思考の本質論
客観性における信念という精神的外郭の形成
時に個人は、憎い相手にいやがらせをする。なかには、相手を犯罪者だと言って、陥
れることさえする。しかし、相手の個人が罪を犯していない時どうするか。間違ったこ
とを正しいことだとすることさえある。常識を変えようとする。その行動は、多くの個
人を巻き込むことがある。これを[集団的狂信化]と外郭規定する。有名なところでは
、中世の魔女狩りや、近年の赤狩りなどがある。間違ったことを正しいなどいうことを
すれば、社会の歪みは酷くなり、なにもいいことはない。こういった集団的狂信化は、
年月と共に収まることを、歴史は示している。多くの個人は自分だけの主観で物事を判
断することが多い。しかし、物事には常に二面性があり、そのことを考えに入れなけれ
ばならない。ひとつのことをふたつの面から考える、これを[客観性]と言う。たとえ
ば、事件の犯人と思える個人がいる。しかし、犯人と決めてかかって捜査をすれば、冤
罪(罪のない個人に、罪をきせてしまうこと)が起こる確率が高くなる。無罪と有罪、
両方考慮に入れながら、捜査をする、それが客観性というものだ。
二面性による思考の本質の連続規定
個人と物事、考え方には常に二面性がある。いい面と悪い面だ。たとえば、[批判]
というのはいい面であり、[悪口]というのは悪い面だ。このふたつは本質的に同じで
ある。表裏一体とも言える。なのにどうして同じものではないとする個人が多くいるか
と言うと、実際にこのふたつは違うものでもあるのだ。完全な[批判]、完全な[悪口
]はない。七十パーセントが批判で、三十パーセントが悪口というように、比率がある
だけである。もちろん、この比率は個人の努力によって、変えることができる。個人の
言葉が誹謗中傷と判断されるか、正論だと判断されるかは、この比率によって決まる。
ただし、個人がなんらかの理由で社会的に信用を失っている場合は、正論を言っていて
も、相手にされないこともある。「人間は矛盾を持っている、完璧な人間などいない。
だから完璧な人間を目指して生きていこう」これは前向きな意見に聞こえるが、悪い面
から見れば「他人に批判されたくないから、他人に悪口を言われたくないから、世間の
常識的な人間になろう」となる。このようなことから、どんなに立派だと言われている
人間でも、またどんなに立派だと言われる考え方でも裏表があり、批判できることが解
かる。偉人や完成度の高い哲学を批判するには、かなりの社会的意義を考慮にいれない
と、たいていは誹謗中傷、悪口にすぎないと、多数の個人に判断される。ある個人がな
にかを批判していれば、カリスマが生まれるかというと、必ずしもそうではないのだ。
人間と物事、考え方にはそれぞれ二面性があることが理解してもらえただろうか。しか
し、その二面性のどちらを見ればいいのか、と悩まれるかも知れない。こればかりは各
個人が考えて決めることではあるが、先程の客観性、つまり両方考慮に入れるというこ
とが、最良の策だと、私は考える。個人がある別の個人のことを嫌いだとする。だが、
客観的に考えれば、嫌いが百パーセントを占めることはない。好きになれる部分もある
はずである。個人がある個人のことを、全部好きだと言って結婚した。しかし、その後
で相手の嫌いな部分を発見し、「こんなはずではなかったのに」と悩むことがある。ま
た、個人が個人を憎み、相手を殺してしまった。しかし、その後で殺してしまったこと
を後悔する。こういうことが起こるのは、個人が個人のことを[全部嫌い]、[全部好
き]ということが無いことを示している。最悪の事態を避けるためには、常に客観性を
個人が意識することではないだろうか。[この個人]の全てを嫌っているわけではない
[この考え方]の全てを嫌っているわけではない。こう考えることで、別の個人や、別
の考え方に、寛容になれるのではないか。なにかを思考する時、この客観性を考慮にい
れておけば、その思考の手助けになると、私は判断する。こういったことから、個人が
考える行為、すなわち哲学とはなにかが見えてくる。どこからどこまでが[命令主義]
で、どこからどこまでが[民主主義]なのか。どこからどこまでが[自国人(じこくじ
ん)]で、どこからどこまでが[外国人]なのか。どこからどこまでが[資本主義]
で、どこからどこまでが[社会主義]なのか。どこからどこまでが[悪人]で、どこか
どこまでが[善人]なのか。これらは本質的に同じであり、表裏一体である。だが、け
っして同じものではない。どこからどこまでがそうなのかは、比率で判断されるもので
あり、それを考えるのが、[思考の本質]である。哲学の本質は思考であり、思考の本
質は客観性である。
物語における創造性の思考と真実の比率
多数の作家が、数多くの作り話しである物語を作ってきた。その中でもおもしろいの
は、地球人とは別の知的生命体を出し対比させることで客観性を個人に問うやり方だ。
そのもっともたるところは神だろう。神を常時作りだすことで、客観性を維持させよう
とする国がある。アメリカ合衆国がそれだ。アメリカの裁判では、「神に誓って真実を
述べますか」と問われる。神の定義は千差万別であり、この言葉は約束事として言って
いるにすぎない。日本では個人の良識に誓わせているが、もちろん良識にも定義は多く
ある。個人によって[真実]と[虚構]の比率は当然違う。どこまで本当のことを言う
かは、その人の比率に大きく左右される。
効率的平衡感覚
個人がふたつある表面的事実のどちらが正しいか悩む時、それは個人の効率的平衡感
覚、つまり客観的な比率により決定が下される。
外郭(がいかく)の形成
人間は肉体という枠に閉じ込められている。たとえば、人間の眼それ自体は物の表面
しか写さない。内面は眼によって見ることはできない。肉体という枠の限界はある。で
は、内面はどうするかというと、思考で感じることによって、内面の輪郭である心に意
識し続けるしかない。表面の認識が即物的であるのに対して、内面の認識ほど固定する
のが難しいことは、他にないだろう。しかも、食事をしなければ肉体という枠を維持で
きないように、心も常に思考を必要とする。人間は思考しなければ心を維持することが
できないのである。また、効率的平衡感覚のとれた食事が肉体の維持をするように、心
も効率的平衡感覚のとれた思考が必要であり、それは理性として、個人を健全な状態に
維持してくれる。
意識の共同認識
個人の比率はひとつひとつのことで、他の多数の個人と異なる。個人は独自の世界観
をもっている。たとえ同じ物を見たとしても、感じ方は同じではない。しかし、個人の
世界観はその数だけあるのに、地球はひとつである。共同作業をするのにも困る。そう
いった場合、各個人の比率を、必要な部分だけ話しあいによって近ずける。これが[議
論]である。議論によって、他の個人の比率を知ることができ、自分の比率の効率的平
衡感覚をとることができる。それが、常識を身につけることにつながる。もちろん議論
だけでなく、テレビなど、情報媒体で他の個人の比率を知ることも、自分の比率の効率
的平衡感覚をとるのに、良好だ。そうやって得た効率的平衡感覚を常識と言い、多数の
個人が共同で一ヵ所に存在するのに欠かせないものになっている。
文字による内面の表面化
文字は内面を表現するには実に効率的であり、それは多数の個人が理解し、その恩恵
は時として個人の理解を超えるものがある。しかし、いい面があれば当然悪い面もあり
文字は相手への即物的な表現力の効率改善の追及がさかんで、抽象的な表現力には課題
が多数山済みしている。また、これはどんな表現手段でもそうだが、内面を表面化した
時点で、どれもが側面的表面化になってしまい、その時点における完全な内面の表面化
は、現在ある表現手段では不可能にかぎりなく近い。抽象的に現すなど、いくつかの対
策もこうじられているが、それも完全ではない。
精神的退廃化の工程
精神的退廃化とは、閉促的現状に自己の信念を支配され、事態の大半を否定的にとる
ようになることであり、こういった状態の時に行動を起こしても、正確な現状認識がで
きないため、その行動が失敗に終わることが多い。こういった時は、娯楽にふけるのが
良策だろうと思う。
幼少期における差別と犯罪の関係
個人には生まれた瞬間から差別が始まり、それを自己形成の未熟な幼子がはねのけら
れるはずもなく、心である内面世界は[精神的尖鋭化]、つまり他の個人を差別し、内
面を傷つける技術を身につけていく。常識に反する行動をすることは、自己に対して最
大の差別化であり、自己の優越感を作りだすのに効率的な行動である。犯罪こそはその
利益よりもなによりも、自己の内面世界を努力なく形成させることが簡単にできる行為
なのだ。しかし、利益があれば、同時に不利益も同等に発生するように、表面的、内面
的不利益を受ける者も出ることになる。とくに内面の外郭形成が未熟な幼子は、内面の
さらに深層意識にまで(精神的)尖鋭化が刻まれることになる。個人の努力では深層意
識を変えることはできず、ここに、ひとりの犯罪予備個人が発生することになる。
刑務所という物理的外郭の存在理由と発展性
刑務所の役割は、犯罪を犯した個人、あるいは多数の個人を差別することにある。こ
れにより他の個人、あるいは多数の個人に与えた不利益の効率的平衡感覚を取ろうとす
るものだ。だが、その運営において、金銭的、あるいは多数の刑務所運営者の精神的退
廃化による理由から、大半は表面的な罰しか行われていない。いくら体という枠を閉じ
込めたり、体罰を行使しても、内面を変えることはできない。逆に、差別の重複による
内面世界の尖鋭化を進めてしまい、個人の精神状態は悪化する。個人の深層意識は現状
では有効的に変化させることはできず、適切な処方箋がないのが現実だ。刑務所という
物理的外郭の存在も、仕方ないというのが、近代における多数の個人の常識になってい
る。しかし、体罰など表面的なことに関しては、改善できる部分が多数あり、現状維持
しか方法がないわけではない。犯罪を犯した個人あるいは多数の個人には体験的、理論
的教育が人格形成時に充分施されなかったことが予想され、再教育が必要なのは明らか
だと私は考える。しかし、幼児期の一年は成人の一年とは同じ長さの時間ではなく、年
をとっていればとっているほど、再教育は長い時間を必要とする。このようなことから
人格形成である幼児期に体験的、理論的教育を受けさせることは、財政的にも道徳的に
も有効である。刑務所と学校という一見相反する物理的外郭は、もっとも密接な関係を
もっている。
教育による尖鋭化の阻止
差別による尖鋭化を阻止するためには、差別とはなにかを被害者側、加害者側の理論
と行動を細部に渡って体験的、理論的に教えなければならない。こういった非差別教育
の実践は、早ければ早いほど効果がある。
内面の表面化による個人的存在証明
他にはひとつとして同じ物がない個人の内面を表面に現すことは、自己形成にもっと
も重要な行為である。他の個人を差別することなく自己の内面を表現する行動は個人的
存在証明となり、これを[自己の個性化]と外郭規定する。
差別的自己形成にいたる理性破壊と支配願望
個人は差別の海の中で生まれ、側面として差別による人格形成を受ける。そのため、
差別を内面で処理できない未熟な状態の時期は、さらに他の個人を差別することによっ
て、精神崩壊をふせぎ、内面的外郭を維持しょうとする。表面的に、内面的に数多くの
例が報告されている、いわゆるイジメである。この行為は実に楽に内面的外郭を維持す
ることができる。幼児期にはこれは重要な行為で、これをしないで育った個人などいな
い。それ自体は悪いことではないが、一定の責任を負わなければならない年代になって
まで、こういった行動をとるということは、問題となってくる。差別をすることで自己
形成し続けるということは、それがそのまま定着化してしまう危険性があり、長い目で
見て、その個人にも、多数の個人にもいい結果を期待できない行為である。差別的自己
形成であるこの行為をここでは、[自己の差別化]と外郭規定する。自己の差別に際限
は無く、それはその個人が生きているかぎり続く。慣れによるさらなる差別への追及は
内面外郭の維持に必要な効率的平衡感覚である理性さえ無力化し、酷くなれば自己に命
令することもままならなくなる。そこに存在するのは、自己の部分的欲望に忠実な[個
人]がいるだけである。どの欲望に内面を独占支配されるかは[個人]によって異なる
が、他の個人に対する支配願望が一番多いと、私は思う。
内面表現の稚拙による表面に対する暴力的行為と救済策
自己の個性化には他の個人に迷惑をかけない表現方法の追及が必要だが、そういった
特に芸術(運動もふくめ)と呼ばれる分野の物を自分はできないと信じている個人に対
しては、誤った認識という精神的外郭を取り外すことから始めなければならない。特に
暴力的行為でしか自己の内面を表現することができない個人には、早急な救済策が必要
である。こういった個人は自己の差別化が進んでいる例が多く、この個人だけの力では
その現状を認識することすら難しくなっている場合がほとんどである。救済策としては
まず休養をゆっくりとってもらい、趣味の多様性、充実した人生を目指せるように協力
することが重要である。
否定的行動の肯定による内面の正常化
搾取(さくしゅ)における表面的利益と内面的不利益
両面の外郭形成の成熟による個人の存在固定の持続
個人は、肉体という表面と心体という内面の両面の満足できる外郭形成を表現し得た
時、自己の個性化は成熟する。以降はその[存在固定]という成熟した両面外郭を持続
することが、課題となる。また障害者は表面あるいは内面に他の個人とは違う個性を好
むと好まざるとに関係なくもっているが、結果的に、障害を受けている面は個性化が比
較的成されており、障害を受けている面は健康な個人より速く成熟する傾向がある。
国家という尖鋭外郭の存在理由と発展形態
禁忌という精神的外郭による常識拘束
個人はある情報を他の個人と共に隠すことにより、共同罪悪感によって精神的外郭を
形成し、それは多数の個人を巻き込むことがある。いわゆる禁忌(きんき)と呼ばれる
ものであり、これによって個人がいままで多数の個人と議論してきた精神的外郭である
[常識]が拘束され、正確な対応がとれなくなる。しばしば理性の無力化までもおき、
全体的な正常性を取り戻すまでには、かなりの時間と労力をついやす。対策としては、
その情報を公開し、世間の[常識]による裁きを、すべての多数の個人が受けることで
ある。
独占支配への永久性と不可能の矛盾
個人は理性の無力化による支配願望の暴走により、他の個人を自己の内面どおりに命
令して行動させることを欲す。これは[人間]の内面的外郭形態の側面である。しかし
歴史上独占支配の状態が永久持続したものはない。独占支配の永久性を阻んでいるのは
多数の個人が独占支配する個人に完成された精神的外郭を求めるからである。多数の個
人は独占支配する個人、あるいは多数の個人に、人間の永遠の理想像である[神]に匹
敵する完全な人格を求める。そして、完成された完全なる人格などというものがない以
上、完全な独占支配の永久持続はありえないことを示している。多数の個人は支配され
るのが嫌なのではない。完成された、完全なる存在に支配されないことが不満なのであ
る。[人間]である以上、個人が他の個人を永久持続的に支配することは不可能であり
個人の支配願望とは矛盾する。