創出であるのです。
三本、三柱、三流の時間軸が交差してまた放たれ、それがまたクロスすることの繰り返し。表面しか見えない世界のすべて見える見えたと思われる瞬間が見せ場となり時間軸の交差する時間である。これは歌でも絵でも演技でもあらゆる表現にあるものです。これは高度な技でありながら地味ーに積み重ねて行くものである。
時間が空間を作って行きます。空間の量が伽羅の自由になります。それは作品世界では伽羅たちが世界を作っているということです。どういった伽羅がどういった空間を作っていたのか。メイン伽羅たちは見ることになります。


因縁(いんねん)。
お互いの手で円陣を取ること。
ひとつひとつの縁が網の目構成されること。
ひとりひとりの伽羅の個性を伸ばしてもそれが交差(クロス)しなければなんのドラマも生まれません。
伝説の勇者パーティとか、地球を救う美少女戦士に選ばれたとか、恋をしたから、おんなじ学校や会社などに所属している等々。
ひとりひとりの伽羅の個性、人生が交差する時、伽羅の個性の伸びは相乗効果を生みだします。
個性の伸びが一伽羅だけでなく、このくくりの伽羅たちすべての個性を伸ばして行きます。
それは世界が宇宙のように広がって行くに等しいのです。
それはパソコンにハードディスクを増設するような一伽羅の個性の伸びが、ネットにつながるようにすべての伽羅の個性の伸びへと広がって共鳴して行くのです。
たとえばドジッ娘ならばそれをフォローする伽羅。
それによってその個性と個性は相乗効果の伸びを見せます。
















たかさきはやとの待遇。まあ長いことゲームや漫画やアニメ、映画にテレビにあれやこれやと業界を股にかけて走って来ましたが、それはメール等、一方通行であり現場に足を運ぶことはなく、課題としては現場に入れて欲しいと思います。やはり話して作ったほうがいいと思います。スタフや声優さんにも合ったことなくここまで来ましたが、それはそれでちょと寂しく思います。現場に直に入れた場合は制作日記を言葉工房で書いて行きたいと思います。まあそれはそれで何年もかけて地道にでいますぐというわけではないのですが。考えといてなよろー。
メールくらいできんかなあ。

鈴木さんおっけいのスタジオを作る。その空間。来るとは限らないがこういった空間が自由へとつながることを願いとかなんとか。ね。
もちろん連絡もおっけい。あほな話と思う人もいるかと思うが、これだけで気持ちの負担はぐっと違う。いやもちろんこれは建前の話しではない。ので。まあおっとなおっとなーる。まあ力んでうおーっどうぞーっとやってると力尽きてしまいかねないので、自然とまあいいんじゃないですかというとこまで時間をおく。とかなんとか。
鈴木さんはまあつまりはタワシはうーんと、すごいいけいけごーごーに見えるかも知れないが、外へは出不精である。非常に外に出る気概には欠けるとこがある。
私としては一カ所確実なとこがあればいいかなとは思う。後は仕事の都合上ちょっといるスタジオ程度でいいんじゃないの。とは思う。ずっといることを前提にするとだめなとこが多くなってしまうのではないだろうか。そこはもうけすばいけすで。どこだって出入りしていーじゃんとは思うが、やはりそこはいろいろあるんだな。うんうん。
後はネットを使ってなにか連絡を取れるようにする方面はこっちで考えよう。たぶん柔軟性も無いとこなんだろう。空間作りでこっちで出来ることはしょう。って大抵私はアイディア出すだけだけどさ。
時間をおいてみるといい。無理は禁物だー。イチモツはイモのようにほっかほっかだー。
たぶん私との作品のやりとり。その積み重ねが固定化を生んでいると思う。そこに柔軟性をどうサンデュするか。それによって場の変化をするか。まだまだ先の話しではある。
みんな仕事を積み重ねてる。柔軟性だってそれなりにあると思う。場の変化は待っている。かなあ。
















緩急
普遍、共通、一般。リズムとテンポによる時間の流れ。
異同
特殊、集合、独自。
比較
個別、蓄積、唯一。対比による空間構成。






異同。異同とは違うということをあらわす言葉ですが、ここでは異なるけれども同じことと定義します。




緩急。作品作りの極意。作品作りの極意とは、ずばり緩急をつけることです。メリハリとも言います。それくらい知っている。それはまあそうですが、いつも心に原点回帰。迷った時はスランプの時は基本に帰るこれ大切ね。たとえば日常生活を描くファミリー物。ほのぼのした日常生活。けれどもこれだけではおもしろくもなんでもなく、良くあることではないですか。これにユーモアやギャグをつけることでその生活描写に緩急をつけています。なあんだという話ですが、これがもっともわかりやすい例だと思います。変わらない生活のように見える中にちょっとしたエッセンスや気持ちを描く。その緩急。これを感じるために作品があると言っても過言ではありません。たとえばシリアスでハードで暗い話の時、アクション物ではアクションをまじえることで話に緩急をつけます。そんなこと言うまでもない。と思うかも知れませんが、基本というものは得てして良く聞く話なのです。これは歌や音楽、絵や映像であろうとゲームシステムであろうと同じです。もちろんこういうことをはずして得る空間というものもありますが、基本はこうだということです。自分がいまどういう作品というかその空間に対していて、その緩急とはなにかを理解すること。これが極意となります。良くこの話は暗いと言われることがありますが、緩急が利いていればそういったことはなんなく許容出来ることで、ここは良く使われていることでもあります。時間は螺旋上昇していて横から見るとそれは波線となります。ヒットやブレイクするにはこの線に合わせる必要がありますが、緩急をつけているとそれはその波に近くなることになります。ラジオでは緩急をつけるために歌を流したり、ドラマをつけたりします。ドラマで流れた音楽を流したり、バックミュージックに使っても効果的です。悠久の自然の描写をする時に映像とは違い音では音楽で行います。絵にも止まっている絵と動く絵の違いによって緩急をつけます。絵の動き、静動で時間の流れる差を表現したりします。映像に音楽を付けて緩急をつけるのは普通です。音楽や絵をつけるつけない。オンオフ、呼吸、左右上下前後裏表、こういったことは力というか性質の方向性であり、これが緩急によって呼吸すると言えます。緩急はゲームのバトルシステムでもおなじです。緩急が作品世界のリズムとテンポとなります。ラジオでも緩急を付けて話します。これは歌とおんなじ。けれども緩急何十分も付けて話すなんて大変というなら御心配無用。自分がいつも話しているテンポとノリでいいのです。それにステレオタイプなちょっと強調、強弱を付ければとてもグッド。それだけのことですが、だからと言ってそれを地味に積み重ねるのはマイペースにはやはり職人技なのですよ。うんうん。時代や人や世界には波があり、この波に似た緩急を付けることがブレイクやヒットとなります。スランプになっている場合は大抵この緩急が取れてないことが多いので、歌や音楽や自然の音や街の喧噪を聴きながら自分の緩急とはなにか考えてみてください。自然の緩急は自然に生きている分にはごく普通に感じられるものです。腹が減るから鳴る腹時計、眠くなったら眠ること、動きたくなったら動くこと。などなど。けれども実際には人はそういった行動は制限を受ける生活をしています。スローライフや自然に生活するというものもありますが、それもどれだけ人の生活を自然にするかなと思います。たとえば忘れていた自然の緩急を思い出させてくれる音楽を作ること。街の中にいても出来るこれも一種の自然回帰と言えるかも知れません。
漫画のコマでおおコマを入れるのも緩急の一環です。4コマは起承転結を丁寧に入れることで緩急を付けたりしますが、この形そのものが緩急であると言えます。

映像作品の場合、最初の5分でつかみをとります。画面構成、カメラワークをちゃちゃちゃっと変えていって見てもらいます。ラジオでは二人のかけあいをとにかくテンポ良く。これはドラマならばキャラのかけあい。一人ならばノリツッコミ。その展開の速さで見せて行きます。ありがちな話しで、こんなものばかりならば疲れてしまいますが、基本というか黄金パターンのひとつではあります。ノリとツッコミをすたたたたんと。後半はいい話しでしめる。そんな感じ。

睡眠は人が起きている時間で乱れた緩急を元の自然な緩急に戻す役割があります。これは歌にもあります。たとえばいい歌を聴くととても感覚がすぐれてきます。これは売れる歌に良くあるものですが、実はアニメソングにもあります。正確には子供向けの歌にです。これは子供が聞くことに配慮された結果、その歌は売れなくても非常に人の緩急を自然な方向性を見る力があります。たとえばぴょこんぺたんぺったんこ。など。アニソンには心に残るメロディーがあり、それはとても自然な緩急の復帰に作用します。これは音楽でもそうで、クラッシックやアニメミュージックなどに見られます。

自然な緩急をとらえつつその人の緩急を出せる時、個性は伸びると言えます。

アニメーションの動きやイラスト、演技、声、写真、色彩、文章、プログラミング、カメラワーク等々にも自然な緩急はあります。

リアル系はのアニメは大人向けでもあることもあり、特に深夜は子供向けでないことがまったくあるので総合的に緩急が弱いことがありこの点は普段通りの作りをしたいものです。いやまあとんがった表現を深夜でというのもありだとは思います。大人は子供よりも緩急が無い作品でも楽しむことが出来、ビールのような苦いものが好きになるなど子供よりも非常に広い緩急をとらえることが出来ます。けれどもそれゆえに自然な緩急を忘れてしまいがちと言えます。子供の気持ちを忘れないという時、この自然な緩急も含まれています。たとえば自然の情景シーンたっぷりの作品を子供はあまり好みません。どちらかというとちゃかちゃか動いていたほうが好きと言えます。これは裏を返せばちゃかちゃか動く作品にはそれだけ緩急がつまっていると言えます。
静かな時間の中で本を読むと自然な緩急を取り戻せるのは自分のペースで読み進めることが出来るからです。仕事をしているとなかなか自分のペースで出来るわけではないので。それだけにいいものはその人のペースに合わせてくれるという特性があります。





比較。巨大な怪獣やロボットが歩いている時、それを表現するためにビルや人と大きさを対比します。いわゆる相対というものです。その物体やキャラの時間と空間を表現するのに、この比較するということはあたりまえのように使います。激闘が始まった時に戦っているキャラにそれを見て驚いたキャラ。この対比によってそれが大変なことなんだと説明することが出来ます。また逆に激闘してるのに片一方が必死で片一方が余裕綽々だと、その強さの違いを表現することが出来ます。水と油のように違う性格、犬猿の仲であることを表現するのにも対比します。ステレオタイプにはこういったことがありますが、これはさらにいろんな世界を表現することが出来るのです。比較と緩急は時間と空間のように相対に近い関係にあります。たとえば説明するということがドラマにはあります。どうして道を歩いているのか、いまの行動にどういう意味があるのか説明する。これは実にありきたりな表現で嫌う人も多くいるのですが、対比を使って上手く見せることも表現者の醍醐味です。灰色の暗い部屋。夜の月に照らされたマンションの一室にいる男が涙を流す。なぜ男は涙するのか。男は「やっぱりあいつは死んだのかな」とつぶやく。または伏線で謎の攻撃をする者の技が実はこうであったこと。敵の技を主人公の技に比較して、からめて説明する。これも一種の比較と言えます。地味なとこにこそ匠の技が光ります。これを持っておたく(玄人)好みの通な作品となります。ボケとツッコミもある意味対比と言えないこともありません。これは別段作劇だけでなく、色彩も料理の味も音も動きも、人はなにかを認識する時はまずは比較で見分けるという共通の要素があるということがあります。なにか良く分からないことがこうだと固定化されれば時間が経つと柔軟性へと変わって行き、それによってさらに分からなくなると固定化されて……その繰り返し。そういった時間によって変わることも比較で見せることが出来ます。ツンツンしてる冷たい感じの娘がデレデレと好意を寄せる。ツンデレも対比。怒ってはしゃいでいるばかりいる子と黙っている静かな子の対比。この対比はステレオタイプなものですが、ありがちな部分から人の本質や世界の本質、自然の本質へと描くことも出来るようになります。光りと影。色彩。その対比。対比は緩急を作り、緩急は対比を作ります。これが空間を作り出すこと作品を作り出すこと。伽羅を立てること。ひいては世界を作り出すことです。この積み重ねはとても遣り甲斐があり、とてもクールです。
空間を作れ。そしてその空間は人を自由にするものであること。それは見るまでもありません。
メイン伽羅の二人の感情の移り変わりを対比で見せる。その個性の伸びを対比することで、受け手はどちらの伽羅にも感情移入出来るようになります。「なんでビール飲まないで饅頭食べてんのよ」「最近苦いことばかりでね」「あたし飲めるようになったけどなあ。地ビールを熱燗で」「うぜえよばか。ビールは暑い時に飲むのがいーんだよばあか」「ばかって言うな、うすらとんかち」「あほ」「んなじだってば」「だからさ、女ばかだっての」「苦いこと言うねえ。でもね、あたしはもうビールが飲めるから、大人の女だよ」「じゃあ、おれは子供に戻った男だ」とかなんとか。ビールを起点にお互いの個性の伸びを描く。男性のほうは女で手痛い目にあって、この女性に苦いことを言っているのかも知れない。この女性は男性が好きで、ふられたことをひそかに知って笑っているのかも知れない。こういった感情の伸びの対比をこの人とこの人というふうにいろんな人との組み合わせで描くことの積み重ね。これが対比と緩急のサウンドデュアル(左右混合、個性の伸び、対象性の螺旋進行、進化)となります。たとえばアニメであればその対比に合わせて動きを変える。演技を変える。そのためのカメラワークをする。
いじわるな伽羅がいじわる仕掛けるが、恐がりながらもクリアしてしまう伽羅。「バナナの皮で転ぶがいいわ。おーほっほっほっあれ、なんでよ。あら、これはあれー」すってん、と自分で転ぶ。ありがちと思うかも知れないシチュエーションでも現実ではあまりにもいろんな要素がありすぎて良くわからないことが多いので、こういった単純な見方のほうが逆に好まれる傾向があります。話を複雑にするにしてもこういった単純なことの対比と緩急の重ね重ねなので、ここは大事なポイントです。

緩急と対比の演技ではいろんな伽羅によって自分なりの対比を付けたりしますが、作品上かぶる伽羅が出ることもあります。またその一人で対比と緩急をすることもあります。ぶりっこが強い伽羅になるとかね。そういう伽羅ばかりだとくどい内容のようですが、コメディー調の作品では良く使われます。
その伽羅のいいところをひとつ見つけてあげよう。それはどんなに悪役な伽羅でもそう。そうすることが作品を彩りそしてそれを作り出す気持ちを彩ってくれる。評する時もね。そのいいとこをどうやって見せてあげるか。それが個性を伸ばすことになります。どうやって気づかせてあげるか。そんなことの積み重ね。それがサウンドデュアルです。日常という表現も近いのかなあ。
伽羅と伽羅の対比で見せてその関係性の個性伸びを描く。
状況に伽羅の個性を伸ばす。たとえば継母と姉妹にいじめられていたけど、王子様と一緒になってとかなんとか。苦境に耐えてハッピーになるというパターンは少女漫画では一斉を風靡した内容ですが、これはやはりそういったものが伽羅の個性を見せるにはもっとも分かりやすいという緩急と対比があります。
「この空間では武器は使えないぞどうする、はあーはっはっはっ」などということを言うまでもなく、緩急と対比は伽羅と伽羅だけでなくその空間にも当てはまるものです。そしてその空間とは作品世界そのものなのです。
歌においてたとえば低い音と高い音は違うものと思うかも知れません。けれどもいい歌はその音程の課程で両方がサウンドデュアルされているものなのです。もちろんどちらかに特化した歌というものもあります。
状況と個性との対比。空間があれば自由には違いない。それが制限されること。限定された空間で頑張り活躍することにその伽羅の命の輝きがあります。大気圏突入の時に戦う巨大ロボット。マグマの中で戦うこと。暴走したロボットを捕らえること。そこまで極端でなくともすれ違いばかりで話しが出来ない一日。海に行く話し。こういった状況に対比されることでさらに伽羅たちの個性が伸びます。
























機器等、イデア集



携帯
持っている人の健康状態。
そこの場所の安全性などを表示出来るようにする。
自分でもチェック出来るが、家族がチェックしたり、
あぶない場合はベルで連絡したりする。
ゲーム感覚で楽しく出来ること。
詳細はおまかせします。



24時間いても暑くならない。
電気をそんなに使わない使うもの。
電気を使わない構造上のもの。
窓ガラスに太陽光パネル。透明なものを。まずはハイブリッドの一車種に。
詳細はおまかせします。
車のカーナビをメインコンピュータとしてカメラ機能や道路のデータ取得、人が急に近づいた時のブザー等、色々考えられています。けれどもまだ実現段階のものは少なく、いまのところは街中ではスピードを下げることが一番確実な安全策と言えます。


スプリンクラーを各家庭に設置するのは現実的ではない。
ではなにが家庭にあるか。
クーラーがある。
クーラーに水蒸気を発生させるとか。
いやいや。これでは視界がなくなってしまって逃げ遅れかねない。
水をためておいて、火事になったら水を放出するシステムとか。
鍋コンロの火と火事となるものとを判別する機能も入れたい。
業務用でもこのシステムで、オフィスにもスクリンプラーの要素を入れるとか。
自動で換気をしてくれる。
電源オフでも停電力で起動。
災害時も動くように充電池内蔵。
気化力の強い水を入れておいて、クーラーでスクリンブラーする。


換気扇
自動で換気してくれる。
電源オフでも停電力で起動。
スプリンクラー機能。
これは料理の火は識別出来る。
車でも。


公的施設の屋上に太陽パネルと風力機。


電気の蓄電施設。蓄電所。
各家庭でも蓄電機能。
家庭用蓄電器。
窓ガラスでの透明型のソーラーパネルと風力フィン。


パソコンソフト
どんなでぃぶいでぃ機器でダビングしたものでも再生とファイナライズ出来るソフト。


メールソフト
宛先のとこにカーソルをあわせるとあいてのメールアドレスを入力という文字が出る。
シーシーにカーソル、添付ファイル。
件名にカーソル、メールタイトル



給料日前になるとお金に困る。
ので、銀行の口座に日にち指定で給料日前の日にち指定して出される金額を紙に書いて出しておくと、指定した金額が指定した日までおろすことが出来ない。とかなんとか。途中で指定の金額をおろす場合は紙に書いて出す。
とは言え、一番いい貯金の方法は店には行かない。チラシは見ないということになります。これはシンプルイズベストですが生活はちょっと味気ないものに感じるかも知れません。
貯金するにもダイエットするにも時間が必要となります。時間はあらゆる行動の元手となるので、時間を大事にしましょう。



コンビニ
百円ショップコンビニを作る。弁当やビールや雑誌などは定価。



ノンカロリーのカリカリ犬猫用それぞれ。



骨電動補聴器。デザインもそこそこに。



本屋とコンビニで本と雑誌の予約を出来るようにする。



汗をかいただけならば石鹸を使わないで体を手でさするだけでオッケイ。洗濯物にも洗剤無しでいい。それらが無いとだめに思えるのは文明病です。それでも心配な時は一週間に一回洗剤を使ったり、後は消臭除菌スプレーでもかけときましょう。



海水から淡水を作る機械の簡易化簡略化で、いい意味でシンプルイズベストな簡単な機械で出来るようにする。電力消費量を極力まで減らしていく。出来れば潮の流れ程度で出来るくらいに。または、人がバケツで上から入れれば淡水が出るような仕組みで。井戸についてるような細長いノブで汲み上げ式も。淡水量は少ないものをまず作り、それをところどころで、用途に合わせて使えるような汎用タイプ。ようは形はおんなじにして、量産することでコスト削減を目指す。淡水量は小型機は大型機に比較して少なくても、一日に一家族が暮らせる程度の力のあるものにする。
これとは別に、大型の、電力ばりばり使うでかいハイスペックのものも試行錯誤して行く。
内陸に水を供給する策は別に作る。



コンビニでヘルシー和食弁当。ヘルシーコーナーも作る。



音楽楽器
電子ピアノ、電子ギターなどで弾いた曲がそのまま楽譜となって表示される。データもデジカメで使われているメモリーに保存される。ビデオコードでDVDデッキに入力すれば曲の録音も可能。入力で聞いた音の楽譜も作れるようにする。複数の曲のデータを秒単位で重ねていくことも出来る。



軟物と乾物と固定物。コンビニで扱う物には大きく分けて軟物(なんぶつ)と乾物(かんぶつ)と固定物があります。難物は水分の多い食べ物や大きくは水類も含む。乾物は水分がなくて固いものです。固定物は文房具やパンツや雑誌類となります。軟物はとても食べやすく需要もそれなりにありますが日持ちがしないので、廃棄されやすい。乾物は長持ちしますが需要はそこそこ。もちろんそれぞれのヒット商品というものはあります。軟物はレストランのほうがとてもいいものを出すことはもちろんですが、コンビニは比較的に均一なものを全国展開出来る強みがあります。また値段は抑えめなのが特徴で、高くても600円弱くらいです。レストランでは上はもうン万円ですから、その差は歴然と言えます。これはそれだけ生活寄りというか、まさに庶民のステレオタイプと言えます。お中元に高い乾物はありますが、高い軟物はありません。これはそれだけ大量に作るのが難しいのと、それだけの高い物品の展開はリスクを伴うと言えます。 ゴールデンライン。目線気持ちちょい下くらいがもっとも商品が出るラインだと言われている。他の棚はあんまり見ていない。よって新商品が出ない時でも、棚の上下を変えるだけでなんだか新商品が入ったようなふうに見えてリニューアルが出来る。




えろ系。ローター、バイブなど。バイブではさきっぽから水がちょっとずつランダムに出る。ボタンを押すとぐーっといっぱい水が出て、動きが激しくなる(これもランダム)。動きもランダムで、暖かくなったり冷たくなってその緩急を付ける。男性向けでもおんなじ。ローションも使えるが基本としては水で。



バイクや車を購入の時に自賠責だけでなく、任意保険も自動的に入るようにする。これはもうそうでないと購入出来ないようにする。自転車も自賠責と任意保険に入る。自転車の場合は事故数が少ないことをかんがえみて、保険料は安く設定する。




車両。ハンドルに関知振動を与えて左右後方から迫る移動を伝える。これは車、バイク、自転車に付ける。右後方からならば右手に振動が行くようにする。




魔法少女やバトル少女ものの設定を選んでシャッフルすると新しい設定となって出て来る。翻訳ソフトのような感じで。たとえばこれとこれとこれの設定を選んでシャッフルすると二人の少女が変身するが、実は二人は男だったのだ。とかなんとかね。




車にケータイの充電器を簡単に付ける。タクシーはほぼそのすべてに付ける。




植物を建物内で作るということ。










これらの
取捨選択、追加、整合性、詳細はおまかせします。








アールピージーゲームにおける、楽しい部分。

普遍、共通、一般。
ストーリーを進めること。キャラとの語らい。世界を見ること。
特殊、集合、独自。
進めないとこ、倒せない敵の攻略のひらめき。
個別、蓄積、唯一。
移動やバトル、アクション、オプションの操作。


基本操作は分かりやすく、説明書など読まないでも意識しないでも出来るようにする。テクが必要な部分は、キャラがサポートして、プレイしていけば出来るように。








あるぴじにおける、楽しみ方のパターン(大まかに)。

レベル上げてモンスター討伐
普遍、共通、一般。
謎解き
特殊、集合、独自。
商売
個別、蓄積、唯一。


謎解きは話の謎解きが良くあるが、それらをサウンドデュアルして、からまっていくようになる。モンスターにはなぜ出て来るのかメインストーリーと連動する関連性の謎があり、それを解くことが出来、また商人となって、話そっちのけで商売出来るようにするなど、副業的楽しみも入れるといい。商売するためにはレベル上げが必要となり、それでもうレベルはクリアレベルまで上がるようにする。商売にも謎があり、それらもからまって大きな謎が解けるようにする。
商隊となって困難な地域を越えて、物品をやりとりすれば、高収入となる。けれども、それにはそれ相応のレベルが必要である。アイテムを増やすには仲間がいるとの視点で、ここでは大まかに商売としています。
やり込み要素はやりがいがあること。
ゲームシステムは毎年変わっていって発展していって、それを感じさせない操作性を実現すること。それが出来てあたりまえの世界なので、ここいらへんが苦労することが仕事と言えます。


保護主義と放任主義。
パソコンのゲーム環境は作りたい人が誰でもゲームを作れる放任主義の環境であり、あたりまえと言えばあたりまえですが、これを放任主義。これに対してテレビゲームなどをハード会社が認めたメーカーが作る保護主義と言えます。ソフトのクォリティの低下を抑える目的がここにはあります。また良質なソフト、比較的安全なソフトを提供することが根底には見受けられます。最近ではテレビゲームもネットにつなげるようになり、ユーザーがその範囲の中で冒険したり、ユーザーが作った面やダンジョンを提供することも可能となっています。これは限定保護主義と言えます。


買い換え時期。
ハードの買い換え時期はソフトの売れ行きが比較的減る傾向にあります。ハードが出そろった時期には、ソフトも出そろい、またソフトの売れ行きが戻って来る傾向が見受けられます。


草創期、生成期。
テレビの普及率が50%から70%を越えればそれは生成期を脱して発展段階に移行していると言える。けれどもテレビゲームビデオゲームというものは各家庭に一台あってもそれは若い人だけのものであったりするので、これはまだ生成期と言えるかも知れない。テレビゲームが生成期を脱するのは大人たちや老人に受けいられるだけの柔軟性が備わった時だろう。

アーケードゲーム
アーケードはテレビゲームでもこれは出来るなと思われたら負け。
最近はアーケードの要素どころかさらに進んだものまでテレビゲームや携帯ゲームは打ち出しているが、これを上回る力が必要となる。発想の転換で、いまある技術を使ってどれだけ簡単で安価なゲームシステムを作るかも必要。



























歌を歌って歩こう。








歌の構成要素。歌の見せ場。


メロディライン
普遍、共通、一般。
音楽
特殊、集合、独自。
単語と音符
個別、蓄積、唯一。


メロディラインは誰もが楽しむところです。ふんふんふーんと鼻歌で口ずさむようなもの。これがメロディラインとなります。これだけではリズムのみで物足りませんが、まさにこれが根幹と言っていいものです。これに単語というか言葉を足して歌になります。これだけではアカペラというものですが、これに音楽が加わった時にメロディラインと単語はダイナミックに空間を構成し始めます。このみっつのバランスが歌をからっぽの空間へと響かせます。音楽の場合は単語の部分が音符になります。単語と音符はミュージックにおいては同義と見ます。
単語と音符はメロディラインによって動きを得ます。メロディラインは単語と音符によって意味を得ます。メロディラインと単語と音符は音楽によってバランスを得ます。


音符という精霊が舞う。










最初にサビを持って来て、そこから間を取ってから情景シーンへと。そこからまたサビへと移る。
これはアニソンパターンの黄金のワンパターンのひとつ。
最初の歌い出しで歌の評価は決まります。
ここにもっともその歌で力の入っているサビを持ってくること。
これがもっとも強い引きになりつかみになります。
歌に一番求められているのはメロディラインです。つまりはメロディ運びとでも言いましょうか。これが出来てないと、どんなにいい歌詞でもダメです。俳優さんが演技がいいかどうか問われる時、歌手が問われるのはこのメロディ運びだと言えます。
いいホン(脚本)に巡り会えるかは運ですが、いい歌詞に巡り合うのも運です。
メロディラインとは音程を波打たせながら、歌詞で空間を当てて行くことです。
時間と空間を感じるメロディラインを取ります。









一行に始まる歌。
テレビドラマならば最初の5分でたたみかけてつかみをとってチャンネルを変えさせないという作り方があります。これには歌にもあります。最初の一行がその歌のすべてを歌っている。もちろん静かな歌やノリノリなど雰囲気をとにかく聞く場合もありますが、最初の一行はその歌の出だしである以上にその歌の本質を歌っていると言えます。





情景のバトンタッチ
情景とは、風景を気持ちのこもった言葉で表現すること。これはバラード、ポップス、民謡、ロック、なんにでも見られる共通表現です。こういうものが無い、ブラックオンリーなものもありますが、それは好き好きのようです。さて、情景にはバトンタッチすることが出来ます。ここでは、歌における情景のバトンタッチを見て行きましょう。
小説などのドラマ作品であれば、複数の人物のセリフのやりとりによって、情景のバトンタッチは行われます。
「おまえが好きなんだ」
「あらあら、そうなんだ。新発見よ、それ」
と、繋げて行けますが、歌詞はその大半が一人で歌うものが多い。
歌には歌の、いくつか既存の方法があります。
ひとつは光景にバトンタッチしていくこと。
ひとつの景色を描くように、その風景を完成させるためにフレーズを構成して行く。ひとつのシーンを完成させる。こういったことを緩急を付けて歌っていきます。
また、一人の人物、ある出来事、季節。こういったことを歌うことがあります。
いわゆるテーマに対して繋げていく。
これは一人しゃべりのラジオにもある方法論です。




サビとフレーズによるカタルシス。
フレーズの部分で布石を打っておいて、サビでカタルシスに持って行く。たとえば、フレズで街のあちこちを歌い、サビでここは世界の始まりだから、とかなんとかつなげていく。暗い気持ちをフレズ、そこから気持ちを変えて行くことをサビ。という、単純ですが、これが歌のカタルシスと言うところです。
レッスンソング
歌を練習する時、連想するのはなんだろう。
カラオケ?
先生に受けるレッスン。
それはどれも正しい。
ここでは、ありがちながら、あまりトップアーティストが言わないことを書こう。
ドラマやアニメの歌をDVDで流れる歌に合わせて歌う。
CDの曲に合わせて歌う。
なあんだ、てなことであるが、これは絵で言うところの模写にあたる。
模写がうまいからと言って、歌はうまくならないが、けれども、そこから学ぶことは多い。
それは何千年も紡がれた歌の歴史をトレースすること。
その人の想いを歌うこと。
ライブでの一体感に比べれば、なんとも物寂しいものであるが、まあ、アーティストの作業は基本的には一人なのかも知れない。
歌のキー、音程があってなくても、合わせてみる。
それに慣れてきたら、別のキーで歌ってみる。




フレーズ

歌詞の一行を持ってして、一(ワン)フレーズと言うことがある。
まあ、ようは歌詞のことである。
けれども、これは基本中の基本。
一フレーズから歌が出来ることも多い。
毎日五フレーズ、五行くらいの歌詞は書き出して行きたい。
今日感じた楽しいこと。辛いこと。寂しいこと。
感じた季節。移り変わるなにがしかの予感。
そういったことが、歌詞となる。
それは日記のようでもある。
サビに至るまでのフレーズが、布石となり、サビの部分にその布石は結集されます。




歌における系統樹





ジャンル
ポップ、ロック、ハードロック、演歌、歌謡曲、フォーク、ジャズ、ヒップホップ、童謡、バラード、えとせとらえとせとら。
これらのジャンルはまあ、映画で言えば、恋愛物とか、アクションとか、そんな違いであろうか。 一般的には、別個に見るジャンルだが、作り手はいいものを作る。では、いいものとはなにか。これは誰もが子供時代経験した歌ということになる。童謡が近いかも知れない。おお〜きな栗の木の下でえぇ〜と歌った子供時代。こういった歌が、誰にでも通じる、どの年代、性別にかかわりなく、通用する歌として、心に響くだろう。ジャンルは作り手にしては、プレゼントの宝飾、装飾のたぐいのものであろう。




雑談
ロックはプレスリーがゴスペルからヒントを得て作り出した。それを若手のグループが不動の物にする。ロックがアクションであるならば、ギャグはコミカルソングだろう。歌の笑いは三味線でする、昔からあるものがあるが、以外と開拓されていないジャンルでもある。ヒットソングを見ても、だいたいがポップスやバラードだったりする。量が質に匹敵するならば、ポッブスはまさに最大規模の質を持っているだろう。最先端であるということは、新しい物も輩出するが、すぐに古くなるサイクルも速い。古い歌も、カバーしてみると、ヒットしたりする。いいものはひっそりと咲く花のようなものだろう。



フレーズ
一人で歌うのも楽しいものですが、みんなで歌うことが出来るフレーズがあると、またそれはいいと思います。フレーズは起承転結の転、見せ場のシーンで出て来ることが多いような思います。フレーズは何度も口ずさむことが出来る、コンスタントなものが好まれるようです。




引きとは
漫画において、ページをめくる時、いい意味でびっくりさせることがあります。これは引きでありますが、歌にもこれはあります。歌詞を見て、改行されているところが引きとなります。なにが次に来るかためておいて引きとします。漫画では見せ場では見開きで引きを表現することがありますが、歌では見開くの引きとは、フレーズになる時と言えます。




歌にも起承転結は有り、起は静かに始まり、承は淡々と歌い、転はサビの部分でかなり盛り上げて歌い、結で静かに、起のとこまで下げてきて終わる。これが歌の起承転結になります。線で表すならば、最初上げて、それから横に行って、サビは上げて、最後に下げる、と言うことになります。
これに対して、演歌やバラードなどは一直線に歌って行きます。演歌は、こぶしという、独特の歌い方があり、こぶしをすると、一直線が回転を始めます。民族歌謡には、いくつか例が見られるようです。
ロックは、上げて上げて行きます。ハードロックなどはとにかく、もう、とにかく上げて行きます。間隔を空けて、戻すことはします。
コミックソングはあっちやこっちや行きますが、結構一本道です。
ポップが強いのは、非常に歌の起承転結に忠実なので、誰にでも分かり易いという点が考えられます。

















エンタメに共通のこと。


構成
普遍、共通、一般。
カタルシス
特殊、独自、集合。
布石
個別、蓄積、唯一。


ドラマだけでなく、ラジオにも、音楽や絵にも、エンタメ全体にこういったことは共通します。
















作劇術における系統樹


作品は系統樹のように作られて行く。
正確には、時間の進み方が系統樹なのだが、なにから始まり、ここは分岐、ということが見てとれる。分岐は転である。これは人にもあり、また、人と人の系統樹の枝が触れ合う時が交流である。








作劇術における表現と表象


抽象
特殊、課程が見えず、確率によって、その表現が決定される。話が盛り上がり、どうなるのか、はらはらどきどきする、カタルシスの発展段階。表象からその側面を表現すること。
具象
個別、ひとつひとつの課程を提示することにより、表現を浮き彫りにする積み重ね。話の布石を打ち、カタルシスの始まりとなる場面の数々。具体的な面。
表象
一般、共通する課程を提示することで、表現を定着させる。カタルシスの結。








オリジナリティ
見たことも、聞いたこともない世界。
それはフロンティア。
物質の、本質の果てに触れる瞬間。
オリジナリティーというのは、著作権ということだけでなく、まったく新しいことを模索するということに、本質、また、人の存在意義を見ることがあります。
正しいことは新しいとは哲学者ヘーゲルが言ったらしい。
新しいこととはなにか。まったく、天地創造などということが、ぽんぽん人が進化を進めることはないと思う。まず、新しいことの模索とは、いままでにあったことを、古い資料や文献に当たることであると考える。
歌であれば、そのルーツたる曲などを、いまの曲に照らし合わせていく。古い映画、ドラマ、アニメにゲーム。ラジオなどは、比較的古いものは探せないかも知れない。








構想について
同じ作品なのに、ヒットしたりしなかったりする。
これはなにが違うのか。
それは構想時間である。
いい作品になるかどうかは、構想時間に比例する。
けれども、構想時間なんて、実作業に入ってしまうとなかなかとれない。
構想作家でもいれば別だが、基本的には、実作業に入るまでに、どれだけ構想時間をとれるかに、作品の出来は左右される。
これは質の話であって、量をとにかく書いて、その量による質的変化を狙う方法もある。 量と質と場(空間)をサウンドデュアルすることが、いい作品を作るコツと言えます。




作品を作る時の作劇術
作品を作っていると、キャラの髪型はどうだっただろうとか、この子の趣味はなんだったろうと思って、キャラ表を作ることがある。長年作っていると、当たり前のことが必要となる。新作の作品を作る場合、それは作品を続けるのとはまったく違うノウハウが必要であるが、これは一番基本的なことであるが、一番書き残していない部分でもある。
それは別に特殊なことではなく、このキャラは冷たく見えるが、クールなだけで、いがいとやさしいことがある。ということを、地道に見せていく。そうやって、キャラを立たせること。こんな時、こんなことを言うこの人は、とても愛おしいこと。そんなことの積み重ねがキャラの魅力となり、一人一人がそうやって描かれていく時、作品世界は無限に思えるほどに広がっていく。壮大なスケールの作品であるという時、それは別段、世界設定だけでなく、その中で暮らす人たちの生活そのものが、魅力となり、作品世界を豊かに実らせることになる。




愛のサウンドデュエルとは
普遍、一般、共通。
永遠。
特殊、独自、集合。
ともにあること。
個別、蓄積、唯一。
思う時間。





笑いのサウンドデュアル
ボケ
共通、一般、普遍。
ツッコミ
集合、独自、特殊。
ノリツッコミ
蓄積、唯一、個別。

基本的に自然な人生の中にはツッコミは存在しない。なにも言わなければボケた奴はボケのままである。そんなことあるかい、と、ハリセンでぶったたくのは、やはり、説明はいらないだろう。作品で笑いを表現するのは、ホンを作る人にとっては、ノリツッコミと言える。




カタルシスについて
変身ヒーローと巨大ロボット。おまけに魔法少女にRPGゲームにすごろく。
これらの作品にはなにが共通するだろう。
悪役がなにかを画策して、それを変身することによって、または巨大ロボット登場によってそれは粉砕される。
何気ない日常が、魔法を使うことで、とても素敵な展開を見せる。RPGゲームでは、レベルが低い時は倒せない敵が、レベルが上がると倒せたり、行けないとこが行けたりすること。すごろくでは、ゴール地点に何マス戻ると書いてあり、たとえばサイコロの4が出ないとゴール出来ない。ゴール出来そうで出来ない。その展開がためとなり、ゴールへの感慨になります。
そのハードな展開を一気に吹き飛ばす。
これを総じてカタルシスと呼びます。
こういったものをスーパー路線として原点とするならば、最近はリアル路線と呼ばれる流れが主流ですが、それでも、こういった一面を受け継いでいることが伺えます。
リアル路線は悪役を倒すことよりも、人間ドラマでハードな展開を見せ、そこからちょっと人生や人間関係にほっと出来る一瞬というカタルシスに持って行く、どちらかと言うと、ヒューマンドラマといった流れを強めています。
リアル路線はスーパー路線と違って、世界を救うというよりは、人のアイデンティティーをテーマにすることが多い。
その他には、ハードな展開を笑ってしまおうという、間合い路線、またこのみっつの路線をサウンドデュアルすることもあります。




宝箱
キャラクター。シチュエーション。クエスチョン。
作品とキャラと、謎の展開において、宝箱を開けたようなことの連なりであること。




なぜ作品を作るのか。
そこに山があるからだという言葉がありますが、
そこに世界があるからだと言えます。




作品を作る時の作劇術
作品を作っていると、キャラの髪型はどうだっただろうとか、この子の趣味はなんだったろうと思って、キャラ表を作ることがある。長年作っていると、当たり前のことが必要となる。新作の作品を作る場合、それは作品を続けるのとはまったく違うノウハウが必要であるが、これは一番基本的なことであるが、一番書き残していない部分でもある。
それは別に特殊なことではなく、このキャラは冷たく見えるが、クールなだけで、いがいとやさしいことがある。ということを、地道に見せていく。そうやって、キャラを立たせること。こんな時、こんなことを言うこの人は、とても愛おしいこと。そんなことの積み重ねがキャラの魅力となり、一人一人がそうやって描かれていく時、作品世界は無限に思えるほどに広がっていく。壮大なスケールの作品であるという時、それは別段、世界設定だけでなく、その中で暮らす人たちの生活そのものが、魅力となり、作品世界を豊かに実らせることになる。




スランプの時には
四コマを描いてみるといい。
起承転結を一コマに入れていくので、いいリハビリになる。
一コマもいい。一コマは漫画の基本中の基本なので、いつもこれは念頭に。
言葉では、五七五とか。一言で書くもの。
四コマや五七五は、小さくまとまらないようにするため、色々な手法がある。それはまあ、本職の人が駆使するもので、そこまでは必要ないと思う。




サウンドデュアル
三人一組(連組)で描く手法。
その話のメインを一人決め、その時、その他の二人がサラウンドの役割となる。
二人がメイン一人の右手と左手となり、魅力を引き出す。この回転で作品世界を回転させる。
この二人は、ギャグであればツッコミとボケ。シリアスであれば、聞き手と諭し手となる。まったりはだらだら。
一人が暗くなっていても、他の二人が明るく、両手をつなぐ。
世代や属性(冷たい奴、熱い奴、社交的な人、内向的な人、短気、穏和、ツンデレなど)やスキル(守り手、攻め手、謎手)の違う三人を三組以上描いて、話のスタート、(生成)となす。
二人を変え続けて、その時のメイン一人を描くことによって、話を展開(発展)させる。
キャラのトライアングルラインが、幾何額模様を描き、世界の広がりを作り出す。

背景におけるサウンドデュアルとは。
風景描写と人物描写と時間描写を連組にして、メインとなる形質を描く。

系譜におけるサウンドデュアルとは。
新しい分岐、古い分岐のカバー、そしていまの分岐。

シチュエーションにおけるサウンドデュアルとは。
四幸八幸(普遍)、四苦八苦(特殊)、四転八転(個別)。
四苦八苦して、どんなに厳しい時も、ほわっとなる四幸八幸の時があり、また、そんな中にも、はっとする時がある。歩く道は四転八転というなだらかな日常、それは人生そのものである。


応用
としては、自分を学問と運動に秀でた他の二人と比べて自分に無いものがコンプレックスとなるが、それをシチュエーションを自分の力で乗り越えた時、自分にしかあるものが見えて、ちょっと気持ちがほっとする。とか。一例としては。
たとえば、二人の無くて七クセに辟易するが、それがなんとなく、居心地の良くなる時間である風景に出会える時、とか。人は他人をなにで違うと思うのか。特別な存在になるとはどういうことか。それは相手のクセを知っていることではないか。自分がけなしてもいいが、他人がけなすと嫌な気がする。愛好家(ファン)がその人を好きになる時というのは、ちょっとしたことなのではないだろうか。




比喩(ひゆ)と揶揄(やゆ)と風刺(ふうし)について。
国語辞書には、比喩とは、物事を説明するとき、相手のよく知っている物事を借りてきて、それになぞらえて表現すること。と書いてあります。揶揄(やゆ)はからかうとありますが、思い上がっている人に、警笛を鳴らす意味合いもあると思います。たとえば、お金に目がくらんでいる状態を見せたりします。これは作品にケレン味を加えます。こういった欲望を風刺することは一般的かも知れません。では、風景の風刺はどうでしょうか。花びらが水面で色を変える。枯れ葉が元の緑色を取り戻す。こういった描写は、自然の輪廻転生、自然回帰といったものを感じます。こういった描写が、情景として描かれることも、一種の比喩と言えるのかも知れません。




作品について


一般の受け手、普遍、共通。
リサーチ。

唯一、個別、蓄積しているマニアや専門家。
意見を聞く。

集合、特殊、独自な作品の本質。
勘。


一般の意見というのは、全体からリサーチによって、大まかに見る。
個別には、個々人の意見を聞く。特にマニアや、専門家、プロフェッショナルの意見はうんちくがある。
その作品の本質は特殊であり、これはリサーチしても、課程が見えない。




キャラクター 其の一


一人のキャラクターはひとつの世界である。
そのキャラはどんな景色にいて、どんな仕草をするでしょう。
利き腕は、フロは右足から入るのか、左足から入るのか。
どんな過去があり、どんな夢があるのでしょうか。
コント
普遍。
情景
個別。
見せ場
特殊。
実話やドキュメントやニュウスでもない限り、番組・作品は客観的に見るものです。
キャラクターたちの話の掛け合いで場面が動くことはコントに似ています。また、コント(ノリツッコミなどのギャグのかけあい)で話を動かす話もあります。これが一般的な話の進め方です。スムーズに、リズムのあるキャラの話の掛け合いは気持ち良く、とても爽快なものです。
これに対して、一人の気持ちで進んで行く話は一人称であり、情景、情緒豊かなものが多くあります。しっとりと風景を楽しむ作品が多くあります。三人称の作品では、どれだけメインキャラの思いや情景を描くかで、承が進められます。ここを丁寧に作ることが、見せ場への布石となります。
見せ場は転としてのものが多く見てとれます。それまで停滞していた物語を一気に進めてくれるのが見せ場であり、これが決まるかどうかは、まさに作品の出来を左右すると言っても過言ではありません。キャラ一人一人にも見せ場はあり、これが決まることで、キャラの人気が出たりします。一人称の作品など、そのキャラ一人の情景で世界を表すのですから、まさに、世界が一人の気持ちによって変わるといっても過言ではありません。ここでも、丁寧な作り込みがかかせません。
キャラクターと長いこと付き合うと、好きなキャラや嫌いなキャラが出て来て、それは現実と同じ感覚です。好きなキャラのどういうところが好きなのか、嫌いなキャラのどこを嫌いなのか、承で説明すること。これが受け手に伝わる時、物語はひとつの完成と成長を見ることになります。
キャラクターにはいつも夢と希望があり、明るい展開の時にはそれがチャームポイントとなり、暗い展開では生きる強さになって、キャラクターを輝かせてくれます。どんな夢と希望があるのか伝えてください。それがキャラクターの存在となり、また受け手の人たちの勇気にもなります。
人にはリズムがあります。人と人のリズムが出会う時、協奏曲や恋愛曲、夜想曲や時に鎮魂歌(レクイエム)が紡ぎ出されます。時にそれは不協和音であったり、一人だけのソロであったりします。その人のリズムが聞こえる時、その人にある個性が感じられ、そのキャラに魂が込められます。そのキャラからどんな音楽が聞こえてくるでしょうか。耳を澄ませて聞いてみて下さい。
自然な描写には即興曲しかありませんが、思いには前奏曲(プレリュード)があります。これが布石であったり、前フリというものとなります。そのキャラにはどんな気持ちの世界があるのか、それは受け手には見ることが出来ません。それはキャラの見せ場に見れるものであり、それまではキャラの関係性で見せて行くことになります。




キャラクター 其の二


すべてのキャラの見せ場が出そろった時、作品は交響曲を奏で、それはオーケストラとなって作品世界を表現します。
作品世界を説明するのに、そのまま文章で書いたり、ナレーションが説明することがあります。これに対して、キャラの一人一人の魅力を提示することで、そんな人が存在する世界があるという見せ方があります。たとえその世界を破壊しょうとするキャラであろうとも、そのキャラを育てた世界があり、そのキャラたちを魅せることによって、作品の世界観が見えてくる、ということがあります。
人の雰囲気は天性のものです。その人とこの人が触れ合う雰囲気。それは協奏曲か、不協和音か。その微妙なテレプシコープが、作品の心地良さとなります。
そのキャラクターはどんな夢があり、どんなクセがあり、どんな嫌なとこがあり、どんないいところがあるのでしょうか。どこにこだわりがあり、どこが抜けているのか。こういったことの蓄積がキャラを彫り込んで行くことになります。また、それを描くだけでなく、それにからめたエピソードも作って行くと、そのキャラが立って来ます。キャラクターは作品世界の柱であり、これによって、どんな重い話も、お気楽な話も、自在にこなすことが出来るようになります。








テーマ

テーマとはなんでしょう。
世界を救うこと?
なにかを追求することでしょうか。
恋人との自然の中での文通?
なんだろう。

さて、考え始めはこんなことです。

なぞなぞをひとつ考えてみよう。
この世界にはなぞなぞがひとつあり、それがどうメインキャラクター達に受け止められ、どう感じたのか。
それがテーマとなって、作品世界を広大にもひとつにもするのです。
 1+1が4である。なあんでだ。
それは恋人だからかも知れません。
それは旅に出てしまったからかも知れません。
それは空の雲が翼になったからかも知れません。
なぞなぞには作品での答えがあり、でも、決してそれは意味のあるなぞなぞとはならないのかも知れません。

謎となぞなぞは違うのか。
私にもよくわかりません。
とりあえず、これってなあに。
なぞなぞ。
そこからテーマが駆けて行く先を見てみましょう。
その行き末に、なにかがあるかも知れません。
それが作品のテーマとなって、作品世界を変えて行くことでしょう。
なぞなぞまあな。
それでは。




テーマ 応用編
キャラクター


キャラクターにもなぞなぞがあります。
それはなんでしょうか。
 彼女は月の下にいます。なあんでだ。
彼女は月の子供なのかも知れません。
彼女は不眠症なのかも知れません。
彼女は夜の澄んだ空気が好きなのかも知れません。
このなぞなぞを追いかけることがキャラクターの魅力になります。
さて、そのキャラクターにはどんななぞなぞがあり、その答えはどう表現されるのでしょうか。
それは実に地味なことかも、壮大なことかも知れません。
答えが出ても、そのキャラは結局、変わりないかも知れません。
でも、それが出来た時、そのキャラはとても存在感のあるものとして始めて受け手の中に存在することになります。
いつかあった風景に、その人はいたことでしょう。
忘れ得ない、その風景に感謝を込めて。
それでは。




キャラクター その他

さて、自分の考えるキャラクターをくどいてみましょう。
冷徹な女性なら、どんな言葉に応えてくれるでしょうか。
熱い男なら、どんな言葉に行動を起こすでしょうか。
そのキャラのどれだけ好きなのか。
どんなところがダメなのか。

なくて七クセなんて言葉もあります。
さて、彼女、彼、その他ロボットでもなんでも、相手にはどんな他の人には意味のない意味のある行動があるのでしょうか。
もしもそのキャラがこうだったらどうでしょうか。
いつかそのキャラから聞きたいことが、聞ける時が来ると思います。
その時を待って。それでは。




起承転結について
起承転結(きしょうてんけつ)とは、なにか。
これはマジックのネタの部分に当たるので、作品を純粋に楽しみたい人はここは読まないでください。

それではまず。

起(き)。
この一文字からはなにか起こると想起するかも知れません。でも、これは前節であり、あいさつのようなものです。これから始まりますと、ゆっくりと言います。作品の内容を占う場面と言えます。 たとえば、それは景色だったりします。
ここはどこなのか。
そこにいるのは誰なのか。
そんなことをゆっくりと始まりを感じさせる瞬間。
砂漠を歩くマント姿の男。
これだけで起、であります。
最初のつかみ、は最初の5分、本ならば一ページでこの始まりは始まっているのです。
最初良ければすべて良し。
ちょっと一言。
つまらない作品は起承転結が出来てない場合が多いのですが、まったく新しい作品を目指して、結果、起承転結が出来てない作品を楽しむB級作品好きな人もいます。
さて、どこで、誰がどう登場するのでしょうか。
よく、漫画は起承が無くて、転結だ、という言葉があります。
これはなんでしょうか。
転、とは、いきなりなにかが起こることを意味します。
いきなり巨大怪獣が出て来れば、これはもう転結の始まりとなります。
漫画は4ページでひとつの作品を作ることもあるので、こういうことがあり得ます。
小説や映画など、時間をかける作品ではあまり聞かない言葉です。
これはアクション物などに良く見られるものです。
雰囲気をしっとりと楽しむ作品にはあまり見られません。
ここがどこで、いまがいつなのか、これを風景で見せるのが起であり、一般的にはこういうところを楽しむ人も多いのです。
いきなり銃撃シーンなどという転結ものは、いきなり感覚に迫ると言えます。
さて、主人公やメインキャラクターが誰でどんな人なのか、感じさせることで、始まりのシーンが始まり、作品は承に移ります。

承(しょう)。
さて、二大おもしろ要素のひとつ、承です。
これは風景を主人公など、メインキャラクターの感情を通して描くことで、作品を風景から情景に変える場面であり、とても高度なテクニックです。
承、自体は作品の説明という、なんともつまらなく、地味に思えるところです。
でも、雰囲気でしっとりと感じさせる作品は承で全体を通して描くので、これがどれだけ大きい要素なのかが解かると思います。
美しい自然描写などを楽しむ作品はこれがあって始めて成り立つと言えます。
ちょっと一言。
起承転結はスポーツで言うところの走り込み、歌で言うところの発声練習のような、基礎の基礎であり、これの出来具合が作品を大きく左右します。日々、欠かさず、心がけておきたいものです。
 風はどこから来ているのか、髪は後方をとらえているようだ。
と書けば、風景は情景としてその姿をあらわします。
情景だけで成り立つ作品があります。
これはなにかが起こるでもなく、自然の時間が過ぎて行く。
ゆったりとした風景の時間。
ファミリー向けはなにかが起こるにも、家族という情景を大切にするので成り立つ作品です。
恋愛をしっとりと見せるにも、日常生活を描くにも、この承がとても大切です。
ここはどこなのか。
いつなのか。
これは誰なのか。
なにが起ころうとしているのか。
それを情景で描くことの醍醐味はとても楽しいことなのです。
ちょっと一言。
最初の作品にその作者のすべての要素が詰まっている。
と、言われます。
おいそれと蓄積した作者の情景というものは変わらないので、一作目にすべての情景は見てとれるとも言えます。
初心を忘れたら、ここに戻ることも必要なのではないでしょうか。
作品を雰囲気で楽しみたい、玄人(くろうと)好みの作品は、承、であると言えます。

転(てん)。
さて、二大おもしろ要素のもう一方の雄。
もうなにも言うことはない。
もっとも誰でも解かるおもしろさ。
なにかが起こる。
もっともベテランがその技を駆使する部分であり、もっとも一般的な作品の見せ場と言えます。
もっとも受け手が期待する部分であり、ここがバレてしまっては、作品はその見る価値を半減するいきおい。
そのために、作り手は転をいくつか重ねて進行させて、ネタバレしないように工夫します。
ちょっと一言。
起承転結はピラミッドのあの頃の壁画にはもう見てとれるものであり、あの石紙には、起承転結の原始の姿を見て取ることが出来ます。
というのは冗談ですが、と、これが転、となります。
でも、実は本当です。と、これが転の平行進行となります。
アクション物では、この部分を強調することで、受け手に期待させる宣伝をするものもあります。
派手なアクションシーン。
それを見てどきどきする。
恋愛物であれば、二人の見つめあう姿。
それだけで、見ているほうは楽しめる、とても単純で、ありがちで、でも、なかなかここがしっかりしている作品にはお目にかかれないところ。
入浴シーンなどのサービスシーンもここいら辺にあります。
主人公やメインキャラクターの行動を見せる場面でもあります。
もっとも作り手と受け手が見せ場として見る場面でもあります。
 歩いているぼくは、この道が違っていることに気づいて、また戻り始めた。
と書けば、これはもう転であり、ある意味、転の重なり具合が作品を大きく左右することが解かります。
承で貯めておいた情景が行動によって動く様は、とても爽快なものです。
自然描写にも転はあり、たとえば四季の色彩の移り具合の提示。これだけでも転となり得るのです。
ただ、新人の人は、テクニックに走ってしまう時、転ばかりを重視する傾向があるので、注意が必要です。
奇抜な話は反対には奇をてらいやすい点もあり。

結(けつ)。
起承転結。さて、その最後を飾るのは、有終の美。と、これで結となります。
最後のシーンはしっとりとしたものを望むこともあります。
ハッピーエンドなどがそのもっともたるものです。
ひねってバッドエンド、またはどうでもいいところにもっていくのもあります。
また、なげっぱなしという、あまり良く見ないものもありますが、打ち切り作品などには時たま、見られることがあります。
 私はこの道でいいと決め、歩き始めた。
と書けば、それは結となります。
映画などは、エンドロールを見て、やっと終わったと実感することもあります。
勇者は姫を悪いドラゴンから救出した。
これだけで結でもあります。
それではこれで結語としたいと思います。
と、書けば結。でも、続いているので転か承、かな。
自然描写で閉める作品も多くあります。
遠景で見る自然。
それだけで、なんだかいいものを見たような気がしてくるから不思議です。
おしまい。
の一字でも結。
映画館で見る終の大文字。
劇場でカーテンが閉まる瞬間。
それはとても優越感に似た気持ちになれて、とてもお得感があります。
自分が感じているセンス、感性が変わった気さえするものです。
作品を見終わって、自分が感じる宇宙が大きくなったり、ちっぽけに感じたりするから人の気持ちなど変なものです。
それでは、お時間もよろしいようなので、ひとまず、ここいらで退散したいと思います。それでは。


起承転結  応用編。

さて、起承転結を順番に展開する作品、情景だけで通す承だけの作品、メインキャラクターの行動だけで通す転だけの作品が成立します。
では、承と転の平行展開はどうでしょうか。
これはテクニックではありません。
なぜなら、トップアーティストでさえ、狙って出来るものではないからです。
承と転の平行展開は言葉にならない気持ちや絵に描けないことを表現することが出来ます。
受け手が感動した、という場面もここに集約します。
これはそばと、そう麺のかけあわせ、うどんとパスタを一緒に茹でて食べるようなものです。
コーヒーとお茶を一緒に飲んで、なにが楽しいのでしょうか。
なんとも変なことなのです。
ただ、本質に形がないのに、承と転をどうこう言うことはおかど違いなのかも知れません。
この一瞬を描くことができることほど、クリエイター冥利に尽きることもないのですが。
あなたが何気なく感じたことを、自然に描写してみてください。それはきっと人の心根に響くなにかとなることでしょう。
それでは。


起承転結 その他
バージョン ギャグ

承。
さて、お笑いとはなんでしょうか。
暗い話にちょっと休息を入れるのにコミカルなシーンを入れたりします。
でも、本当は日常生活は楽しいことなのではないか。
それを感じさせてくれる作品もギャグ、あるいは、承のギャグ展開と言えないこともありません。
自然を感じることが笑いにつながる。
そんな作品はとてもいいのではないかと思います。
転。
ギャグは転である。
基本的なものはそうです。
ポケとは、大事なことに気づかないこと。
ツッコミとは否定の肯定。
ギャグ作品というものがあります。
笑わせた者勝ちという単純明快なものです。
作品で泣かせるよりも、笑わせるほうが百倍難しいと言います。
ギャグを並べるだけでも作品となるくらい、ギャグとは貴重で実に単純なものなのかも知れません。
好きなキャラクターが笑ってくれる。それだけでもギャぐなのかも知れません。
指導者の言葉ではなく、ユーモアが世界を変えると言う人もいます。
あなたはどんな笑顔が好きですか。
しっとりした承のギャグ。解かりやすい転のギャグ。
自然の動物は笑わないのではなく、いつも楽しいのかも知れません。
木々の葉のざわめきが雨が自然の笑顔であることの可能性。
それがギャグなのかも知れません。
それでは。






読書について
忙しい時や読むのがめんどい時。そんな時は一日2ページ読んでいる。流行を知ることも大事だが、流行しているものは時代に影響されやすいという一面もある。歴史に残る一冊も2ページ読んでおくとよいと思う。



自然主義


自然基準
普遍、一般、共通。人工建造物や草木の風景が人の変わらぬよりどころであり、原点であること。誰にでも見える風景。
自然回帰
特殊、独自、集合。あらゆることは宇宙であること。あらゆることは宇宙に始まり、あらゆることは宇宙に還ってゆくこと。宇宙の景色。
自然ビジョン
個別、唯一、蓄積。人はそれだけで風景のひとつであること。自分にしか見えない風景。


風景を反映する。時間を自然な自然に描写する。人工的なものは人が自然の進化の速度を上げたものであり、それさえも自然である。ニッキズム。人はなにかを信じずには、生きていけません。また、それは自然なことです。気持ちは信念を強くしますが、自然を感覚する力、自然力が強ければ、それは柔軟で、豊かな信念になります。自然を感覚することは、否定の否定でもあります。共産主義と資本主義は表裏一体で有り、全物無料で政治、哲学、経済とともにその役割を終えます。文明も宗教に生成され、科学に発展して、次元に没落する。なにもかもが始まりがあれば終わりもあります。けれども、人がその人生でなにも言わずに、最初から最後まで黙っている存在、それが自然です。自然は感性(センス)しなければ、なにも言わず、なにも答えません。けれども、それはセンスオブワンダーできた時、誰にも言えないことを、答えてくれないことを言ってくれます。たとえば、生命力は光と物質のあり方でありますが、光をもっとも効率的にエネルギーに変えるのはソーラーパネルですが、これは電気に変えることができます。ソーラーパネルは黒に見えます。これに対して、お茶は葉っぱから取ります。葉っぱはすべてといっていいほど緑色をしています。光にはいくつもの色があるため、その中でも、緑色がもっとも効率良く、光を生命の源にすることができると言えます。キノコは色鮮やかなものが多く有り、これはこれで不思議です。イルカと鯨は同じ魚であり、大きさでその違いを専門家は見ています。時計も正確無比な時計をいまは作れますが、地球の動きに合わせて、時計を調整するといったことになっています。長さを測るメートルやセンチも、原子を元に、世界共通規格を作っています。けれども、それまでは国々によって長さの単位は違い、フィートというのは、足の長さを元にしていますが、誰の足なのか、誰も答えることができません。原始の海はいまの海とは違うもので、そこに雷が落ちたことから、最初の生命が生まれたと言われています。このトゥールハンマーがあったから、生物は生まれいでたわけです。昆虫というのは、動物ですが、どういった経緯で発生したのか謎であるため、中には宇宙から来たという人までいます。生物は海から生まれ、地上にまで到達しました。もしかしたら地上から、あるいは宇宙で暮らす生命もあるかも知れません。真空にはまったくなにもないわけではなく、ごく微量ながら物質の転換があることを量子力学は提示しています。人は自然にとって、特殊な存在でしょうか。人が自然の申し子なのは間違いないようです。では、自然の最先端をゆくのが、人でしょうか。風は空気の運動である。そんな説明を聞いた時、なんとも変なことを聞いた気がしました。運動ということは、生物にのみ当てはまるものだと思っていたので、空気はどうやって動くのか、想像していました。十代の時、鉄がさびるのがどうにも不思議でした。科学的な説明を聞いても、こんなにもしっかりしたものがさびるなんて、変わってゆくことの不思議を感じたものです。




(観念における)観念の観念
時間における自然の螺旋。



おもしろい作品を見たり読んだりする。これは誰でもすることだ。その先を目指すならば、自分の好きなもの、小説なら小説、漫画なら漫画、アニメならアニメ、ゲームならゲーム、映画なら映画、テレビならテレビ、ラジオナララジオ、イラストならイラストでいいので、つまらなくても一通り見て、読んで、つまらない部分を自分に蓄積しょう。その蓄積があって初めて、おもしろいと感じた部分を作品に反映することができる。日々これ勉強である。ただ、これは時間はかなりかかる。 原点回帰



喜劇において、笑うのは相手の本質である。悲劇において、涙するのは相手の本質である。



魔法使いものにおいて、魔法とはその少女の情緒の発露である。



どんな能力の敵をどう倒すのか



不思議に始まり不思議に終わる



本筋はどうでもいい、楽しければソッコーおっけい。何気ない一瞬や、チャカリキさに一生分の力をたたき込む。



過激な表現、安心な表現、幻想(ゆめ)の表現
一般、共通の表現における過激な表現というのは過剰な、暴力的、性欲的な意味あいを考えるが、制作者は、たとえば、漫画であるならば、コマからキャラが出る。枠からはみ出すなど、考えてみたりする。何気ない一瞬。だからこそ、大事なことだと思う。



みっつの螺旋の灯りかた。



心配は作品を作り終えてからしょう。



文章を書けない時はアイディアを、アイディアが出ない時は文章を書く。



気持ちの希望は螺旋上昇していく



全体から世界を明らかにすることは一般的で、人々に共通する見方である。
部分から世界を明らかにすることは特殊で、人々が情報を持ち寄る集合的な見方である。
自分から世界を明らかにすることは個別で、(自己管理)蓄積的な見方である。



信じあうことが気持ちの始まりである。
疑いあうことが気持ちの始まりである。
世界を希望的に感覚することが気持ちの始まりである。



人生が一進一退であるように、作品作りも一進一退である。たとえ、負け続けていても、作り続けることが、クリエイターの勝利である。



その人物の感覚からしか、その世界の希望と不思議と自由は感じることはできない。



愛のために、その前に愛する人のために作る作品を



不思議さに出発して、不思議さに螺旋して、不思議さに思い出とする。



この苦しみにうずくまる気持ちを希望と螺旋させる作品を。



対立意見の両面肯定がバランス論の基本であるが、これに対して、両面乖離、両面それぞれの進行が逆バランス論となる。



暗い話ならばこそ、もっと歌を。



新しい発想が出ない時、マンネリの時は次の世代の発想に役立つ作品作りをする。



いつの時代でも文化は大事だが、それを取り入れるのは、大変なようである。
ローマ帝国は多宗教で寛容だと言われる。けれど、キリスト教は迫害された一面もある。政治と一体化したキリスト教の下、地球が静止して、他の星が動いている天動説が常識となり、教会の教えとなる。これに対し、地動説は太陽のまわりを地球がまわるという逆転の話であり、地動説を擁護したガリレオ・ガリレイは教会から裁判にかけられる。裁判に負けたガリレオがそれでも地球はまわっていると言ったという話は有名な逸話である。近年、教会はガリレオの名誉を回復する宣言をした。キリスト教は神が七日間で世界を作り、神が自分の姿に似せて人を、イヴとアダムを作り、二人は蛇(へび)に騙されてリンゴを食べて、楽園を追放される。これが天地創造であるが、ダーウィンの進化論は猿から人が分岐して進化したとした。神聖な神の姿をした人が、猿から分岐した生物だとは、信じられず、世論は二分された。マルクスの搾取理論は、社長や幹部たちが社員の給料をピンハネしているというものである。マルクス死後、エンゲルスが資本論を編集している時に、搾取理論をマルクスより先に見つけた人がいたことがわかり、そのことをエンゲルスは資本論に明記した。世論を二分した論文の発表者には、ありとあらゆる悪口が言われた。
エンタメの世界でも、表現が理解されるのはたいへんなことであるようである。
ナチスの幹部は敵を研究するという名目で、ディズニーが作った白黒アニメのミッキーマウスを子供の誕生日に見ていたそうだ。そのディズニーは現代の魔女狩りと呼ばれる赤狩りに協力的だったとして、毛嫌いする人たちがいる。この人たちに、ディズニーのアニメが一般教養でどこまで大事か理解できるだろうか。手塚先生はディズニーのバンビを何百回も見て、それは白黒アニメの鉄腕アトムにも生きている。手塚先生は商業ベースに乗らない芸術アニメを実費で作っており、それは未完成に終わるが、その内容たるや、バンビのような、自然アニメなのであった。手塚先生ほどディズニーの魅力を理解していた人は少ないに違いない。旧ソ連では本屋に行っても、レーニン、マルクス、エンゲルス、そしてスターリンの本ばっかりであったそうだ。それもスターリンがマルクスたちの著書で気に入らないところは削除したという検閲されたものであった。いかなマルクス、エンゲルス好きの人でも、これではげんなりしてしまうだろう。ロシアでオープンにスーパーマンが見れたのは、ソ連が解体されてからであった。チャップリンは白黒映画の喜劇で一世を風靡(ふうび)するが、共産主義者のレッテルをはられ、アメリカを追放される。その後、名誉は回復され、帰国して、また映画を作った。ヨーロッパのほうでは、エンタメが弱いと言われる。国営テレビが3チャンネルくらいしかなかったりする。そのかわり、オーケストラや演劇や映画など、認められたら手厚い保護がなされる。中国ではハリウッド映画も日本のアニメも見られるが、エッチなシーンはすべて編集されてしまう。アダルトビデオは取り締まりの対象になる。これは韓国でも、イスラム圏でもそうだが。アメリカで日本のアニメはかなり編集されてしまう。理由は子供が犯罪に走らないため、守るため。子供向けの作品には厳しい目がある。これは犯罪大国ならではの伝統である。いろんな意味で、その基準は世界一とも言える。
もちろん、ここに記したのは極端な例ばかりだ。
それでは表現者、クリエイターたちはどうか。命がけで表現の自由を守るから、好きに表現してくれと言われたら、困ってしまうのではないか。私もkairakuはえっちな作品を認めない人への反発も力となった。なんでもいいから作ってみ、と言われたらどうするか。それは宇宙に一人、ほうりだされたようなものではないか。そこから見えるものはなんなのだろうか。
その表現が世界基準、世界標準になって、それがすべてになってしまったら、なににも反発するわけにもいかない。その時、どうするか。



自然の描写を
自然な描写を
自然な人物を



アトムに始まるSFなものとか、スパロボを作れば、鉄人やマジンガーZにはかなわない。リアルロボットはガンダムにかなわない。魔法少女もすでに伝統芸能になりつつある。子供だけを視聴者にしていた時代から深夜アニメまで作られるいまの時代は、マニアやオタクが中年から老年までにいたり、ダーリンだっちゃに始まる萌えも見飽きたと言われる。まったく新しい要素はもうないと言われる。なにか、いままでにない発想法が必要なのかも知れない。そんな方法は思いつかないが。



アニメや映画、テレビドラマではCG(コンピュータグラフィックス)を取り入れることで表現の幅というか、道具、トリロジーが広がったが、小説にCGを導入するわけにはいかない。これを、詩を導入してみる。



詩的な説明文
詩的なセリフ
詩的な精神世界面



納得がいくまで作品を作れる時間はないが、せめて、ていねいさを忘れずに。



肯定はもちろんのこと、その人の本質のどちらを否定されてもその人が笑えるような、そんな作品を目指して。



作家を目指すならば、
漫画一万冊
小説一万冊
専門書一万冊
は読みたいところである。
イラストの本、写真集、ビジュアル本は漫画としての関連付けでもいいのでは。
絵本、詩は小説として関連つけて、その他の本は専門書に関連つけていいと思う。
歌や音楽やラジオは執筆中に聴ける。
手塚先生などは、漫画を書いている時は流行からおくれないために、テレビをつけっぱなしにしていたという。
石ノ森先生は一日一本映画を見ていたという。
一般教養としては、どこまで読むかはもっと適当でいいに違いない。



いままでの作品はすべてつまらない。自分の作品をふくめて。そこから出発しないと始まらないおもしろさもある。



いまのライトノベルはつまらない。なによりも力不足な作品は私の作品である。



機械はなんでもしてくれる。人はなんにもしないでもいいようですらある。しかし、作品から受ける感動は人の気持ち、その限界から生まれるものであって欲しいのである。健康管理は大切なので、それはしっかりしつつ、気持ちの限界にチャレンジした結果の感動、それこそが、誰にもらったものでもない、最高の心の勲章なのである。
たとえば、医者でもあった手塚先生は、徹夜はしなかったそうである。



鉄腕アトムが漫画としてヒットして、白黒テレビアニメも手塚先生が総監修、総監督として世界の300ヶ国で放送された。鉄腕アトムがなぜここまでヒットしたのか。それは最新の科学技術を導入していた点にある。ブラックジャックもそうだ。だが、火の鳥はどうだろう。最新哲学が取り入れられていたから。人生の壮大さを描いた。時代劇とかSFであったから。それもあるだろう。だが、やはりアトムのあの素朴な疑問、どうしてぼくたちは傷つけあわなくてはならないんだろう、という問いかけが心に響いたからではなかったからか。あの夢、あの不思議さ。あのやさしさ。あの気持ちを越える作品をまだ知らない。



宗教が文明の生成段階、科学が発展段階、次元が没落段階。次元とは時間における時間の時間。時間についてのことならば、相対性理論でも、宗教でも、哲学でも、とにかく次元である。そして、気持ちの次元を描くのが私の目標である。



人の気持ちに希望して、人の気持ちに絶望して、人の気持ちに眺望する。



ヒット作品は望まない。
無欲の勝利があるのかどうか知らない。
ただ、望まない。
結果と目標も違うことだし。
それは理屈、なのかも知れないが。




現実と理想のあいだで、気持ちはもみくちゃになる。その時、どうするか。それもやはり、気持ち、の時間でしか、プラスにはもっていけないのかも知れない。



テレビは情報量が多くて、小説が一章かかるところを一瞬で見せることさえできる。それはそれだけスタッフの力がいるには違いないが、まさに機械の勝利だろう。アニメなど、多数のスタッフで作っている場合が多い。漫画も、週間で仕事を仕上げてくる。漫画の一本の線で、情報量は軽く小説の一行をうわまわる。小説の週間雑誌はない。小説が売れない理由など、簡単なことなのかも知れない。小説は見えない。そこが最大の弱点であり、最大の利点でもある。未来が見えないように、それはまさに見えないことが有利に働くことがあるからだ。なにもかも説明できてしまう絵は、もちろん見せないこともできるが、長いこと映像メディアに求められてきたことは、一瞬での多量の情報であり、テレビで情報を知ることも多い。小説など、一年しないと、一冊にするのは難しい場合もある。さらに人はいない。ほとんど一人で書くのが小説でのスタイルだ。せいぜいいても二人か。エヴァが設定を説明しないところはそこに待っていれば未来はあると仮定していたからだ。小説はなにも見せてはくれない。小説は基本的に一人で作る。これは小説のほとんど不変なスタイルといえる。毎週書いて、それがおもしろければ、作品としては大ヒットする。しかし、すじだてや、資料が必要な作品はそのレベルがあがれば、あがるほど時間がいる。どうするか。自分の力で無理がきくまで書く方法もあるが、私はなにか、別の方法がないかと思う。



鉄腕アトムが漫画としてヒットして、白黒テレビアニメも手塚先生が総監修、総監督として世界の300ヶ国で放送された。鉄腕アトムがなぜここまでヒットしたのか。それは最新の科学技術を導入していた点にある。ブラックジャックもそうだ。だが、火の鳥はどうだろう。最新哲学が取り入れられていたから。人生の壮大さを描いた。時代劇とかSFであったから。それもあるだろう。だが、やはりアトムのあの素朴な疑問、どうしてぼくたちは傷つけあわなくてはならないんだろう、という問いかけが心に響いたからではなかったからか。あの夢、あの不思議さ。あのやさしさ。あの気持ちを越える作品をまだ知らない。



宗教が文明の生成段階、科学が発展段階、次元が没落段階。次元とは時間における時間の時間。時間についてのことならば、相対性理論でも、宗教でも、哲学でも、とにかく次元である。そして、気持ちの次元を描くのが私の目標である。



人の気持ちに希望して、人の気持ちに絶望して、人の気持ちに眺望する。



ヒット作品は望まない。
無欲の勝利があるのかどうか知らない。
ただ、望まない。
結果と目標も違うことだし。
それは理屈、なのかも知れないが。




現実と理想のあいだで、気持ちはもみくちゃになる。その時、どうするか。それもやはり、気持ち、の時間でしか、プラスにはもっていけないのかも知れない。



アイディアの連打。



テレビは情報量が多くて、小説が一章かかるところを一瞬で見せることさえできる。それはそれだけスタッフの力がいるには違いないが、まさに機械の勝利だろう。アニメなど、多数のスタッフで作っている場合が多い。漫画も、週間で仕事を仕上げてくる。漫画の一本の線で、情報量は軽く小説の一行をうわまわる。小説の週間雑誌はない。小説が売れない理由など、簡単なことなのかも知れない。小説は見えない。そこが最大の弱点であり、最大の利点でもある。未来が見えないように、それはまさに見えないことが有利に働くことがあるからだ。なにもかも説明できてしまう絵は、もちろん見せないこともできるが、長いこと映像メディアに求められてきたことは、一瞬での多量の情報であり、テレビで情報を知ることも多い。小説など、一年しないと、一冊にするのは難しい場合もある。さらに人はいない。ほとんど一人で書くのが小説でのスタイルだ。せいぜいいても二人か。エヴァが設定を説明しないところはそこに待っていれば未来はあると仮定していたからだ。小説はなにも見せてはくれない。小説は基本的に一人で作る。これは小説のほとんど不変なスタイルといえる。毎週書いて、それがおもしろければ、作品としては大ヒットする。しかし、すじだてや、資料が必要な作品はそのレベルがあがれば、あがるほど時間がいる。どうするか。自分の力で無理がきくまで書く方法もあるが、私はなにか、別の方法がないかと思う。



鉄腕アトムが漫画としてヒットして、白黒テレビアニメも手塚先生が総監修、総監督として世界の300ヶ国で放送された。鉄腕アトムがなぜここまでヒットしたのか。それは最新の科学技術を導入していた点にある。ブラックジャックもそうだ。だが、火の鳥はどうだろう。最新哲学が取り入れられていたから。人生の壮大さを描いた。時代劇とかSFであったから。それもあるだろう。だが、やはりアトムのあの素朴な疑問、どうしてぼくたちは傷つけあわなくてはならないんだろう、という問いかけが心に響いたからではなかったからか。あの夢、あの不思議さ。あのやさしさ。あの気持ちを越える作品をまだ知らない。



宗教が文明の生成段階、科学が発展段階、次元が没落段階。次元とは時間における時間の時間。時間についてのことならば、相対性理論でも、宗教でも、哲学でも、とにかく次元である。そして、気持ちの次元を描くのが私の目標である。



人の気持ちに希望して、人の気持ちに絶望して、人の気持ちに眺望する。



ヒット作品は望まない。
無欲の勝利があるのかどうか知らない。
ただ、望まない。
結果と目標も違うことだし。
それは理屈、なのかも知れないが。




現実と理想のあいだで、気持ちはもみくちゃになる。その時、どうするか。それもやはり、気持ち、の時間でしか、プラスにはもっていけないのかも知れない。



アイディアの連打。



テレビは情報量が多くて、小説が一章かかるところを一瞬で見せることさえできる。それはそれだけスタッフの力がいるには違いないが、まさに機械の勝利だろう。アニメなど、多数のスタッフで作っている場合が多い。漫画も、週間で仕事を仕上げてくる。漫画の一本の線で、情報量は軽く小説の一行をうわまわる。小説の週間雑誌はない。小説が売れない理由など、簡単なことなのかも知れない。小説は見えない。そこが最大の弱点であり、最大の利点でもある。未来が見えないように、それはまさに見えないことが有利に働くことがあるからだ。なにもかも説明できてしまう絵は、もちろん見せないこともできるが、長いこと映像メディアに求められてきたことは、一瞬での多量の情報であり、テレビで情報を知ることも多い。小説など、一年しないと、一冊にするのは難しい場合もある。さらに人はいない。ほとんど一人で書くのが小説でのスタイルだ。せいぜいいても二人か。エヴァが設定を説明しないところはそこに待っていれば未来はあると仮定していたからだ。小説はなにも見せてはくれない。小説は基本的に一人で作る。これは小説のほとんど不変なスタイルといえる。毎週書いて、それがおもしろければ、作品としては大ヒットする。しかし、すじだてや、資料が必要な作品はそのレベルがあがれば、あがるほど時間がいる。どうするか。自分の力で無理がきくまで書く方法もあるが、私はなにか、別の方法がないかと思う。



人の言葉に傷つくことも多いが、もっとも自分を傷つけるのは自分ではないのか。自分を好きでいい。それを一貫してテーマとする。



人は現実認識をその99パーセントを固定観念で思考している。いま、を他人の気持ちのために認識するのは至難の業である。どんなに科学的な情報も、信じたくない人は信じない。また、それが人でもある。私だってそうだ。そんな人にかこまれているなかで、どう、人に傷ついた人の心を癒す作品を作るか。その気持ちが残り1パーセント、希望となる。



作品のクオリティが下がってきたと思ったら、いままでの自分の作品を読み直してみる。



ホムペの文章は読み物



暴走しすぎというものには冷却期間を



書き始めの勇気を



これで文体、文章の形成に終わりなく、ただ探求していく。



 希望 



 詩 心を装飾する言葉 



時間のチャージ 精神的な瞑想 いつもの生活をしていてもできるな。



一時間執筆、休憩。そのくりかえし。



飽和状態



縮小していく物語



ありものの要素とアイディアで作品を作りながら、オリジナルを模索していく



あらすじを書いて、それからセリフと説明文と詩とオリジナルを込めていく。市場は考えない。書きたいものはなにか。あの感覚はなんだったのか。気持ちの主観、気持ちの客観、気持ちの世界観。表現。センスオブワンダー。逃げもこあ(核、怖)も?(はてな)ももって。



ある程度説明文とセリフとの交互の中に詩をイメージとして小説としての構成として組み込めるようになってきた。ただ、この詩は静かな歌、波紋するような叙情詩であり、たとえばアップテンポな詩とか、笑いの詩としては機能していない。ひらがなの音(おん)を強調すればアップテンポな詩になるが、それには意味が込められない。ゆえに笑いとか、物語としてのスタンス、テーマなどは二の次になる。それはそれでおもしろいが、やはり意味を込められるアップテンポな詩も必要だ。



色は三原色から複数の色に変化していく。これが三次元構造、みっつの組み合わせが力となる三次元での質量運動の本質であり、それが力として存在する。化学技術としての三次元構造を活用した質量運動、各種の力は人の気持ちや社会へ直接は利用できない。それは量子力学がなかなか直に相対性理論とつながらないことにも近い。三分法、みっつのテーマで考えていくと結論が得られやすいなど、いくつか利用されているが、これが解明されれば、個人策ともなりうるのではないか。



叙情詩     アップテンポな詩 らっくてんぽ あっけらかん  不思議      らっくてんぽ け、せら、せら おっほっほっほっ らっくてんぽ



音(おん)として、調子のいい言葉を並べてみる け、せら、せら。すっとんきょう。あっけらかん。の〜てんき。へっぽこ。らっくてんぽ。



あ〜るやよつばと!のような感覚は小説では見たことない。それは単に勉強不足なのかも知れない。それに近いものといえば不思議の国のアリスか。しかし、あれは古典にして記述的にはこれを越えるものは感じない。いま流行の小説の文体でありながら、漫画にある雰囲気をどうとりいれていくか。それは難しいものだ。



アイディアと技術は連関思考できる



シリアス
真面目 ドラマティックを展開させやすい

不思議
ユーモア 統合 なんでもあり

ギャグ
笑いを本質とする ノリとツッコミ ノリツッコミ




現実を反映するエンタテインメント

現実を反映しないエンタテインメント

そのどちらでもないエンタテインメント




読んでいる時は現実を忘れ、読み終わったら現実に立ち向かえる力となる作品を



希望のある作品を



説明文にユーモアが成立するか



問題提起として人が話すのであれば、三人いじょうでないといけないのではないかみっつの意見、それぞれ普遍、特殊、個別の意見を提示していなくてはならないか。真剣な意見、おちゃらけた意見、不思議な意見があってもいいのではないか。



否定の否定はそれまでのすべてのそのことに関する行動は否定されるが、その本質は全肯定され、その否定は否定される。
全肯定は否定の否定の課程にあらわれるが、それは別段、結果としてはそうだったかなというものであって、それが否定の否定するという感覚の始まりとしてあるのではない。



愛 恋 可愛(かわい)い



敵 味方 不思議な人



テーマをみっつにして考えると、安定して考えることができる。しかし、いっぱいいっぱいの時にそんなことは考えていない。疲れていれば、ひたすら同じことのくりかえしになってしまう。そんな時にいい意味で新しいことや、創造的なこと、なにか不思議なことが感じられる時があるといいのだけれど。これはまあ、めったにないことだから貴重なのであって。まあ、オリジナルとか言われるゆえんでもあるのだろうか。



疲れや混迷が透けて見えるようではプロの仕事とは言えないのではないか。事態がどんなに凶悪でも、戦争が激化の一途をたどろうとも、人にある音楽、リズムが消えてしまっては、ただ平坦ななんの意味もないような感覚の羅列など、生きる意味さえ色あせてしまいそうである。ただ、時代の空気として、作品に反映させるのは有りだと思う。まあ、理屈ではそうでも、作り手だって、一介の書生に過ぎないのだけれど。



矛盾にへばっているならば、それを一度心の中で整理してみるのもいいかもしれない。そんな時間はなかなかとれないのであって、まあ、魂の洗濯とか、一服できたらいいのだけれど。



問題なのはその表現ではなく、(いい意味で)その表現が足りないというところに問題があるのではないか。



人間賛美 人生賛歌 みんなに賞賛を



その詩は誰のものなの



表現はいっさいありである。表現が問題なのではなく、表現の足りなさが問題なのである。



思いの連続、決定した考え、よくわからないけれど進む気持ち、は一直線。
笑い、不思議、ユーモア、は柔軟性。
?、?、?、は幾何模様。




?、?、?、は?。



矛盾は最強の矛と最強の盾のように、相対立できないこととも言われる。ならば、対立していないのに、対立しているように見えるのは、矛盾とも言えないか。また、それはずいぶん不思議なことではないか。



ないことはないこととして表現する。
あることはあることとして表現する。
あることないことはあることないこととして表現する。



普遍 一般 連続
個別 個旋 蓄積
特殊 独自 集合



不思議の連続
不思議の集合
不思議の個旋



丁寧な描写
ストラッシュな描写
不思議な描写



基本概念の説明
特殊概念の説明
個別概念の説明
たとえば、基本概念であれば、魔法とは、とか。



おもしろい説明文
おもしろいセリフ
おもすろい詩



おもしろい雰囲気
おもしろい人物
おもしろい展開



市場のことは考えない



   楽   



労働と賃金の交換の否定の否定



本質は時間である。



キャラの否定の否定



いままでの作品はすべて否定されるが、否定されたそれまでのすべて作品の本質は肯定さ れ、その否定は否定される(作品における否定の否定)(作品における本質肯定)



それまでの積み重ねは否定されるが、本質は肯定され、その否定は否定される(否定の否定)(本質肯定「的側面」)。



最初はストーリーだけ短距離で書いてしまう。後から書き足したり書き直していく。



状況による気持ちの反応(リアクション)



精神的反映の個別 見えるもの



状況による気持ちの本質



精神的反映の普遍 見えないもの



状況による気持ちの変化



精神的反映の特殊 見えているもの



一行ですませるな



どんな能力をどう知恵と勇気で倒すか



文字の連鎖で波、未来をさざめかす。



↓おもしろい↓
なにかに心引かれて続けている状態
普通とは変わったところがあり、続けてつきあってもっと内容を確かめたい感じだ



おもしろさの否定の否定



作品における否定の否定



(本質的な)無。



無心の中の無。



無心に書く



旅に出る。



時間をゆっくりとかける。



気持ちのベッドのよな小説を



丁寧に時間を塗りこんでいく



一日一作 通しで長い話も続けて書く



自分を見つめることは小説を読むことである。作品を書くことがいきがいであるのだから、作品を見て自分を見つめることが多々ある。小説で作品を発表するのだから、小説を読むことがベストであると考える。



小説を読んで小説を書く



センスオブワンダー(感覚の世界)



小説を書くことは自分を見つめることであるのか



本質をえがく



ホムペの文章は読み物



一時間は読書する



情報分析はなるへそ



じゃあ鈴木さんの意見は?



変わらないでいること



時間は強制で進化する(次元原論)。



生物の衝動(個別)本能
自然の衝動(特殊)季節
時間の衝動(普遍)進化



時間(ここでの時間は無敵、絶対、バカ(不可解力?)と定義する)



目的のない行動



作品は一瞬の永遠



五行旋 五行以上 饒舌



作物 貨幣 気持ち



ふかんでなく、キャラクターの連鎖。キャラクターのための補足説明ではなく、気持ちの連鎖、そしてキャラのセリフへとつないでいく。無のふかん。



歌詞の連鎖



説明文 セリフ 気持ち
見せ場 会話  精神世界
状況  言葉  本質



魔法は不思議な世界への扉を開く鍵として考え出された。



基本は否定の否定であり、個人的にはよくわからない(謎)。特殊な技法としては無の方向性質場的表現。



結果
すべての国での翻訳




見せ場
戦闘シーン 恋愛シーン 精神世界シーン



会話
一方的一方向のセリフ 交互の会話 精神世界の会話



精神世界
過去 現在 未来



気持ちの連鎖
客観の連鎖 一人称の連鎖 会話の連鎖



詩的文体における説明文
ジョルディーは言った。
ジョルディーは言葉に思い夢見る。



量 週1
質 いままでにない文章
場 テーマ



気持ちの連鎖



文体 テーマ キャラ



小説の文章はセリフと説明文の交互で構成される。その合間に感じられる気持ちがおもしろさとなる。



出版されている既存の辞書からの引用↓
おもしろいおもしろ-い【面白い】〔形〕@心が晴れ晴れするほど楽しい。愉快だ。「あの余興は‥かった」▽「面」は顔を向けている眼前を言い、「白」は明るいことを言った。当て字ではない。A心が引かれて興味深い。「一ひねりした―表現」「―試合となった」Bこっけいだ。おかしい。「―顔をして笑わせる」C『‥くない』好ましくない。「おもしろくない事態になる」。不平そうである。「おもしろくない顔をする」〔派生〕 -さ -げ -み -がる



詩と詩と詩
説明的詩、セリフ的詩、気持ちの詩
主観の詩、客観の詩、世界観の詩
思い出の詩 いまの詩 明日の詩



表現が方向性が問題の本質なのではなく、表現の足りなさが問題の本質なのである。



アニメが枚数を増やすことでなめらかな動きを可能にする。漫画も同じ動きをコマを使って描けばまあ、ずいぶんゆったりした表現も可能か(退屈そうだが)。ゲームはプログラミングでそこいらへんは表現する(のかな)。小説の基本は説明文とセリフの交互で構成されており、説明文を増やしてもアニメにおける枚数を増やす表現は難しい。説明文とセリフに詩を足していけば、あるいは表現を変えていけるかも知れないかなあ。 説明文は退屈で、なかなか一般的には読まれない理由の第一になっている。だから、ヤング小説とか、アニメ小説という若者向けの小説の中には、説明文をなるたけ排したものがある。これでは状況が説明されないため、よくわからない。そこで説明文に詩をまぜることで、楽しく読んでもらう。さらにその詩にキャラの気持ちなどがあれば、なお、おもしろいと思う。



聞いたこと 無(ない、む)
見たこと  無(ない、む)
感覚    無(ない、む)



依存と強制と詩と



オリジナリティ



目標
気持ちの連鎖



おもしろさ
わかりやすさ
心地よさ



本質の衝動
時間に挑む
闇の深遠



狂気、恐怖、不幸に耐える力を



真面目 深刻  真剣
笑   愉快  気まま
ららら なにか ???花???果て???黄昏



きずつけあい
はなしあい
ふしぎあい



話し合いの量による質的変化が希望だと考える
毎週放映しているアニメの一話を作るのに、通常、大勢のスタッフで三ヶ月かかるそうだ。
30分作るのに三ヶ月。
ちょっと話をする時間がとれるのに、それは一生かかるものなのかも知れない。なあ。とか。



現実の大気圏を突破する作品を。




エンタメが癒しをしないで、なにが癒してくれるのだろうか。
エンタメが楽しませてくれないで、なにが楽しませてくれるのだろうか。
エンタメが希望の一端でなくて、なにが希望の一端だと言うのだろうか。
でも、まあ、エンターテイナーだってもんだいしゅうるるるるるるるるる。




考えたら負け



アニメの花びらひとつひとつまでを詩で表現



名前を良く聞く人の作品はできるだけチェック
ぱら読みでも



思いは反映する
時間という波紋に
それを詩で表現する



笑いの詩
怒りの詩
涙の詩

日常の詩
あっけにとられた詩
そんなことないわよ、という時の詩

いまの詩
過去の詩
あしたの詩

音(おん)の詩
願いの詩
昏(くら)い詩

普遍の詩
特殊の詩
個別の詩



個人愛
人類愛
特殊愛



光と影と言葉と



勇気となる言葉を



作品作りは気持ち



いいものはいい、悪いものは悪いと言える力を



手間がかかることを短縮したり、手間がかかることをするのがプロである。
もちろん、あんまり、めげないことも。
たぶん。



特殊なことも、手間暇かけて表現できれば、それはとても楽しいことになる。
と、思う。



気持ちが作品を、その世界を、そして世界さえ変えていく。
























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